六本木心中




1.

静かな部屋に嗚咽がかすかに響く。うすら寒い部屋の大きなベッドの上で、身体を丸め、布団にくるまりながら、わたしは捨てられた子供のように泣いていた。蘭さんのあんな冷たい声は久しぶりに聞いた。ここへ連れて来られた夜以来かもしれない。
彼を怒らせてしまったという罪悪感と後悔で潰されそうだった。

(…痛い)

ジクジクと焼けるような痛みが、みぞおちの辺りに居座っている。薬を飲んだのに、なかなか効いてくれない。寒気もする。全身の血液が胃の周りに集中してるかのようだった。

(蘭さん…話も聞いてくれなかった…)

それが一番悲しかった。事情を聞いてもらえたなら、少しは許されるんじゃないかという甘えがあったのかもしれない。でもどんな事情があったにせよ、蘭さんの気持ちを裏切ったのはわたしだ。もし逆の立場だったなら、わたしだって同じように傷つくと思う。せっかく会いに来てくれたのに――。

(蘭さんは今どこにいて何を思ってるんだろう…)

そばにて欲しい。本当なら今、ここにいて欲しい。体調が悪い時には余計に彼の温もりが恋しくなってしまう。
でも――現実を考えると、この先もきっとこんな風にわたしは彼を傷つける存在になるかもしれない。ふとそう思った。現状は変わらず、わたしは万次郎の世話係で。蘭さんはマイキーだけは仕方ないと言ってはいるけど、結局それは諦めているだけだ。元々わたしはその目的で選ばれた女でしかなく。蘭さんと恋愛関係になったから解放されたいなんて通るはずがない。それにわたし自身、万次郎と長く接して情が湧いてしまっている。万次郎から「オマエはもう必要ない」と言われたならまだしも、必要とされている間は途中で放り出すという選択肢はなかった。ならば、その間わたしは延々と蘭さんを傷つけることになる。

「潮時かな…」

胃の痛みに耐えながら、ポツリと溺れ落ちた本音。結局、いつかどこかで結論を出さなければいけないのは同じだ。ならば今、まだ傷の浅いうちに答えを出してしまえばいい。
どれくらいそうしていたのか、気づけば眠っていたらしい。次に意識が戻った時、胃の辺りはだいぶましになっていたけれど、ジンジンと鈍い感覚は残っていた。そして――。

「…蘭…さん…?」

優しく髪を撫でられている感覚に、ついその名を口にする。同時にふと手が止まり「あ?灰谷?」という声がすぐ近くで聞こえてドキっとした。蘭さんの声じゃない。気づいた瞬間、目を開けると、ベッドの端に腰を掛けていたのは春千夜だった。

「は、春千夜…?」

驚いて見上げると、春千夜は大きな瞳を半分にしながらあたしを見下ろしている。何故、春千夜がここに?という疑問を投げかける前に、春千夜の方が口を開いた。

「何だよ、灰谷って」
「え…あ…あの…この部屋に入って来るのって……蘭さんくらいだから…」

咄嗟に出た言い訳に、春千夜は怪訝そうに眉をひそめたけど、「そんな頻繁に来てんの、アイツ」と素直に信じてくれたようだ。もし春千代に蘭さんとの間にあったことを知られれば、何を言われるか分からない。万次郎に忠誠を誓ってる春千夜には知られない方がいい。

「ひ、頻繁っていうか…色々必要な物を買って来てくれるだけ」
「あー…灰谷、そういうとこマメだよな…ったく」
「うん…それより…春千代はどうしたの?熱は?」
「あ?あーもう完全に下がった。たっぷり寝たからな。でもオマエはいつまで経っても来ねえし様子見に来たらグッスリ寝てっから…」

