序章



初恋は実らない――。

よく話でそう聞くけれど。
わたし――は今日、初恋の人からプロポーズをされました。
相手はここ横浜"天竺"の王。黒川イザナ――。

初めて会った時から、わたしは彼のことが好きだった。




1.

「後は―?サインするものあんの?」
「いえ。これで最後です。後はこの書類を提出すれば、黒川さんが全ての店のオーナーとなります」

書類を大きな封筒にしまうと、顧問弁護士の鹿島はホっとしたように息を吐いた。

「あっそ。じゃあ手続きは頼むわ」
「はい。それで…遺言書の通り、きちんと経営はしてもらえるんでしょうか。社長は黒川さんに任せろとしか言われなかったので――」
「もちろんやるよ。さんの残してくれた店だしな。でもオレはオレでやることあっから、鹿島さんにもサポートはしてもらいてーんだけど」
「社長から伺っております。その辺のことはお任せ下さい」
「助かるわ」
「いえ。では私はこれで失礼します」
「お疲れさん」

お互いソファから立ち上がると、軽く握手をして鹿島は帰って行った。代わりにイザナのもとへ歩いて来たのは、この店の従業員の男だ。

「オーナー。ちょっといいですか」
「あ?――ああ、オーナーってオレのことか。なーんか慣れねえな」

イザナは何となくむず痒い気持ちになりつつ、息苦しいネクタイを指で緩めながら苦笑交じりに振り向いた。

「何?」
「いえ、あの…外にたむろしているガラの悪い人たちは…」
「ああ、アイツらはオレのチームのメンバー。前のオーナーから多少は聞いてんだろ?オレのこと」
「はあ…天竺という暴走族をやってらっしゃる・・・・・・・・とか何とか…」
「別に暴走はしてねえけどな。で、そいつらが何?ああ、もう帰すから開店時間までにはいなくなるし心配すんな」
「ああ、いえ。そのことじゃなく…実はその中の一人が――」

従業員から事情を聞いた瞬間、イザナの顔色が変わった。





2.

「あ、あの…だからお断りします…」
「いいじゃん。ちょっとそこのラブホ行くだけ。な?優し~くオレが可愛がってあげるから」
「い、いえ…そういうの間に合ってます…」

ハッキリ断りつつもはどうしたものかと途方に暮れた。見覚えのある特攻服を着てたから声をかけたのに何か勘違いさせてしまったらしい。そう思ってたら案の定、特攻服の男はの肩に腕を回して来た。

「じゃあ何で声かけてきたんだよ。オレに気があるからだろー?」
「だ、だからそれは――」

と言いかけた時だった。の背後から伸びて来た腕に引き寄せられて、気づけば肩を抱かれていた。

「オマエ、何してんの」
「…イ…っ…?」
「この子――オレの嫁さんなんだけど」

後ろにいる人物に頭を抱き寄せられたかと思えば、ぎゅっと抱きしめられる。が驚いて仰ぎ見れば、かすかに吹いた風に揺れて男の耳を飾るピアスが、カランと鳴った。

「…イザナ!」

探してた人に会えたことでの顔にも笑顔が浮かぶ。逆にに絡んでいた特攻服の男は真っ青になった。まさか自分のチームの大将が出てくるとは思わない。
イザナはの両頬を手で包みながら顔を覗き込むと「何かされたか?」と聞いた。

「え、な、何もされてない」
「ほんとかよ?」

と聞きながらも、イザナの目が特攻服の男へと向く。その殺気のこもった視線にゾっとした瞬間、今度は男の背後から伸びて来た長い腕が肩に回され、特攻服の男はギョっとしたように隣を見た。

