六本木心中




※性的表現あり



1.

梵天が所有している"処刑場"はいくつかあるが、その中でも獲物ラットが最も恐れを抱く場所は晴海ふ頭にある大型倉庫だろう。この一帯の倉庫はほぼ梵天のダミー会社が占めていて邪魔が入らない上に、色んな機材が置いてある。獲物処理をした後は目の前の広い海原へ適当に捨てるもよし。船を出してクルーズを楽しみながら沖に撒き餌するのもよし。そういう作業にはもってこいの場所だ。

「…った…た…すけて…」
「あー?聞こえねえなァ。つーか武臣さんの側近やってて梵天のルール知らねえわけねえよな、オマエ」

ドゴッという音と「うっ」という呻き声が倉庫内に木霊して、オレは欠伸を噛み殺しながら、蹴られた上半身を折り曲げるようにして地面に顔面を擦りつけている岸本を眺めていた。望月さんは容赦なく、その上から岸本の後頭部に足を乗せてグリグリしているから、つい「うわぁ、汚ね~」と顔をしかめた。これくらいはまだ拷問のうちに入らず、ただの戯れでしかない。と言って岸本への拷問はほぼ終わっていて、アイツの傍らには数本の指が落ちている。岸本は2本目で呆気なく仲間のことをげろった。

「つーかラットが3匹だったとはな…。そいつら見つけ次第、どこまでネタを撒いたのか確認しねえと…」

九井が頭痛いと言いたげに溜息を吐き、呑気にビーチチェアで寝ている兄貴を見た。そろそろ起こして仕事をさせたいんだろうが、兄貴の寝起きの悪さを知ってるだけに、九井も躊躇してるってとこだろう。その九井が今度はオレの方へチラっと視線を向けてくるから、オレは無言のまま首を左右に振ってみせた。いくら弟でも兄貴を起こす役目は謹んで辞退申し上げる。理由は一つ。果てしなく無理ゲーだからだ。

「はあ…」

九井が分かりやすく溜息を吐いた。ここに鶴蝶がいればワンチャン、兄貴が暴れても取り押さえてもらえるかもしんねーけど、その鶴蝶は今、敵対組織と交渉している中国系マフィアのことを探っているから不在。こうなると後は一人しか思いつかない。オレはスマホをポケットから取り出すと、今はもう殆どかけることのなくなった番号を表示した。彼女は起きてるだろうか。先ほど兄貴がマンションまで送り届けたと言ってたものの、今はまだ昼過ぎだ。普段なら起きてるだろうが夕べのパーティでは飲みすぎてたし、ゲストルームで少し寝たとは言っていたものの、帰り際もちょっと眠そうだった。もしかしたら帰って早々爆睡してるかもしれないという不安が過ぎる。でも念の為にと番号をタップすると、相手は3コールで出てくれた。

『…竜胆?』

おずおずと聞こえて来た声はいつもよりハスキーで、やっぱり眠ってたのかもしんねえな、と思った。

「悪い…寝てた?」
『ん…ちょっと掃除して休憩してたら寝ちゃってたみたい…』
「ハァ?掃除なんてしなくていいからゆっくり寝ろよ。って電話したオレが言うことじゃねえけど」
『うん…わたしもそのつもりだったんだけど…さっき春千夜から電話来て万次郎が体調もマシになったし今からこっちに戻るって言うから』
「え、マジで?マイキー正気に戻ったんか」
『うん、そうみたい』

それを聞いて少しホっとした。この前の取り引きの最中、裏切者の罠でトラブルになった際、マイキーは相手組織の手下を数人殺した。その後からまた精神的に不安定になって、自ら周りと距離を置いてたが、のとこへ戻ると言うくらいだから、もう大丈夫ということだろう。まあ、そのせいで兄貴の機嫌が悪くなることは目に見えてんだけど、こればっかは仕方ねえしな。それにタイミングとしてはバッチリだ。遂にラットを見つけて後は狩るだけ。マイキーも多少は安心するだろう。

『それで…どうしたの?竜胆からかけてくるなんて珍しい』
「…え?あ!そうだった!」

一瞬に電話をかけた目的を忘れるところだった。「実はさーにお願いがあって」と言いながら、未だ爆睡してる兄貴へ目を向けた。寝起きは悪いクセに、寝相だけはいい兄貴は、部下に持ち込ませたビーチチェアの上で微動だにせず眠っている。近くで望月さんが拷問してたってのに、よく眠れるよと内心呆れつつ、本題に入った。

