六本木心中
1.
「蘭さん、終わりました」
都内にあるいつもの倉庫。目の前のドラム缶には大きな炎が揺らめいていて、オレは手の中の物を一つ一つ、その中へ放り込んでいった。免許証、クレジットカード、キャッシュカード、どこかのエステの会員証、そして夜の女には欠かせないメイクポーチ。もう、彼女には必要のないモノたちだ。
「痕跡も消したか?」
「はい。全て。例のスーパーのカメラ映像も差し替えは終わってます」
「ならいい。表に車を回すよう太一に言っておけ」
「はい」
オレ直属の部下は仕事が早い。すぐに動いてケータイ片手に戻って行った。
「…夢を見ながら焼かれんのも悪くねえだろ」
ブランド物の小さなバッグの中から、最後に出て来たのは女が好みそうなメンソールの煙草だった。一本取り出して咥えると、ライターで火をつける。思い切り吸いこめばメンソール特有の味が口内に広がった。
「…クソまじい」
昔、不良らしく煙草なんてもんに手を出してた時期もあったが、今は吸うならもっぱら葉巻が多い。煙を肺に入れるよりも煙の香りを楽しむ方が断然好きになった。久しぶりに吸った煙草はやたらとマズく感じて、半分も吸わずに火の中へ放り込む。ついでに手の中で潰した箱も、小さなバッグも、炎が揺らめくドラム缶の中へ放り込んだ。
「…さよなら、唯。いい夢を」
立ち上がる火柱を見上げると、軽く息を吐いて、オレはその場を後にした。
「蘭さん、お疲れ様です」
「疲れてねえよ」
車のドアを開けて頭を下げる太一に苦笑交じりで言いながら、後部座席に乗り込む。
そう、オレは何もしていない。ただ、唯を梵天所有のホテルへ誘い出し、出した酒に薬を盛っただけだ。豪華なスイートルームに招待したせいか、唯はすっかりオレが手に入るもんだと信じ込み、油断をしていた。オレが店のオーナーという肩書きだけじゃなく、アンダーグランドに生きる人間だと、きちんと思い出してアイツはもっと警戒すべきだった。
(唯には親兄弟がいなかったはずだ。特に親しい友人も)
唯の持ち物で唯一捨てなかったケータイをポケットから取り出し、アドレスを確認していく。先ほどスクラップにする前に指紋認証を解除して、暗証番号に切り替えておいたことで、スムーズに作業が行える。このケータイから特に唯が連絡を取りあってた人物はいないと判断した。残っているのは大抵メッセージのやり取りで、主に相手は店の客だ。
「太一、唯への仕込みはどうなった?」
「今、加賀さん達が動いてくれてます。失踪の理由なんていくらでも作れるとかで」
唯に特定の男はいなかったようだが、アイツには多額の借金があった。それを利用する。梵天所有の金融会社も腐るほどあるから、いくらでも借金を追加できるというわけだ。
普通のホステスならここまでしなくてもいいが、唯は一応ナンバーワンという存在で目立っていた。その女が行方不明となれば、店や唯の客がうるさいかもしれない。だからこその仕込みを、先にしておかないといけない。
(組織の仕事と関係なく、続けてスクラップにしたのは初めてだな…)
流れる景色へ視線を向けながら、遠くに見えるネオンを眺めた。これまで何人もの命を奪ってきたが、一人の女の為に二人の人間をこの世から消したのはさすがのオレでも初めてだった。でも一切の後悔も感傷もない。種をまいたのはアイツらの方だ。欲や嫉妬に駆られ、オレとに近づいて来たことを、あの世で後悔すればいい。
「太一、少し急いでくれるか?」
シートの間の仕切り扉を開けて告げる。時計を見れば、すでに午後11時を回っていた。本来なら店に寄って放置していた仕事をしようと思っていたが、今夜は真っすぐのところへ帰りたいと思った。
「了解っす」
軽快な声が返って来た途端、一気にスピードが上がる。次第に六本木のネオンが近づいて来るのを見ながら、オレは自分のケータイを出してへメッセージを送っておいた。
"今から帰る"
送った瞬間、すぐに既読がついて笑みが零れた。彼女がオレの帰りを待ってくれていると分かる。その事実が意外なほど嬉しいと感じた。
"お疲れ様。お酒の準備しておくね"
からの返事が届き、オレはすぐにまたメッセージを送った。
"早く会いたい"
こんなメッセージを送ったのは、後にも先にもだけかもしれない。さすがにガラじゃなくて自分で恥ずかしくなった。だがすぐに彼女から"わたしも"とメッセージが返ってきて、つい頬が弛緩した。
「なるほどなァ……バカップルってこうやって成立すんのか」
まさか自分がその枠に参加する日が来るとは思っていなかった。
「え?何か言いました?」
「いや…何でもねえよ」
オレの呟きに太一が反応して、思わず苦笑が洩れる。さっき殺した女のことは、頭の中から綺麗さっぱり消え去っていた。
2.
