六本木心中




1.

うつらうつらとした微睡みの中で、シュッっという衣擦れのような音を聞いていた。意識が戻って来たところでゆっくり瞼を押し上げると、クローゼット横の鏡の前で、蘭さんがネクタイを締めてる姿が見えて慌てて起き上がる。その際、デュベが滑り落ちて「わ…」と声を上げてしまった。

「起きた?って、そんな慌てて隠すなよ」

蘭さんがこっちへ振り向いて苦笑気味に言いながらベッドの方へ歩いて来ると、腰を下ろしてわたしをデュベごと抱きしめた。いつもの香水に交じってかすかにシャンプーのような匂いがする。蘭さんはすでにシャワーを浴びたようだ。

「…ごめん。寝坊しちゃった?」
「いや、まだ朝の8時過ぎ。普段ならオレも寝てる時間だし」
「…蘭さん、出かけるの?」

分かり切った言葉がつい口から零れ落ちる。蘭さんは昨日までのラフなスタイルじゃなく、いつものスリーピースをきっちり着込んでいる。仕事に行くのは一目瞭然だ。

「そ、つかの間の休息は終わり。まあ今は鶴蝶と竜胆がケガで動けねえし、三途は不在。分かってはいたんだけど…九井のヤツ、電話してくんのはえぇよ」

蘭さんは笑いながらボヤくと、わたしの額にちゅっと口付けた。

「眠いならはここで寝てていいから」

言って、すぐ頬にも口付けが下りて来る。本音はそうしていたいところだけど、わたしにもやることがあった。

「ううん…部屋に戻らなきゃ。万次郎の部屋を掃除したり、竜胆にも朝ご飯作らないと…あの足じゃ大変だろうし」

そう言った途端、蘭さんは徐に顔をしかめると、わたしの鼻をぎゅっと摘んだ。

「…痛…っ」
「オマエ、この状況で他の男の名前出すとかいい度胸じゃん」
「…え…」
「オレに嫉妬させて引き留めようって魂胆か?」
「ち、違う…」

と否定しかけたそのくちびるを少し強引に塞がれて、すぐに熱に飲み込まれそうになる。何度も啄まれて、また腕の中で溺れそうになった。でも蘭さんのくちびるが離れていくのを感じて少しの寂しさを覚えながらも、意識は現実へと引き戻されて行く。

「…そろそろ行かねえと」
「うん…」
「行きたくねえけど」

子供が駄々をこねるみたいに呟いて、蘭さんがわたしの首元に顔を埋める。新たにつけた香水の香りに胸が疼くのは、この匂いがわたしの記憶に刻まれたせいだ。

「明日の夕方の便でマイキーが帰国するらしい」
「…え?」
「夕べ、三途から九井に連絡があったんだと。迎えの車の手配とかあるからな」

不意に耳元で言われてドキっとした。いつになく蘭さんの声は真剣だった。

「オレとオマエがこうなったこと、マイキーが知っても問題はないはずだから、もしバレてもオマエは普段通りにしてろ」
「う…うん…」
「マイキーもをオレ達に任せた時点で、察してると思うしな」

そう言われて、万次郎が出発の際に蘭さん達にどこかへ連れてってもらえ、と言っていたのを思い出す。きっと息抜きをさせてくれようとしたんだろう。
小さく頷くと、蘭さんがわたしの顔を覗き込む。綺麗なバイオレットがかすかに揺れていた。

「悪いな…他のヤツは止めれても、マイキーだけは止められねえ。もしマイキーの気分を損ねたらオレだけじゃなくオマエの身が危ねえしな…」
「うん。分かってるから…それにわたし自身、万次郎から離れたいとは思ってないよ。心配だから」
「……それはそれでオレが傷つくんですけど?」

目を細めながら僅かに口を尖らせる蘭さんが可愛くて、つい笑ってしまった。

「笑い事じゃねえよ…ったく…」
「ご、ごめんなさい…」
「オレ、めちゃくちゃ嫉妬深いって、とこうなって気づいたわ」

蘭さんは苦笑交じりで言いながら、わたしの額にキス落とす。でもそれを言うならわたしもそうだ。蘭さんと出会うまで、わたしは異性に対して嫉妬という感情なんて持ち合わせていなかった。恋人だった男達に対して、こんなにも激しい愛情を持ったことがないのだから当然かもしれない。

「でも…マイキーの体調が少し改善したのはのおかげだしな…仕方ねえか」
「蘭さん…」
「普通の状況でもねえし…そこは割り切るわ、オレも」
「ん…でも…それもちょっと寂しいけど」

