六本木心中



1.

時の流れは早いもので、わたしがここへ来てから季節が数回巡っていった。寒い冬が過ぎ、ようやく春を迎えた頃。その話は突然舞い込んだ。

「…パーティ?」
「うん」

万次郎はソファに寝転び、わたしの膝に頭を乗せた。伸びて来た手がイタズラにわたしの髪へ触れるのを見ながら、万次郎を見下ろす。

「えっと…わたしを連れて行きたいって…?」
「そ。まあ、梵天のスポンサーの女がいてさ。椿姫っつーんだけど、その人が定期的にパーティやんだよ。裏の人間向けのな。今回それに招待されたのがオレを含めた幹部と…オマエ」
「え、何でわたしのこと…その椿姫…さん?って人が知ってるの…?」

組織のスポンサーというくらいだから、その女性も裏の人間ということなんだろうか。でもわたしは梵天の幹部でも何でもなく、ただの世話係だ。そんな女をそのスポンサーの女性が招待なんてするんだろうか。素朴な疑問を持ちながら訪ねると、万次郎は苦笑いを浮かべて触れていた髪を放した。

「そこがあの女の怖えとこ。どうせオレ達が女を飼ってるっていう話を誰か・・・から聞いたんだろ」
「誰か…」

含みのある言い方が気になって眉を寄せる。普通に考えれば幹部の人間の口から聞かされたと思うけど、いちいち世話係の話などスポンサーにするはずはない。

「まさか…例の裏切り者…」
「そーいうこと。ま、最初は椿姫の愛人の武臣を疑ったんだけど、アイツは話してねえって言い張るし、今んとこ半々だけどな」
「え…で、わたしもそのパーティに行かなくちゃいけないの?」
「いけないってわけじゃねえけど、まあ気分転換になるかなって思っただけ。、あんま外出してねえじゃん」

万次郎は笑いながら、再びわたしの毛先を指で絡めて遊びだした。確かにここへ来てから殆ど外出はせず、行っても近所に買い物へいくくらいだ。でもそれで不便はなく、特に困ったことはない。ただ周りが心配して「もっと遊び行くとかしていいのに」と言って来るようになった。きっとストレスをかけたくないという配慮からかもしれない。

の前の世話係たちは全員、遊びに行きたがってルール破る女ばっかだったけど、は真逆だよなー」

真面目過ぎは良くねえぞと言って、万次郎はわたしへ手を伸ばして来た。その手が首の後ろへ回ってグイっと引き寄せられる。少しだけ上体を起こした万次郎のくちびるがわたしのに重なってちゅっと軽く啄まれた。

「ま、万次郎…?」

かすかに笑みを浮かべた万次郎は今度こそ起き上がると、ソファに座っていたわたしを抱き寄せた。肩越しに顔を埋めた万次郎のくちびるが、首筋に触れた瞬間、そこからピリピリとしたくすぐったさが広がっていく。

「ん、くすぐったいよ」
「…んー。、いい匂いする」

万次郎は子供みたいにすり寄って、首にちゅっとキスをしたり、かぷっと甘噛みをしてきては最後にペロリと舐めていく。そのたび、甘い疼きが生まれて少しずつ身体が火照って来るのが分かった。その時、部屋のインターフォンが鳴って万次郎が深い溜息をつく。この時間、ここへ来るのは一人しかいない。

「あ…わたし出るね…」

何となく照れくさかったことでソファから立ち上がろうとした。でも手を掴まれて引き戻されると、すぐに万次郎の手が顎を持ち上げ、くちびるを塞いでくる。触れるだけなのに、深く口付けながらちゅぅとくちびるを吸われて、くぐもった声が漏れた。

「…は…ヤバ…」

くちびるを離した万次郎はかすかに笑うと、わたしの頬へもちゅっとキスをしてから立ち上がった。

のその顏、三途に見せられねえし出なくていい。オレはこのまま出かけっから」
「…え?」
「ああ、それと…さっきのパーティの件はの好きにしろよ。行きたいならドレス買ってやるし」
「う…うん」

