灰谷家でのアルバイト-⑴




「ない…」
「は?」
「お金がない…!」

梵天事務所の春千夜の私室にて。わたしの雄たけびを聞いた春千夜が、その大きな瞳を更に更に大きくして、その一秒後には半分以下にまで細められた。せっかくの美人顔をわざわざブサイクにした春千夜は呆れたと言う感情を一切隠そうとしなかった。

「オマエな…いくらオレに金返したくねえからって、そんな嘘つくなよ」

そう、今日は毎月やってくる春千代への借金返済日。でも今現在わたしの銀行預金額はワンコインだった。笑えないけどマジだ。

「ウソじゃないもん。見て?今、記帳してきた通帳を!」

通帳を開いてずいっと春千夜へ見せると、そこには情けない数字が並んでいる。春千夜は絶句といった顔で二度見までしてた。あげく若干垂れ目の瞳をカッと釣り上げるのが怖い。

「…は?オマエ、何でこんなにビンボーなんだよ?いくら新人つってもパンピー会社の役員くらいは払ってんだろーがっ」
「そ…それが…ですね…。わたしにも諸事情が…」
「テメェ…まーたカードで何かクソ高いもん買っただろ」
「……えへへ♡」

と、笑って誤魔化した瞬間、春千夜の綺麗なお顔に青筋が数本浮き出た。

「エへへ じゃねーよ!この散財女!何買ったんだよ、100万近くも!」
「いや…買った…っていうか……その…ほら!見て、この肌。ツルツルでしょ?」
「は?」
「このネイルもめちゃくちゃ可愛いし。あ、髪も艶々になったと思わない?」

春千夜の腕にしがみつき、自分磨きをアピールしてみた。春千夜は一瞬だけギョっとした顔で僅かに頬を赤くしながら「な…」とか「お、」とか言葉にならない声を上げている。でもわたしの腕を振り払うと「そんな顔しても騙されねーからなっ」と、すぐにいつもの春千夜に戻ってしまった。チッ。学習しやがって。

「要するに…オマエは何かを買ったとかじゃなく…エステだのネイルだの美容室だの下らねえもんに金を使いまくったと…そういうことかよ?」
「下らなくないよ!自分磨きだもん」
「磨きすぎだろ、テメェ!いったいどんな高級店に行ったんだよっ」
「それは…だって…っていうかエステの会員費がバカ高くて、殆どそれに…」
「ハァ?」
「ごめんなさい…」

春千夜の説教が長引かないように、ここは素直に謝罪する。じゃないと延々文句を言われそうだし。わたしが素直に謝ったからか、春千夜は「う…」とまた言葉を詰まらせて小さく舌打ちをしている。

「んで…今月分は払えねえから待ってくれってことかよ」
「う、うん…まあ…」

と言って来月も払えるか微妙なとこなんだけど。それに今月ワンコインで生き抜ける自信がない。ということは…。

「それでね…春千夜にお願いがあるんだけど…」
「あ?」
「どーかお金を貸して下さいっ」

土下座するより、こっちの方が早いとばかりに春千夜にしがみつく。でも春千代は「あぁ?!」と怖い顔でわたしを見下ろした。まあ普通はそうなるよね、と内心思う。でも困ってるのは本当なのだ。ここはどんなに睨まれても引けない。ココちゃんには前借りさせてとは言いにくいし、蘭さんや竜胆さんに頼ればわたしの操が危ない。
春千夜は呆れ顔のまま、ジっとわたしを見下ろしてたけど、不意にニヤリと笑みを浮かべた。え、怖いんだけど。

「分かった。貸してやるよ。利子もなしだ」
「え!ほんと?」
「ただし」

と春千夜は言葉を挟んでわたしの腰に腕を回した。

「当然、タダってわけにゃいかねえなぁ?」

何だ、そのニヤケ顔は。地味に腰を撫でる手つきがエッチなんだけど。

「…え。それってどーいう…」
「担保はオマエの体で払ってもらう」
「は?か、体って…」
「来月、オマエがもし今、貸す金と例の借金の金を返せなかった場合は――」
「ば、場合は…?」

わたしがゴクリと喉を鳴らすと、春千夜は悪魔の微笑みかと思うような恐ろしい笑みを綺麗な顔に浮かべた。

「オマエの処女をもらう」
「……な…」

何でわたしが処女だと知っている?!と、つい叫んでしまいそうになった。この歳でまだ処女とか恥ずかしくてリカちゃんにしか言ってなかったのに!