と、そこで春千夜は急にそっぽを向いた。

「ご、ごめん…お腹空いたよね。今すぐ用意するから――」

そう言って起き上がろうとした。でも動くと胃の辺りがムカムカして来る。思わず深い息を吐くと、春千夜はふとわたしへ視線を戻した。

「…オマエ、具合わりーのかよ。顔色良くねえぞ」
「だ、大丈夫…ちょっと胃痛が出ただけ」
「は?それって…前に病院まで運ばれたってやつか。九井が言ってた」

前に症状が出たのは春千夜が万次郎とフィリピンへ行っていた時だ。きっちりとココから連絡がいっていたらしい。

「…治ったんじゃねえのかよ」
「治るってものでも…再発しやすい病気みたい」
「マジかよ…じゃあ今すぐ病院に――」
「い、いいっ平気だから」

立ち上がろうとした春千夜の腕を掴むと、彼は呆れたように溜息を吐いた。

「平気って…そんな風に見えねえな。痛むのか?」
「痛みは治まってる…ただちょっと動くと気持ち悪い…」
「はあ…オマエ、それって…あの薬飲んだから悪化したんじゃねえの…」
「う…そ、そうかも…」

言った瞬間、春千夜は舌打ちをすると、わたしの肩を押してベッドへと倒した。ビックリして顔を上げると不機嫌そうな双眸が見下ろしてくる。何故機嫌を損ねたのか分からず戸惑っていると、春千夜は「バカかよ、」と呆れたように呟いた。

「オレには自分の体は大切にしろなんて言っておいてオマエはしてねーじゃん」
「……か…返す言葉も…御座いません…」

ばさっと布団をかけられ、目だけ出して応えると、春千夜は軽く笑ったようだった。

「胃の薬は?」
「飲んだ…」
「あっそ。んじゃーオマエはまだ寝てろよ」
「え…でも春千夜もまだ…」
「オレは寝たらスッキリしたし大丈夫だつったろ」
「え…あ、今何時…?」
「今ぁ?午後6時まわったくらい」
「えっ」

蘭さんが帰ってから8時間以上は経っている。そんなに寝てしまったのか、と少し驚いた。よく見れば窓の外はすでに薄暗い。寝室も春千夜が点けたのか、ウォールライトだけがぼんやりと室内を照らしていた。

「つかオマエも腹減ってんじゃねえの。夕べから何も食ってねえだろ」
「……うん、まあ」

でもそんなにお腹は減ってる感じはしない。今も時々胃の辺りがジクジクとするせいだ。ただ空腹のままだと余計に痛みが酷くなるので無理にでも消化にいい、それこそお粥か何かを食べないといけない。

「お粥、食う?」

春千夜がわたしの顔を見ろしながら溜息を吐く。一瞬何を聞かれてるのか分からず首を傾げてしまった。それがイラっとしたのか、春千夜は「お粥なら食えんのかって聞いてんの」とわたしの鼻をぎゅっと摘む。あまりの強さに思わず顔をしかめてしまった。

「い、痛いよ…って、春千夜、お粥作れるの…?」
「あ?ばりばり作れるわ、そんなもん。これでもガキの頃は妹に飯作ってやってたし」
「…妹?春千夜、妹さんいるんだ」
「クソ生意気なのが一人な。まあ…もう縁切りしてっけど」

ふいっと顔を反らした春千代の横顔はどこか寂しげに見えた。万次郎も春千夜も、大事な人を手放してるのは同じようだ。そこまでして、この組織の何に夢を見てるんだろう。
"梵天"とは、仏教の天上界に住む最高位の守護神のことだ。万次郎たちもまた、裏の世界で天上人になろうとしているんだろうか。

「ちょっと待ってろ。ちゃちゃっと作ってくっから」
「え、い、いいよ…っ!春千夜も病み上がりなのに―――」
「黙れ。現状オマエに倒れられんのが一番きつい。しっかり体調戻してもらわねえと。分かったなら大人しく寝とけ」

口が悪いのはいつものこと。でもわたしの頭に置かれた手は、意外なほどに優しい。平気で人を処刑したり、危ない薬にも手を出してるくせに、春千夜もまたチグハグな性格をしているみたいだ。

「あー今夜は冷え込むらしいから今のうちに暖かい恰好にしとけ。オレの風邪も移ってっかもしんねえだろ」

ドアの方へ歩きかけた春千夜が、思い出したように振り向く。その言葉の意味を考えて顔が赤くなった。確かに体が弱ってる今なら風邪が移っていてもおかしくない。そう思ってゆっくり起き上がると、一度ベッドから出てクローゼットから少し厚手の部屋着を取り出す。でも着替えようとした時、春千夜がドアのところに立ってこっちを見ていることに気づいた。