なんてつい本音が出てしまった。我ながら勝手なことを言ってしまったと気づいてハッとした。でも顔を上げると、蘭さんは気分を害した様子もなく、何故か僅かに頬を緩ませている。

「あ、あの――」
「それってオレに嫉妬の炎で焼け死んで欲しいって言ってんの」
「そ、そこまでは言ってない…」
「ふーん?」

蘭さんは意地悪な笑みを浮かべながらもぎゅっと抱きしめてくれた。

「ま…内心は燃えまくって焦げ付いてると思うけどー。こればっかりは我慢するしかねえしな。でもいつか…」
「え…?」

僅かに体を離して見上げると、蘭さんは真剣なまなざしでわたしを見下ろした。

「いつか…マイキーがオマエを手放す時が来たら…その時はオレがをもらう」
「蘭さん…」
「覚悟しとけよ?」

蘭さんはそう言って微笑むと、最後に優しいキスをくちびるに一つ。
何も言えなかったけれど、覚悟というならわたしはもうとっくに出来てる。この普通ではない環境で、蘭さんに惹かれ始めた時から、その"いつか"が来るその日まで待つって。そんな日は永遠に来ないかもしれない。でも、明日来るかもしれない。先のことは分からないけど、でももし、わたしが待つことに疲れたその時は、時々でいい。こうして優しく抱きしめて欲しい。それだけで、わたしはまた見えない未来を待てるから。



2.

「Anong gusto mong bilhin?Sanzu!」
「あ?テメェ、三途しか分かんねえよ!英語で言え、英語で!」

フィリピンの組織でオレとマイキーの世話をしてくれたポールは日本語が殆ど分からない。英語が少し話せる程度で、だいたいはタガログ語で話しかけて来る。しかも声がデカいからケンカを売られてんのかと思って、こっちまで怒鳴るから会話に疲れる男だ。でもまあ陽気で面白い男ではあるが。

「三途は英語も怪しいだろ」
「…ぐっ」

後ろで買い物をしていたマイキーにツッコまれて言葉に詰まる。何となく空気で伝わったのか、ポールはゲラゲラ爆笑しだすからムカつく。その口ひげ日本刀で剃ってやろうかと思っていると、マイキーがポールの言葉を訳してくれた。

「今のは"何を買いたいんだ"って言ったんだよ、ポールは」
「……なるほど」

マイキーは何度もフィリピンに来ているから簡単な言葉は分かるようで、時々こうして教えてくれる。

「Galit ka na naman?Sanzu」
「あ?」
「また怒ってんの、三途だって」
「……」

マイキーまで笑いながらオレを見るから、仕方なくポールを睨む。その後ろにはポールの部下が辺りを囲んで一般人を近寄らせないようにしていた。オレ達の周りには梵天の兵隊がいて、ちょっとした悪党集団になっている。その中でマイキーは土産を選んでいた。

「やっぱセブに来たらこのチョコだろ」

今はセブ島一の大きさを誇るショッピングモール"SMシーサイドシティセブ"に来ていた。マイキーは自分の好きなチョコを大量にカゴへ落としていく。フィリピン最後の一日はセブ島に行きたいということで移動してきた。セブ島はフィリピン中部のビサヤ諸島にある島で観光地としても有名だ。ここに梵天所有のコンドミニアムがいくつかあって、夕べはそこの一つに泊った。

「あーそういやココからシベットコーヒー頼まれてたっけ」
「……猫のクソのやつですか」

オレが徐に顔をしかめると、マイキーは笑いながらコーヒー豆の入った袋をカゴへ放り投げた。シベットコーヒーはジャコウネコの糞の中に残った貴重なコーヒー豆から作られるもので"幻のコーヒー"と呼ばれているらしいが、オレから言わせると糞の中の豆をコーヒーにして飲むやつの気が知れねえ。帰国しても九井には近づかないようにしようと思った。

「猫の糞まみれの豆なんて飲む気がしねえけどな…」
「オレも最初はそう思ったけど怖いもの見たさで飲んでみたら結構美味いんだよ。三途も飲んでみりゃ分かる――」
「…飲みます」

