六本木心中




1.

一つ仕事を終わらせて、霧雨の降る中、本部に戻って来ると、ちょうど三途が到着したところだった。一週間ぶりだろうが特にいつもと変わらず、「おう、お疲れ」と声をかければ、興味のないような視線を向けられる。コイツにとってはマイキー以外、みんなノイズ。幹部であるオレ達も同様、ただの駒としか思っていない。まあ、その方がオレも気楽だったりするが、少しくらい愛想よく出来ねえのか、とは思う。

「灰谷…もう皆ついたか?」
「さあ?知らね。オレ、今戻ったばっかだし。何かあったのかよ」
「帰国早々、オレの部下から報告が入った。ラット・・・が出たらしい」
「マジ…?確定か?」
「ああ。だがまだ誰がソレなのかまでは分からないみてえだ。とりあえず情報を共有したいから幹部に収集かけたんだよ」

三途は言いながら本部の中へ入っていく。その後に続きながら、内心面倒くせえと溜息をつく。梵天も大所帯になってきた辺りから、時々そういった鼠が湧いて来るようになった。今や日本最大にまで上り詰めた組織の情報は金になる。特に警察やマスコミすら全貌は把握できていないオレ達幹部の情報は極秘扱いだ。だからこそリークしたがる人間が後を絶たない。
三途と一緒に上階へ行くと、事務所には九井、竜胆、鶴蝶、望月がすでに待機していた。

「武臣は?」

三途の問いに望月は肩を竦めてみせた。どうせまたどっかで飲んだくれて三途の連絡すら気づいてないんだろう。三途は小さく舌打ちをしながらイライラしたようにケータイで電話をかけている。三途の実の兄らしいが、それを理由に好き勝手している武臣さんが、三途は気に入らないようだった。

「チッ。出ねえ」
「いいよ。武臣さんいてもいなくても同じだし」

竜胆が苦笑しながらソファの背もたれに顎を乗せてこっちを見た。心なしか疲れてるのは九井に押しつけられた仕事のせいだろう。

「じゃあ…オマエらだけでいい。だいたいのことは九井から聞いたか?」
「ああ。洩れたかもしれない情報は二つ」

望月は頷くと、冷蔵庫からビールを取り出して一気に煽った。

「梵天の数あるアジトのどれか。それと…マイキーの存在」
「げ…マジで?」

思わずオレが三途を見ると、奴は小さく頷いた。

「これまで梵天のトップが誰かは警察も掴んでいなかった。でも今回、それが佐野万次郎だと洩れた可能性がある。そしてオレ達の行きつけの場所なんかもな」
「やべえじゃん。そんな場所バレたら最後、張り込みされていつかマイキーやオレらも顔バレすんじゃねえ?」
「そうだな…」

オレの言葉に望月も溜息交じりで頷く。これまでは一部の警察上層部しか知らなかった情報だ。でもそれは椿姫さんを介して警察上層部も梵天に取り込んでいるからまだ安心だった。警察と一口に言っても上層部なんかは闇だらけで、要は持ちつ持たれつといった関係だ。でも下っ端の奴らは違う。オレ達梵天の犯罪行為をどうにか暴いて捕まえようとしてくる。出来ることならバレない方が仕事もやりやすい。

「そういう情報はどっちかってーと警察よりマスコミの方が先に食いつく。オマエらもしばらくは夜遊び控え目にして大人しくしてろ」
「はあ…めんどくさ」

オレがボヤくと、竜胆は「どーせオレは動けねえし」と苦笑している。望月なんかは息抜きも出来ねえのかと深い溜息を落とした。

「その間はラット特定を急げ」
「りょー」
「分かった」

竜胆と鶴蝶が同意する中、九井だけが笑顔で「じゃあ事務仕事、増やそうかな」と喜んでいる。それには竜胆の顏が大いに引きつっていた。

「んで、そのラット情報はどの辺の奴らだ?」
「ここ、本部の部下からの情報だ。でも本部にすら入れないような下っ端らしいから、そいつらも詳しいネタは持ってねえ。だが地元の奴らなら当然、マイキーのことは知ってるからな。これ以上、好き勝手に洩らされねえよう、サッサと捕まえんぞ」
「だな。じゃあ…オレの部下どもにも探らせるわ」
「ああ、頼む。望月と鶴蝶は大きな動きはしないで部下に任せろ。オマエらが動くと目立つ」
「分かってる。サッサと捕まえて魚の餌にして、酒のツマミにしてやる」

