六本木心中




1.

何となく、彼の部屋に呼び出された時から何を言われるのか分かっていた気がする。ソファに座ってる春千夜の横に立つと、まず初めにじろりと睥睨された。ああ、やっぱりあのこと・・・・だ。

「昨日、この支部に詰めてるオレの部下から連絡があった。一昨日の雨の夜、この敷地内に不審者がいるとマイキーから二回も連絡があったってな」
「…………」

やっぱりソレか。と内心ドキドキしながら黙っていると、春千夜は深い溜息を吐いた。

「オマエ、何か知ってんだろ」
「……ど、どうして?」
「あの日、ずっとマイキーと一緒にいたのはオマエだけだ。隠さず本当のことを言え」
「な…何でわたしに聞くの…?万次郎に聞けばいいのに」
「…ぐっ」

後ろめたい気持ちがあるせいで、ついそんな言葉をぶつけると、春千夜は言葉を詰まらせて目を吊り上げた。

「聞けねーからわざわざオマエに聞きにここまで来てんだろ?察しろよ!」
「…ごめんなさい」

素直に謝ると、春千夜は小さく舌打ちをしてソファに凭れかかった。普段きっちり着ているスーツの上着を脱ぎ、ネクタイは無造作に緩められている。帰国してから今日まで戻って来なかったところをみると、かなり忙しくしてたようで、どことなく疲れてる顔だ。こういう時、春千夜が薬に頼ることを、わたしは知っている。

「…んで。あの雨の日、オマエとマイキーはどこに行ったんだ?」

春千夜は「どこに」の部分をことさら強調して訊いて来た。この様子じゃ全てバレてるんだろうなと思う。万次郎はわたしがここへ来る前から、何度か抜け出してるようなことを言ってたし、きっと春千夜もそのことに気づいている。

「…公園」
「は?」
「万次郎と公園に行ってた」
「……あの雨の中?」
「うん…あと…少し街中をブラついたり――」
「変なヤツは…怪しいヤツとか近づいて来なかったか?」

街中、と聞いた春千夜は身を乗り出してわたしを見上げて来た。やっぱり他の組織の襲撃を恐れてるのかもしれない。

「誰も…ストールで万次郎のタトゥーも口元も隠したし、傘もさしてたから…」
「………」

わたしの話を聞いて春千夜は「ったく…」と呟くと、また溜息を吐く。

「何で止めるとか、オレに連絡するとかしねーんだよ。もし何かあったらどーすんだっ」
「え…わたしだって何度も止めたんだよ。でも万次郎、全然聞かなくてグイグイ引っ張られてケータイも忘れてっちゃったし…」

久しぶりに人から説教をされたせいか、気持ちがズーンと沈んでいく。そもそも万次郎の我がままをわたしが止められるはずもないし、春千夜だってその辺のことは分かってるはずだ。これは半分八つ当たりみたいなものだと思った。万次郎のことが心配なのは分かるけど、前から気づいてたなら春千夜がきちんと制御するべき問題だとわたしは思う。だからそのまま口にしてしまった。

「…わたしも困ったんだよ…。だいたい春千夜も万次郎の脱走グセ知ってるなら、ちゃんとダメだって言って」
「…う…」

万次郎の一番近くにいる側近なのに、春千夜は万次郎にとことん弱い。きっと周りが甘やかしすぎたのが原因の気もする。
わたしが強気に出て来るとは思わなかったらしい。春千夜は苦虫を潰したような顔でそっぽを向くと「…悪かった」と全く反省の色が見えない様子で謝って来た。いつもの彼なら文句の一つでも言ってきそうなものなのに、今日はやけにしおらしい。

「わたしも…ごめん。次はもっと強くダメだって言うから…」
「……いや。いい」
「え…?」
「…マイキーが息抜き出来てんなら…それでいい。ただ、もしまた抜け出そうとする時は他の部下にこっそり知らせろ。バレねえようついていけとオレから言っておく」
「う、うん…分かった」
「これ、この支部に詰めてるオレの部下の番号。オマエのケータイからワンコール。それが合図ってことにしておく」

