弟は彼女に看病されたいの巻⑴



灰谷家でバイトを始めて一ヶ月は経とうかという本日。呼び鈴で下僕を呼ぶかの如く、ケータイが鳴った。今日は蘭さんが出張で北海道に行ってるから少し油断してた。弟の竜胆さんが残っていることを忘れるなんて、わたしってばウッカリさん。延々鳴りやまない呼び鈴のような着信音を聞きながら、わたしはセバスチャンじゃない!と心で叫びつつ――先日アニメサイトで見たハイジにハマってる――電話に出る。電話の相手はもちろんロッテンマイヤーさんではなく。髪の色がラベンダーとバイオレットの派手な髪色をしたお兄さん(弟だけど)からだった。今日はどんな(最高の)お仕事内容なんだろうか。最近この呼び出しが地味に楽しくなってるかもしれない。

「もしもし!」
『………?』

張り切って電話に出たものの。てっきり竜胆さんかと思えば、似ても似つかないほどのしゃがれボイスが聞こえて来て、思わずケータイを耳から離す。

「だ、誰…?」

と、改めて画面を確認。でもしっかりそこには"りんどーさん"(漢字が分からなかった)と表示されている。ん?と思って、もう一度ケータイを耳にあてる。するとかすかにハァハァ…という興奮したような息遣いが聞こえて来てギョっとした。

(こ、これは…かの有名な変態電話?!)

ケータイ普及と共に撲滅状態にあるという、あの伝説の変態電話ネタは"本当にあったエッチな話"という怪しげな名前の体験投稿サイトで見たことがある。まだケータイなんてものがない時代、家の固定電話に時々かかって来ると言うその電話は、出ると男の声で延々とエッチなことを囁かれるらしい。

『今、ひとり?君、どんなパンツはいてるの?色は何色?好きな子とかいる?おち〇ちん見たことある?セックスって知ってる?etc...』

などと発情期を迎えた猿のような男から、エッチな質問を浴びせられ、次第に興奮した男のハァハァという息遣いが聞こえてくるまでがワンセットらしい。今そんな言葉を公に口にしようものならセクハラで訴えられる案件だ。(※その前にいたずら電話は犯罪です)
その伝説(!)の変態男が何故わたしのケータイに?しかも竜胆さんの名前を語ってかけてくるとは怖いもの知らずな変態だ。

「あのーそういうの間に合ってます。しかも竜胆さんのケータイ使うとか、あ、まさか落ちてたのアナタが拾ったとか?」
『……は?なに…言ってんの…オマエ…ゴホッ』
「わたしが知ってる竜胆さんはそんなガッサガサな声じゃありません。バレバレです」

こういう変態にはビシっと言ってやらないとダメだ。こっちが怖がったりしたら余計に興奮するらしいし。

『…いや…オレ…竜胆だけど…』
「だから竜胆さんはそんな汚い声じゃ――」
『風邪、引いてんだよ…っゲェッホ…ゲホッ…ハァハァ…苦し…』
「……ッ」

急に怒鳴られたうえに激しく咳き込まれ、思わずケータイを耳から離す。言われてみれば確かにどことなく竜胆さんぽい話し方だ。そう言えば…と夕べの蘭さんの話を思い出した。

――竜胆、ちょっと今、風邪気味でさ。薬飲んで寝てんだよ。だから静かになー?