そこは間髪入れず了承した。マイキーに言われたら仕方ねえ。猫のクソでも何でも飲んでやる。まあ、たかがコーヒーだしな。
そう思いつつ、楽しそうに買い物をしているマイキーを眺めていたら、自分の欲しい物や仲間が好きそうな物、その中に可愛らしいカラフルなコスメをこっそりカゴへ入れてることに気づいた。きっとにやるんだろうとは分かったものの、少しだけ驚いた。これまで何度もフィリピンやセブ島に来ているが、マイキーが世話係へ土産を買っているのを見るのは初めてだ。過去に何人か土産をせがんでいた女はいたが、マイキーは鼻で笑って「好きなだけ金もらってんだろ?自分で買えよ」と言っていたのを見たことはある。なのにには何も言われてないのに自ら買おうとしている。それがかなり意外だった。

「三途」
「はい」

不意に呼ばれて歩いて行くと、マイキーは雑貨の置いてあるコーナーの前でしゃがみこんでいた。そのコーナーにはハンドメイドの小物やアクセサリー、カラフルな食器、ヌイグルミなどが並んでいる。

「これ、どう思う」
「…?どれですか」
「これ」

マイキーが指さしたのは小さな貝殻で作られたネックレスやピアスたちだった。

「可愛いですね。彼女のイメージにピッタリじゃ…」

と言いかけたオレを、マイキーはふと仰ぎ見た。その目が僅かながら細められている。

「オレまだ誰に、とか言ってねえけど」
「……」

余計なことを言ったのかと一瞬焦って頬が引きつったオレを見て、マイキーは「バーカ。冗談だよ」と言いながら笑った。

「やっぱコレにしよう。、貝殻の小物とか好きだって言ってたし」
「…はあ。じゃあ、今度こっちに来る時は連れて来てやればいいんじゃないっすか。せっかく梵天の所有するコンドミニアムが沢山あるんだし」

何となく彼女はセブの明るい太陽の下が似合いそうな気がして、ふと提案してみれば、マイキーは少し逡巡していたものの、かすかに笑み浮かべた。

「……そうだな。今度はと一緒に来ようか」

マイキーはそう呟きながら「これも買お」と、棚の上のデカい物体を手に取る。それはジンベエザメのヌイグルミだった。

「え、二つもですか」
「オレとの分」
「…な、なるほど」

オレに小物が入ったカゴを押し付け、マイキーは両脇にジンベエザメのヌイグルミを抱えてレジへ歩いて行く。それを見ていたポールに何やらからかわれているが、マイキーは楽しそうな笑顔で言い返していた。あんなに明るい表情が続くのは久しぶりに見る。少しの寂しさが胸を過ぎるのは、黒い衝動を持つマイキーに心酔しているオレ。だけど、元気なマイキーを見て逆にホっとしているのは、佐野万次郎の幼馴染である"明司春千夜"の方なのかもしれない。

「三途~!早く来いよ!飛行機の時間あんだろ?」
「ウス!」

笑顔で手を振るマイキーを見てすぐに歩き出す。久しぶりに、オレの足取りは軽かった。





3.

「あ?まだオマエの部屋にいんのか。すぐ自分の部屋へ戻るように言え。あ?兄ちゃんの言うこと聞けねえのか?」

さっきから蘭の奴は竜胆と電話で言い合いしている。何でも例の世話係の子がケガをしている竜胆の為に飯を作りに部屋へ行ってるとかで、蘭は気が気じゃないようだ。女のことで騒いでる蘭をオレは初めて見た。

「あーあと、に手ぇ出したら、マジでオマエの指全部折るからな。あ?兄ちゃんは本気だっつーの」

前は別の世話係を兄弟と言わず幹部の面々で共有していたこともあるクセに、あの子だけは絶対に竜胆に盗られたくないらしい。それだけ惚れ込んだのは意外だった。オレがいない間に何があったのか、九井に軽く聞いたものの、その九井までが彼女のことを大層気に入ってるように見えた。いったい、どうなってんだ?梵天幹部ども。

「は?頭洗ってもらうだ?ふざけんじゃねえ。ダメだ!つーか、オマエと話してても埒が明かねえからと代われ」

まだ電話は終わらないようだ。とりあえず蘭の怒鳴り声をBGMにしながら、オレは下の会場へ視線を戻した。

「チッ。どいつもこいつもチマチマした戦い方しやがって…」

梵天が所有しているビルの地下室に作られた格闘闘技場。リングの上には男達が今まさに戦っている最中だ。ここではケンカ賭博が行われている。仕切りは当然梵天だ。エントリーしてくるのは腕に自信のある一攫千金を狙っているような男達で、それを観に来るのは富裕層の人間どもばかり。人が殴り合うのを見て楽しんでる脳みそお花畑の猿どもだ。格闘技を楽しみたいなら自らリングに上がれと思うが、前にそう言ったら九井に「それじゃ金払う人いなくなるじゃないですか」と渋い顔をされた。九井は梵天の金庫番だから儲けることしか興味がない。まあそれは昔から変わってねえが、もっと男のロマンを理解して欲しい。ただそれも九井に言ったら「ロマンで飯は食えません」と一蹴された。それを言われるともう何も言えなくなった。