「あーあー。オマエ、姫に声かけちゃったか~」
「激しく間違えたなー?」
「ら…蘭さん…と竜胆さん…?」

いきなり男の背後から現れたのは天竺の四天王、灰谷蘭と、その弟の竜胆だった。二人の端正な顔には苦笑いが浮かんでいる。

「オマエが絡んでたあの子はな。この天竺の王の最愛だ」
「え……」
「よく覚えとけよー?じゃねえと…大将に殺されっぞ」
「は、はいぃぃっ」

蘭の言葉に下っ端の男は真っ青になって直立不動で返事をした。その男に向かってシッシと手を振れば、速攻で逃げていく。それを見送った蘭は、イザナとの方へ歩いて行った。

「イザナ。車回したから姫を送ってやれよ」
「ああ。じゃあ帰るぞ、
「う、うん…」

の手を引いて、イザナは車の方へと歩き出した。その横顔を見上げたが何かを言いたげに目を伏せる。繋がれた手は暖かいのに、少しだけ距離を感じた。

二人が出会ったのはイザナが少年院から出たすぐ後だった。の父親がイザナの保護司となったことで自分の家に連れて来たのだ。そこでイザナは少しの間、家に世話になっていた。
の父親は手広く商売をしていた人物で、主に夜の飲食店が多く、その中にはホストクラブもあり、イザナも前に率いていたチーム、黒龍をやめた後は一時そこで働いていたことがあるものの、女に媚びるのが性に合わないと言って半年で辞めて家も出て行ってしまった。それでもの父はイザナを見捨てず、ずっと支援し続けていた。そのの父が病気で亡くなったのは二カ月前のことだ。母はが幼少の頃すでに他界していて、今回、父親を失ったことでは天涯孤独になった。

そしてお葬式の当日だった。家を出たはずのイザナが、いきなりに会いに来た。

も社長の店もオレが守る。だから――オレと結婚して」

初恋の相手、イザナから交際0日で突然のプロポーズをされて物凄く驚いたものの。は迷うことなくそれを受け入れた。




3.

「危ないから一人で出歩くなって言ってるだろ」

家について早々、リビングのソファに座りながらイザナが溜息交じりで言った。腕を引かれ、も隣に腰を掛けると「ごめんなさい…」と素直に謝る。

「ちゃんと名義変更とか色々な手続きが上手くいったか心配になって…」
「そういうのは鹿島さんがきっちりやってくれたよ。だからもう一人で店に来るな」
「でもあの店はイザナがホストで働いてた前から差し入れ持って行ってたし…」
「あの頃から危ないと思ってたけどな。あの辺は繁華街だし、危ないヤツもいる。だから来んじゃねえ」
「…イザナ、心配しすぎ」

シュンとしながらも視線だけで見上げてくるを見て、イザナは深い溜息を吐いた。

「心配くらいさせろよ。家族になったんだし」
「…うん、ごめん」

頭を撫でられ、は少し笑みを見せると、今度こそ頷いた。

(イザナは…わたしのこと凄く大切にしてくれてる……でも…何で?)

これまでそんな素振りはなかったのに、突然プロポーズをしてきたことを、は不思議に思っていた。でも聞くのが怖くて未だにその話を持ち出せないでいる。

「…イザナに頭撫でられるの好き」
「そう?」

イザナの指が髪を優しく梳いていくのを感じながら閉じていた目を開ければ、前に身を乗り出していたイザナと至近距離で目が合う。淡いバイオレットの虹彩に見つめられ、ドキっとした。するとイザナはゆっくり顔を近づけ、一瞬互いの唇が触れあいそうになる。でもそこでイザナは体を離すと、の頭へポンと手を置いた。

「これから店に戻ってオーナーとしての挨拶回りしなくちゃいけねえから、先に風呂入るわ」
「あ…そっか…」
は寝てていいから」

それだけ言うと、イザナはバスルームへと歩いて行った。は黙って見送っていたものの、寂しそうに溜息をついた。そっと頬へ触れると少しだけ火照っているのが分かる。

(キス…してくれるのかと思っちゃった…)

イザナと籍を入れて二週間。なのにイザナは未だに触れようとしない。それがを不安にさせていた。初恋の相手からプロポーズをされて浮かれていた気持ちもすっかり萎んでしまった。今は何故イザナが自分に結婚しようと言ってくれたのか、サッパリ分からない。

(わたしのこと…そんなに好きじゃないのかな…)

ここ最近は一人になると、そんなことばかり考えてしまう。せっかくイザナの奥さんになれたというのに、は毎日寂しい思いをしていた。




4.