言いながらくしゃりとわたしの頭を撫でた万次郎はそのまま部屋を出て行った。今日は何かの取引きがあるとかで万次郎も顔を出すらしい。だいぶ積極的になったと夕べ春千夜が喜んでいた。

(前は春千夜に任せきりだったって言ってたもんね…)

そんなことを思いつつ、夕食後の後片付けをしてからお風呂にでも入っちゃおうとバスルームへ向かう。そこで鏡に映った自分の顔を見た時「あ…」と声が漏れた。さっきのキスの余韻で頬が紅潮している上に、目もどこか潤みを帯びている。見る人が見れば情事の最中の顔に見えなくもない。

「…だからあんなこと…」

先ほどの万次郎の言葉を思い出し、更に頬が火照って来た。以前よりも、万次郎は自然にわたしに触れて来ることが多くなった気がする。最初の頃はそれほどセックスに対する欲求は強くなく、思い出したら手を出してくるといった感じだった。でも今は部屋にいる間、常にわたしのどこかに触れてはさっきみたいに戯れでキスをして来たりする。したいのかと思えば抱くわけでもなかったり、あのまま抱いてきたり、その時々で違うけど、何となく恋人同士がするようなスキンシップのようで、ちょっとだけ戸惑ってしまう。

(でも…同じ部屋で過ごして食事したり寝たりしてるし、やってることは恋人のそれなんだよね…)

そんなに甘い関係でもないのに、おかしなことをしてるとは思う。でもそれで万次郎の心が満たされるならいいんだけど。

結局、あのまま蘭さんとも離れることも出来ず、今もズルズルと時間が合えば二人の時間を過ごしていた。ただ一つ、蘭さんにも話していないことがある。あれ以来、特に他の幹部から求められることもなく過ごせているけど、春千夜は触れて来ることが増えた。と言っても二人になった時に気まぐれでキスをしてくるくらいのことだけど。前にはなかったことだから一度だけでも関係を持ってしまったことで、その辺のラインが曖昧になっているのかもしれない。こんな不健康な関係を続けていると、たかがキスくらい、なんて思ってしまいそうになるけど、やっぱりそういう些細なことでも蘭さんには言えなかった。きっと気分は良くないだろうし、そんなことで蘭さんと春千夜が険悪になるのも何となく嫌だ。そもそも春千夜はわたしと蘭さんのことは知らないのだから。こんなことを考えてしまうのも蘭さんが意外なほどヤキモチ妬きだったからに他ならない。

(蘭さんって…もっとその辺はクールなのかと思ってた。まあ…本人も驚いてたくらいだもんね…)

――オマエに惚れて気づいたけど、自分がこんなに女々しい男だとは思わなかったよ。

この前会った時にそう言って笑ってた。そう言われて嬉しい反面、わたしのどこをそんなに好きになってくれたんだろうと不思議で仕方がない。彼の為に何をしてあげられてるわけでもなく。傷つけることはあっても、幸せにするなんて今の状態じゃ不可能なのに。
出来ることなら傷つけるのではなく、幸せにしてあげたい。そんな思いだけが募るばかりだ。




2.

マイキーが出張った裏取り引きで事件が起きた。相手はロシアンマフィアだったが、これまで特に揉めることもなく友好的にたびたび取り引きをしていたはずの組織だ。だが今回ソイツらは最も愚かな行動に打って出たようだ。今回の内容は武器の調達。ロシアからならアメリカよりも改造拳銃は安く手に入る。なのに奴らは足元を見て使えもしないポンコツを売りつけようとした。見た目じゃ分かりにくいが、マイキーが何かを感じたのか、直に触れて気づいたようだ。その瞬間、マイキーは目の前にいたロシアンマフィアの一人を躊躇うことなく射殺。その粗悪品の拳銃は一発撃っただけでぶっ壊れた。ついでに吹き飛んだ小さな部品がマイキーの頬にかすり傷をつけ、最悪な状況に陥った。