「今、梵天倉庫内にいんだけどさー。兄貴が寝ちゃって」
『蘭さんが?』
「でも残りのラットの存在が明らかになったし今すぐ起こしたいわけ。そこでに呼び掛けてもらおうかな~と」
『えっ?よ、呼びかけるって…何で?』
「………」

あーこの分じゃは兄貴の寝起きの悪さを知らねーんだな、と思った。まあ普段会ってる時に兄貴も爆睡はしないだろうし、知らなくても当然だけど。苦笑しつつ、そこはしっかりに説明すると『わたしが呼びかけて起きるのかな』と心配そうに笑ってる。

「いや分かんねえけど、オレのケータイ、このまま兄貴の耳にあてるし呼んでくれればいいから」
『分かった。やってみる』

が了承してくれたことで、オレはそのまま兄貴に近づき、スマホを兄貴の耳に近づける。そこで「声かけてみて」とに言えば、彼女は『蘭さん!起きて!』と通話口の向こうで呼びかけている。ついでにオレは兄貴の体を軽くゆすってみた。最初は微動だにしなかった兄貴も、何度かこれを続けてると「ん…」と眉間を寄せながら体を動かす。

「るっせぇ…」
『…ん…蘭さんっ起きて』
「……んぁ…?」

煩わしそうに薄っすら目を開けた兄貴がの声に反応したようだ。「…?」と呟いて、すぐにパっと目を開けたのを見た瞬間は、奇跡が起きたと思った。大げさだけど。

「……あ?」

寝ぼけた兄貴は一瞬がそばにいると勘違いしたようで、左右に視線を走らせたものの、目の前のスマホと、それを持っているオレを見上げて少し混乱したようだ。今度は辺りをキョロキョロ見渡して大きな欠伸をかました。

「…っんだよ…夢か…ってか…竜胆、何してんの…」

オレは無言で「ん」とスマホを差し出せば、兄貴は不機嫌そうな顔で「あ?」と殺気丸出しで睨んで来る。いきなり殴りかかってこないだけマシだけど、怖え。

が兄貴を起こしてくれたんだよ」
「……?」

どうやらの声がしたのは夢だと思っていたらしい。怪訝そうに差し出したスマホを受けとり、耳にあてた兄貴は、それまでの不機嫌そうな顔から一転、本当に嬉しそうに口元を綻ばせた。

「え、マジでかよ…え?あー起きた…ああ。…マジか」

から事情は聞いたんだろう。一瞬兄貴はオレを睨んだけど、すぐに笑顔で話し出した。ってか、まさか電話で効果があるとは思わなかった。

「ああ、わりーな。うん……え?マイキーが?…そっか。分かった…ああ。まあ…オレも忙しくなりそーだわ。ん。じゃあ、また電話する…。おう」

の声に相槌を打つ声は何とも言えず優しい声色で、聞いてるこっちが恥ずかしくなる。オレの兄貴はいつから女相手に甘い声を出すようになったんだ?

「おい」
「え?」

ボケーっと考えこんでいると、目の前にスマホがぬっと現れ「ん」と兄貴に押し付けられた。

「あ…終わった?」
「ああ…ってか、オマエがにかけたのかよ」
「あーだってオレに起こされるよりの方がいいかなと…」

一瞬、余計なことをしやがって的な感じで殴られるか?と一歩後退したものの、兄貴はニヤっと口元に笑みを浮かべて「よく分かってんじゃん」とオレの頭をぐりぐりしながら撫でて来たもんだから全身に鳥肌が立った。寝起きにここまで機嫌のいい兄貴は初めて見たかもしれない。効果抜群じゃねーかと笑顔が引きつってしまった。何事もチャレンジしてみるもんだなとシミジミ思う。

「んでー?ヤツは吐いたんだろ?」

兄貴が顎でくいっと示した先には半分意識を飛ばしている岸本。ヤツの惨状を見て察したらしい。

「はい、他に仲間がいることも吐いたっスよ」

つかさず九井が応えると、兄貴は「やっぱそっかー」と苦笑いを零した。

「たった一人で梵天を裏切ろうと考える人間は少ねえしなー。んで…その仲間の居場所は」
「すぐに下のヤツを見張りに行かせたっス。蘭さんと竜胆さんが行くまでは動くなと言ってあります」
「りょーかい」

