梵天のオバチャン



1.

梵天の事務所で働くことになって早いもので一年が過ぎた。今日もいつも通りの時刻に職場である渋谷の本部ビルに出勤してきた時任ときとうトキコ(年齢不詳)は、言ってみれば男ばかりの組織の中で、唯一紅一点という存在だった。

一年前、梵天幹部の部下だった夫は、幹部の一人、灰谷蘭をかばって別の組織に殺された。天涯孤独になり、年齢も年齢で働こうにも何の資格も持たないトキコでは、なかなか雇ってくれるところもない。そんな時、路頭に迷いかけたトキコに、亡き夫の兄貴分、いわば上司でもあった灰谷蘭が声をかけてきた。トキコからすれば息子くらいの年齢。けれども蘭にまつわる話は夫から散々聞かされ、その話通りの美しさに一瞬だけときめく。

「アイツのおかげでオレは助かったからな。もし働き口ないなら梵天の事務所で働くか?」

夫のおかげで裏社会生活も長いトキコは、蘭からの有難い申し出を受け、その日から梵天事務所の雑用という形で働くことになった。おかげで路頭に迷うことなく、それ以来、トキコは梵天で毎日楽しく仕事をこなしていた。ビル内の掃除や、片付け、幹部がいればお茶くみなど、本当に誰でも出来るような雑用でも、トキコは幸せだった。
それは――お金以外に大きな理由があったからだ。




2.

「トキコ、コーヒー淹れてー」

(ああ、今日も蘭ちゃんは素敵だわ。あの低音で名前を呼ばれるたび、ドキドキしちゃう…♡)

「トキコー!ここ汚れてんぞ!掃除しとけ!」

(まあ、春千夜ったら、相変わらずツンツンのツンしかないんだから。でもそこがゾクゾクしちゃう…♡)

「トキコ~これお土産~」

(はあ…ココくんってば本当に優しい。いつも私に何かしらお菓子を買って来てくれる。控え目に言って――好き…♡)

「あれー?トキコ、メイク変えたー?」

(やだ、竜胆くんってば目ざとい。さすが蘭ちゃんの弟さんだわ。ぎゅっとしてあげたいくらい新しい髪型も可愛いくて似合ってる…♡)

「おい、トキコ!なにニヤニヤしてんだ。気持ちわりーな」

(まあまあ…モッチーってば今日もワイルド…おひげも似合ってるし、私が毎日切り揃えてあげたい…♡)

「トキコ…オレに惚れんなよ?あいにくババァには興味ねーからさ」

(あらやだ…武臣ってば遠回しに惚れたら火傷するぜって言いたいのかしら。あいにく私もオジサンには興味ないのよ…)(!)

頭の中で好き勝手に妄想を繰り広げては、幹部のメンバーに名前を呼ばれるたび、トキコは豊満な胸をキュンキュンさせていた。この韻を踏みまくった名前は嫌いだったものの、梵天で働き出してから大好きになったのは、恋人を呼ぶように皆が「トキコ」と呼んでくれるからだ。それがトキコの消えかかっていた女の部分を大きくくすぐったのは間違いない。特に恩人でもある蘭に呼ばれるたび、少女に戻ったかのようにときめいてしまう。

(蘭ちゃんのあの魅惑的な瞳に見つめられたい…)

死んだ夫への愛など今ではすっかり空のかなた。美しい男達がいる梵天で働く時間は、トキコにとってこの上ない至福の時だ。
この日も、トキコは幸せいっぱいで事務所の掃除を終え、ついでに廊下の掃除も張り切ってやっていた。そこへ――大好きな蘭と弟の竜胆が戻って来た。二人のその手には"ショコラトール"の高級チョコの箱、そして昭和生まれのトキコが若い頃、憧れに憧れた、セレブだけが飲むことを許されていた"ドンペリニヨ~ン"がある。

(ま、まさかアレは私へのお土産――?)

と、勘違いも甚だしいトキコは今日も豊満な胸をときめかせる。

「おーただいま、トキコ。廊下の掃除までサンキュー。いつも綺麗で気持ちがいいわ」
「い、いえ…(やだ…綺麗なんて…)」(※オマエじゃない)

蘭に声をかけられ、お礼まで言われてしまった。ポっと音がしそうなほどに頬が赤くなり、いい歳なのに腰がモジモジしてしまう。

「何だよ、トキコ。トイレ行きたいなら我慢しないで行って来いよ」
「………」

通りすがり、竜胆はそんなことを言いながら蘭の後を追いかけていく。そして二人は事務所として使っている部屋へと入ってしまった。

(…もう…竜胆ってば意地悪。でもそこが可愛いのよ)

閉じられたドアを見つめながら、またしても勝手な想いを巡らせる。
――その時だった。中から愛しい男の「」と呼ぶ声がしたのは。
その瞬間、呆けていたトキコの顏が般若のように変化した。

(また、あの女…!忌々しいったらないわ!!)