部下の一人を目の前で殺され、相手も発砲寸前。ただ撃たれるより早くマイキーが動いた。

「…いや圧巻。マジ、ウチの首領ボスは最強じゃね?」

マイキーが動いたのと同時に三途も大暴れしたようだ。積み重なった死体の上に座り、血まみれの日本刀を愛でていたと、雑用係としてついて行かせた太一から聞かされた時は苦笑いしか出なかった。

「それにしてもロヴィッチのヤツが裏切ったとなると、ロシアとの協定はなくなるってことか?」

太一に聞いた話をそのまま望月と九井に教えると、二人の顔に暗い影が落ちる。特に九井は金銭面でのマイナスを考えて頭が痛いようだ。だが話はそんな簡単なものじゃなかった。

「いや…実はロヴィッチの話だと先に裏切ったのは梵天だと言ったらしい。用意した金が偽札だっていう情報が入ったってな」
「……は?」

そこで項垂れていた九井が呆気にとられた様子で顔を上げた。当然、組織の金の管理をしている九井はこういった取り引きの際、自分で金を準備する。裏切者がハッキリしない中、誰も信用できないと、自分の部下にも手伝わせることなく、自分で用意した金なのだから驚くのも当然だ。

「え…オレ、何か疑われてます?」

オレと望月の視線が自分に向いてることで、九井の口元が僅かに引きつった。その顏を見て我慢が出来ず、オレと望月は盛大に吹き出した。

「ぶはははっ」
「コ、ココの顏…っ!」
「え…あっ!!騙したんですかっ」

オレと望月が腹を抱えて爆笑していると、九井は顔を真っ赤にして立ち上がった。仕事面じゃかなり策士のくせに、こういうとこは割と素直で単純だったりする。

「バーカ。オマエがそんなしょぼい裏切りするなんて誰も思ってねえよ」
「そういうこと。現にここには三途もマイキーも来てねえだろ」
「あ…」

今はオレの経営する会員制のサロンに来ている。こういった密談をするにはいい場所だ。もし、本当に九井が裏切ったと判断されれば当然、この場に三途やマイキーも同席するし、こうして呑気に酒なんか飲むはずもない。

「当然、金はその場で調べた。もちろん本物だった。それはロヴィッチも直接確かめたから納得して終わり。まあ互いに数十人の兵隊は失ったが、協定は継続。ただ自分達に嘘のネタを流した裏切者がいると知って、ソイツをどうにかしろとは言って来たらしい」
「チッ…またラットか。だんだんやることがあからさまになってきやがったな」

オレの話を聞いて望月はイラついたようにブランデーを飲み干した。

「椿姫に世話係の話を洩らしただけなら、まだ可愛いもんだったが…取り引き相手にまで嘘の情報を流して、梵天とロシアとの仲を裂こうとしたのはでけえぞ」
「ああ…今後も同じようなことが起これば信用問題に関わるかんなー。はぁ~めんどくせえ」
「…サッサと見つけてスクラップ処理しましょう」

不意に九井が口を開いた。オレと望月が一瞬顔を見合わせてから視線を向けると、九井は静かな怒りを見せている。

「今回オレまで裏切者にされそうなネタ仕込んだラットは許せねえ…。偽札?オレが最も嫌いなもんだ」

膝の上で拳を握り締める九井の背後に、メラメラと怒りの炎が見えた気がして軽く吹き出した。

「おーココがマジ切れしてるー」
「茶化さないで下さいよ、蘭さん。オレは本気です」
「まあ…ココからすりゃ金のことで疑われんのが一番きっついよなァ」
「…当然っすよ。信用を失えば一夜で城は崩れますからね」

