六本木心中



1.

人ひとりの命を奪った時から普通の幸せなんて手に入らないと思ってた。人の人生をまるごと奪った人間が人並みの生活なんて許されるはずがない。わたしはただ、梵天の歯車の一つとして生きていく。それでも十分すぎるほどの贅沢だと思っていた。

(相変わらずまつ毛長い…)

隣で眠る春千夜の顔を眺めながら火照った身体をゆっくりと起こす。よほど疲れていたのか、春千夜は起きる気配がない。わたしを散々抱いて死んだように眠ってしまった。ベッドの下へそっと足を下ろし、そのままバスルームへ行って熱いシャワーを浴びる。蘭さんの顏が頭を過ぎったけど、すぐに打ち消すよう熱いお湯を顔から浴びた。またしても裏切ってしまったという思いと、やっぱり無理なのだという思いが交差していく。結局、自分の意志ではどうにもならず、流されていくしか方法はない。それにわたし自身、春千夜がそれで楽になるのなら、と途中で拒否することをやめてしまった。こんなわたしが蘭さんに大事にされる資格はない。色んな男に身体を搾取されていった結果、わたしの中の貞操観念が著しく低下してると言わざるを得ない。求められたら受け入れる。以前のわたしなら考えられなかったその行為が、生きる上でそれほど大事ではなくなってしまった。何より、わたしはわたしを求めてくる万次郎や春千夜を憎んでいなければ嫌いにもなれない。蘭さんを想うような気持ちとは違っても、好意的な想いがあるのは確かだった。

(こういうのって…ストックホルム症候群に似てる…)

最初は捕食されるだけの弱者でしかなかったわたしが、皆に受け入れられ、時には愛され、抱かれていくうちに、それが搾取だとは思わなくなっていた。傍から見たら異常かもしれない。最初は強引だったのに、今では自ら望んでここにいると思っている時点で、わたしもきっと心の一部が壊れてるんだろう。それを漠然と理解しながら、それならそれでいいと目を反らしてここにいる。わたしに相応しい地獄なのかもしれない。一人の人に愛され、わたしも彼だけを愛する。そんな穏やかな幸せなんて、わたしには訪れない。

「…ん……」

バスルームから出て寝室に戻ると、春千夜がかすかに動いてわたしの名前を呼んだ。

「……勝手に…いなくなんな…」

まだ眠たいのか、とろんとした瞳を向けてわたしへ手を伸ばす。そばに行くと腕を掴まれ、ベッドへと引きずり込まれた。

「ちょ…春千夜…」
「ん…つめて…」

まだ乾かしてもいない濡れた髪が春千夜の頬を冷やしていく。

「シャワー入ってたの…髪まだ濡れてるから乾かしてくる――」
「いい……ここにいろ」
「でもシーツ濡れちゃうし…」
「…いい…」

春千夜はわたしを抱きしめたまま、また目を閉じた。その寝顔は普段よりも幼く見えて自然と笑みが零れ落ちる。普段は粗暴な春千夜が、わたしの傍では無邪気な寝顔を見せるこの瞬間、こんなわたしでも役に立ててるのかと思うと嬉しくなるのだ。わたしも相当、イカレてるのかもしれない。

「お休み…春千代」

様々な想いを閉じ込めて、わたしも静かに目を瞑る。朝が来るまで、今はまだこのままで。




2.

その情報は梵天の事務所内の最終チェックを終えて数時間後に飛び込んできた。

「……梵天のことを聞いて回ってる?」
「はい。と言ってもすでに引き払った昔のアジトの周りですが…幹部が出入りしていた店などにも来たようで」
「どんな男だ?敵対組織の奴らじゃ――」
「いえ…それが普通の一般人のようでして」
「一般人…?」

そう聞いてオレは眉間を寄せた。一般人が梵天のことを聞いて回っている。どれだけ無謀なことをしてるんだと呆れてしまう。怖いもの知らずではすまされない。

「あれか…ニュースで流れたから好奇心で湧いたコバエだろ」
「はあ…。でもボスの名前を出してたようなんです」
「マイキーの…?」
「佐野万次郎はどこにいるのか、と聞いて回ってたようで…」

それを聞いてドキっとした。ニュースではマイキーや部下達が映像として流されたが、名前までは出ていなかったはずだ。

「ソイツ…本当に一般人か?記者か何かじゃねえのか」
「そこまではまだ…。スナックの店員の話では普通の地味な男だったということしか。記者と名乗ってもいなかったようで」
「……そうか。ならその一帯の防犯カメラを徹底的に調べろ。それらしい人物が映っているものを探せ」
「分かりました」
「ああ、この話、他の幹部には?」
「いえ、これからしてきます。まずは三途さんにご報告をと」

側近の男はそれだけ言うと一礼して部屋を出ていく。入口に立っていた他の部下も廊下に出ていくよう告げると、ソファから立ち上がり、六本木の街並みを見下ろす。渋谷よりも小奇麗なこの街は、朝になるとブランド物に身を包んだサラリーマンどもが闊歩し始め、あちこちで外来語が飛び交う。その空気がオレは苦手だった。

「チッ…灰谷兄弟の街らしい。気取ってる空気は肌に合わねえ…」

そうボヤきつつ、ソファに引っ掛けたままのバスタオルで濡れた髪を拭く。夕べを抱いた後、ぐっすり眠ったせいか、朝の9時に部下の訪問で起こされた時はやけに頭がスッキリしていた。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出し、バーにあるグラスに注いだ。冷えた水で喉を潤しながら二回へ向かうと、ベッドの上で彼女が猫のように丸くなって眠っている。夕べは無理をさせたせいか、今朝は部屋のチャイムの音にも反応しなかった。

(女を抱くのは久しぶりだったしがっつきすぎたか…?)