ふわぁっと再び欠伸をかました兄貴は、う~んと腕を伸ばしながら首をコキコキと鳴らしている。少しだけでも寝れてスッキリしたらしい。はたまたの声で起こされたからか。とりあえず、この後の仕事には支障がないようだ。

「んじゃー行くとすっか。竜胆」
「りょー。んじゃーオレはラットBのとこ行くわ」

場所を書いたメモを望月さんから受け取り、オレと兄貴はすぐにそこへと向かった。





2.

夜、眠っていると僅かに刺激を感じて目が覚めた。後ろからわたしを抱きしめるようにして寝ている存在を認識して、ああ、今夜も遅かったんだと眠たい頭の隅で漠然と考える。
岸本という男が拘束されて一カ月が経とうとしていた。あの日、残りの裏切者を捕まえに行った蘭さん達が見たのは見張りに付けていた部下の遺体だったらしい。報告を受けた万次郎の話では、見張りの存在に気づいた時点で裏切りが発覚したことを知ったラットが、蘭さん達が来る前に見張りを殺して逃亡したということだった。逃げたのは岸本が可愛がっていた部下2人。今も蘭さん達幹部や部下の人達が血眼になって行方を追っているようだ。

――岸本のヤツ、敵対組織と手を組んで内側から梵天を弱体化させようとしてたんだよ。

武臣さんが部下に対して緩いのをいいことに、オイシイ情報を手に入れて、それを敵対組織に流しては金になる取り引きを潰す。でも岸本がバカだったのは手駒に使ったのが下っ端のチンピラだったことだと万次郎は言っていた。下っ端は上の人間よりも警戒心が薄く断然口が軽い。故に裏切りの発覚が思いのほか早かった。そして今、逃げてるのがその下っ端2人。おかげで梵天内部は今も厳戒態勢だった。春千夜もどこかピリピリしていて、顏を合わせるたび不機嫌そうに電話で何やら指示をしているし、万次郎も何となく元気がない。調子が戻ったと言ってたけど、今は一日置きに本部へ泊まってくるし、完全に戻ったとは言えない気がする。

(今夜は戻らないかと思ったけど帰って来たんだ…)

背中にくっつくように寝ている万次郎から、少しずつ温もりがわたしに移る。力なくわたしの身体を包んでいた腕が胸元にあるから、そっと手を握り締めた。万次郎の手は冷んやりとしていて、今まで雪国にでもいたんじゃないのかと思うほどに冷たい。

「…起きた?」

不意に万次郎の声がしてドキっとした。どうやら寝てはいなかったらしい。

「ん。万次郎、今帰って来たの?」

応えた途端、握っていた手に力が入って体を万次郎の方へ向けさせられた。薄暗い室内に彼の大きな瞳が見える。いつもよりも光の失われた虹彩は、どことなく暗い影が落ちているように見えた。

「…大丈夫?」

尋ねながら万次郎の頬へ手を伸ばす。手と同様、頬も冷たくて、体温を移すように包むと、そこへ万次郎の手が添えられた。

「…オレ、大丈夫じゃなさそう?」

万次郎はかすかに笑ったようだった。頬に置いたわたしの手を掴むと、手のひらへ自分のくちびるを押し付ける。どこか甘えるような仕草に見えた。

「少し…元気ないかな」
「…ん。何か久しぶりに落ちてるかも」

言いながら万次郎はわたしの身体にすり寄って来た。今度はわたしが万次郎を抱きしめるように腕を背中へ回せば、首筋辺りに顔を埋めて来た。手を滑らせると肩甲骨が分かるほどに細い体。ちゃんと食事を摂っているのかと心配になってしまう。

「ねえ、まんじろ……ん、」

寝る前に軽めの食事でも作って食べてもらおうかと思ったのに、首筋に軽く吸い付かれて肩が小さく跳ねた。油断してたことで、つい声が洩れて頬が熱くなる。

「ちょ…と…万次郎…」

するするとキャミソールの中へ滑り込んでくる手に驚いて身を捩る。今夜は戻らないと思っていたから、キャミソールと部屋着用の緩いショートパンツしか履いていない。万次郎のゴツゴツとした手が、下着の付けていない胸に容易く辿り着いて優しく揉みしだくように動き始めた。同時に指で乳首をきゅっと摘ままれ、ビクンと身体が反応してしまう。