九井がここまで本気で怒るのは珍しい。昔も今も、普段はあまりそういった感情は見せず、上手く立ち回る方だった。よほどプライドが傷ついたんだろう。

「ロヴィッチはその嘘情報を誰から入手したんスか」
「あーそれが実際に会ったわけじゃねえらしい。電話で聞かされたと言ってたな」
「…それだけで梵天が裏切ったと信じちゃったんですか?」
「いや、その後に画像が送られて来たらしい。今回の取り引き金額相当の金の写真が数枚。ドアップにしたものを見て偽札だと判断したんだと」
「…はあ。アホですか」
「まあオレ達みたいな裏組織なんてもんはいつ裏切るか分かんねえと思われてっから、そういう疑心暗鬼を上手く突かれたんだろ。言ってみれば相手もそういう連中だからこそ、こっちがやりかねないと思い込んだ」

望月の言葉にオレも黙って頷いた。そういう心理は分からなくもない。ただある程度、ラットの存在が見えて来た気がする。の情報や、今回のロシアとの取り引き。そんな上の連中しか知らねえ情報は限られてくる。そもそもの話を椿姫に流したってことは、そういうことだ。そしてオレ以外の奴は世話係の話くらい、と簡単に考えているが、そこにヒントがある気がした。椿姫に接触できる人物。或いはそんな話題を彼女の耳に入れられる人物だ。最初は武臣さんを疑ったが、あの人もバカじゃねえ。自分の立場が危うくなるようなことはしないし、そもそも裏切ったところで武臣さんには何もメリットがない。梵天を裏切って他の組織に逃げたところで梵天以上の待遇も立場も手には入らないからだ。

(ってことは、やっぱり…誰かがのことは雑談程度に椿姫に話したってことになるな…)

彼女にマイキーの世話係の話をしたところで、椿姫には何の得もならない。大事にしてる女といったところで、マイキーの弱みになるか?と問われれば答えはNOだ。マイキーはそれほど甘い男じゃないことを、椿姫は十分に知っている。それに椿姫は梵天を敵に回そうとも考えていないはずだ。互いに利用し合う今の関係の方が、彼女にとっても有益だから。

(じゃあ何の為にをパーティに招待したのか…)

例のパーティの招待を受けてからあった違和感はそれだ。椿姫にとっては小耳に挟んだ"マイキーのお気に入り"を一目見たいというただの好奇心。それが正解だろう。だとすると椿姫にその情報を教えた人物を容易に訊き出せる可能性が大きい。ただコッチがその情報を喉から手が出るほど欲しがってると思わせるのは得策じゃない。梵天に裏切者がいるとスポンサーの椿姫に知られれば信用に関わって来る。あの女も後ろ暗いことがあるのだから、それが世間にバレることを良しとしないはずだし、最悪梵天とは手を切るといいかねない。

(ってことは…やっぱに聞きだしてもらうしかねえか…)

あまり気は乗らないが、オレ達幹部が聞くよりも、素人のがさり気なく椿姫から聞きだしてくれれば一番いい。その人物がラットかどうかは分からないが、少なくとも余計なお喋りをしたことは許容できなかった。

(となると…まずはこのマイキーからの頼み事を実行するか…)

今朝、ケータイに送られて来たマイキーからのメッセージを確認しつつ、苦笑いが零れた。

"に似合うドレス用意しといて"

行くかどうかは本人に任せると言ったらしいが、こういうとこはキッチリ準備しておくのがマイキーらしい。オレとしては最初、をあの蛇ような女に会わせることに乗り気じゃなかったが、今回ばかりは協力してもらった方が良さそうだ。

「しゃーねぇなー」
「ん?何がだよ」
「いや、別に。ってかココ、どした?」

さっきまで怒りながら飲んでた九井が、テーブルに突っ伏すようにして寝ている。その手に掴んでいる小柄なグラスを見て、「あ?まさかニコラシカ飲ませた?」と望月の前にあるブランデーのボトルをつまんだ。これは望月が好んで飲むブランデーの飲み方で、小さめのグラスにブランデーを注ぎ、砂糖を乗せたレモンスライスを最初にかじってからストレートでブランデーを流し込む、いわば口の中で作るカクテルみたいなものだ。酒があまり強くない奴が連続で飲めば、九井みたいにダウンすることになる。

