ある夜の小話



ある日の仕事終わり、春千夜から電話で呼び出された。また残業させられるのかとウンザリしながら指定の場所へ向かう。そこは前にもリカちゃんと来た灰谷兄弟のバーだった。

「春千夜って結構イケる口なんだね」

ワインを2本空けたところで、わたしは3本目を頼んだ。奢ってくれるというので一番高いワインにしておく。まあ春千夜、お金持ちだしいっか、なノリだ。それにしても春千夜は随分と酒が強くなったみたいだ。前はわたしより弱かったのに。同じくらい飲んでても顔色ひとつ変えない春千夜を見て、思わず感心する。
新しいワインを出してくれたのは、この前のバーテンだった。来た瞬間、姿勢正しく挨拶をされたので何事かと思ったけど、わたしが幹部だと竜胆さんに聞いたらしい。そう言えば幹部の証でもあるタトゥーを入れてくれるって竜胆さん、言ってたっけ。

「えっと…今日蘭さんか竜胆さんは来ますか?」

もし来るならタトゥーのことおねだりするついでに更におごってもらおうという頭が働く。でもバーテンは首を傾げて苦笑いを見せた。

「いえ、オーナーからはそのような話は聞いてませんが…」
「そう、ですか」

何だ、来ないんだと思いながらワインをグラスへ注いでいると、隣に座っている春千夜が顔をしかめている。

「ここって…灰谷兄弟の店かよ」
「うん。そうみたい。同じ梵天なのに春千夜ってば知らないの?」
「幹部は好き勝手、儲かりそうな商売を自分の判断でやってっからな。オレはそこまで把握してねえ。九井は当然知ってるだろうけど」
「ふーん」

春千夜は面白くなさそうにワインを煽ってグラスを変えると、今度は新しいワインを注いでぐびぐび飲んでいる。高級ワインをここまで勢いよく流し込む人はあまり見たことがない。グレープジュースと間違えてるんじゃないかなくらいの飲みっぷりだ。

「もっと味わって飲みなよ、もったいない」
「うっせねぇな。腹ん中に入れば同じだろ」
「はあ…春千夜には高いお酒も意味ないのか…」
「あ?だから高かろうが安かろうが酒は酒だろ」

春千夜は鼻で笑うと、チーズの乗ったクラッカーを口に放り込んだ。その口元にクラッカーのクズがついていたから仕方ないなあと思いつつ、指でそれを拭ってやると、思った以上に驚いた顔をされた。

「な…何だよ…」
「クラッカーついてたのー。春千夜ってそういうとこ子供みたいだよね」
「はあ?テメ、バカにすんな。だってガキだろ?」

春千夜は恥ずかしそうに目を細めながらプイっと顔を反らす。不機嫌そうに飲んでいる春千夜の横顔を見ていると、相変わらず長いまつ毛が顏に影を作っていた。春千夜は子供の頃からイケメンだったけれど、口元の両脇にはふたつの大きな傷があった。昔マイキーを怒らせてやられたその傷はマイナスになってるというより、むしろ春千夜らしくていいと思った。退院してきた春千夜にそう言ったら少し驚いた顔をしたけど、人見知りだった春千夜がわたしに打ち解けてくれたのはその時くらいからだ。

「あーもう空いちゃった。春千夜がガブガブ飲むからだ」

さっき開けてもらったばかりのワインが空になり、瓶を持ちあげる。

「酒は飲んだらなくなんだろ。また頼めばいーだろが」
「うんまあ…そうなんだけど…そろそろ場所変えよ」
「は?」

サッサとバーを出ると、春千夜は会計を済ませて追いかけて来た。

「どこ行くんだよ」
「んー。すきっ腹に飲んじゃったし、まずは何か食べない?春千夜、お腹空いたでしょ」
「あー…そう言えば…そうだな」

そこは春千夜も素直に頷いた。とは言え、春千夜とわたしは昔から食の趣味が全然あわない。

「わたし、イタリ「焼き鳥!」

「「………」」

被り気味で言われて思わず目を細めると、春千夜も同じような顔でわたしを見た。しばし目線だけで睨み合う。

「何でワイン飲んだ後に焼き鳥食べなくちゃいけないわけ?」
「あ?口直しだよ」
「何それ。あのワイン、グリオット・シャンベルタンだよ?口直す必要ないから」
「へぇ…って名前なんか知らねーよ。美味かったけど」
「はあ…春千夜なら安いワインで良かった感じか…」
「うっせぇな。オマエはソムリエかっつーの」

春千夜は笑いながら繁華街を歩いて行く。慌てて追いかけると「ホントに焼き鳥屋、行くの?」と溜息をついた。

「あ?はイタリアンがいーんだろ?案内しろよ」
「え…いいの?」

まさかの返しに驚いて聞き返すと、唐突にお腹が鳴った。意外にも大きかったせいで隣を歩く春千夜にまで聞こえたらしい。

「ぶはっだっせー。腹鳴ってるし」
「だってお腹空いてるんだもん」

そう言った瞬間、今度は春千夜のお腹の音がして、思わず笑ってしまった。

「だっさー。そっちこそ鳴ってるし」
「…オレも腹減って来たんだよっ」

恥ずかしかったのか、色白の頬が僅かに赤くなっている春千夜を見て、笑いを噛み殺していると、ムっとしたように目を細められた。何かこういう空気が懐かしい。昔もよくこうして言い合いしたっけ。