「な…何…?」
「いや…そんな顔されると…」
「え?顔?」
「…別にっ。何でもねえよ。サッサと着替えて寝とけ」

春千夜はプイっと顔を反らすと寝室を出て行ってしまった。春千夜の情緒が不安定で怒りんぼなのはいつものことだけど、相変わらずそのスイッチがよく分からない。けれど、少なくとも今はわたしの為に食事を作ってくれようとしている。それは有難かった。やっぱり、体調が悪い時は一人だと心細い。

ただ、目が覚めた時、てっきり蘭さんかと思ってしまった。確かめもせずについ名前を呼んでしまったのは失態だ。危うくバレるところだったと少しだけヒヤリとした。

(でも…あれから…戻っては来てくれなかったんだ…)

すっかり帳の下りた六本木の夜景を見ながら、その現実が重くのしかかる。
いや――むしろ、これでいいのかもしれない。
わたしのことなんて見限って愛想を尽かしてくれたら、それこそ諦めがつく。
わたしは自分のやるべきことを、今後もやるだけだ。

「……泣いてるみたい」

雨に濡れた窓の向こうに見える六本木の夜景は、かすかに滲んでゆらゆらと朧げに見えた。




2.

「おら、心当たりのあるもんぜーんぶ出せよー?高木ぃ~。じゃねえと今すぐここでオマエを殺しちゃうかもしんねえしー。あそこのひげ面イケメンが」
「ひいっ…い、命だけは…っ」

脅された男は真っ青になりながら床へ頭を擦りつけている。でも蘭に指をさされたオレは聞き捨てならねえとばかりに作業を中止した。

「おい、蘭!誰がひげ面イケメンだ、テメェっ」
「あっは。褒めたのに怒んなよ、モッチー」

蘭は一見機嫌が良さそうにヘラヘラ笑いながら、床に座り込んで震えている男の顔を足蹴にしている。ピカピカに磨かれたハイブランドの靴底で頬をぐりぐりと擦られ、男は更に悲鳴を上げた。
組織の中に裏切者がいる――。
その話を聞かされてから昼夜問わず部下が探し回って見つけて来たのは、情報漏洩の犯人ではなく。組織のヤクをくすねて勝手に売りさばいていた蘭直属の部下、高木という男だった。昼すぎにフラリと戻って来た蘭にそれを伝えると、コイツはすぐに動いた。今の今まで自分の傍にいた男だろうと容赦はなく。目も当てられねえくらいにボコって引きずり回した後は、こうして高木の家へ来て隠してあるというヤクを探している。(主にオレが)

「クソ…こんだけか?ほんとに。まだあんだろ!」

ベッドの布団を剥がし、マットをひっくり返すと、1千万円相当のヤクが出て来た。ついでに裏DVDまでしっかりくすねてるのには笑ったが、これの管轄であった蘭は「全然笑えねえ」と高木の顔面に蹴りを入れている。鼻が折れた音と大量の鼻血を垂らす高木に、蘭は更に容赦しなかった。

「オレの顔に泥塗りやがって…テメェには随分と目ぇかけてやったよなァ?」
「す、すみません、蘭さん…っ!!つ、つい目がくらんで――」
「ハア?目がくらんじゃったのー?」
「す…っすみません…!」

高木の前にしゃがみ、蘭が耳に手をあてながら聞き返すと、高木が恐怖のあまり蘭の腕に縋りつく。それを見ていたオレは内心"高木終わった"と思った。

「げーっきったね!オレのスーツにオマエの鼻血ついちゃったじゃん」
「ひっ…す、すみま…があぁ!」

案の定、蘭はキレて高木の鼻の穴に指を突っ込むと上に思い切り引っ張っている。鼻が折れているだけにアレは激痛だろう。高木は涙を流しながら喚いている。それを聞きながらオレは他に商品を隠していないか、部屋中のものを引っ掻き回した。冷蔵庫の中、トイレの水槽タンク、バスルームの天井裏。物を隠せそうな場所なら全て探して盗まれたヤクを回収していく。本来なら部下にさせる作業なのに、蘭の直属の部下から裏切者が出たせいで、オレの部下すら信用できねえと言い出したからだ。でも確かにこれは対岸の火事じゃねえ。オレの部下も慎重に調べる必要がある。こう言いうバカが一人いれば、他にもいるはずだからだ。一人で梵天の商品に手を付けようと思う奴はそんなにいない。見つかればタダでは済まないと十分に分かっている。だが人間、数が集まれば気は大きくなり、自分達で誤魔化せば何とかなると思えてしまうものだ。