春千夜は上着のポケットから名刺を出してわたしへ渡した。そこにはここの黒服たちの中でも一番上の人の名前とケータイ番号が書かれている。それをスカートのポケットにしまうと、春千夜は「もう戻っていいぞ…」と言って息を吐き出した。さっきよりも少し顔色が悪い。

「大丈夫…?顔色悪いよ」
「…ただの寝不足だ。少し仮眠すりゃ――って、何だよ…っ」
「熱い…春千夜、熱あるじゃない」

色白の頬が火照ってる気がして触れてみると、かなりの熱さでビックリした。こんな初秋に熱中症でもないはずだから、季節の変わり目特有の風邪かもしれない。

「熱…?」
「春千夜、体温計は?」
「んなもんこの部屋にねーよ」
「あ、わたしの部屋にあるから、ちょっと待ってて」
「は?い、いい。余計なことすんなって――!」

後ろから春千夜の声が聞こえて来たけど、わたしはそのまま自室へ行って体温計を手に、再び春千夜の部屋へ向かった。

「は?マジで持って来たのかよ…」

春千夜はすでにスーツのベストを脱いでシャツ姿のままバスルームへ行こうとしてたようだ。彼はかなり潔癖気味だと万次郎に聞いたことがある。外出から戻ったら真っ先にシャワーを浴びたがるほどに。

「まさか…シャワー入る気なの?」
「あ?関係ねえーだろ…って、おいっ」

春千夜の腕を掴んで寝室のドアを開けると「勝手に入んなっ」と騒ぎ出した。でも振りほどこうと思えばわたしの細腕なんか簡単に振りほどけるはずなのに、春千夜はそうしなかった。

「はい、脱いで」
「…は?」

ベッドの端に座らせると、前に立ち、中途半端に外してあるシャツのボタンを外していく。それには焦ったのか、春千夜がわたしの手首をガシっと掴んだ。

「何してんだ、テメェ…」
「何って体温測るの。あと寝る前に着替えてもらおうと思って」
「オレは寝るなんて一言も言ってねえぞ。つーかシャワー浴びてーんだよっ」
「じゃあ先に熱計ってから」
「うぉ…っ」

春千夜の脇へ体温計を差し込むと、彼は変な声を上げてわたしを睨んで来た。

、テメェ…」
「もう…春千夜はどうしてすぐ怒るの…?」

困った人だなあ、と付け足せば、春千夜が「テメェが怒らせるようなことすっからだろっ」と真っ赤になって怒鳴りだした。でも大きな声を出したことでフラっとしてる。

「ほら、具合悪いんじゃない」

と言った時、春千夜が文句を言う前にピピピっと軽快な音が鳴った。すぐに脇から抜いて見れば、やっぱりフラつくらいの熱が出てるようだ。

「ほら、こんなに熱上がってる」
「………げ…」

体温計の表示を見せると、春千夜は徐に顔をしかめた。熱があるとハッキリ分かったせいか、素直に部屋着を出して着替え始めた。シャワーに入ることを諦めてくれたのは良かったけど、わたしの前で平気で脱ぎだすから、慌てて後ろを向く。色白で細身なのに、シャツを脱ぎ去った春千夜の上半身は意外に筋肉質だ。

「何だよ、今更。男の裸なんて見慣れてんだろ」

背後から春千夜の鼻で笑う声が聞こえた。

「そ、そういう言い方しないで。それに慣れるほど春千夜の裸は見てないし」
「…フン。あっそ」

頭に来て言い返すと、春千夜は「あーシャワー入りてえ…」とブツブツ言いながら布団に潜り込んでいる。このまま放置してやってもいいけど、性分的にそういうわけにもいかない。どうせ何もしないで部屋に戻っても気になってしまうのだから同じだ。