「つーか、オマエ、顏赤いけど大丈夫かよ?」
「大丈夫だよ。あ、この店にしよ」

目当ての高級イタリアンの店を見つけて入口まで走ってくと「早く」と春千夜に手招きをする。

「ここぉ?なーんか女が好きそうな気取った店っぽいな」
「まあ、高級有名店だしね」
「…ふーん」

春千夜はあまり興味がなさそうな顔で店内に入ると「二名だけど入れる?」と訊いている。時間が中途半端だからか、ちょうど帰る人達もいて、待つことなくわたしと春千夜は席へと案内された。高級な装飾を施した店内の奥スペースは落ち着く雰囲気だ。

「あまり大きな声で話さないでね」
「あ?何で」

せっかく声を潜めて言ったのに、春千夜が大きな声を上げるから慌てて「しっ」と手を伸ばして口を塞いだ。

「何だよ…っ」
「静かにしてよ…目立っちゃうでしょ?タダでさえ春千夜、派手なんだから」
「だったら何だよ」
「っていうか微妙に服装も被ってるしカップルコーデしてると思われたら迷惑なんだけど」

わたしは仕事をしてきた帰りだからコートの下は黒のパンツスーツだった。そして春千夜は白Tシャツの上に黒のジャケットを羽織っている。パンツも黒で統一していて、ハッキリ言って示し合わせたかのように恰好が酷似していた。

「オマエがそんな普段しないような恰好してんのが悪ぃんだろ?」
「仕事の時はスーツの方が気分的に引き締まるの!」
「はっ。雑用しかしてねーじゃねーか」
「それやらせてんの誰よ!」
「バヵ、しーっ」
「あ…」

ふたりでずっと声を潜めて話していたのに、つい声が大きくなって慌てて口を閉じる。ちょうどウエイターが来たので簡単に注文を済ませると、ホっと息をついた。

「なんつーか…周りはカップルばっかだな…」
「そうだねー。蘭さんも竜胆さんも今日はやけに早く帰ったっぽいし…。週末でもないのに皆してデートか…リア充爆発すりゃいいのに…」
「オマエ、デートする相手いねぇもんな」

春千夜に鼻で笑われてカチンとした。偉そうに言ってるけど自分だっておひとり様のくせに。

「それ春千夜が言う?っていうか春千夜は彼女いるわけ?」

グイッと身を乗り出しながら問い詰めると、春千夜はぐっと言葉を詰まらせた。

「オレは…特定の女は作らねえ主義なんだよっ」
「モテないだけじゃないの」
「は?わりーけどオレ、意外とモテっから」
「どこの物好き女よ、それ。ドМ女子?」
「あ?オマエだってキス魔のこじらせ女じゃねーか」
「む。わたしは別にこじらせてないもん」
「周りを無駄にこじらせさせてんだよ、オマエの場合っ」
「どんな風に?周りって誰よ」
「………(コイツ、未だに自覚ねーんか…)」

春千夜が深々と溜息を吐く姿にムっとしながら、誰がわたしのせいでこじらせてるんだろうと、本気で考える。そんなわたしを見て、春千夜が言った。

「オマエ、もう他の男に物ねだるのやめろ。ってかキスもすんな」
「何それ。春千夜に言われたくないし、キスは世界を救うのよ」
「は?世界?誰の」
「わたしのー」

と言って笑うと、春千夜に舌打ちされた。でもふと目の前の不機嫌そうな顔をマジマジと見た。今の春千夜の言葉が何となく引っかかったからだ。

「何だよ…ジロジロ見んな――」
「っていうか他の男って…誰の他に…?」

質問したのに春千夜はプイっと顔を反らした。む…何その態度。可愛くない。いや、顏は相変わらず可愛いんだけども。

その時――聞き覚えのある低音が頭上から降って来た。

「それ、オレ達にも聞かせろよ、三途」
「他の男にキスして欲しくないってことー?」
「え、蘭さんと竜胆さん…?」

顔を上げるとそこには相変わらず背景にキラキラを背負ってる兄弟がいた。先に帰ったはずのふたりが何でここにいるの?てっきりまた合コンという名の夜の航海に旅立ったと思っていたのに。

「チッ…何でオマエらがこんなとこにいんだよ…」
「そりゃー食事に決まってンだろ」
「この店、オレと兄貴の行きつけだし。ってか、何でオマエらがいんの?」
「お腹空いちゃって…」
「まさかオマエらデキてんのかよ」

ふたりは勝手に空いてる椅子へと座っている。同時に春千夜の顏がますます険しくなっていくのは、やっぱりふたりと仲が悪いから?と思っていると春千夜がイラっとした様子でふたりを睨んだ。