「えっ?キスもまだなの?籍を入れて二週間経つのに?」

次の日、大学に行った時、何気なく幼馴染の紀香に相談をしたは、想像通りのリアクションをされて頬が赤くなった。やっぱり自分達は夫婦として普通ではないんだと、改めて実感してしまう。

「え、イザナさんって…あのイザナさんよね。元々不良だったけどのパパの店でホストもしてたっていう超イケメンの…」
「うん…紀香ちゃんにもだいぶ前に紹介したでしょ?まあ…本人は渋々手伝ってくれてたって感じだけど……それに今もチームのトップやってるから不良のままだよ」
「え、でもホストしてた時は一晩で5千万売り上げたって言ってたよね。未だホスト界では伝説になってるという…」
「イザナ、あんなに愛想ないのに凄くモテるし、ホストしてた時はお客さんも一気について、いきなりナンバーワンになったから」
「じゃあ、かなり女にも手慣れてるんじゃ…」
「…うん。だって前はよく女の人と歩いてるの見かけてたし…恋人かと思ったらスポンサーだって。ホストやめても女の人転がしてたのに…わたしにはキスもしてくれない」
「…ちょ、転がしてたってそんな…」
「もしかして……」

と、そこで言葉を切ったの瞳に涙が浮かんでいるのを見て、紀香が「泣かないでよ」と言おうとしたその時。ガバっとが顔を上げた。

「お金払わないとしてくれないのかな…?!」
「は?ちょ、ちょっと待って。アンタ達は夫婦――」
「いくら払えばいいの…?!」
「いや一旦落ち着こう、!」

ウルウルした目で縋りつかれ、紀香は暴れ馬を宥めるかの如く、の背中をさすってあげた。紀香もこの泣き虫の幼馴染には昔から弱い。グスグスと泣いてるが落ちつくまで肩を抱いてあげていた。

それにしても、との話を聞いて溜息が零れ落ちる。紀香もイザナのことは当然知っていた。の家に住んでいた経緯はもちろん、イザナがの初恋相手だということも。でも付き合ったこともないに対して、いきなりプロポーズをしたと聞いて、かなり心配には思っていた。当然反対もしたが、やはり天涯孤独になったところへ好きな相手から結婚を申し込まれれば、この寂しがり屋で甘えたのに断れという方が無理な話だった。おかしいとは思いつつ、それでも大切な幼馴染が幸せになるなら、と見守っていたが、二週間経ってもキスすらしてこないと聞かされれば、さすがに心配になってくる。

「イザナさんって…何でと結婚したんだろうね」
「……お店目当て?」
「悲しいこと言わないでよ」

紀香もチラっとそこを考えたものの、そうであって欲しくないとは思う。

「ずっとね…イザナが好きだったの」
「うん、知ってる…」
「だからイザナにプロポーズされた時は舞い上がっちゃって…幸せすぎて緊張しちゃうから…距離感わからなくて」

シュンとしたように肩を落とすの頭を撫でながら、紀香も小さく息を吐いて微笑んだ。本当にイザナのことが好きなんだと伝わって来る。

の気持ち…ちゃんとイザナさんに伝えてみたら?まだきちんと話してないんでしょ?」
「…うん。ウチに引っ越してきてからそんなに経ってないし…店の色んな手続きとかで忙しかったから…」
「でもそれも昨日で終わったんだし…今夜あたり、ちゃんと話してみなよ」

紀香が明るい声でそう伝えると、の顏にも笑顔が浮かぶ。

「うん、そうだね。イザナ、今夜は帰って来るって言ってたから…」
「じゃあ今までの分、いっぱい甘えてやりな」
「…で、でも…緊張する…」
「いや、アンタ達夫婦だから」

恥ずかしそうに頬を染めるを見て、紀香が呆れたように笑った。




5.

夜遅くにイザナが帰宅した音がして目が覚めた。目を擦りながら時計を見れば、深夜の0時過ぎ。今日は帰れると言っていたものの、夕方"チームの用事で遅くなる。ごめん"というメッセージが届いたことで、は先にベッドへ入っていた。イザナは真っすぐ自分の部屋へ向かったようだ。は上半身を起こすと、意を決したように自分の枕を持ってイザナの部屋へ向かった。

(そもそも夫婦なのに部屋が別々なのはおかしいよね…)

籍を入れた後も、イザナは前に自分が使っていた部屋で寝起きをしていて、未だとは一緒に寝たことすらない。それもとしては寂しいと思っているものの、これまでは恥ずかしくて一緒に寝てと言ったこともなかった。でも今日は紀香に背中を押されたこともあり、思い切ってイザナの部屋までやってきた。ノックをすると少しの間のあと「?」という声がした。恐る恐るドアを開けると、イザナはちょうどベッドの上に上半身を起こして座っている。緊張しながら部屋へ入ったは、イザナの方へ歩いて行った。