「後でシーツとか全部新しいものに変えてあげるから、春千夜は大人しく寝てて。今お粥作って来るから」
「……あ?」
「万次郎はまだ帰って来ないなら、別に春千夜の世話をしたっていいでしょ。わたし、暇だから」

今朝、万次郎は春千夜と本部に出かけて行った。帰国後の細かな仕事は春千夜が片付けたらしいけど、万次郎にはトップとして把握しておかないといけない仕事がいくつもあるらしい。その報告を受けに出かけた。でも何故か春千夜だけ戻って来て、さっきの呼び出しを受けたのだ。きっと万次郎がいると話しにくかったんだろうなと思いつつ。今夜は遅くなると万次郎も話してたから、その間は春千夜の看病をしてても平気だろう。

「チッ…オレはオマエの暇つぶしかよ」
「そんな意味じゃ…ほんと捻くれてる」
「…うるせえ」

照れ臭そうに顔を背ける春千夜の頬は更に火照ってきたようだ。まずは冷やすもの、食事、薬を用意しなくちゃ。

「ちょっと待っててね」
「オマエ…マジでオレの世話する気かよ…」

寝室を出て行こうとするわたしの背中に春千夜の声が追いかけて来る。そのどこか戸惑うような声は、人に世話をされることに慣れていない様子が感じとれた。
不器用――そう形容するのが一番しっくりくるのが彼だ。

「具合悪い人を放っておいて、一人ノンビリとか出来ないタチなの。それに放っておいたら春千夜何も食べないでしょ」
「……何も食うもんねえんだよ」
「ほら。それじゃ治るものも治らないから、しっかり食べて寝て。そしたら風邪なんてすぐ治るよ」
「移ってもしらねーぞ。もしが風邪引いたらマイキーから引き離して部屋に隔離すっからな」
「お好きにしてくれて構いません」

具合が悪いのにまだ文句を言ってる、と内心おかしくなりながらも、そう言い返して一度上の部屋へと戻った。きっと今頃苦虫を嚙み潰したような顔で寝ているに違いない。

「全く…素直じゃないんだから…」

万次郎はトップといっても緩いところも結構あるから、その分のフォローを春千夜が殆ど引き受けてるはずだ。だから実は幹部の中で最もプライベートな時間を持ってないのが春千夜かもしれない。睡眠時間だって足りてないはずだ。

「あれじゃ風邪くらい引くよ…」

小さな溜息を吐くと、まずは部屋に戻って必要な物を準備することにした。





2.

「は?三途の看病…?」

そう言ってからオレはハッと息を飲み、辺りを見渡した。でも今、この場所にはオレ以外、誰もいない。ここ、本部最上階の廊下には。
今日は朝からマイキーが本部に出張ってるの知ったばかりで、今は会議室に幹部や支部のトップなどが集まっている。オレも呼ばれて来たものの、報告会議は意外と長引いたりする。だからその前にの声でも聞こうと電話をかけた。なのに聞かされたのは熱を出してぶっ倒れてる三途の話。通りで本部に来てからアイツの顔を見なかったはずだ。

「そんなの放っとけよ」
『そんなわけには…簡単にお粥作って食べさせてから薬飲ませたりするだけだよ』
「いや、甘やかしすぎ。マイキーなら仕方ねえけど三途にまで優しくすんのは許せねえ」
『え…』

オレだって今すぐに会いに行きたいってのに、熱が出たからって三途がの看病を受けるとか思うとムカつく。だからついガキみてえなことを言ったかもしれない。も困った様子で『ほんとにダメ…?』と訊いて来る。ここでダメって言ったら本気で呆れられそうだ。