いつもの呼び出しで行った際、蘭さんがそう話してた。軽い症状だから一晩寝てれば治るだろって。※ちなみに昨日のバイトは蘭さんと一緒に色んなショコラティエの高級チョコレートを食べ比べするお仕事で、お菓子に目がないわたしには最高の仕事だった。あれはまたお願いしたい。いや、でも最後は散々蘭さんにちゅーさせられたけど。(ある意味蘭さんも変態かもしれない)

「え、えっと……ホントのホントに竜胆さんですか…?」
『そ…言ってんだろ…ゲホッ…ゲホッ』
「だ…大丈夫…ですか?風邪が悪化したんじゃ…」
『…だから…に電話してんの…今すぐ来て……』
「………」

弱っている竜胆さんから"今すぐ来て"というパワーワードが出た瞬間、胸の奥がキュっと音を立てた。これは母性本能というやつかもしれない。そんなものがわたしの中にもあったのかと驚いたけど、どうにかしてあげたいと思ってしまった。なんてちょろい女だろうと自分で呆れる。でもこの時ばかりは風邪が移るなどと言っている場合じゃないことだけは分かった。今夜は蘭さんが不在であの無駄に広い家に風邪で寝込んでいる竜胆さんはひとりぼっちという事実。ほぼ毎日あの家に通っていてハッキリしているのは、あの家の冷蔵庫にはまともな食材はないということ。その都度必要なものを配達してもらってるみたいだけど、竜胆さんはこの様子だとまともに動けないのかもしれない。

そこまで考えると「今すぐ行きますので竜胆さんはちゃんと寝てて下さいね」と言っておく。変態と間違えてごめんなさい、と心の中で謝罪しつつ、すぐに事務所を飛び出した。今日はもう自分の仕事は終わってるし、春千夜が戻って来たら飲みにでも連れてってもらおうかなと思っていたけど、飲んでいる場合じゃない。いつもお世話になってる竜胆さんが寝込んでいるなら看病しなくちゃと、途中で薬局に寄ってスポーツドリンクやビタミン剤、冷えピタなどを買った。あるかもしれないけど別に余分にあってもいつかは使うだろうし無駄にもならないはずだ。薬局を出ると、すぐに駅前通りに出てタクシーに飛び乗った。その数分後、六本木のタワマン前に降り立ったわたしは、いつものように豪華なエントランスへと入って行った。

「お帰りなさいませ。灰谷様」
「……(出たな、高木(45))」

ニコニコと愛想のいい笑顔を浮かべているコンシェルジュ高木に、わたしも軽く会釈をすると、すぐに最上階直行便のエレベーターに乗り込む。これのいいところは待たなくても、すでにロビーに止まっているということだ。

「ふう…何か高木さんの方が灰谷兄弟よりも最近、圧を感じるわ…」

灰谷家の人間じゃないことは薄々気づいてるっぽいのに、絶対に態度を崩さず、わたしのことを「灰谷様」と呼び続ける彼の信念は凄い。でも呼ばれる方は何となくマインドコントロールされてるような気分だ。あ…わたし、灰谷だっけ…と思わせる高木さんはこの道のプロフェッショナルかもしれない。そんなどうでもいい考察をしていると、エレベーターは最上階に到着した。

「相変わらず綺麗な玄関…」

玄関といっていいのか分からないけど、とにかく"エレベーター降りたらそこは灰谷家"へお邪魔する。何度も来てるから、どこが竜胆さんの部屋かは分かっている。一度だけだけど入れてもらったこともあった。竜胆さんに呼び出されてリビングにドーンと設置された大画面のテレビで一緒に映画を観るというバイトで、竜胆さんの部屋にある大量のDVDコレクションの中から「観たいもの選んで」と言われた時だ。

「竜胆さん…です」

まずはドアをノックして声をかける。すると中からさっきのしゃがれ声で「…入って」と聞こえて来た。静かにドアを開けて「お邪魔します」と言ってから中を覗くと、そこはカーテンが閉め切られて薄暗い。

「…大丈夫ですか?」

すぐにベッドの方へ歩いて行くと、竜胆さんはもそもそと布団の中から顔を出した。いつもセットされている髪もボサボサでサイヤ人みたいになっている。鋭い瞳も今は気怠げで、普段よりも幼く見えた。何か可愛い。と思ったのは内緒だ。