「そんな悪いコトにくらむ目ならいらねえよなァ?高木~」
「ひ、ひぃっそ、それだけは…っ」
「えぐっていーい?」

遂に蘭がポケットから小型のナイフを取り出して、高木は恐怖のあまり失禁。床に水たまりの如く尿が広がり、蘭が「げっ」と後ろへ飛びのいた。まあ、蘭の性格じゃアレを踏む勇気はねえだろうな。

「っぶねーな、テメェ。オレの靴がオマエのションベンで汚れるとこだったろーが!」
「…ぎゃぁっぁ…や、やめて下さいぃぃっ」

ポケットから出した小型拳銃を向けられた高木は必死に命乞いをしている。無駄なのに、と思いつつ「ここでは殺んじゃねえよ」と一応忠告しておいた。

「分かってるよ、モッチー。――おい!」

蘭は一度玄関の方へ向かうと、外に待機させていた部下を呼んだ。血と尿まみれの高木を見て萎えたんだろう。他の部下に「倉庫へ運べ」と指示している。ついでに「オマエらも裏切ったら同じ末路辿るの覚えとけよ~」と牽制も忘れない。久々にキレた蘭を見た気がした。最近は高みの見物か、最後にとどめをさすくらいだったのに、今日は昔の蘭を見ているみたいだ。
というのは、どうも戻って来てから蘭の機嫌がすこぶる悪い。そんな時に裏切りが発覚とは高木もついてなかったな、と苦笑が洩れた。いつもなら「汚れるのイヤ」とかぬかして、ああいう汚れ仕事はオレに押し付けるのに、今日は自らの手を汚してるんだからよっぽどムカつくことがあったんだろうが、その辺また今夜あたり愚痴を聞かされそうだ。

「もっち~あったー?」

蘭は洗面所で手を念入りに洗った後、寝室に顔を出した。そしてオレの探し出したブツを見渡し、目を丸くしている。床にはパッキングされた手のひらほどのビニール袋が30袋と、その他のブツが山積みだ。

「は?こんなにくすねてたんかよ、高木のヤツ」
「そうみてえだなー。ヤクに裏もんの動画をダビングしたDVD、葉っぱまであったわ」
「ははっこれだけで3千万以上じゃん。ココ、キレそ~」
「三途もだろ。ヤクはアイツの管轄だ。今日いなくて良かったんじゃねーの。まだ熱でダウンしてんだろ?」
「………」
「…蘭?」

急に黙り込んだ蘭は、何故かさっき以上に不機嫌な顔をしてオレをジロリと睨んだ。何だってんだ、一体。

「今その名前、オレに聞かせんな」
「は?」
「……チッ。胸糞わりぃ…さきに倉庫行ってるし、そのブツはモッチーに任せるわ」
「あ、おい!」

いきなりキレだした蘭に呆気に取られつつ、サッサと部屋を出て行くのを見て後を追いかけた。ああなった・・・・・時の蘭は一人にすると何をするか分からない危険性がある。何でオレがと思わないでもなかったが、一応仲間として幹部の動向は気を付けておかないといけない。幹部は組織内で力がある分、どんな無茶でも出来てしまう。例えば手あたり次第、部下を拷問にかけて無理やり吐かせようとしたり、えん罪だろうが関係なく。忠誠心のある部下だって大勢いるし、なのに何の根拠もなく暴挙に出れば信用にも関わって来る。反社と言えどスポンサー様や顧客からの信用は大事だ。