「はあ…餌与えて薬飲ますってだけなら…いいけど」
『餌って…猫じゃないんだから』
「あ?三途はんな可愛いもんじゃねえだろ…ったく」

呑気にくすくす笑っているには溜息しか出ない。行くとイライラしそうって理由でしばらく六本木の方には顔を出していないからか、やけにが恋しかった。

「でも…何で会議あんのに三途はそっちに顔出したんだ?マイキーを置いてそっちに行く用なんてねえはずだけど…」

疑問に思ってたことを口にすると、その答えはが持っていたらしい。実は…なんて言って言いにくそうに理由を説明してくれた。

「は…?抜け出した?」
『う…うん…』
「おま…っマジで何やってんだよ…」
『だ、だからわたしは止めたんだってば』

三途に散々説教をされたんだろう。少しスネた口調で言われて、つい苦笑が洩れた。

「あーいや…悪い。別にを責めたわけじゃなくて…ってか…マイキーに言われちゃじゃ止められねえよな…。でも…大丈夫だったのかよ」

一番心配なのはマイキーの顏を知ってる奴らに見つかり、襲撃されることだ。梵天のことを面白く思っていない連中は腐るほどいる。それに今はラットのせいで情報が洩れてる状態だ。そんな中で護衛もつけずに出歩くなんて危険すぎる。オレが心配なのはマイキーが狙われた時、一緒にいるにまで危害を加えられるんじゃないかということだ。でも彼女の話を聞けば、幸い平和な散歩で終わったようだ。そりゃ三途が説教したくなる気持ちも分からないでもないが、に言うんじゃねえと少しイラっとした。

「まあ三途が裏で対処するってんなら任せておけよ」
『うん。そうする』

素直に頷く彼女の声を聞きながら、最後に会ったのはいつだっけ、と考える。ここんとこラット探しで忙しくしてたのも、に会えない寂しさや苛立ちを誤魔化すためだ。つくづく厄介な女に惚れちまったな、とため息が漏れる。普通の出逢いだったなら、こんなに鬱々とすることもなく、会いたければいつでも会いに行けるんだろうな。

『蘭さん…元気?』
「あ?今更かよ」

軽く吹き出すと、もそうだね、と笑う。お互い組織にとらわれ過ぎて、二人の話よりもそっちの話を優先しているんだから嫌になる。オレはただの声が聞きたくてかけただけなのに。

「オレはまあ…相変わらず。今ちょっとゴタゴタしてて忙しいんだよ、マジで」
『そう…それって…危険だったり…する?』
「…いや。オレらが追い込みかけてる方だから」
『そっか…』
「何だよ…心配してくれてんの、ちゃん」

からかうように言えば、彼女はあ、とかう、とか言葉を詰まらせながらも、最後は『心配だよ…』と素直なことを言って来る。それが何とも言えず嬉しかった。

「オレは平気だから心配すんなって」
『うん…』

は元気のない声で頷くと、その後にぽつりと『会いたいな…』と呟いた。そのたった一言がオレの胸に刺さって、本気で今から六本木に飛んで行こうかと思ってしまう。

「オレも…会いたい。でも今から会議でさぁ…三途がぶっ倒れってんじゃ今頃連絡入ってココのヤツが慌ててんだろーな。まあアイツら情報共有してるみてーだから大丈夫だろうけど」
『そっか。じゃあ…春千夜には早く元気になってもらわないと』
「まあ…そういうことでもあるのか…。チッ。オレはこれから怠い仕事だってのに、三途はに看病してもらうとか、マジでムカつくわ」

オレがそうボヤくと、は軽く吹き出して笑ってる。オレからすれば笑いごとじゃないってのに。その時、部下が廊下に顔を出し「蘭さん、始まります」と呼びに来た。軽く手を上げて応えると、「じゃあ…行かねえと」とに告げる。

『分かった…会議頑張ってね』
「頑張りようがねえよ。聞いてるだけだし寝ちまうかも」

まあココが仕切ることになるだろうから確実に寝かせては貰えねえだろうけど。

「じゃあ…また電話する」
『うん…待ってる』

遠距離恋愛でもないのに気分だけはそんなノリで、次はいつ二人きりで会えるんだろうと思いながら電話を切った。

(まあ…オレが向こうに顔を出せば会えるっちゃ会えんだけどな…)

ふとそんなことを考えながら会議室まで歩いて行く。でも顔を見てしまえば触れたくなって、触れてしまえば、また次の欲求が出て来る。それが分かり切ってるから、なかなか足が向かない。だから気を紛らわせるためにラット探しに集中してるみたいなもんだ。

「チョロチョロされんのも気に食わねえし、とっとと捕まえねえとな…」

溜息交じりで呟くと、男だらけのむさくるしい会議室へ入って行った。





3.