「どうした?」

イザナが少し驚いたように訊いて来た。その顏を見るとのドキドキも加速して、緊張で喉の奥がくっつきそうになる。それでも勇気を出しては口を開いた。

「…今日一緒に寝てもいい?」
「え…?」
「イザナと一緒にいたくて……ダメ?」

自分の気持ちを素直に。紀香に言われたことを頭の中で繰り返しながら、思い切って言ってみた。ただ急にこんなことを言って変に思われていないか心配になる。イザナは何も言わない。少しの沈黙があり、が諦めかけたその時、ふとイザナが両手を広げた。

「おいで」
「え……」
「どうした?寝るんだろ?」
「いいの…?」
「ああ。早く来いよ」
「うん…!」

受け入れてくれたことが嬉しくて、はすぐにベッドの上に上がった。しっかり自分の枕を並べてイザナの隣に潜り込む。その姿を見て、イザナがかすかに笑った。

「ずっと…社長と一緒だったんだもんな。も寂しいか」

お互い体を横に向けて向かい合う。イザナのその言葉を聞いては自分が今日まで寂しかったのだと気づいた。

「でも…今はイザナがいるから寂しくないよ…」
「……」
「ありがとう、イザナ……」
「…ん?何でお礼?」
「わたしと結婚してくれたこと。嬉しかったから…」
「…………(可愛い)」

かすかに頬を染めて微笑むを見て、イザナの胸がかすかに音を立てる。そっと手を伸ばしての頬に触れると、恥ずかしそうに目を瞑ったのを見て、更にドキっとした。つい唇を寄せてしまいそうになったものの、どうにか耐えて手を引っ込める。

「もう寝よう…」
「う、うん…」

肩まで布団をかけてくれるイザナを見ながら、は黙って目を閉じた。

(やっぱりキスはしてくれないんだ…)

多少ガッカリしたものの、それでも一緒に寝てくれるだけで幸せだと思う。こういう時間を少しずつ増やしていければそれでいい。そう思ったその時、手を優しく握られる感触がした。

(ねえイザナ…わたし、イザナに恋してるよ…結婚できて幸せだよ…。イザナも…同じ気持ち…?)

そう思いながら、繋がれた手を少しだけ力を込めて握り締めた。




6.

一緒に寝ても何ごともなく夜が明け、次の日の夜もイザナの帰りは遅かった。

『え、イザナさん、まだ帰って来ないの?』

寂しくなって紀香に電話をしたは、夕べの話を少しだけ聞いてもらっていた。そこでふと時計を見れば深夜近くになっていて紀香も少し驚いている。

『新婚なのに連日こんなに遅いなんて…何してるわけ?』
「今日は昨日行けなかった店にオーナーとして挨拶に回ってる」
『だからって…そんなに急がなくてもいいことじゃない?』
「……うーん。きっと兄ムーヴしてくれたのに、わたしが女出したから引かれたのかも…」
『ちょっと、言い方…』
「お金払わず甘やかしてもらえるのは妹だけだったんだ…」
、落ち着いて…。そんなことないよ。夫婦でしょー?甘えるのは当たり前だよ。好きなんだもん』
「でもそれはわたしだけでイザナは好きじゃないのかも…」

話してるうちにどんどん沼にハマっていくようで、は自分で言いながらも泣きたくなった。イザナと暮らし始めてから夫婦らしい時間すら過ごしたことがない。

『もう遅いから寝なよ。電話繋いでおこうか?』
「ううん…平気。ありがとう、紀香ちゃん…」

話を聞いてもらったことで少し落ち着いて来たは、お休みと言って電話を切った。もう一度見れば時計は0時を過ぎている。イザナは帰って来る気配もない。寂しいけど一人で寝ようと、は自分の部屋へ行きかけた。

「いけない…枕、イザナの部屋に置きっぱなし…」

ふと思い出したは踵を翻し、イザナの部屋へ向かった。

「イザナ、ごめんね。ちょっと入るね」

そう声をかけてからドアを開けてベッドの方へ歩いて行く。その時、ふと部屋の棚に飾られている父の写真を見た。何だかんだと反発したこともあったが、イザナはの父を慕っていたようで、こうして仏壇代わりに写真を置いてくれている。それを知った時はも嬉しかった。

「…あれ…手紙?」

その時、父の写真の前に、見たことのある字で書かれた手紙が開いて置いてあるのを見つけた。

「お父さんから……イザナに?」

しかも文の中に""と自分の名前が書かれていたことで、ついその手紙を手に取ってしまった。どう見ても遺言のように見える。

(ごめん、イザナ…)