「いや、だってコイツが飲みたいって言うから。まさか三杯でダウンするとは思わねえだろ」
「いや、ココ、そんな酒強くねえじゃん。ったく。責任もってモッチーがおぶってけよ」
「……マジか。置いてっちゃダメ?」
「ウチの大事な金庫番を置いてけるわけねえだろ」

苦笑しながら九井の体を起こすと、モゴモゴと何かを呟いた。

「スク…ラップに…してやる…」
「ぶはは。よっぽど頭にきたみたいだな、ココのヤツ」
「まあ、一歩間違えれば裏切者にされてた可能性もあるからなー。でもまあ…ソイツを捕まえれば、もう手を煩わされることもねえよ」
「だな。そろそろ、どの辺の奴らか分かって来たんだろ?蘭」
「今回の椿姫さんからの招待状で何となく」
「ああ、のことがバレてたって件か。ほんとに武臣くんじゃねえんだな?」
「あの人はそこまでバカじゃねえよ。ただ…椿姫には言わなくとも自分の部下となれば話は別だ」
「あ……」

そこで望月と顔を見合わせ、笑みを浮かべる。

「ま、そのうちハッキリする」
「……だな」
「ってかオレにもニコラシカくれよ」

テーブルの上にある小皿からレモンスライスをとり、その上に白糖を少量乗せてかじりつく。レモン独特の酸っぱさと砂糖の甘味が口内に広がったところで、望月の注いでくれたブランデーを一気に飲み干した。

「んげ…甘…」

強い酒がガツンと脳まで浸透するみたいに、喉の奥から熱くなった。

「何だよ。美味いだろ?」
「まあ…後味は悪くねえ」

少し頭もスッキリしたところで立ち上がると、「ってことでオレはやることあるんで帰るわ」と言った。

「は?マジでオレにココをおぶってけって?」
「飲ませたのはモッチーだろ?ちゃんと本部まで送ってやれよ」

ポンポンと望月の肩を叩き、オレはサロンを後にした。

「さてと…。似合うドレスね…オレに選ばせるっつーことは好きにしていいんだよな」

ケータイでメッセージを打ち、それをマイキーへと送信する。憂鬱なパーティも少しだけ楽しみになっていた。




3.

黒いリボンでラッピングされた大きな箱がメッセージカード共に部屋の前に置かれていた。何かと思えば箱の中には繊麗せんれいとした優雅なデザインのノースリーブドレス。普段着るようなものではないと一目で分かる。メッセージカードには"パ―ティに出るならこれをどーぞ♡"なんて、おどけた文章が手書きで書かれていた――。


「え、万次郎と春千夜は来ないの?」
「ああ。ま…ちょっと色々あってさ。またマイキーの調子が良くねえ。だからオマエんとこにも帰って来ねえだろ?連絡きた?」

迎えに来た蘭さんに訊かれて夕べ、春千夜から『少しの間はそっちに戻らねえ』と言われたことを伝えた。

「そっか、やっぱな」

蘭さんはそう言いながら向かい側に座る竜胆やココ、望月さんと目を合わせて何やらアイコンタクトをしている。少なくとも事情は知ってるようだ。
今は大きなリムジンの車内。前に万次郎から聞かされた、スポンサーが開催するパーティに向かうところだった。