「――じゃあ、後のことは頼む」

そう言って九井との電話を終わらせた時、リビングの方から何やら物音が聞こえてきた。お節介な女がキッチンでお粥を作ってる音だ。「何か食べなきゃ薬は飲んじゃダメ」だとか言って、勝手に食材を持ち込んで、さっきから忙しそうに動き回ってる。棚を開ける音、冷蔵庫のドアを閉める音、食器の触れあう音。いつもは静かな空間にたった一人加わっただけで、随分と賑やかになるもんだ。

(こんな雰囲気は久しぶりだな…)

ふと十年以上前のことを思い出す。まだガキだった頃、忙しい父親と、バイクに乗って遊び歩いていた武臣は家に寄りつきもせず、オレと妹の千壽で毎日食事を作ってた。料理、掃除、洗濯にゴミ捨て。全て当番制にして協力しながら日々を暮らしてた。今、聞こえているのは、あの頃オレが何気ない日常の中で聞いていた音だ。もう二度と戻ることのない、平穏な時間。

「…クソ…頭いてぇ…」

ベッドに倒れ込んで額に手を当てると、普段の倍は熱いと感じた。なのに首元はゾクゾクとして寒気がする。完全に風邪の症状だ。帰国後は忙しくしてたせいか睡眠が足りてない。その上ここんとこ続いてた雨のせいで一気に気温が下がってきたせいかもしれない。

――季節の変わり目は寒暖差で免疫低下したりするし、そういう時は風邪も引きやすくなるから。

さっきがそんな話をしてたのを思い出す。アイツは医者かっての。

――春千夜は栄養が足りてない気がする。細すぎるもん。ちゃんと栄養取らなくちゃダメだよ。

余計なお世話だっつーの。まるで母親みたいなことを言ってくる女だ。オレにあんなことを言ってきた女なんか今まで一人もいなかった。まあ、身体の心配をしてくれるような甘い関係でもなかったけどな。
寄って来る女は大抵が"梵天のNo2"としてのオレを求めてる女ばかりで、オレ個人のことなんかに興味はない。そんな女にオレも興味なんか湧かないから一夜限りの関係で終わることが殆どだ。特定の女なんか必要ないし、作ったところで愛してやれる気もしない。オレにはマイキーが一番で、全てで、それ以外の人間はみーんなノイズだ。

「…春千夜、起きてる?お粥出来たよ」

このお節介女も――例外なく、耳障りな"音"でしかない。

「……その辺に置いとけ」

背中を向けたまま応えると、がそばに来た気配がする。そのまま器を置いて出て行くのかと思いきや、いきなり肩をグイっと引かれた。

「ダーメ。ちゃんと食べるとこ確認する」
「は?」

驚いてを仰ぎ見れば、伸びて来た掌がオレの額に触れる。水仕事をしてたのか、彼女の手は少し冷んやりとしていて気持ち良かった。

「熱い…さっきより熱上がってるじゃない」
「…これくらい平気だって言ってんだろ」
「全然平気じゃないよ。声もかすれて来たし…ちょっと待ってて」

はベッドサイドにあるスタンドテーブルにお粥が入った土鍋の蓋を置き、そこに器を乗せると急いで寝室を出て行く。でもオレが呆気にとられている間にすぐ戻って来た。

「春千夜」
「…あ?何だよ――」

と応えた瞬間、サッと前髪を上げられ、露わになった額にペタッと何かを貼られた。

「冷て…っ何すんだ、テメェ」
「何って熱あるんだから冷えピタ貼ったの」
「あ?げ…っ何勝手に貼ってんだよ、こんな――」
「あー!ダメ、はがしちゃ!」

額に貼られたものを剥がそうとすると、が慌ててオレの手を掴む。

「放せっ。こんなダセーもんいらねえって――」
「ダサいとかそーいう問題じゃないでしょ?自分が熱あるって分かってる?いくら反社の人でも病気の時くらいダサくていいじゃない!だいたい誰にカッコつけたいのよ、春千夜は」
「あぁ?んなこと言ってんじゃねえっ。寝てりゃ治るっつってんの!」
「もー面倒くさい男ね、春千夜は」
「……っ?」