望月は大の酒好きだから夜遊びを禁じられてイライラしているようだ。オレとしても自由を制限されんのは怠いから早速信頼できる部下達に連絡を取った。
怪しい動きをしている奴は片っ端から捕まえろ。そう告げるだけで久しぶりの狩りを楽しむように、下が一斉に動き出した。

「んで、マイキーにもこの話は?」
「さっきチラっとは報告したが、マイキーはこの手の話に無頓着だ。オレに全部任せると言ってたから、イコール好きにしろってことだ」
「了解。んで?どこまで行動を制限すりゃいいんだ?」

望月が立ち上がって三途に尋ねる。

「車で入れる建物なら別に行っても構わねえ。まだどの場所が洩れたかハッキリしねえから、そこだけ注意しろ」
「マジか。じゃあ蘭とこのラウンジは大丈夫だな」
「そこはオレ達幹部しか知らねえ場所だ。さすがに洩れてねえだろ」

三途は言いながらソファに座ると、手にしていた紙袋から何かを取りだした。

「あ?何それ、弁当?美味そう!」

竜胆が食いついて覗き込んだ先には料理の入ったタッパーがある。

「もらってい?」
「は?ダメに決まってんだろ。腹減ってんだよ、オレは」
「いや、オレも事務所に詰めてて何気に腹減ってんの。おにぎり6個もあるし一つくらい…って、これ手作りだよな…誰の…」
「あ?これはオレにってが詰めてくれたんだよ」
「やっぱか」

と言いながら竜胆が何故かオレの方をチラリと見る。でもすぐにパっと視線を反らしたのがムカつく。まあ、それだけオレの顏が引きつってたのかもしれない。だいたいだ。何で三途なんかに手作り弁当みたいなもんをやるんだ。そう思うと三途が美味そうに卵焼きを食べてる姿にイラっとした。卵焼きを食ってるだけで、これだけイラつかせる奴は今までいただろうかってくらいにムカつく。

「あっ灰谷、テメエ、何食ってんだっ」

横からおにぎりと卵焼きを手でつまんで口へ入れると、三途もイラっとしたようにオレを睨んで来た。

「オレも腹減ってんの。いいだろ、少しくらい」
「いいわけねえだろっ」
「あ?オマエがの弁当食うのは100年はええわ」
「はあ?」

つい本音が零れてしまったものの、三途は何言ってんだコイツみたいな顔でオレを見上げてる。その時、望月がオレの肩をがっしり掴んで「行くぞ、蘭!」と無理やり歩き出した。

「あ?行くってどこに――」
「だからオマエのラウンジだよ!ちょっと酒でも付き合え」
「酒飲む気分じゃねえって――」

と言ってるにも関わらず、望月は無理やりオレを事務所の外へ連れて行く。その際、九井と鶴蝶、ついでに竜胆が引きつった笑顔で手を振ってるのが見えた。

「チッ。何だよ、モッチー。まだ食い足りねえんだけど」
「いや、食うな。あれは三途への弁当だろ?って、人が話してんのにおにぎり食うなっ」
「めっちゃ美味いんだけど。やっぱの作るおにぎり最高だわ♡」
「………はあ」

食べながら歩き出したオレの背後から盛大な溜息が聞こえて来て、思わず吹き出しそうになった。どうせオレが三途にケンカ吹っ掛けないか心配して連れ出したんだろうが、オレもそこまでバカじゃない。ただ全部食わせるのが嫌だっただけで。って、こういうとこがガキみたいで自分でも笑うけど。

「ったく…オマエ、キャラ変わってねえ?」
「そうかもなー。でも今の自分は嫌いじゃねえよ」
「いや…まあ…オレもおもしれえからいいんだけど」
「は?オレで楽しんでんじゃねえよ」

最後の一口を口へ放り込むと、肘で望月の横っ腹を小突く。見事に入って望月の巨体がその場に崩れ落ちた。

「ってぇな…!少しは手加減しろっ」
「お詫びに今夜はたらふく酒飲ましてやるよ」
「え、マジで?」
「ついでに上質な葉巻を手に入れたんだけど――」
「早く行こうぜ」

今の今まで青い顔をしながら蹲ってたクセに、望月は途端に元気よく歩きだした。アイツの回復力は鶴蝶なみだなと苦笑しつつ、オレものんびり後から歩いて行く。
は今頃、マイキーの世話でもしながら忙しく動き回ってんだろうか。それとも――。
そこまで考えて、オレは思考を閉じた。





2.