「だいじょうぶじゃねえ…怠いし頭と喉が痛い…」
「薬は?」
「あー…朝は飲んだけど…夜はまだ…」

と言って、竜胆さんはベッド脇にあるチェストの上を指さした。そこには風邪薬らしい袋と水の入った容器、他にグラスが置いてある。

「竜胆さん、何か食べました?」
「…いや…寝てたし食ってない…」
「じゃあ…今日は急だったからレトルトのお粥買って来たんですぐ温めますね。それ食べたらお薬飲みましょ」
「…ん」

相当具合が悪いのか、竜胆さんは素直に頷く。何か子供みたいで可愛い。

「あ、これ飲んでて下さい。水分はきっちり摂らないと。キッチン借りますね」

チェストの上にスポーツドリンクのペットボトルを置いて、わたしはすぐにキッチンに向かった。一応、冷蔵庫の中を見たけど、やっぱりチーズとかチョコとかお酒しかない。食材は明日にでも買いに行くとして、今はレトルトのご飯でも何でも食べさせないと体力がつかない。

「えっと…このお鍋使っていいかな…っていうか絶対これ新品だよね」

キッチンの下の棚に鍋類がしまわれてるけど、どれもピカピカの未使用品って感じだ。とりあえずちょうどいい小鍋を出して、軽く洗うとそこに水とレトルトのお粥を入れて火にかけた。その間に食器棚を見て、大きめのお椀のようなものを出した。後はスプーンを探して引き出しの中を開けていく。

「あ、これかな」

カレー用のスプーンを出して高そうな木彫りの薄いトレーにセットする。

「とりあえず買って来たものを出しておこーかな」

残りのスポーツドリンクと、後はプリンやゼリーを冷蔵庫へ入れて、レトルトはキッチン台に並べておく。たったそれだけで生活感のなかったキッチンが一気に庶民的になった気がした。

「…ふたりとも料理なんてしなそうなのに無駄にハイスペックなキッチンなのよね」

鍋のお粥が温まるのを待ちながら、ぐるりと見渡した。本当に広くて、ここに一人でいたら寂しいだろうな、なんて余計なことを考える。

「そろそろいいかな」

沸騰した鍋を見て、IHを止めるとお粥をお椀へと移す。わたしも殆ど家事はしないけど、これくらいなら出来る。

「これでよし、と…」

お椀もトレーに乗せて再び竜胆さんの部屋へ戻ると、さっきとは違い、ベッド脇のスタンドライトが付けられていた。

「竜胆さん、お粥出来ました」
「…うん…ゴホッゴホッ…」

また布団の中からもそもそと顔を出すと、竜胆さんはゆっくりと上半身を起こした。寒いのか、パジャマ代わりに厚手のトレーナーを着ている。室内には加湿器が付いてるけど、少し湿度が高めで蒸し暑い。

「はい、これ食べて」

と、お腹の辺りにトレーを置こうとした時、ふと竜胆さんがわたしを見た。

「食べさせてくんねーの…?」
「…え」
に…食べさせて欲しいなぁ…」

ニヤリとしている竜胆さんを見て、わたしは思わず目が細くなった。具合が悪い時でもそういうおねだりは忘れないらしい。

「……意外と元気ですね、竜胆さん」
「いや…全然、元気ではない」

そう言って笑ってるけど、やっぱりツラそうに見えた。これは早く食べさせて薬を飲ませないと、と思ったわたしはベッド端に腰を掛けてスプーンでお粥を掬う。

「ちゃんとふーふーしてな」
「……子供ですか」
「オレ、猫舌」
「もう…仕方ないなあ」

スプーンの上のお粥をふーっとしながら冷まして、それを竜胆さんの口元へ運んでいく。こんなことを誰かにしてあげるのは初めてかもしれない。

「ん…美味い…」
「何も食べてなかったならレトルトでも美味しく感じるでしょ。はい、ちゃんと食べて薬飲まないと」

もう一度ふーっとしてお粥をあげると、竜胆さんはお腹が空いてたのか、綺麗に完食してくれた。少しホっとして新しいお水を持ってくると、竜胆さんは病院で処方してもらったらしい薬を飲んでいる。

