六本木心中




1.

隣でぐっすりと眠っている可愛い寝顔を眺めながら、オレは気怠い体を起こしてベッドから抜け出した。は椿姫に付き合って散々シャンパンを飲んだせいか、結局2回抱いたところで限界だったらしい。すぐ深い眠りに落ちたようだ。死んだように眠るの頭へそっと手を置いて柔らかな髪をひとしきり撫でたあと、脱ぎ散らかしたスーツや下着を手早く身に着ける。そこでふと思い出し、ゲストルームのクローゼットから彼女の為に用意した着替えを出した。ここへ到着した際、部下に運ばせたものだ。別にここで抱いてやろうと狙ったわけじゃないが、何かあった時の為にドレス以外の服と下着類などを用意しておいた。

「正解だったな…」

先ほどまでを綺麗に着飾っていたドレスや下着は、オレの手によって無惨にも床に散らばっている。それらをかき集めて袋へしまうと、別の袋から下着一式と着やすいワンピースをベッドの傍のシングルソファへ置いた。
そのまま行こうとしたものの、の寝顔を見ていたら名残惜しくてもう一度ベッドの上に上がる。かすかにベッドが軋んでも、彼女が起きる気配はない。少しだけ身を乗り出すと、さっきまでは朱色に色づいていた滑らかな頬に軽く口付け、最後に唇にもキスを落とす。

「…さて、と。猛獣の檻に戻るとするか」

椿姫が定期的に開く裏の会合のようなこのパーティも、面倒ではあるが情報交換の場にはなる。招待されるのは梵天傘下の組織が殆どで、その中から必要な情報を得るのも仕事の内だ。今夜の話題はもっぱら敵対している組織と中国系マフィアの裏取り引きのことだった。その辺は中国最大の組織"龍汪会りゅうおうかいと繋がった鶴蝶に任せることになりそうだ。カーロンも自分と敵対している組織が日本の別の組織と親密になるのは良しとしないはずだ。共通の敵を持った者同士、なるべく早いうちに情報を渡してやれば喜ぶだろう。これで貸し1に出来る。

「あ~クラクラする」

上着を羽織り、ネクタイを首に引っ掛けつつ、冷蔵庫の中から水の入ったペットボトルを出す。オレも何だかんだとアルコールばかり摂取していたせいで、こうした間が出来ると酔っているのを自覚する。キャップを外し、冷えた水を一気に飲んで喉を潤すと、最後にもう一度ベッドの方へ視線を向けた。はさっきと同様、微動だにせず眠っていて。あどけない表情の寝顔を見て自然と頬が綻んだ。このパーティが終わる頃にまた迎えに来ようと思いながら、オレはゲストルームを後にした。

「あら、お早いお戻りね」

パーティ会場の大広間へ顔を出すと、ちょうど入り口付近にいた椿姫が皮肉めいた笑みでオレを出迎えた。隣にいる武臣もどこか揶揄するような笑みを口元に張り付けているところを見れば、オレが何をしてきたのかはお見通しってところだろう。

「彼女は?」
「彼女?」

すっとぼけて切り返すと、椿姫は更にクスクスと笑い始めた。女って奴はどうして他人の色恋沙汰にまで興味を持つんだと、こっちまで苦笑が洩れる。

さんよ。まさか蘭まであの子にご執心とはね」
「まあ…椿姫さんと違って"イイ子"なんでねー」
「あら、そうなの?これまでの世話係はあまりいい評判聞かなかったけれど、彼女は違うのね。まあ、あのマイキーが殺しもせず手元に置いてるくらいだものね」
「楽しそうだな、椿姫さん」

オレが呆れたように言えば、彼女はその赤く塗られた唇にゆっくりと弧を描いた。

「だって面白いじゃない。梵天の冷酷無比な男達がたった一人の女を愛でるなんて」
「面白がられてもね…」

と言いながら武臣さんを睨む。椿姫に彼女のことを話したのがこの人じゃないにしても、自分の側近が口を滑らせたのは薄々分かっていたんだろう。オレと目が合うとサっと反らすんだから困った人だ。