これまで、梵天で唯一の紅一点というポジションを奪ったばかりか、大好きな灰谷兄弟に可愛がられている女。トキコからすれば何度殺しても殺したりないほどに憎い相手だ。

(少しばかり若くて可愛いからって私の蘭ちゃんに、しかも竜胆くんにまで可愛がられるなんて許せん…っ)

あまりの腹立たしさに、手にしていたモップの柄の部分をぎゅううっと握り締める。中からは何やら楽しそうな声で話す蘭と竜胆の声が漏れ聞こえて来て、トキコはそっと足を忍ばせ、ドアを少しだけ開けてみた。すると――。

「まず話すのが先だろ」
「一つくらい食べたらチョコの甘さでわたしの舌も饒舌になると思うんです」

憎き女、が蘭の方へ両手を出すのが見えた。何の話をしているのかとトキコは耳をすませ、細い隙間から中の様子を伺う。

「ふーん。じゃあ…はい」

すると愛しい男が手にしていた黒い箱の中からチョコレートを一粒取り出し、それを綺麗な形の唇へ挟むのがトキコの視界に飛び込んで来た。あげく身を屈め、チョコを咥えた顔をの前へと下げている。トキコの豊満な胸に嫌なものが過ぎった瞬間だった。

「ん」

蘭がに"食ってみろよ"と言わんばかりに、その美しい顔を近づけているのを見て、トキコの頭頂部に稲妻が落ちた。

(んまあああ!なんてことなの…!)

トキコは一旦、覗くのをやめ、壁に張りつき高鳴る胸を手で抑えた。身長の高い蘭が身を屈め、キスを強請るようにチョコを咥えた唇を差し出すその光景が、トキコの身体を震わせた。麗しの蘭にあんな顔であんなことをされたら、トキコの心臓は止まりかねない。今も全力疾走した後のように体内で心臓が暴れ回っている。実際にされたら、それこそ心臓発作を起こしてしまう…とトキコは思った。でもやはり続きは気になる。手で胸を抑えながら、トキコは再びドアの隙間から中を覗いてみた。

(がぁぁぁっ!)

トキコの身体が、今度は怒りで打ち震えたのは、まさに今、目の前で行われている信じられない光景のせいだった。蘭がの唇を塞ぎ、キスをしている。しかもべろちゅーと言われる類の深いキスだと分かるほど、濃厚に唇を重ねている。愛しい蘭の舌が今、の咥内を弄っているかと思うと、トキコの胸中に嫉妬の炎が燃え広がった。

(あ、あんの小娘…!わ、私の蘭ちゃんとディ、ディープキスするなんて100年早いんじゃ、クソボケカスが!)

反社の男と結婚するだけのことはある。トキコもまた、過去にレディースなるチームに所属し、地元では負け知らずという有名なフレーズで名を馳せたヤンキーだった。

(ガリの貧乳のクセに!許せん…!絶対スタイルは私の方が勝ってるわ!巨乳だし!)

若い頃はそれなりの美貌を持ち、男をコロコロお手玉の如く手玉にとっていたトキコ。細身でも出るところは出ていたナイスバディも、年月を重ね、今は見る影もない。現代風で言えばポッチャリ系と呼ばれる枠に入っていることに気づいていないのは本人だけだった。
どうにか絶え間なくこみ上げる怒りを抑え、トキコは震える手でモップの柄を握り締めたまま、もう一度、部屋の中を覗く。するとちょうど蘭との唇が離れた時だった。

「ん、ちょ…何で蘭さんが食べちゃうのっ」

(…た、食べた…?)

「一瞬は味わえたろ?」

(私も蘭ちゃんのチューを味わいたい…!)

「…あんなんじゃ足りない」

(はあ?!足りないなんて舐めてんの?!)

「へえ、はもっと濃厚なキスをご所望か」

(私もご所望してるわ、蘭ちゃん!)

二人の会話を聞きながら、脳内で割り込んでいくスタイルのトキコは、すでに鼻血が出そうなほどの興奮状態。堂々と事務所内でセクハラを敢行する蘭を見て(私にもして…♡)とドアの隙間から念を送る。しかしトキコの衝撃はそれだけじゃなかった。次は竜胆がチョコとドンペリニヨ~ンでを釣っているのを見て、遂に握り締めていたモップがミシミシと嫌な音を立て始めた。

「おねだりの仕方、間違ってねえ?」
「竜胆さんまでそんなにチューして欲しいんですか」
「うん、して欲しい♡」

(私がしてあげる…!)