「万次郎、大丈夫かな…病院には?」
「…いや。今のマイキーには誰も近づかせない。危険だからな」
「……危険」
「オマエも一度見ただろ?」

そう言われて思い出した。万次郎に殺されかかった時のことを。でもあれ以来、あんな症状は出ていなかったのに、何でまたと疑問に思う。そんなわたしの心情を察したのか、蘭さんは耳元に口を寄せると「その話はまた今度な」と囁いた。別に甘い言葉を囁かれたわけでもないのに、耳にかかる吐息がやけにくすぐったくて、頬がじんわり熱くなっていく。

「おーい、そこ。イチャイチャしないでくれるー?いくらマイキーがいないからって」
「うっせーな、竜胆。見ろ、この可愛いドレス姿を。オマエはこれを見て何とも思わねえの」
「ちょ、ちょっと蘭さん…恥ずかしいってば」

今は蘭さんに贈られたドレスを身に着け、メイクや髪も彼の行きつけの美容室でセットをしてもらった。久しぶりにこんな格好をしたから余計に照れ臭い。

「いや何とも思ったら怒るクセによく言うわ」
「あ?何か言ったか?」
「別にっ」

蘭さんの兄貴としての圧が勝ったのか、竜胆はスネたようにそっぽを向いた。その隣でココが笑いを噛み殺している。そう言う彼らもハイブランドのスーツを見事に着こなし、とても裏社会の人間には見えない。

「でもホントにわたし、参加してもいいのかな…。社交辞令とかじゃ…」
「大丈夫だって。今日も椿姫さんの方からオマエのこと聞いてきたし。シャンパンが好きだって話したら美味しいのを用意しておくってさ」
「それなら…いいけど。何か緊張しちゃうな…。そんな凄い人なら」

先ほど蘭さんには椿姫さんという女性がどういう人物なのか簡単に教えてもらったのはいいものの。想像してた以上に大物で少しだけ驚いた。政財界にも顔が利く人が梵天のような反社の組織と密な関係にあることも。世の中はそうして回ってるのかと、一般人のわたしには想像もつかなかった世界だ。

「別にどうってことない。ただ会って挨拶して美味い酒と料理を味わって帰る。それだけだ」
「え、仕事の話もあるんじゃないの?」
「まあ、多少は裏の話も出るだろうけど、は聞いてないフリしておけばいい。別にオマエには関係のない話だから」
「うん、そうだね」

蘭さんに言われると不思議と安心してしまう。相手が大物の女性でも、お店でしてたように相手をすれば大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。
それから30分後。目的地に到着して、わたしは唖然とした。まず門が大きい上に、そこからではお屋敷が見えない。その上、敷地を囲んでいる塀は高く、どこか刑務所の壁を思い出させた。警備員の数も尋常ではないくらいに多く、本当に富裕層が住んでいるといった物々しい雰囲気だった。あげく門の中を車で走ること数分。やっとメインエントランスが見えて来た。

「うわぁ…こんなお屋敷、映画でしか見たことないけど、ほんとにあるんだね…」

車を降りて、目の前にそびえる大きな扉をポカンとして見上げながら、まるでどこかのおとぎ話に迷い込んでしまったような錯覚を起こす。その時、傍にいた3人が「ぷは…っ」と吹き出すのが聞こえた。

「…マジ可愛い♡」
「右に同じく」
「後ろに同じく」

蘭さん、竜胆、ココがそんなことを言いだし、顏がカッと熱くなる。するとわたしの前を歩いていた望月さんが渋い顔で振り返った。

「おい、オマエら。デレデレしてんじゃねーよ。気を引き締めろ」
「はいはい」
「いや、だって今時、わぁ♡って…あげく子供みてーな顔してっからさー
「ちょ、ちょっと竜胆…バカにしないでよ」

未だに笑いを噛み殺している竜胆を思わず肘でつつくと、「ごめんって」と可愛い笑顔を向けられる。こういう時、イケメンという生き物は得だなとつくづく思う。ただ驚くのは外観だけじゃなかった。扉をくぐり、屋敷の中へ一歩足を踏み入れると、そこは本当におとぎの国かと思うほどにラグジュアリーな空間だった。見上げれば煌びやかなシャンデリアが天井を飾り、壁には有名画家の絵が豪華な額縁に入れられて、この空間の華になっている。足元には土足で上がるのは気が引けるほどフカフカなカーペットが続き、間違えてヒールを引っかけないよう気を張って歩いた。