「武臣さん、ちょっといいか?」
「……はあ。分かったよ」

武臣さんは諦めたように息を吐くと、「オレと蘭は少し抜ける」と椿姫に声をかけている。椿姫は「あら、男同士で密談?」と笑っていたものの、

「でも武臣まであの子を抱くのは許さないわよ?」

チクリと忠告するのも忘れない。こう見えて椿姫は武臣さんに惚れこんでいるのはオレも気づいている。そこで思ったのは、に会いたがったのは全てその女心からきているものだということだ。武臣さんは「オマエ以外の女、興味ねえよ」と笑いながら、オレを廊下へ促した。

「相変わらず嫉妬深いな、椿姫さんは」

エントランスロビーに向かいながら、隣でショートの葉巻を咥えて火をつける武臣さんを見れば、その顏には余裕の笑みが浮かんでいる。廊下に立ち上る煙のせいで、ふわりとコイーバ特有の甘い香りが鼻腔を刺激した。

「オレにも一本くれるー?」
「はいはい」

ロビーのソファに腰を下ろしてから強請ると、武臣さんは箱ごとオレに差し出し、葉巻用のターボライターを放り投げて来た。それをキャッチすると箱から一本取り出し、加えてから火をつけた。普通の葉巻とは違うショートコイーバも、肺喫煙より口腔喫煙の方が美味い。煙を燻らし、ゆっくりと香りを楽しみながら、向かい側に座る武臣さんを見た。

「武臣さんさぁー気づいてんだろ?自分の側近が何をしたか」
「……」

面倒な前置きを挟むことなくストレートに尋ねると、途端に武臣さんの顏が苦虫を潰したような表情へ変わる。

「オレも最近知ったんだよ」
「ほんとに~?」
「世話係のことを椿姫が知ったとして、アイツの周りの人間からの情報も入るだろ。だから最初はそっちだと思ってたしオレも全然気にしてなかった。梵天の内部事情の中でも世話係のことなんか特に重要だとは思わなかったしな」
「いやいや…マイキーの世話係の存在は組織内の中でも主に上の人間しか知らねえ話だろ。それを組織の人間でもねえ椿姫が知ってるってことに危機感持って下さいよ」
「…チッ。ヤツの始末はオレがつける。それでいいだろ」

年下のオレに説教をされて気分を害したのか、武臣さんはますます眉間に皺を寄せて、しきりに煙を吐き出している。でも今回の話は単に無駄なお喋りをしただけの罪だけじゃない。

「いや、岸本は一旦モッチーに預けるわ」
「……は?何で」

望月の名前を出した途端、武臣さんは呆気にとられたような顔で身を乗り出した。やっと本気で聞いてくれる気になったようだ。望月に預ける。この言葉の意味、すなわち拷問にかけるということだと、梵天の幹部なら誰でも知っている。そして拷問にかけるということは、その対象がラットの可能性を示唆している。

「アイツが…岸本が今回探してるラットだって言いてえのかよ、蘭」
「そら、一つの可能性として考えるだろ、当然。外部にペラペラ梵天内のことを話す人間は信用できねえ」
「いや待て。アイツはただ椿姫との雑談中にポロっと彼女の話をしただけで、裏切者と決めつけるのは時期尚早だろ」
「たとえ小さなことでも内部事情は内部事情だ。そんでオレらが探してんのは内部事情を外にバラまいてる人間。そうだろ?」

そこまでハッキリ告げると、武臣さんは更に顔をしかめつつ、それでも最後は深い溜息と共に「分かったよ…」と項垂れた。この溜息は可愛がってた側近の心配よりも、自分の部下から裏切り者が出た時の自分の立場を憂いてのものだろう。武臣さんは部下の失態の責任を問われることを懸念している。