蘭さんがもうすぐ帰って来ると分かると、さっきまで襲って来ていた睡魔が一気に消し飛んだ。すぐに鏡でおかしなところはないかをチェックしたり、作っておいたおつまみ達を浮かれながらテーブルに用意したり、細かい配置なんかも気になって、そんな自分にどうしちゃったんだろうと不思議な気分になる。たった一人、好きな人が出来ただけで世界が違って見える。前に聞いたことのある言葉を思い出しながら、思わず納得してしまう。前までの自分がどう一日を過ごしていたのかさえ、思い出せないほど、今わたしの頭の中は蘭さんでいっぱいだ。会えない僅かな時間さえ寂しいなんて、こんなこと、人に言えば笑われそうだけど、事実なのだから仕方ない。
「あ…来た」
その時、インターフォンが鳴って、わたしはモニターでチェックするのももどかしく、そのままエントランスへ走った。でもドアを開ける前に壁に設置されている鏡でメイクや髪型が崩れていないかチェックをする。どこも変なとこはないと安心してドアスコープから覗くと、見覚えのあるネクタイが見えた時、鼓動が素直に反応した。
「蘭さん、お帰り――」
とドアを開けた瞬間、滑り込んで来た蘭さんに抱きしめられて、くちびるを塞がれる。一瞬で彼の香りに包まれて、それが酷く安心した。
「…ん」
性急に絡められた舌先に翻弄されて、蘭さんの胸元にしがみつく。優しく吸われると、全身にすぐ甘い疼きが走った。
「ただいま」
ゆっくり離れたくちびるが、わたしの頬へも落ちて来ると、心地いい低温が鼓膜を震わせる。指の先から足のつま先まで、蘭さんが好きだと言ってるくらいに体が火照ってしまう。
「お、お帰り…」
「寂しかった?」
額にもキスを落として蘭さんが甘い声色で聞くから、つい恥ずかしくなって俯いた。でも何か言わなきゃと、今、一瞬だけ感じた違和感を口にする。
「そう言えば…蘭さん煙草吸った?」
「あ…わりぃ。臭かった…?」
わたしの指摘に蘭さんは一瞬ドキっとしたように体を離した。
「ううん。珍しいなと思っただけ。時々店で会ってた時に葉巻の香りはしてたことあったけど煙草はなかったから」
「あー…さっき一本だけ吸った。でもマズいからすぐ捨てたけど」
「そっか」
そう応えながらも、蘭さんから僅かな動揺を感じて胸の奥がざわりと音を立てた。こういうのも女の直感というんだろうか。さっき口内で感じた煙草はかすかにハッカが混ざったものだ。わたしは煙草を吸わないけど、メンソールの煙草は主に女性が好んで吸っている印象がある。タバコを吸う店の女の子たちも全員がメンソールだったことを思い出す。もちろん男の人でもメンソール煙草を吸ってる人はいるけれど、蘭さんから僅かに感じた動揺と重ねて考えると、もしかしたら女性に煙草をもらったんじゃないかと思ってしまった。
「ちょっと洗面所、借りていい?歯、磨いてくるわ」
「あ、うん…歯ブラシは――」
「ああ、予備がある場所は知ってるから」
蘭さんはそう言ってわたしの額にちゅっと口付けると、すぐに洗面所へ姿を消した。この部屋は幹部の人が出入りすることを想定されてるような物がいくつもある。髭剃りや歯ブラシといった類の物も洗面所の棚にはいくつも新しいものが置いてあった。
(蘭さん…ちょっと慌ててたよね…今まで…誰と一緒だったのかな…)
リビングに戻ってグラスに氷を入れながら、ふとそんなことを考える。一瞬、知らない女性と蘭さんが抱き合っている光景が頭に浮かんでドキっとした。
「」
「ひゃ」
考え事をしていたせいで、蘭さんが戻って来たことに気づかなかった。突然背後から声をかけられたことで、アイストングで掴んでいた氷をうっかり落としてしまった。カツンっとテーブルに落ちて跳ねた氷は滑るようにして床へと転がった。
「悪い。脅かしたか?」
「う、ううん…大丈夫」
言いながらもすぐに床へ落ちた氷を探す。室内を照らしているのはウォールライトのみだから足元は薄暗く見えにくい。氷がどの辺に落ちたのか手探りで探していると、目の前に蘭さんがしゃがんで、氷の塊を拾ってくれた。
「あ、ありがとう…」
氷をダストボックスに放った蘭さんを見上げると、彼はふとわたしを見てそっと頬に手を添えて来た。