(いや…春千夜のことだからカマかけてるのかも…)

そう睨んだわたしは春千夜の胸元を押して体を離した。

「ざ、残念だけど処女はとっくのとうにないから無理――」
「嘘つけよ。知ってんだぞ?例の御曹司の元カレから聞いたし」
「……ぅ」
「アイツに結婚詐欺で訴えられてたろ。オレがオマエ探してる時に会いに行って事情を聞いたら、初めてって理由で何度も拒まれたってことまで教えてくれたわ」
「……(あんのバカボン…余計なことをっ!)」
「で?どーする?」

ニヤニヤしながら聞いて来る春千夜はどうやら本気のようだ。っていうか女になんか困ってないクセに何で弱者のわたしをイジメるんだ。まあそれは灰谷兄弟にも言えることだけど。

「初めての相手が春千夜って何か…違う」
「あぁ?どーいう意味だ」
「だって…何か色々痛いことしてきそうだし…」

このドエス男が優しく抱いてくれるはずがない。わたしにだって脱ヴァージンの夢はあるのだ。やっぱり優しいイケメンに蕩けるくらい優しく抱いてもらいたい。そういうの春千夜みたいな粗暴な男には絶対無理だろうし。

「あっそ。んじゃー金は貸してやんね。つーかそもそも痛いことなんてしねーけどな、オレは」

春千夜は不機嫌そうに肩を竦めると、わたしに背を向けて自分のデスクチェアに腰を掛けた。何だ、そのどこぞの社長みたいな座り方は。

「飢え死にしても知らねーからな」
「いいもん!今月の生活費くらい自分でどうにかするから」

べえっと舌を出したら春千夜の口元が引きつっていた。そのまま部屋を飛び出し、自分のデスクへ戻ろうとした時、

「また金欠かよ」

と苦笑する声がした。驚いて振りむけば、廊下の壁に蘭さんが寄り掛かって立っている。

「え、何でここに…」
「三途に用があって来たらの声が聞こえて来たから」
「…聞いてたんですか」
「まあ少しだけ」

苦笑交じりで言いながら、蘭さんはわたしの方へ歩いて来た。何か嫌な予感がするのは気のせい?

「今月分の金、オレが三途に払ってやろうか」
「…えっ?」
「今月分の生活費も出してやるよ」

目の前に屈んだ蘭さんはニッコリ微笑みながらわたしの頭を撫でた。いや、でも美味しい話には裏があると言うし素直に受けたら危険な気もする。

「あれ。警戒してんの」
「だ、だって…」

これまでも嫌というほど交換条件を出されて来たんだから当然タダじゃないはずだ。そう思って蘭さんを見上げると、「オレも信用ねえなあ」と笑いだした。

「オレはに処女を寄こせとまでは言わねえけど?」
「…え…(そこも聞かれてたのか…!)」
「そーいうのは交換条件で奪うんじゃなく、オレにあげたいって思ってくれねえと意味ないからなー♡」
「え…じゃあ…ほんとに交換条件はなし…?」

恐る恐る、でも期待を込めて尋ねると、蘭さんは「そういうのはねえよ」と言った。

「金を出すって言ったのは給料って意味」
「え…給料?」
「そ。オレの家でバイトしてくれたら、さっき言った金を払う。どぉ?」
「え…蘭さんの家でバイト…って…」
「オレと竜胆が先月引っ越したのは知ってるよな」
「知ってます。めちゃくちゃ広いマンションの最上階フロアに引っ越したって言ってたし」
「そ。んで…広すぎるから掃除とかこまめにしてくれるハウスキーパー雇おうと思ってたんだけど、やっぱ知らない人間は入れたくねーじゃん」
「え…まさかそれをわたしにやれと…」

蘭さんはまたしてもニッコリ微笑んだ。その綺麗な笑顔が眩しくてわたしのすさんだ心に沁みる。

、もっと仕事くれって言ってたろ」
「え、いや、それは梵天としての仕事で…」
「オレんちの仕事もある意味そうだけど?」
「で、でもわたし、家事とか苦手だし…」
「毎日じゃねーよ。必要な時に呼ぶからそん時だけ部屋ん中を片付けてくれればいい」
「はあ…」

それくらいなら…と思ってしまうところが怖い。でも次の蘭さんの言葉でわたしの胸がときめいたのは仕方のないことだった。

「時給10万でどう?」
「えっ」
「いい話だろ?」

わたしの両目がスロットマシンの如く回って最後に諭吉が綺麗に並んでしまった。

「やります!ハウスキーパーやらせて下さい」

張り切って応えると、蘭さんは「決まりだな」と微笑む。その神々しい笑顔が神様のように思えた。まさかこのバイトを引き受けたことが受難の始まりだとは、この時のわたしに分かるはずもなく。灰谷兄弟の恐ろしさを身を以て体験することになるなんて、想像すらもしていなかった。