「ってことで岸本は望月に預ける。いいよな?」
「……ああ。オレも行く」
「まあ、口裏合わせないよう今すぐ拘束すっけどね」
「そんなことしねえよ。好きにしろ」

武臣さんは諦めたように肩を竦めると、「あー飲み足りねえから戻るか」と言って立ち上がった。こりゃ泥酔コースだな、と内心苦笑しながら、オレも立ち上がると、「ああ、これ」と手にしていた葉巻の箱を差し出す。それを一瞥した武臣さんは「オマエにやるよ」と首を振りつつ、大広間へと歩いて行った。

「ああ、オレ。の情報を洩らしたヤツが分かったから今すぐモッチーと岸本拘束してくれる?」

武臣さんを見送りながら、オレはすぐ竜胆に電話をかけた。

「マジだって。が椿姫さんから聞きだしてくれた。ああ…武臣さんとも話して了承は得てる。ってことで――パーティはお開きだ」

そこで電話を切り、オレも大広間へ向かった。




2.

「え…もう捕まえたの?」

帰りの車内。隣で欠伸を連発している蘭さんを見上げながら訪ねると、彼は途端に満足そうな笑みを浮かべた。
先ほど、目が覚めたら見知らぬ部屋のベッドの上だった。しかも何も身に着けていない自分に少し驚いた後で、そこが椿姫さんという人の屋敷だというのを思い出した。ついでに何故自分が裸なのかということも。酔った頭で室内を見渡せば、着て来たドレスや下着がなくて唖然とした。でもそこへちょうど蘭さんが戻って来て、「帰りは楽な服に着替えろよ」と、椅子に置かれていた可愛らしいワンピースをくれたのだ。それから帰ることになったと簡単に説明されて、椿姫さんに挨拶だけして慌ただしく車に乗せられて今に至る。わたしが寝ている間にそこまで動いてたことに驚いた。

「こっちが感づいたこと気づかれて逃げられたら探すの面倒だろ?だから幹部が何人か揃って、なおかつ相手が油断してる今回のパーティの場でとっ捕まえた方がいいかなと思ったわけ」
「そっか…。でもじゃあ蘭さん、全然休めてないんじゃない?」

時間はすでに朝の7時になろうとしていた。夜通しパーティで飲んだ後、裏切者を拘束してたなら、相当疲れてるはずだ。現に蘭さんはまた欠伸をしながら目尻に浮かんだ涙を拭っている。

「まあ、とりあえず拘束したし、後はモッチーが吐かせるまではオレも休める」
「…そう。ならいいけど…」

今日まで蘭さんが忙しくしていたのは知ってる。こんなことなら先ほど抱き合うよりも寝かせてあげた方が良かったんじゃないかと思った。なのに気づけばわたしの方が爆睡してたなんて。

「心配そうな顔すんなよ…平気だから」」

わたしの心のうちなんてお見通しなのか、頬に蘭さんの指が伸びてスっと軽く撫でられた。たったそれだけなのに触れた体温でさっきの行為を思い出し、劣情を抱きそうになる。そんな自分の浅ましさが恥ずかしくて目を伏せた。

「…いや、んな顔すんのもダメ」
「え…?」

苦笑交じりで言われたことで視線を上げると、蘭さんは困ったように眉を下げて微笑んだ。そのままわたしの方へ身を屈めると、耳元に顔を埋める。彼の長い腕がふわりとわたしを包んだら、蘭さんの香水に交じって、かすかに葉巻の香りがした。

「そーいう顔されたらここでシたくなんじゃん」
「…な…」

耳にちゅっと口付けながら、蘭さんはとんでもないことを平気で口にする。ただ来る時と違って今は車内に蘭さんと二人きり。だから余計に今の言葉の信ぴょう性が増す気がして頬が熱くなった。竜胆とココは望月さんと一緒に、例の側近を吐かせる為について行ったらしい。蘭さんもわたしを送り届けたら彼らと合流するようだ。