「落ち着けって、蘭」

マンションの廊下を歩いて行く蘭を追いかけ、肩を掴む。それをうっとおしいと言わんばかりに振り払われた。

「落ちついてるよ、オレは」
「嘘つけ。さっきからイライラしてんだろ」
「…そりゃ自分の部下がふざけたマネしてくれたからなァ」

蘭はやっと歩く足を止め、深い深い溜息を吐いた。やっぱ少し様子がおかしい。自分の信用していた部下の裏切りでイライラするのは分かる。でも蘭はそれ以前に元気がない。要は少し落ち込んでるように見えた。今もスーツのポケットに手を突っ込み、自分を落ち着かせようとするように、軽く深呼吸をして壁に寄り掛かっている。

「三途と何かあったんか」
「…だーからその名前は出すなって」
「幹部同士でのマジゲンカはご法度だぞ。ただでさえ幹部は人材不足だからなァ。おまけに三途はアレでもNo2だ」
「……そーいうんじゃねえし」
「あ?じゃあ何だよ」
「…………」

オレの問いに今度こそ蘭は黙り込んでしまった。珍しい。言いたいことがあれば余計なことまで言う蘭が、今はだんまりを決め込んでいる。いったい三途と何があったんだ?と首を傾げた。まあ元々仲がいいとは言えない二人だ。モメる原因なんて腐るほどにあるが、それを互いに分かっているからこそ普段は極力、顏を合わせないようにして上手く関係を保ってきてたのに――。
と、そこまで考えてある可能性が浮かんだ。三途は今、風邪でダウンして六本木支部で寝込んでるらしい。その話を聞いた時までは蘭も普段通りだったように思う。じゃあ、コイツは三途とこんなにイラつくほど、いったいどこでモメたんだ?ってことになる。一度朝にふらりと蘭はいなくなった。そして昼近くに戻って来た時には少し酒の匂いをさせていたはずだ。その後に今回の裏切りが発覚して――今に至る。

(となると…朝に出てった後、蘭は三途のとこへ……いや、三途じゃねえか)

そこまで考えて答えが見えた気がした。ここまでの間でジャスト3秒。オレの勘の良さがものを言った。

のことか」

とその名を口にした途端、憂い顔の蘭が急に気まずそうな顔でそっぽを向いた。ビンゴ。やっぱり絡みだ。確か三途の看病はがしてると、さっき蘭がボヤいてたし、もしかしたら三途が彼女に手を出したとかそんなことだろう。

「ったく…分かってたことだろーが」
「あ?何がだよ」

まだバレてないと思ってるのか、蘭はすっとぼけた返しをして来た。でもオレの目は誤魔化せねえ。以前の蘭じゃ考えられねえが、最近の蘭を見てる限りあり得る話だ。

「どーせ三途がに手ぇ出したってんだろ?」
「………は?もしかしてモッチー…エスパー?」

指摘すると、蘭は一呼吸おいてから羨望の眼差しを向けて来た。その発想、無邪気な子供か。

「ハア?んなもん、ちょっと考えりゃー分かんだよっ」
「マジで…?じゃあモッチー反社やめても探偵になれそーじゃん。人相悪いけど」
「あぁ?!探偵に人相いいも悪いもねえわっ」

さすがに頭にきて突っ込むと、蘭は軽く吹き出して笑い出した。まあ笑えるなら少しは落ちついて来たってことだ。

「ったく灰谷蘭ともあろうものが女のことでマジヘコみすんな、バカ」
「いや、そう言うけどさぁ…想像以上に…何つーか…くるもんだな…」
「そりゃ…そうだろうな。公然と浮気されたみたいなもんだけど、そこに本人の意志なんかねえだろうし、文句も言えねえわな」
「…このイライラどこにぶつけていいのか分かんねーわ」
「いや、高木にぶつけてたけどな?オマエは」

冷静に突っ込むと蘭は笑ってたけど、やっぱ気分は落ちてるのか、らしくないほど元気がない。蘭ならあの子を好きになったとしても、割り切った関係を続けられるんじゃないかと思ったけど、そこは違ったようだ。

「この後、飲みにでも行くか?」
「あ?」
「高木の始末終えたら」
「……だな」

苦笑交じりで頷いた蘭は「サッサと終わらせて酒に逃げるわ」と歩いて行く。その後ろ姿を見送りながら、オレもブツの回収があったことを思い出してウンザリした。

「え、マジであのブツ、オレが運ぶのかよ…」

あんなもん下っ端に運ばせたら、それこそ宝の山を見せるようなもんだ。隙を見てくすねないとは言い切れない。組織はどんどんデカくなっていくのに、信用出来る人間は少しずつ減っていく。万年人不足は反社も世間も同じってか。笑えねえ。

「はあ…スクラップだけが増えていく…」

ガシガシと頭を掻きつつ溜息を吐くと、オレは高木の汚い部屋へと歩き出した。




3.