勝手に手紙を読む罪悪感を覚えながらも、最愛の父がイザナに何を書き遺したのかが気になり、は手紙に目を通した。

"イザナ、君が本当は心根の優しい男だということを僕は知っている。いつか自分と同じ境遇の子達の救いになりたいと言った言葉に嘘はないと信じているよ。だから僕に何かあった時は、全てを君に任せたい。少しでも君の夢に近づけるよう僕の店がその手助けになることを願ってる。そしてその時は娘のも頼む。寂しがり屋の娘だから、家族としてそばにいてやって欲しい。どうかよろしく頼む"

その手紙の内容を読んだは唖然とした。まさか、と思ったが、それ以外に理由が見当たらない。

「お父さんに……頼まれたから…?」

の声が、僅かに震えた。

「そっか…だから…。おかしいと思った…家を出てからは、あまり会うこともなかったのに結婚なんて…」

頬に一粒涙が零れ落ち、はそれを手の甲で拭った。なのに次から次に涙が溢れて来る。

「イザナ…口では反発してたけどお父さんのこと大好きだったもんね…」

好きでもない女と結婚出来るくらいに――。

そう思えば思うほど、涙が頬を伝っては落ちていく。
最初から手なんか届くはずもなかった。

(イザナの人生は全部イザナのものだ…だから――彼に返さなきゃいけない…)

でも、もう少しだけ。一度だけでいい。初めてのキスは、イザナがいい。
それが叶ったら――離婚しよう。大好きな人を、自由にするために。



7.

「あれ、大将やっと帰ったんだ」

イザナがオーナーをしているクラブで綺麗どころのキャストをはべらかしていた蘭が、ふと店内を見渡した。今夜も満員御礼の中、常連客に付き合って酒を飲んでいたイザナが、いつの間にか消えている。お祝いと称して弟や班目と飲みに来ていた蘭は、苦笑交じりで「良かったよ。帰ってくれて」と肩を竦めた。

「ったく…"嫁が可愛すぎて手を出しそうだから帰れない"って、伝説の男が何言ってんだか」
「ははは。あのイザナがそこまで入れ込んでる女がいたなんてなー」

班目も同じく苦笑いを浮かべながら酒を煽っている。

「でもイザナくん、すげえよなァ。姫の為に女遊び一切やめたんだろ?かっけぇじゃん」
「まあ…あの子に会って変わったよな、大将は」

竜胆の言葉に蘭も笑いながら頷く。

「少年院で会った頃はすさんでたけど、シャバに出て久しぶりに会ったら表情が穏やかになってたしビビったわ。それも姫の影響なんだよな」
「班目に黒龍まで譲るくらいだしなぁ。でもあの頃から可愛すぎて逆に手が出せねえとかボヤいてなかったっけ?」
「ボヤいてたボヤいてた。まあ、あのイザナがなーって驚愕したわ」
「そんだけ大切に想ってるってことだろ?」

蘭がその言葉で締めくくると、竜胆も班目も「だな」と納得したように笑った。

「姫と大将、幸せになって欲しいわ」

酒を煽りながら、蘭が独り言のように呟いた。




8.

深夜に帰宅したイザナは静かにドアを開けて、なるべく足音を立てないよう部屋へ行こうとした。でもその時リビングに明かりが点いていることに気づき、ふと足を止める。まさか、と思いながらリビングを覗くと、ソファにが座ってるのが見えた。

…まだ起きてたのかよ」
「あ、お帰りなさい。イザナ」

はイザナを見るなり嬉しそうに微笑んで抱き着いて来た。今までそんなことをされたことはなく、イザナはギョっとしたようにフリーズする。の小さな手がぎゅっとイザナのジャケットを掴むのが分かって、じわりと頬が熱くなった。そしてこんな時間までひとりで待たせてしまったことを後悔する。

「悪い…夜は寂しいって言ってたのにひとりにして…」
「ううん…大丈夫」

はそう言いながら顔を上げると、イザナを真っすぐ見上げた。その表情は明るく、夕べよりは元気そうに見える。

「帰って来てくれて…ありがとう。イザナ…」
…」

可愛い笑顔で言われ、イザナの頬もかすかに緩む。そっと小さな体を抱きしめ返し、少しだけ腕に力を込めた。

(オレが一生かけて幸せにしてやる…)

この時、イザナは全く気づいていなかった。

(イザナ…あたし、ちゃんと別れるからね…)

まさか愛する妻に、離婚されそうになっているなんて――。