「…どうした?何か…様子が変じゃん」
「そ、そんなこと…」
僅かな動揺を見破ったのは蘭さんも同じみたいだ。床に座り込んだままのわたしを、蘭さんは優しく抱きしめてくれた。この腕を他の女も知っていると思うと途端に胸の奥が焼け付く気がした。過去の恋人は仕方ない。だけど、わたしとこうなった後にもし蘭さんが他の女と関係を持ってしまったら、わたしは耐えられるんだろうか。なんて思ったところで、わたしだって万次郎が帰国すればどうなるか分からない。自分は他の男に抱かれるクセに、蘭さんには他の女を抱いて欲しくない、とは言えなかった。
「…もしかして…煙草のことで何か疑ってる?」
「え…?」
ドキっとして顔を上げると、蘭さんは苦笑いを浮かべながら「やっぱりか」とわたしを見つめた。
「オマエが疑ってるようなことは一切ねえから心配すんな」
「…う、疑ってるって?」
「だから…女と会ってたって思ってんだろ、ちゃんは」
蘭さんも床に座り込むと、上着を脱いでネクタイを緩めながら、わたしの顔を覗き込んで来る。その顏には意地悪な笑みが浮かんでいた。心の中を言い当てられて頬がカッと熱くなる。勘の鋭い蘭さんには、隠し事は出来ないようだ。でも蘭さんはわたしの様子を見て、少しだけ驚いたようだった。
「は…?マジでオレが女と何かあったとか疑ってたわけ?」
「え、だ、だって…」
「いや、ねえだろ。そこは信じろよ」
苦笑しながらも、蘭さんは少しスネたようだった。
「だいたいさー。今日一日だけでもオレがのことしか考えてないって分かんねえ?」
「…え?」
「九井に呼び出されて行った先でもオマエと電話で話してたし、その後は真面目に仕事しながら合間にメッセージも送ったろ?」
「う…うん…」
確かに蘭さんは仕事の合間中、マメにメッセージを送ってくれてた。
『モッチーのバカにこってりラーメン付き合わされて吐きそう…w』とか、『契約書類にハンコ押し忘れて九井に電話で説教された…泣』とか、蘭さんのイメージとは程遠いような内容でちょっと笑ったりしながらも、そういう些細なことが嬉しく思った。
「そんで夕方はと買い物行ったし、その後は店に行って書類に目を通したり、地味な作業してやっと帰って来たってのに、他の女と会ってる時間あったと思う?まあ、あったとしても会わねえけど」
ジトっとした目で見られて、わたしはますます項垂れていく。冷静に考えれば、蘭さんの言うように他の人とってのは考えにくい。でも、じゃあさっきの違和感はなんだったんだろう。
「ごめん…」
「いや、そこまで落ち込むなよ。素直か」
がっくり頭を垂れて謝ると、蘭さんがびっくりしたように笑ってわたしを抱き寄せた。
「ま…でも普段吸わない煙草の匂いをさせてたら、そりゃーちょっとは疑うよな」
「…だ、だからごめん…」
言いながら顔を上げると、蘭さんは意外にも優しい眼差しで見つめて来る。仄暗い室内でキラキラと輝くバイオレットの虹彩は、容易くわたしの心臓を射抜いてしまう。
「それってがヤキモチ妬いてくれたってことだよなァ?」
「…ん…」
一気に機嫌が良くなったのか、蘭さんが嬉しそうな笑みを浮かべながらわたしの肩へ顔を埋めた。指で髪を避けながら、露わになった首筋にくちびるを押し当てて、そのまま滑らせたくちびるが耳たぶに触れる。そこを軽く甘噛みされると、かすかに体が震えてしまった。
「ヤキモチ妬いてるも可愛い…」
「な…ちょ、蘭さん…?」
ちゅっと耳に口付けられてビクリと肩が跳ねた瞬間、背中に回った手がジッパーを下げていく。そこから少し冷んやりとした蘭さんの手が滑り込んで来て、少しだけ身を捩った。
「お、お酒…飲むんじゃないの…?」
「んー?飲むけど…その前にを抱きたい…つったらダメ?」
「え、あ…っ」
「ダメって言われても抱くけど」
指で簡単にホックを外され、気づけば床に押し倒されていた。上から見下ろしてくる蘭さんの熱を存分に孕んだ双眸に、体が素直に反応していく。鼓動が速くなって頬に熱が集中しているかのように熱くなった。
「真面目な話…ダメ?」