「…ダ、ダメ…まんじろ…」

今は抱き合うよりも食事を摂って欲しくて、彼の手を慌てて掴む。首筋に顔を埋めていた万次郎がふと顔を上げた。薄闇に揺れる彼の瞳は、僅かに仄暗い色が浮かんでいる。まるで出会った頃のような危うさを秘めているようで、わたしは小さく喉を鳴らした。

「抵抗すんな」
「……っ」
「何するか分かんねえ…」

その言葉の意味を理解した時、わたしは全身の力を抜いた。すでに最初の制止で火をつけてしまったのか、その後の行為はいつもより少し乱暴だったかもしれない。キャミソールを剥ぎ取り、コットン生地のショートパンツも無理やり脱がされ、わたしの上に覆いかぶさってきた万次郎は、首筋や肩、胸を咬んでは舐り、肌に自分の痕を残していく。痛いくらいに乳首を甘咬みした後に、優しく舐め転がし吸い付く。万次郎の好きなように抱かれる人形のように、わたしは喘ぐほかなかった。最初は竦んでいた身体も、強弱を加えた愛撫に自然と反応しはじめ、脚を押し広げられた時には、すっかりそこは潤んでいたようだ。熱く疼いているその場所に舌を這わされた時、くちゅくちゅと卑猥な水音がたち、恥ずかしいほど感じているのが自分でも分かった。

「んん…っぁ…んっ」

余りの快感に身を捩り、肌触りのいいシーツを乱しながら、万次郎の淫らな舌の動きに溜まらず声が洩れた。蜜の溢れる亀裂を舌先でなぞられ、たっぷりと愛液を含んだ口内で膨らんでいる場所を転がされるたび、全身が震えるくらいの快感が襲う。それほど敏感になっている陰核をちゅうっと吸われた時、脳天まで電流のような痺れが突き抜け、ビクビクと脚が痙攣した。

「…まんじろ…う?」

呼吸が整う間もなく、ふわふわとした感覚を彷徨う最中、ヒクつくそこへ質量のあるものが宛がわれドキっとした。ぼやける視界には熱を孕む万次郎の瞳が映る。その瞬間、声を出す間もなく強引にナカへ挿入され、背中が反りかえった。

「んぁ…っ」

最初から最奥まで貫かれ、激しく腰を打ち付けられると、イったばかりで収縮していた場所が万次郎を急激に締め付けていく。それを物ともせず、万次郎は柔肉をこじ開けながらナカを好き勝手に蹂躙してくる。時折子宮口まで突かれて、息も絶え絶えになった。

「ま…まんじ…ろ、もっと…ゆっ…っくり…」
「…無理…ヨユーねえもん」

万次郎も息を切らせながら、激しく腰を打ち付けてくる。まるで何かを払拭するかのような激しさでわたしのナカを犯している。身体の奥深くまで暴かれて、何度も何度も快楽を弄るように強く突かれていた。何回もナカでイカされ、その行為は永遠に続くんじゃないかと思い始めた頃、意識が朦朧とする中で万次郎の動きがいっそう速くなり始めた。腰を痛いくらいに掴まれ、揺さぶられる。最後に密着するほど腰を押し付けられると、その瞬間、ナカのものがうねって、彼が射精に至ったのを感じた。

「はぁ…はぁ…」

暗い室内に万次郎とわたしの荒い呼吸だけが交じり合う。わたしの隣に倒れるように寝転んだ万次郎の胸は、上下に激しく動いていた。全身が気怠い。四肢を投げ出すようにしていたわたしも、どうにか乱れた息を落ち着かせようと、胸に手を当てゆっくり深呼吸をした。

「…ごめん…大丈夫か?」

どれくらい、そうしてたのか。不意に抱きよせられ、万次郎の気遣うような声を耳が拾う。ハッと息を飲んで目を開けると、やけに悲しそうな双眸と目が合った。

「だ、大丈夫…」

一瞬、意識が落ちていたようだ。慌てて笑みを浮かべると、万次郎はホっと息を吐き出してわたしのくちびるにキスを落とした。そこで気づいたのは、先ほどキスもしないまま行為に及んでいたことだ。万次郎があんな抱き方をするのは珍しい。やっぱり精神的にどこか弱っているのかもしれない。
万次郎はわたしの身体にデュペをかけると、それごとぎゅっと抱きしめてきた。