「あれ…?鶴蝶さん、何でいるんスか」

そこへ当の九井が顔を出し、電話中の蘭を一瞥すると、オレの方へ歩いて来た。ここはビップ専用ブースで梵天の幹部しか入れない場所だ。

「鶴蝶さんが入院してるから、ここ蘭さんに頼んだのに」
「こんな軽傷で休んでられるか。今朝、蘭が顔を出してオレの代わりにケンカ賭博の仕事回されたっつーから、じゃあオレも行くわって言って退院してきたんだよ」
「またそんな無茶して…青山さんの許可取ったんですか」
「知るか。あんなやぶ医者。痛み止めだけもらってきた」
「やぶ医者って…あの人、腕は相当いいっすけどね」

九井は呆れたように溜息を吐くと、未だに後ろで電話中の蘭へ視線を向けた。

「だーから竜胆の髪なんて洗ってやんなくていいって。アイツが変な気起こしたらどーすんだよ…」

何やらそんな声が聞こえて来て、今は竜胆じゃなく彼女に代わったらしい。九井もそれで理解したのか、苦笑を洩らした。

「何か言ってることが彼氏のそれっすね」
「さっきから仕事そっちのけで、ああやって電話してんだよ。オレが来て良かっただろ」
「まあ。元々ここは鶴蝶さんの仕切りっすからね。それで…今日は誰が勝ちそうですか?」
「ああ、このエントリーナンバー25の宇治雄大って男が5連勝中だ」
「へえ、強いんすか。鶴蝶さんから見て」
「まあ、そこそこストリートファイターとしては強い方なんじゃねえか?さっきは元キックボクサーの井本をKOしてた」
「すげえ。じゃあ今日の優勝は宇治で決まりっすか」
「チッ。オレが出られたらあんなヤツ、一発KOしてやるんだがな」
「それじゃ賭けになりませんよ」

九井は苦笑気味に言いながら、チェックシートに宇治の名前を書き込んでいる。この先、勝ち続けられる要素のある人間はある程度引っ張っておきたいようだ。九井に取ったら強者は金の生る木なんだろう。

「ところでマイキーは明日帰国だって?」
「はい。さっき三途から連絡来ました。今日から明日まではセブ島でのんびりする予定らしいっす」
「へえ、羨ましい。オレも久しぶりに行きてえなぁ」
「そういやしばらく行ってないっすね。向こうの別荘は現地の人間に管理任せっぱなしだし」
「今度、皆でセブ島行くか」
「いいっすね。まあ…幹部全員が暇になるかは分からないっすけど」
「言われてみりゃそうだな。それより…武臣さんはどうした?カジノの方任せてんだろ、今」
「はい。でも先日もまた売り上げの一部をくすねられましたよ…ったく参るよなあ」

九井は溜息交じりで項垂れている。武臣さんは一番年上っつーことで相談役に指名されたが、手癖が悪くて九井も手を焼いてるらしい。あの椿姫のパトロンしてて儲けてるクセに梵天の資金源にまで手を付けてるのは許せねえ。

「今度マイキーに喝を入れてもらえ」
「いや、まあ…そこまではオレも考えてないんすけどね。大した金額じゃないんで」
「その辺は上手く考えてんだろ、あの人も。全く困った人だな…」
「まあ、今度三途にでも相談してみますよ。武臣さんもマイキーの次に三途には頭あがらないみたいなんで」

九井はそう言いながら再び会場へ視線を戻す。その時、

「は?今から風呂入れる?いーって、そこまで介護しなくても!もし竜胆と一緒に風呂入ったら浮気とみなすからな」

「……まだモメてるんすね」
「ああ……今日の蘭は使い物になんねえぞ、ありゃ」
「ってか、蘭さん意外とヤキモチ妬きなんすよねー。意外だったわ」
「全くだ。今朝、オレんとこ来て第一声が惚気だよ…。何でも彼女が可愛すぎて困ってるんだと」
「……まあ、それは理解出来るんですけどね、オレも」
「できんのかよ」

「いや浮気じゃないって、竜胆の裸見ながら髪を洗うってぜってー浮気だろ、それっ」

「「………」」

未だにと電話で話しながら慌てる蘭の姿を見て、オレと九井は互いに顔を見合わせ、深い溜息を吐いた。