「はい…だいぶ痛みは落ち着いてるようで今は眠ってます。オレはもう少ししたらそっちへ向かうので…」

マイキーへの報告電話を終えて軽く息を吐いた。後ろを見ればが寝息を立てて眠っている。ガラにもないことしたなとは思ったが、コイツに看病してもらったばかりか、あの薬だって飲ませちまったようなもんだ。そのせいで体調を崩したを放置しておくことも出来なかった。

「ったく…無茶しやがって…バカが」

そっと手を伸ばし、頭を軽く撫でた。変な女だと思う。連れて来られた経緯もそうだが、無理やり従わされたはずなのに従順すぎるほど従順で、言われてないことまで頑張りすぎるコイツはどこまでお人よしなのか。まるで人の世話をすることで贖罪してるようにも見える。そんなのことだ。理不尽なことを強要されても、自分への罰みたいに思ってんだろう。自分を傷つけた人間を殺したからどうだってんだ。そんなもんオレから言わせれば罪のうちに入らねえのに。

「ん……」
「起きたかよ」

邪魔そうに顔にかかった髪を指で払ってやった時、がかすかに目を開けた。さっきと同様、何度か瞬きをしながらゆっくりと視線をオレに向ける。今度はあの男の名前を口にはしなかった。

「春千夜…」
「どうだ?痛みの方は」
「……ん、もう大丈夫…ごめんね」
「何が」
「色々…世話して貰っちゃって…」

は子供みたいに目を擦りながら、力のない声で礼を口にする。それを言うならオレだって同じだってのに。

「バーカ。オマエの為じゃねえ。言ったろ?今オマエに倒れられたら困んだよ」
「そっか…そうだよね…」

弱々しく微笑むは、分かってんだか分かってないんだか。今やマイキーの中でコイツの存在は大きくなってる。今も体調を崩したことを報告したら帰ると言い出した。まあ、オレの代わりに面倒な確認作業をさせられて怠かったのもあんだろうけど。

「じゃあ…オレは本部に戻るから、オマエは休んでろ。オレと入れ替わりでマイキーがコッチに戻ってくっから」
「え…じゃあ寝てられないじゃない。お風呂とか食事の用意とか――」
「あー。そーいうの今夜はいいから。何もすんな」
「…え、何で…?」
「何でって…オマエ、体調最悪じゃねえか。マイキーがここに来るからオマエは寝てろ。どうせ途中で適当に何か買って来るだろうし」
「で、でも万次郎、放っておいたらお菓子しか食べないよ…?」
「………」

こんな時でもそんな心配をしているに、ちょっとだけ言葉を失う。別に一日くらい飯がお菓子に変わったところでマイキーは困るわけじゃない。

「マイキーはどうせ本部で寿司とか取って食ったりしてただろうから、そこまで心配することねえって」
「…でもお風呂…」
「風呂も向こうで入ってるはずだし、いいから気にしねえでオマエはジっとしとけ!」

起き上がろうとしたの額を軽く小突いただけなのに、彼女はあっさり後ろへと倒れた。こんな貧弱なくせに、その働こうとする強さはどっから来るんだと首を傾げたくなる。

「は…春千夜…?」

綺麗な円状に広がる長い髪を踏まないよう、顔の横に手をついて上から見下ろすと、は驚いた表情でオレを見上げて来た。化粧ッ気もないのに、彼女はどこまでも綺麗だと素直に思う。その気持ちに従って、ゆっくり身を屈めながら彼女の唇へ触れるだけのキスを落とす。後にも先にも、一度抱いた女の中で、こんなキスをしたのはが初めてだった。