竜胆の甘え顔に、トキコはすでに大興奮状態。しかし竜胆が甘えてる相手は自分よりも後から入った小娘のという腸の煮えくり返る状況に、トキコは怒りと興奮の合わせ技で大量の汗が噴き出て来た。その汗が垂れて、充血していた目に入った瞬間、激痛が走る。

「…〇×◇※…っつ」

あまりの痛みに叫びそうになったトキコは慌ててドアから離れると、仕事着のポケットに入れていたミニタオルで汗を拭く。

「ふう…危なかった…」

まずはホッと息を吐き、呼吸を整えること一分。さてあの後はどうなったとばかり、トキコは隙間から中を覗く。すると何やら二人はに返事を迫っていた。

「オマエはどっち選ぶんだよ」
「え?!どどどどっち…って…」
「そーだなー。、オレと兄貴、どっちに抱かれたい?」

(…どっちもです!)

答えないの代わりに心で叫ぶ欲張りのトキコ。その時だった。
背後から「何してんだ、トキコ…」というドライアイスが流れて来たのかと思うほどの冷え切った声が聞こえた。

「は…春千夜…さん」

振り向けば怪訝そうに片眉を上げてトキコを見下ろす春千夜が立っていた。

(あああぁ!こ、こんな至近距離に春千夜の美しい顔が!しかも私を見つめている…)(違)

睥睨されているといった方が正しいのだが、トキコの両目には春千夜が優しい眼差しで自分を見つめてくれていると脳内変換されていく。

「邪魔なんだよ。どけ!」

うっとりとしているトキコに気づかず、春千夜はいつもの暴虐武人な態度でトキコを押しのけた。しかしトキコには何の威嚇効果もなく。

(ひあぁあぁ!は、春千夜の手が私の肩に…!う…っ鼻血でそう…)

どつかれただけなのに歓喜するトキコを尻目に、春千夜が3人のいる事務所の中へと入っていく。しかし今、中には春千夜と犬猿の仲である灰谷兄弟がいる。これまた修羅場になるのでは――。と、トキコが再び、今度は別のドアの隙間から覗こうと近づいた瞬間。バン!と勢いよくドアが手前に開き、トキコの顔面を強打した。

「え?あ…!トキコさん、いたんですか?すみません!」

ちょうど春千夜と入れ違いで別のドアから出て来たが、慌ててトキコの顔を覗き込む。痛みで言葉を発せないトキコは、涙目でを睨みつけたものの、これまでたっぷり興奮していたせいか、鼻からポタリと鼻血が垂れてギョっとした。

「うわ、鼻血!トキコさん、大丈夫ですか?」
「だ…だいひょうぶ…れす」
「ほんとごめんなさい…!あ、これ使って下さい…!」

そう言いながらは高級バッグの中に手を突っ込むと(私も欲しかった限定バッグ!)そこから可愛らしいハンカチを取り出し、トキコの手に持たせた。

「………」
「ほんとごめんなさい…。あ、あとコレ食べて下さい。――じゃあ、わたし、急ぐので」

トキコの手をぎゅっと握って謝罪したは、もう片方の手に箱から取り出したチョコを一粒乗せ、可愛らしい笑顔を見せてその場を立ち去った。

「……何よ。いい子じゃない」

自分の手に押し付けられた可愛らしいハンカチをそっと鼻に持っていくと、ふわりと優しい香水の匂いがした。もう片方の手のひらには高級チョコレート。それはさっき蘭がに口移しで食べさせていたものだと気づく。しばしの感動を覚えつつ、いつまでもチョコを手のひらに乗せておけない。溶ける前に食べてしまおうと、トキコがチョコを口へ入れようとしたその時。再び勢いよくドアが開く。ガコンっという変な音と共に、トキコの後頭部へ激痛が走った。

「あ?まだいたのかよ、トキコ!邪魔なんだよ、テメェ」

中から出て来たのは春千夜で、「チッ!、どこ行きやがった!」と慌てたようにエントランスへ走っていく。その後ろ姿を呆然としながら見送っていたトキコの視界に、潰れた黒い物体が映る。それはドアがぶつかった拍子に床へ転がったチョコを、春千夜が見事に踏み潰し、粉砕していった残骸だった。

「もう…春千夜ったらヤンチャがすぎるんだから♡」

困った人!とデレつつ、トキコは手にしたモップで床掃除を再開した。
これが――梵天のオバチャン、時任トキコの日常だった。