「ん…」

ぐいっと顎を持たれて上に向かされると、噛みつくようにキスをされて熱い舌で翻弄される。くちびるを軽く吸われ、舌先で口蓋をあやすようにゆるゆると舐められただけで、じわりと体温が上昇していく。蘭さんのキスはとても甘くて、すぐに酔わされてしまう。ここが車内じゃなければ、このまま身を任せてしまいたくなるほどに。

「ん~残念…ついちまったなー」

最後にちゅっとくちびるを啄み、離れて行く蘭さんのくちびるが、艶めいて光って見える。とても淫靡でいて艶めかしいのはある意味、反則だと心の中で呟いた。
マンション前の公道に車が停車し、運転手の太一くんがドアを開けると、蘭さんはわたしの手を引いて車を降りた。それを見たマンション前に立っていた黒スーツの人達が一斉に動いて「お疲れ様です」と彼に頭を下げている。その中を歩いて、わたしは敷地に入ったところで立ち止まった。

「ここでいいよ。一人で戻れる」

言いながら蘭さんを見上げると、彼はあきらかに不満そうな目でわたしを見下ろした。

「えー…そんなのオレが寂しいじゃん」
「だって…望月さん達待ってるでしょ。早く行ってあげて」

周りに部下の人達がいる手前、恥ずかしくて蘭さんの背中をぐいっと押した。彼は周りに誰がいようと、あまり気にしない性格だから、こういう時は恥ずかしくて仕方ない。皆見て見ぬふりはしているけど、内心はどう思われているのかと思うと自然に頬が熱くなってしまう。

「んな無理やり行かそうとしなくても」

蘭さんは苦笑気味に言いつつも、ホールドアップをしてから「分かったよ」と笑った。

「ああ、マイキーはまだ戻れねえかもしんねーし、寂しくなったら電話して」
「…え、いいの…?忙しいんじゃ…」
「忙しいつっても時間なんて作ろうと思えば作れんの。が一人ならな」
「……うん。分かった」

優しい眼差しで微笑む彼に素直に頷く。蘭さんの言葉が嬉しかった。大きな手がわたしの頭を軽く撫でて、広い背中が車の方へと戻っていく。少しずつ出来ていく距離に寂しさを覚えながらも、いざという時は連絡が出来るという救いが出来て、思ったほど辛くはなかった。車に乗り込んだ蘭さんが窓を開けて軽く手を上げるのを見ながら、わたしも笑顔で手を振る。車が静かに発車して、見えなくなるまで見送っていた。周りの黒スーツの人達も自分の持ち場へ戻って行き、一人がわたしを中へ入るよう促す。今更逃げる気などないのに、この辺はきっちりと仕事をする部下の人達に心の中で苦笑する。統率の取れた彼らの部下の姿を見ながら、改めて梵天という組織の大きさを実感していた。

促されるまま広い敷地をエントランスに向かって歩きながら、ふと曇天を見上げた。まだ梅雨には早いというのに湿った空気が肌を撫でていき、そろそろ降り出しそうだなと思った。空を覆う雲の奥からは天が怒っているかのような雷鳴がかすかに轟いている。その空に向かって聳え立つ高層マンションは、さながらバベルの塔だ。天にも届く神の領域まで手を伸ばそうとしている梵天の行く末を現わすようなこの建物が、今やわたしの世界の全てになっている。だけどバベルの塔にはこんな意味が込められているのだ。

――空想的で実現不可能。

彼らがこんな高い建物の頂点で、何を成し遂げようとしているのかは分からない。万次郎にも尋ねたことはない。これから彼らが更なる成功を収めるのか、それとも誰かの手によって破滅していくのかは分からない。けれども、最低限の覚悟だけはしていた。蘭さんに誘われた日から、日本を牛耳る組織へと育った梵天の歯車の一つになったわたしは、どんな結末になろうと最後まで彼らを見届けようと。出来れば最期は愛しい人の傍で在れたら、と願わずにはいられないけれど――。
その時、温い暗がりからポツっと頬に冷たい雫が落ちて来て、春の嵐のような一陣の風がわたしの髪をさらっていった。