「ねえ…万次郎…やっぱりダメだよ…」
「ちょっとだけだって」

互いに小声で話しながら、そっと地下駐車場を覗き込む。いつもなら見張りが数人立っているその場所に、今は誰ひとりいない。それもそのはずだ。万次郎が嘘の連絡をして、建物内にいる黒服の人達は全員が正面エントランスへ行ってしまったからだ。

――不審者が正面にいるから全員で見て来い。

そんなすぐにバレそうな嘘を、彼らは見事に信じたようだ。最上階にいる万次郎に正面エントランスのことなんて分かるはずもないのに、万次郎が直々に電話したせいで、全員が慌てていたのは見ていなくても想像できる。

"ちょっと抜け出して二人きりで遊びに行こう"

夕飯を終えた後、いきなり万次郎がそんなことを言いだした。てっきり部下を連れて出かけるものだと思っていたから、わたしはすぐに着替えて万次郎の部屋に戻った。でも万次郎が「今のうちに行くぞ」とわたしの手を引いてエレベーターホールに行くと、いつもいるはずの人達がいなくて、そこで初めて万次郎が部下に内緒で抜け出そうとしていることに気づいたのだ。

「あ、車で出かけると思ってたから傘持って来てない…」
「いらねえよ、そんなの」
「ダメだよ…」

万次郎がそのまま行こうとするのを引き留めて、どうしようかと視線を巡らすと、エレベーター脇にビニール傘が数本立てかけてある。部下の人達が使っていたものだろう。わたしは仕方なくその中の一本を手にすると、「早く早く」と急かす万次郎を追いかけた。さすがにヒールは履いて来なかったけど、ただのフラットシューズじゃ雨でびしょ濡れになりそうだ。

「早くしねえとアイツら戻ってくっから急ぐぞ」

万次郎は再びわたしの手を掴むと、駐車場のシャッターを持って来たリモコンで操作して開けた。キキキ…という甲高い音でバレないかとヒヤヒヤしながら外へ出るとすぐに傘をさす。万次郎は同じ手順でシャッターを閉じると、すぐにケータイで部下の一人に電話をかけ始めた。

「いたか?」
『いえ、いません!』

通話口から部下の声が漏れ聞こえて来る。万次郎は笑いを噛み殺しつつ、「だったらもういい。配置に戻れ」とだけ言って電話を切った。

「…ぶはは。アイツら、この雨ん中、必死で探してたっぽいな」
「もう…こんなことしていいの?梵天のボスが…」

万次郎はイタズラが成功した子供のように笑っている。もし見つかったとしても怒られるわけじゃないだろうけど、こっそり抜け出すという背徳感でわたしはやたらとドキドキしてしまった。

「楽しいだろ?こういうのもたまには」
「楽しいって…」
「スリルあったじゃん」
「それは…あったけど」

わたしの言葉に万次郎は今度こそ本当に無邪気な笑顔を見せた。濡れないように傘を傾けると「いいって。が濡れるじゃん」とわたしの手から傘を奪っていく。万次郎は空いたもう片方の手でわたしの手を掴むと、軽く引き寄せてきた。

、ちゃっかりアウター着てきたのかよ」
「だ、だって雨で肌寒いし…万次郎、その恰好じゃ風邪引くってば」

彼は普段通り、薄手のトップスにパンツ、足元はビーチサンダルだから濡れても平気そうだけど風邪を引かないか心配になった。

「オレ、寒くねえし。暑い方が苦手」

そう言いながらわたしの手を繋ぐと、万次郎は六本木の繁華街へ向かって歩き出した。手を引かれるまま歩きながらも、本当に万次郎だけで外を歩いて平気なのかと不安になってくる。いきなり誰かに襲われたりしたら、わたしじゃ彼を守れない。