が呆れたように言い放った言葉に、オレは何故か後頭部を殴られたのかってくらいショックを受けた。灰谷や望月に何度か言われたことはあるが、女に面倒くさいなんて面と向かって言われたのは初めてだ。力が抜けて起こしていた体がベッドへ倒れ込むと、は「え、大丈夫?」とオレの顔を覗き込んで来た。

「…うるせぇ。こっち見んな」

から顔を背けて呟くと、更に「え、落ち込んでる?」と驚いたような声を上げた。

「落ち込んでねーよっ!ったく、たいがいオマエもうるせえ女だな…早く自分の部屋に戻れ」
「春千夜がちゃんとお粥食べるまで戻らない。お薬も飲まなくちゃいけないし」

言いながらベッド脇に座ると、またオレの肩を掴んで自分の方へ向けた。

「何だよ…」
「はい、ちゃんと食べて」
「は?自分で食えるって」

はお粥を掬ったスプーンをオレの口元に持ってきて、マジで母親かと突っ込みたくなった。でも彼女は至って真剣だ。

「ほら、あーん」
「…く…ガキ扱いすんなっ」

って言ってから、こういうところがガキくせーのか?と自問自答する。ついでに面倒くさいと言われたことが尾を引いていて、ぐいぐいとスプーンを口元へ持ってくるを睨む。でもは一向に怯む様子もなく、「お願いだから食べてよ、春千夜…」と不意に悲しそうな顔をした。何故かその顏にドキっとさせられる。散々強気でオレにモノを言ってきたくせに、そんな心配そうな顔をすんのは反則だ。

「…何だよ…急にしおらしくなりやがって…」
「だって…ちゃんと食べてくれないと心配で戻れないし…」
「……心配…?」
「そう。だからちゃんと食べて。暖かい食事をとるだけで免疫力も上がるし」
「…チッ。テメェは医者かよ」

これだけ素っ気なく接してもは怯む様子も帰る様子もない。オレが食事をするまでは徹底抗戦の構えといった顔だ。人の世話をするのが生きがいなのか?と聞きたくなるほどクソ真面目な性格らしい。まあ、接してて何となく分かってはいたが。

「…寄こせ」
「え?」
「食えばいーんだろ?寄こせよ。自分で食うから」
「あ…うん…」

オレが突然素直になったからか、はポカンとした顔で土鍋の乗ったトレーをオレの足の上に置く。その間抜けたツラが面白くて吹き出しそうになったが、どうにか堪えてお粥を口へ運ぶ。その瞬間、懐かしい味が口内に広がった。

「…うま」
「ほんと?良かったー!消化にいいものばかりだから全部食べてね」

オレの些細な一言で、は殊の外、嬉しそうな顔をした。は料理が得意だから、美味いなんて言われ慣れてるはずなのに。

「……これならペロッと食えそう」

ショウガと出汁のうま味がちょうど良くて、一緒に煮込んだ鶏肉はほろほろと口の中で溶けていく。もう顔も思い出せない母親が、昔作ってくれた味に似ている気がした。

「沢山食べて。まだキッチンに半分くらいあるから」
「は…?どんだけ作ったんだよ」

まだあんのかってギョっとしてツッコめば、は楽しそうに笑った。普段ならうるせえと思う明るい声も、今は何となく心地いい。同じノイズでも、の声は昔の明るい食卓を、オレに思い出させた。