「まあ、ようこそ。幹部の皆さん」

黒服の男性に案内されながら蘭さん達と歩いて行くと、大ホールのような広い空間へ連れて来られた。そこに一際目立つ美女が現れ、わたしを見てニッコリと微笑む。優雅にプラダの上品なドレスを着こなしている彼女が、きっと椿姫と言う人に違いない。一言で言えばゴージャスな美人だ。

「この度は招待して頂き、ありがとう御座います」
「あら、やだ。堅苦しい挨拶はいいわよ、ココ」

ココのことを親しげに呼んだ彼女は、蘭さんの隣にいるわたしへ視線を向けてニコリと微笑んだ。

「あなたがさん?話の通り、可愛らしい方ね」
「…あ、ありがとう御座います。と申します。今夜はご招待いただいて――」
「挨拶なんていいのよ。好きに寛いで」
「あ…」

椿姫さんはわたしの肩を抱いてホールの中を堂々と歩いて行く。皆と離されたことで少し不安になりながら振り向くと、蘭さんが苦笑交じりで片手を上げていた。きっと蘭さん達も他の招待客との挨拶があったりするんだろう。ここはわたし一人でもどうにかしなくちゃと思った。

さんはシャンパンがお好きなのよね」
「え?あ…はい」
「じゃあ、これをどうぞ。このシャンパンは日本じゃなかなか手に入らなくて――」

少し琥珀がかった色のシャンパングラスを渡され、お礼を言いながら彼女のうんちくに耳を傾ける。ココから聞いていた前情報通り、お喋りが好きらしい。ここはとにかく黙って彼女の話を聞きながら相手をすることだ。そしてチャンスがあれば、彼女にわたしのことを教えた人物が誰かということを聞き出す。ここへ来る前、蘭さんに言われたことを思い出し、少しだけ緊張してきた。

「――それでね。この前はフランスでチーズも仕入れてきたの。後で召し上がってみて」
「はい。頂いてみます」

30分ほど、彼女の好きなお酒の話などを聞いていた。まあ殆ど自慢話だったけど、お店のお客さんでもこういう人はいたから対処法は分かっている。話を聞き、相槌を打ちながら時々大げさに褒めてやると、相手も気分良く話を続けてくれるのだ。ただいつになったら本題に入れるか分からない。相手の話の腰を折らないように気をつけながら、ずっとタイミングを計っていた。その時、運よく彼女の方から「それにしても…」と話題を変えて来た。

「マイキーは随分とさんのこと気に入ってるんですってね」
「い、いえ…そんなことは…」
「あら、でも常にそばに置いてるって聞いたわよ?」

そこで心臓が大きな音を立てた。この話の流れなら聞いてもおかしくはない。

「え…その話は誰が話してたんですか?勘違いしてるのかも」

ちょっと笑いながら、重要さを感じさせないように尋ねると、椿姫さんは小首を傾げながら「誰だったかしら」と視線を会場内に向けた。わたしも同じように視線を向けると、蘭さんや竜胆たちが、知らない男の人達と談笑しているのが見える。その中に武臣さんもいた。彼は椿姫さんの愛人ということで、最初からこの会場に来ていた。椿姫さんはその武臣さんの方をジっと見ている。

(え…まさか彼じゃないよね…蘭さんは違うって言ってたけど、でも…)

そう思っていると椿姫さんが不意に「ああ、彼から聞いたのよ」とひとこと言った。目当ての人物を見つけたのか、彼女はその人物を指さしている。その指の先にいたのは――。

「武臣の側近の子なの。会ったことある?」

そう言いながら椿姫さんはニッコリと微笑んだ。