「オマエらに関係ねーだろ」
「ふーん。じゃあ話の続きだけど、他の男って自分以外のってことー?三途くん」
「…うぜぇ…」

隣に座った竜胆さんに肩を組まれて、春千夜は舌打ち連打で腕を思い切り振り払っている。うわ、ケンカ始まったらどうしよう。こういう場合、やっぱり美味しいお酒を皆で飲めば、少しは和やかな空気になるのかな。

「なーに考えてんだよ、
「え?」

いつの間にか蘭さんが隣に座ってて、わたしの顔を覗き込んでいる。相変わらずお綺麗ですね、と言いそうになるくらい顔が近い。お肌ツルツルで羨ましい。

「つーか三途とふたりで食事とかズルくね?」
「ズルい…?」
「オレも誘えって言ってんの」
「え、だって蘭さん達、どうせ美女達と合コンかと。それとも今夜はどこかの店の蝶を採りにいくんですか?」

そう尋ねると蘭さんは楽しそうに笑い出した。

「最近オレも竜胆もその手のことはしてねーって。至って健全な夜を送ってるし」
「え」

健全?灰谷兄弟が…?ウソですよね、と突っ込もうとした時、ふと気づいた。

「あ……遂にアッチがダメになったんですか?」

だいぶ前に盗み聞きしたふたりの会話を思い出し、小声でそっと聞いてみると、蘭さんに思いきり顏をしかめられてしまった。まあデリケートな問題だから仕方ないか。そう思っていると「余裕で元気だし」とデコピンされた。凄く痛い。でもお元気なら良かった。わたしの勘違いだったみたいだ。

「試してみるー?」

頬杖をついて蘭さんは意味深な笑みを浮かべた。何とも色っぽい。っていうか絶対わたしより色気あると思う。きっとお姉さま方はこの微笑みにノックダウンされるんだろうな。ヘッドショットならぬハートショットでお姉さま達を一発ダウンさせる蘭さんは夜のスナイパーと呼んであげよう。

「お断りします」
「即答かよ」
「一応、部下なので」
「一応って。つーかその部下にちゅーされてオレ的にはクセになりかけてんだけど?」
「あ、あれは…」
「物ねだる時限定?」
「そ…そーいう意見もなきにしも非ず…」

と言いかけた時、春千夜にジロっと睨まれた。どーせ変なクセを出すなよとでも言いたいんだろう。さっきの発言と言い、まだ中学生の時のこと根に持ってるのかな。

「じゃあ何が欲しいんだよ」
「え?」

不意に蘭さんが訊いて来た。何だ、その甘ったるい顔は。

「言ってみ?今、欲しいものは?」

蘭さんは更に魅惑的な笑みを浮かべてわたしを見つめてくる。この人、相当この微笑みで女を口説いてきたなと分かるほどの威力。眩しすぎて目がしょぼしょぼする。警戒してるわたしでも危うく騙されかけた。でも――。

「…欲しい物…」

って聞かれると何か欲しくなっちゃうのがわたしの悪いクセ。でもここでおねだりしたらキスしろって言われそう。でもそうか。バカ高いものを言えばさすがに蘭さんも「じゃあ、いいや」ってなりそう。いや、バカ高いバッグは買ってくれたけど、言ってみればアレはわたしが梵天に入った入学祝い(?)みたいなものかもしれないし、そうそう桁違いなものは無理な気がする。そう思ってダメ元で言ってみた。

「じゃあ…ロマネコンティ?」

と、いつもの甘え声で最上級のワインの名を口にすると、春千夜が白目を剥いて倒れそうになっていた。なのに蘭さんはニッコリ微笑んで――。

「ウエイター」

そんなひとことで黒服のお兄さんがサっと蘭さんの前へ来た。黒子かなと思うくらいに素早い。これってまさか…。

「ロマネコンティ、持ってきて」
「かしこまりました」

黒服のお兄さんが秒でかしこまったのを見て、「おぉぉ」とわたしもテンションが上がってしまう。でもすぐにクイっと顎を持ち上げられ、蘭さんの方へ顔を向けられた。

「ってことで、のキスはオレがもらっていいよなァ?」
「え、兄貴、それ抜け駆けじゃね?」

そこでやっと状況を把握した竜胆さんが口を挟んできた。春千夜に至っては真っ赤な顔で「灰谷テメェ、乱入してきてセクハラすんじゃねえ!」と怒鳴ってて、周りの視線を独り占めしている。え、春千夜ってそんなに紳士な男だったっけ。でも――それよりわたしは一つ素朴な疑問が湧いた。

「え、蘭さん、それだけの為に100万超えのワイン頼んだんですか」
「女冥利に尽きるだろ。オレに抱かれる気になった?」

くちびるを近づけながら、艶のある声でそんな台詞を口にする。蘭さんの銃口がわたしに向けられた気がした。

「なりません」
「…って、ならねーのかよ」

だって本気になったら沼りそうだから。