覆いかぶさって来た蘭さんの甘い声で、わたしの理性なんか簡単に崩れていく。思わず首を振って彼のくちびるを受け止めると、このまま生まれた熱に飲み込まれてしまいたくなった。
「不思議だな…」
「…え」
「何度でも抱きたくなる女は…オマエが初めてだわ…」
蘭さんの低音の声が鼓膜を震わせて、全身がぞくりとした。ゆっくりと上体を起こした蘭さんを見上げると、ライトを背にした彼は片手でネクタイを抜きさって、シャツのボタンを外していく。はだけたシャツの合間から見える引き締まった体と、鮮やかに描かれたタトゥーが僅かに見え隠れしていて、その姿にどうしようもなく欲情してしまった。こんな姿を、他の誰にも見せて欲しくない。
「…オレの…最後の女はって決めてるから」
散々、彼の愛撫に翻弄されたわたしの心を見透かすような言葉が聞こえた瞬間、蘭さんに貫かれて背中がしなる。嘘でも何でもいい。
この瞬間だけでも、あなたのそれになれたら――わたしは他に何もいらない。
「蘭さんが女を…?」
「はい」
部下の報告を受けて、オレは少し、いや。かなり驚いた。組織に関係のないところでの殺しなど、蘭さんが一番縁遠いはずだ。あの人は何でも合理的に考える。リスクの多い殺しは、ウチの幹部の中でも一番腰の重たいのが蘭さんだ。少なくともオレはそう思っていた。でも竜胆さんにその話をすると、「兄貴は必要だと思ったらやるよ、きっと」と苦笑を零した。
「兄貴が処分したってその女、きっと兄貴の地雷でも踏んだんだろ」
「……地雷?」
「今で言えば…キッカケになりそうな人物は一人しかいねえだろ」
「あ…まさか……?」
「そ。多分そこに関係してると思う。ココも知ってんだろ?オレを刺した女を、兄貴があっさり殺したの」
「あ…」
「アレもある意味、組織とは関係ねえじゃん。オレの個人的なことだし」
確かにそうだ。でもそれは実の弟を殺されかかったんだから当然と言えば当然の行動とも言える。だけどは違う。蘭さんの最も嫌うリスクを負ってまで女一人を消すなんて、どこか蘭さんらしくない。今夜ひっそりとスクラップにされたその女は、どこかのクラブのホステスだったようだ。明日、マイキーと三途が帰国するというので、たまたまオレの直属の部下が倉庫を片付けに行って、それを目撃したらしい。普通に挨拶をしたら蘭さんも普通に「お疲れさん」と応えたようだから、特にオレ達に隠そうとしてるわけでもなさそうだ。なのにオレには何の報告も入っていない。
「照れ臭いんだろ、きっと」
「え?」
「の為に殺しまですんのかよ!って思われんのが」
「え、そこ、ですか…?」
竜胆さんの言葉に思わず苦笑する。でもある意味、それが近い気もした。
「兄貴はさぁ…自分や大切な人間にとって邪魔だと判断したら、後は行動早ぇから。あの刑事もそれだしな」
「ですね…。蘭さんはきっちり最後まで後始末してくれるんで心配はしてませんけど」
きっとその女が消えたように見せかける仕込みはすでに済んでいるはずだ。その辺蘭さんは抜かりがない。
「でも…いよいよマジってことかぁ~」
竜胆さんはパソコンを閉じると、事務所のソファに寝転がり、足を投げ出した。ギプスも外れて痛みも今はそれほどないらしい。なのに今日、に風呂に入れてと我がままを言ったというから笑ってしまったが、何気に竜胆さんもにマジで惚れてる気がする。
「オレらの入る余地ねえなあ?ココ~」
「いや、何でオレを入れるんですか」
「は?バレてねえと思ったのかよ」
竜胆さんは首だけ持ち上げてニヤニヤしながらオレを見ている。
「……はあ。つくずく嫌なとこを突いてきますよね、蘭さんも竜胆さんも」
深々と溜息を吐けば、竜胆さんは楽しげに笑った。
「嫌な兄弟だろ?」
「……ですね」
「あ?オマエ、殴るよ?」
「自分で言ったクセに…」
オレが目を細めると、竜胆さんは「失恋した者同士、やけ酒でも飲む?」と言って、また笑った。こんな夜もたまには悪くない。
ただ、明日のマイキーの帰国を思うと嵐の前の静けさのような気がして、少しだけ心配になった。
「蘭さん、荒れなきゃいいけど…」
そう呟きながら窓の外を見ると、六本木に負けず劣らず、渋谷のネオンがキラキラと煌いているのが見えた。