「ね、ねえ、万次郎…ほんとに大丈夫?誰かに襲われたりしたら…」
「平気だって。それに万が一そんなことになったらオレがを守るから心配すんな」
「わたしのことより万次郎は自分の身を守ってよ…何かあったら――」

と言いかけたわたしのくちびるに、万次郎が軽くキスを落とした。こんな人の往来する場所で軽くとは言え、キスをされた事実に慌てて体を離す。でもすぐに「離れんなって。濡れるから」と腕を引き戻された。

「ったく…は自分のことよりオレの心配かよ」
「だ、だって…」
「オレ、そんなやわにみえる?一応、梵天のトップなんだけど」

万次郎は笑いながらわたしの額を小突いた。そう言われて蘭さんが前に言ってたことを思い出した。万次郎は"無敵のマイキー"って通り名で有名だったと。

「それにオレの顏は殆ど知られてねえから大丈夫だって」
「そ、そう、だったね」

そうだ。わたしがホステスをしてた頃に聞いた梵天の噂話でも、トップや幹部の顔は警察でも把握してないと聞いたことがある。あの時はお客さんと「怖い人たちがいるんですね」なんて話していたけど、今、わたしの隣にはその"怖い組織のボス"がいて、しかも手を繋いで歩いてる。その現実が嘘みたいで変な気持ちになった。想像とまるで違ったイメージだったな、と思うと少しだけ笑ってしまう。

「何だよ、ニヤニヤして」
「べ、別に…」

万次郎に笑われて慌てて首を振る。でもふと気づいた。すれ違う人が何気にこっちを見ていく回数が多い。

(そっか…万次郎って結構目立つかも…)

小柄ではあるけど独特のオーラというんだろうか。自然に人を惹き付けるようなものが彼にはある気がする。そこで思い出した。

「え、何だよ」

自分の首に巻いていた薄手のショールを万次郎の首に巻き付けると、怪訝そうな顔をされた。

「寒くねえって」
「でも襟元開いてて冷えるだろうし…それに首の後ろのタトゥーも隠せる」
「……」

万次郎はふと足を止めてわたしをジっと見つめてきた。その大きな黒い瞳が優しい光を宿していることにホっとする。

「サンキュ…」
「うん」

万次郎はそれだけ言って笑みを浮かべると、再びわたしの手を引きながら歩き出した。六本木駅を過ぎて、どこへ行くのかと思っていたら、目の前に公園が見えて来る。三河台公園だ。

「何かあったかいもんでも買う?」

ふと万次郎が自販機を見て訊いて来た。どこまで散歩をするか分からないけど、とりあえず頷くと、彼はポケットから小銭を出して暖かいココアを二つ買った。

「あそこで雨宿りすっか」

花や木に囲まれた三河台公園にはレンガ造りの東屋に8人掛けのベンチがある。屋根付きだからこんな日にはちょうどいい場所だ。

「ん」
「あ…ありがとう」

ココアを開けた状態で手渡され、その温かさにホっとしながら冷えた手を温める。万次郎と並んでベンチに座りながらココアを飲むなんて、普段の生活を考えると想像もしていなかった。

「時々こんなことしてるの?」
「ん?こんなことって?」
「だから…部下の人に嘘ついて一人で抜け出すなんて…」
「あー…前に一回あったかな。何か窮屈に感じて一人でバイク乗りたくなった時」
「そっか…」

そう言われて地下駐車場には数台のバイクがあったことを思い出した。あの中の一台が万次郎の愛機だと、ココが教えてくれた。

「ほんとは…雨じゃなかったらを乗せて久しぶりにバブで走りたかったけどな」
「ばぶ…?」
「ああ、オレの愛機の名称。排気音がバブ―って聞こえるから」
「バブ―?何か可愛い。でもバイクはちょっと怖いかも…」
「あーってチャリも乗れねえんだっけ」
「えっ」

