第一夫人の席が空いてるので



淡いライトに照らされた窓際のカウンターに座ると、目下に東京のキラキラした夜景が広がっている。なのに隣に座る梵天のお姫様は夜景に見向きもしない。相当ご機嫌斜めらしい。
ここは高級ホテル最上階にあるバー。たまたま仕事を終えて一杯飲みたくなったオレは、ひとりでフラリと立ち寄った。今夜は女友達とご飯に行くと言って先に帰ったが、まさか知らない男と仲良く飲んでいるなんて思いもしなかったし、別に邪魔をしてやろうと思ったわけじゃない。でもうちのボスの大事な従妹に変な虫がついちまったら困るな、と、そんな言い訳が浮かんでしまった。

「そろそろ機嫌直せよ」
「…だって…さっきの絶対わざとらもん、蘭さんてば」
「んー?何のこと?」

苦笑しながらワイングラスに口をつける。が好きだという最上級の赤ワインを頼んだのに、彼女は未だ、口をつけてくれない。まあ、だいぶ出来上がってはいるけど。

「"オレの女と何してんの、オマエ"って…いつからわらし、蘭さんの女になったのー?」

呂律の回らない口を尖らせてるはどこか幼い子供みたいだ。さっきからスツールの下でプラプラさせてる足からはヒールが落ちそうになってる。

「ああ…あれはヤルことしか考えてねえ男に見えたから威嚇しただけ♡」

オレが見かけた時、あの一見紳士そうな男はの背中や尻をいやらしく撫でまわし、いかにもエッチ目的って感じだった。一応"上司"としては見過ごせねえし、助けてやったってのに、その張本人は「いい人らったのになぁー」なんて文句を言ってるんだから呆れてしまう。

「オマエのいい男ってベタベタ体触って来るような男なのかよ」
「…え…触ってた…?」
「触ってたろ。オマエの尻を。気づいてないくらい酔ってんじゃねーか、テメェは」

キョトンとした顔でオレを見ているのオデコを小突けば、むうっと唇を尖らせる。まったくガキのくせに色気は一丁前にあるから変な男が寄って来るんだと溜息が洩れた。まあ、今はその中にオレも入るかもだけど。

「…これ、飲んでいい?」

は手持無沙汰になったのか、やっと目の前のワイングラスに興味を向けた。

「あ?いいけど…オマエ、それ一杯でやめとけよ。酔ってんだから」
「…うん」
「お、どーした。いつもより素直じゃん」
「そ…んなこと…ないれす」
「…いい加減その敬語やめろよ」

苦笑しながら言えば、「一応…蘭さん上司らし…」と失礼なことを言ってきた。一応って。こんなに危なっかしい部下を心配してんのはオレくらいだろ。可愛い部下を危険な仕事から遠ざけて、なるべく安全面を考慮した仕事を割り振ってやってんのに、は全く分かってねえから、いっつも文句ばっか言って来る。どうもオレや竜胆が意地悪してると思い込んでるみたいだ。

「その上司にいつも逆らってんのはどこの誰ー?」
「…う…」
「つーか、あんな男と今夜はどこで何しようとしてたんだよ」

話を元に戻すと、は首を傾げながら「別に何も…考えてなかったぁ」と笑った。

「でもいい人なら付き合うのもありかなーと。顔、わりとタイプらったし」
「…は?オマエ、あんな垂れ目がタイプなん」
「そーいう蘭さんらって垂れ目枠じゃないれすかー」
「テメ、人を勝手に枠にいれんな」
「い、痛いれすよーっ」

顎を片手でむぎゅっと掴めば、唇が突き出て不細工な顔になった。軽く吹き出しながらも、その顏を見てたら自然と唇を寄せていて、軽くちゅっと口づければ、はぎょっとした顔で体を引いた。

「な…セクハラれ訴えますよ…っ」
「梵天幹部のオレを訴えるとか。言っとくけどウチのお抱え弁護士、優秀だからな?」
「む…」
「それに最初にセクハラしてきたの、だし、勝ち目ねぇよなぁ?」
「ぐ…」

言いながら顔を覗き込むと、の目がいきなり左右に泳ぎだす。どうせやぶ蛇だったって思ってんだろうけど、はマジで嘘のつけない性格だ。ついでに自分の欲に素直で、甘え上手なキス魔ときてる。こんな危なっかしい女、その辺の男じゃ手に負えねえだろ。そう思った瞬間、いいことを思いついた。

「ってか、あれじゃん。、垂れ目好きならオレと付き合えば。そしたらセクハラになんねーし」
「はい?」
「ん?」

互いに首を傾げつつ、向き合うと、呆れた顔のと目が合う。オレ自身、何言ってんだと思ったけど、でも言葉にしてから気づいた。それも案外悪くないんじゃないかって。っていうか、をたっぷり甘やかしてやれる男はオレしかいない。