ベッドへ這うように上がり、そっとの寝顔を覗き込む。夕べ寝る前にシャワーを浴びたと言っていたのは薄っすら記憶にあった。おかげで綺麗な髪に多少寝癖がついている。それを見てたら軽く吹き出してしまった。

「…子供かよ」

ぴょこんと跳ねている前髪にそっと手を伸ばし撫でつける。だがシッカリと渇いた髪はまた元通りに跳ねてしまった。それが可愛くて自然に額へ唇を寄せると、かすかに彼女の瞼が震えて、ゆっくりと目が開いた。

「…ん…」
「起きたかよ」
「……っ…わっ…は、春千夜…?」

至近距離で目が合ったことに驚いたのか、の瞳が大きく見開かれた。その顏に満足しつつ、白い頬にも口付ける。朝からこんな甘ったるい気分になるのは初めてかもしれない。

「お、おはよ…」
「まだ眠いなら寝てていいぞ」
「え…いま何時…?」
「…朝の10時になるとこ」
「お、起きる…」

時間を聞いて彼女は慌てたように起き上がると、オレのバスローブ姿を見て「シャワー入ったの?」と訊いて来た。

「ああ。ちょっとこれから出かける用事が出来た」
「え…何か…あった?」

少し心配そうに尋ねてくるに「いや…」と応える。組織のことをに細かく話す必要はない。たかがコバエ一匹のことを伝えたところで無駄に不安を煽るだけだ。

「ちょっとした確認だ。あとマイキーの様子を見てくる」
「…そっか」
「何だよ、また寂しいって言うつもりか?」
「だ…大丈夫だよ」
「フン、まあ暇なら酒飲んでまた映画でも見てろよ。アクション映画、途中で寝ちまって見てねーんだろ」
「……う…そうだった…」

彼女は夕べの失態を恥じるように項垂れたが、確かにこの部屋に一人じゃ退屈だろうとは思う。周りには便利な商業施設があるというのに、彼女はあまり出かけたがらないのだから変な女だと苦笑が洩れた。

「少しは外に出て陽の光でも浴びたらどうだ」
「…こんな大きな窓があるんだから浴びまくってると思うけど」
「外の空気を吸えってことだよ。この高さじゃ窓は開かねえからな」
「うん…」

普段も殆ど日中は出かけないせいで、元々白かった彼女の肌は更に白く透明感が増している。まあよく言えば綺麗だが、悪く言えば不健康にも見えた。梵天の事務所に来るまでは夜の女だったと聞いてるが、はきっと太陽の下が良く似合う女だと思う。不幸な過去がなければ今頃はこの街のどこかでOLでもしていたに違いない。それはそれで見てみたかったかもしれない。

「ちょ…ここで脱がないで」
「あ?」

バスローブを脱ぎ捨てて目の前にあるウォークインクローゼットへ向かうと、後ろからの苦情が飛んで来た。夕べ散々抱き合ったってのに何を今さらと苦笑しながら、用意していた下着やシャツを身に着け、新しいスーツに袖を通していく。いつも通りベストの上からジャケットを羽織れば、途端に気が引き締まるから不思議だ。
オレが寝室に戻ると、はすでに部屋着を身に着けていた。何やら鏡の前で髪をとかしている。

「その寝癖、洗わねえと直んねーだろ」
「…濡れたまま寝ちゃったから…」

はジトっとした目でオレを睨みつつ、見事に跳ねている前髪を手で撫でつけている。何でオレを睨むんだと思っていると「春千夜がドライヤーかけさせてくれないから…」とスネた口調で言われた。悪いが全然覚えていない。

「んなことくらいで…オレが出かけたらシャワー入ればいいだろ。ついでにお洒落でもして出かけてこいよ」

そう言いながら彼女の腰を抱き寄せると、は慌てたように前髪を手で隠して見上げてきた。その恥ずかしそうな顔がやけにそそるんだから嫌になる。これから出かけなきゃいけないとうのに、盛ってる場合じゃない。

「隠すなよ」
「…ちょ…」

前髪を隠している手を掴んで無理やり引きはがすと、が慌てたように口を開きかける。その口を塞いで更に体を抱き寄せた。角度を変えて何度か啄むと、途端には大人しくなる。

「…じゃあ、行って来る」
「う…うん…行ってらっしゃい…」

唇を離せば視線を泳がせながら小さく呟く彼女を見ていると、このままベッドへ押したしたくなった。その欲求を堪えつつ、の身体を手放す。一歩外に出れば、オレは梵天のNo2として動かないといけない。その前の穏やかなひと時も、彼女となら悪くないと思える。

「ああ、オレだ。地下に車を回しとけ」

寝室を出て、部下に電話をかけながら階段を降りる。ふと顔を上げればが二階から顔を出していた。軽く手を上げると、控えめに手を振って来る。そんな彼女を見ていると何とも言えない感情がこみ上げてきた。過去にあった分岐点で違う道を選べば、普通の平和な暮らしをしていたのかもしれない自分が、ふと頭に浮かぶ。普通に進学して、大人になって就職をする。好きな女と付き合い、いずれは結婚して、朝にはこんな風に見送ってもらえる、平和で愛情に満ちた自分の人生が。でもそんな平和は今の現実にはない。こっちの道を選んだことを後悔したこともない。オレにはこの道しかなかった。マイキーの呪われた運命を知ったその時から、オレの覚悟は出来ている。それが例え、間違った方向へ進もうとしていたとしても、オレは躊躇うことなく、またその道を選ぶだろう。