「…どっか痛いとこねえ?」
「平気だってば」

本当は行為の最中に咬まれたところがピリピリと痛んだ。でも彼が気にしないよう笑顔で首を振った。そんなことよりも、万次郎が少し不安定な方が心配だ。

「それより…何か…あった?」
「……何かって」
「万次郎が不安に思うようなこと」

わたしの問いに万次郎は一瞬だけ瞳を揺らし、無言のままわたしの頭を抱き寄せて天井を見上げた。

「オレ……ずっと怖いんだよ」
「怖い…?」
「情けねえけど…怖くて仕方ない瞬間がある」

何を、とは聞かなくても分かる気がした。家族や昔の仲間を自ら捨てて来たと話してたけど、それは自分が彼らを傷つけてしまうと思ったからだ。でも何故そんな風になったんだろう。自分でも制御できない感情があることも不思議だった。ずっと心の病気かと思っていたけど、今思えばどうも違うような気がしてくる。
その時、万次郎がふと呟いた。

「オレの…過去が近づいてくる気がして…」
「…過去…?」
「…
「え?」

万次郎がふと真剣な顔でわたしを見つめた。

「もし…オレに何かあったその時は…オマエはここを出ろ」
「…え…」

思いがけない言葉を言われて驚いた。何かあったら――。それはどんな状況でそうなるというんだろう。

「な…何か…って…?」

声が震える。まるで万次郎の感じている恐怖がわたしにも伝染したみたいだ。日本最大の組織の頂点に立つ男に、いったい何が起こるというのか。わたしには想像もつかない。

「ハッキリは分からねえ。でも…その時になればきっと…分かる・・・。巻き込まれたくねえなら、すぐここから逃げろ。その後のことはオレが準備しておく」

一瞬言葉を失った。万次郎は本気でそんなことを考えているようだ。意味が分からなくて、わたしも漠然とした不安が襲ってくる。別にあたしも一生このままとは思っていない。だけど、こんな急にここを出ることを考えなければいけない事態がくるとも思っていなかった。

「ちょ…ちょっと待ってよ…。ちゃんと説明して。過去って…何?万次郎は何をそんなに――」

わたしの疑問に答えることなく、万次郎はわたしを抱きしめた。

「いいから約束して」
「万次郎…」
「ここを出た後、は二度とオレ達に関わるな」
「…何でそんなこと言うの…」

確かに最初は自分の意志でここへ来たわけでも、好きで彼らと肉体関係を持ったわけでもない。でもそうなったおかげでわたしは自分の過去を消化することが出来た。万次郎の傍にいることを選らんだのは自分自身。だからこそ、改めて関わるなと言われると悲しくなった。
万次郎はやっぱりわたしの質問には答えてくれない。だけど不意にわたしの額へ口付け、優しい笑みを浮かべた。

はいい女だ。これから幸せになれるチャンスはいくらでもある。何もオレ達と一緒に心中することはねえよ…」

万次郎の指が、そっとわたしの目尻に浮かんだ涙を拭っていく。まだ何も起きてはいないのに、まるで永遠の別れのように言う。万次郎は何か予感めいたものを感じ取っているのかもしれない。

「…梵天に…何かが起こると思ってるの…?それとも……」

自分に――?

「ま…万が一の時の話だよ…」

わたしが不安そうにしたからか、万次郎は急に明るい口調で笑った。でも何かを誤魔化しているようにも見えて、わたしはいっそう落ち着かなくなる。梵天に何かが起こるとするならば、当然万次郎だけじゃなく、蘭さん達にも同等のことが起こると思ってしまう。もしそうなったら、わたしは万次郎の言うように、皆を見捨てて逃げられるんだろうか。そう考えると、とてもできる気がしない。彼らと共に在ることが心中になるというならば、わたしは迷わずそっちを選ぶだろう。今更普通の幸せを手に入れたいとは思えない。梵天の手に堕ちた時から、蘭さんを愛した時から、わたしの向かう道は決まっているのだから。