「オレにしとけよ」

なんて、冗談半分、本気交じりで言ってみた。でもはジっとオレを見つめて、その視線を目の前の夜景に戻すと、いきなり吹き出した。

「わらし、蘭さんの第3夫人とかなりたくないれすー」

ワインを飲むの頬は赤い。でもそれは酒で赤いのか、照れて赤いのか。どっちだ。つーか上手く交わされた感が否めない。は甘え上手なくせに、こっちが近づくとサラリと逃げていく猫のような女だ。なかなかに手強いから、またつい手を伸ばしたくなる。

「な…何れすか…」

ジッと見つめると、は戸惑ったようにその大きな瞳を揺らす。警戒心丸出しで、毛を逆立てる仔猫のようだ。そこでふっと笑みが漏れた。

「あまいなァ、オマエも」
「…え?」
「第3じゃなくて、は第8夫人ってとこだろ、せいぜい」

言いながらの頭を撫でると、ひたすら軽蔑の眼差しを向けられた。

「…やっぱ蘭さん、そーいう男なんれすねー」

そんなことを呟きながらワインをグビグビ流し込むと、は「帰ります」と言ってスツールから下りる。でもかなり酔っているから足に力が入らなかったのか、膝からガクンと崩れ落ちた。

「ちょ、何してんだよ」
「ったぁ…」

驚いてしゃがみこむと、は床に座り込んで腰を擦っている。ったく、マジで目が離せねえ女だ。

「立てるか?」
「…う…む、無理…かも」

は完全に腰を抜かした状態だった。聞けばさっきの男に飲みやすいカクテルを何杯も飲まされたようだ。

「ほんっとオマエはバカか。それレディーキラーって呼ばれてる酒だろ、どうせ」
「…え…なにそれ」
「口当たりはいいけど、めちゃくちゃ度数の高いカクテルはそう呼ばれてんの。要は女酔わせてホテル連れこもうって男が好んで飲ませる酒だ」
「……そ…そうなんら…」

は呆気に取られたような顔だ。こんなことも知らないで会ったばかりの男が勧める酒をガバガバ飲むなんて無防備すぎだろ、とイラッとした。

「ったく仕方ねぇなあ…ちょっと待ってろ」

とりあえずをその場に残し、会計だけ済ませると、再びのところへ戻った。立てないことに驚いたのか、今じゃすっかりヘコんで泣きそうな顔でオレを見上げるから、ガラにもなくオレが何とかしなくちゃいけないと思わされる。

「ほら」
「…え?」
「え、じゃねえよ。サッサと乗れ」

に背中を向けておぶってやると促す。ハッキリ言って腰の抜かした人間を運ぶにはコレが一番楽な方法だ。こんな高級ホテルのバーで、何が悲しくて部下をおぶらなきゃなんねーんだと苦笑が洩れた。
最初は渋ってたも、立てないことで諦めたらしい。おずおずとオレの肩に手を乗せて覆いかぶさって来た。

「んじゃ立つぞ」
「は、はい」

の足を持つようにして立ち上がると、は驚いたように「わっ」と声を上げて、オレの首に腕を回してしがみついて来た。

「すごーい。視界が高くなったぁ」
「…はあ。しっかりつかまっとけよ…」

無邪気に喜ぶに溜息を吐きつつ、バーを出る。あの大人空間で女をおぶって歩くのは、さすがに目立つし注目を浴びた。可愛い部下の為とは言え、何でオレが…と思わないでもない。でもエレベーターに乗ってふたりきりになった時、がひとこと呟いた。

「…蘭さん…」
「なにー」
「ありがとう…御座います」
「…何だよ。素直じゃん」

思わず笑うと、首に回っていた腕にほんの僅か、力が入ってぎゅっとされた。

「…第8夫人…なってあげてもいいかなぁって思っちゃった」

肩越しに顔を埋めながら呟くから、ついドキっとしてしまった。ほんとはこういう甘え方が上手いんだから嫌になる。

「あげてもいいって上目かよ」
「えへへ…」

「とことんムカつくな、オマエ」と笑いながら、でもふと思った。

「つーか、オレ今、彼女いねぇし、何なら第一夫人の席が空いてるけど?」

でも彼女からの返事はなかった。

「って、寝てんのかよ…」

耳元で静かな寝息が聞こえて、思わずひとりツッコミをしてしまった。一瞬、良からぬことも頭を過ぎったが、ふとエレベータ内の鏡に映った無邪気な寝顔を見ていると、自然に笑みが零れ落ちる。
まあ、今夜くらいは紳士に徹してやるとするか。