ケラケラ笑う万次郎に驚いて、すぐにココが話したんだと気づく。そんな恥ずかしいことまで報告しなくてもいいのに、と思いながら、未だに笑っている万次郎を睨む。

「ちょっとは乗れるようになったし…」
「ふ~ん?」
「あ、信じてないでしょ」
、運動神経なさそうだからなー」
「…あ、バカにして…まあ…言うほどないけど…ゴルフは上手いのよ、これでも」
「ゴルフってオッサンかよ」
「お店のお客さんとコンペとかあったから練習したの。最初はね、スイングしても空振りして、何で動かないボールに当たんないのってなったけど」

わたしの話に万次郎が楽しそうに笑った。

「でも当たるようになったんだろ?偉いじゃん。客の為に練習するとか」
「仕事と思って割り切ってたし、何でも覚えられるものは覚えてやろうと思って。それこそ着物の着付けの資格から車の免許まで全部、仕事のためにとったかな」
「へえ…やっぱすげえな、は」
「凄くないよ…仕事の為にやっただけ。自分の為に何かしたことは…そんなにないかも」
「いや、それ自体が自分の為じゃん。お金を貯めて女一人で生きていくって決めて、その為に必死で頑張ってたんだろ?すげえと思うよ。オレは…色々放棄して生きて来たから、そうやって一人で頑張って来たのこと尊敬する」
「万次郎…」

まさかそんなことを言われるとは思わなくて少し驚いた。万次郎は優しい眼差しでわたしを見ていて、そっと手を握ってくれる。世間からは恐れられてる組織のトップのくせに、こんなに優しいところもあることが不思議だった。彼はいったい何に苦しんでいるんだろう。そこで初めて万次郎のことが知りたくなった。

「万次郎は…何を放棄して生きて来たの…?」

ふと気になったことを口にすると、彼は少しだけ瞳を揺らして、わたしから視線を反らした。

「ごめん…言いたくないなら――」
「仲間や…家族」
「え…?」
「大切なもんぜーんぶ捨てて来た」

ぽつりと呟いた万次郎は、静かに降る霧雨を眺めているようで、どこか遠い目をしている。今にも泣いてしまいそうに見えて、気づけば肩を抱き寄せていた。

「…?」
「ごめん…もう聞かない」

万次郎がどんな理由で大切な人達を捨てて来たのかは分からない。でも彼の中にある闇が関係していることだけは何となく想像が出来た。今は精神的にも落ち着いているように見えるけど、いつまた不安定になるか――。

(ああ、そうか――。大切な人を傷つけない為に、自らそれを手放したんだ…)

自分が殺されかかった時の光景が浮かんだ時、答えが見えた気がした。

は…やっぱり優しいな」
「…え?」

ふと離れて万次郎を見ると、彼の瞳から涙が一粒零れ落ちた。

「ま…万次郎…?」

涙を拭こうと無意識に伸ばした手を掴まれ、引き寄せられたと思ったら強く抱きしめられた。さっきは強引なくらいにわたしを抱いた手が、今は優しく髪を撫でてくれている。そのアンバランスさが万次郎の危うさなのはわたしにも分かっていた。だけど、こうしてそばにいることで少しでも万次郎が安心するなら気が済むまでそばにいようと思った。

「今の道を選んだのはオレで、だから後悔はしてない。だけど…時々無性に息苦しくなって…こうして今の日常から抜け出したくなるんだ…」
「うん…」
「でもだいたい一人でいるのが寂しくなって…余計に孤独を感じるんだけど、今日はが一緒だから寂しくねえよ」

少しだけ体を離すと、万次郎が笑みを浮かべた。その頬にはもう涙の痕はない。そっと手で触れると、彼の頬は少しだけ冷んやりとしていた。

「今度は…バイクで出かけよう」
「え?」
をバブに乗せて走りたい」

万次郎はだいぶ元気になったのか、今は無邪気な笑みを向けている。わたしは頷きながら、頬に触れた手で少し濡れた万次郎の前髪を払った。

「その前に…帰ってお風呂で温めなきゃね。万次郎、体が冷たい――」

と言いかけた時、ちゅっとくちびるを啄まれた。ドキっとして視線を上げると、またすぐにくちびるを塞がれる。強い腕に背中を抱き寄せられて、更に深く交わう熱に、冷えた体が少しずつ火照っていくのが分かった。辺りは静かで、雨の音しか聞こえない。その雨音を聞きながら、何度もくちびるを重ねてくる万次郎の背中を、わたしはそっと抱きしめた。