「飲みました?」
「ん…にげぇ…」

病院の薬は粉薬だったようで、竜胆さんは思い切り顔をしかめている。ますます子供みたいで笑ってしまった。

「何…笑ってんだよ…」
「だって子供みたいだし」
「……悪かったなァ…はぁ…しんどい…」

竜胆さんは再び横になると、体をわたしの方へ向けて手を伸ばして来た。

「子供ついでに…手、繋いでて」
「えっ」
「人の体温、感じてると落ち着く」
「あ、そ、そっか…じゃあ…」

ベッドの横にある一人掛けのソファに座ると、竜胆さんの手を握る。熱があるせいか、かなり手も熱く感じた。

「あ、竜胆さん、これ…」
「…ん?」
「オデコ冷やさないと…」

と言って、さっき薬局で買って来た冷えピタを見せる。

「あーそれちょうど切らしてたんだよな…買ってきてくれたんだ」
「ないと困るし、あっても冷蔵庫に保管しておけばまたいつか使えると思って」
「…ん、サンキュー…っじゃあ…貼って」
「…もう、また甘えてる」
「体調悪い時くらい甘えさせろよ」

竜胆さんは開き直ったように笑うから、仕方ないと手にした冷えピタをオデコに貼ろうと、身を屈めたその時だった。背中に腕が回され、ぐいっと引き寄せられたかと思えば、竜胆さんのくちびるがわたしのと重なった。ギョっとしてもがこうとしても、竜胆さんの腕に腰をガッチリとホールドされて動けない。頭の後ろもちゃっかり手で固定されて反らすことも出来ず、甘んじて竜胆さんの甘ったるいキスを何度も受けることになってしまった。

「ん、」

最後にちゅっとリップ音をさせてくちびるを離した竜胆さんは、してやったりみたいな笑みを浮かべていた。

、顏真っ赤じゃん」
「な…何してるんですか…っ」
「何ってキス」
「げ、元気じゃないですか…」
「いや…にキスしたら頭痛が消えた」

そんなバカな、と思ったけど、ほんとに竜胆さんの顔色が良くなっているのを見て、ならいいか…と思いそうになるのが怖い。これがマインドコントロールというものだ。

「そんなことする元気あるなら帰りますね」

言いながら冷えピタを竜胆さんのオデコに貼ってペチンと叩く。でもその手を掴まれてしまった。

「帰んの…」
「な、何ですか…その寂しいみたいな顔は…だ、騙されませんからねっ」
「帰んなよ」
「……え」
「泊ってって。一人だとマジで寂しい」
「………」

マズい。今、きっとわたしの心臓はリンギャルと同じ状態になっているかもしれない。そうか、これが必殺竜胆甘え倒しの術?お姉さま達を虜にしている必殺技かもしれない。いつもは憎まれ口をたたく口が、こんな甘えたなことを言うのか、とちょっとだけ驚く。

「朝までいてくれたら時給すげーことになんじゃね…?」
「…そ…それは…そう…だけど…泊ってくってのは…」

蘭さんもいない中(いても同じだけど)竜胆さんと一夜を過ごす(ちょっと違うけど)のはマズい気もする。そう思っていると、竜胆さんは苦笑交じりで「大丈夫だって」とわたしを見上げた。

「ゲストルームあるからはそこ使って」
「…ゲストルーム…?」
「前にが掃除させられたろ?そこだよ」
「ああ…あの何もない部屋…」
「もう今はいつでも使えるようになってっから…」
「……え、そう、なんですか」
「そうだよ。だから…泊ってって」

わたしの手を握りながら、おねだりしてくる竜胆さんは、ダイナマイト級に可愛い。だからついつい…

「うん…」

と頷いてしまった。その時の竜胆さんの嬉しそうな笑顔といったら――リンギャル全員即死レベルだったに違いない。