第一話



いくつも店を経営していた父親が突然この世を去った。悲しくてどうにかなりそうだった時、保護司もしていた父が面倒を見ていたわたしの初恋の相手、イザナが結婚を申し込んでくれた。最初は想いが叶ったことが嬉しくて、何も考えずにOKしてしまったけど、それはわたしの勘違いだったことを知ってしまった。
イザナはわたしのことなんて好きじゃないのに、わたしをひとりにしないことで、父への義理を果たそうとしている。イザナの奥さんになれたのは嬉しいけど、大好きだからイザナには前のように自由に生きて欲しい。そう思う反面、イザナと離れたくないなんて思ってしまう我がままなわたしがいる。
でもそれじゃいつまで経っても自立出来ないから、一度だけ。一度だけイザナにキスしてもらえたら…大切な思い出にしてひとりで生きていくから、それが叶う時まで一緒にいてくれますか――?



1.

「あれ…姫、ひとり?」
「あ、蘭さん」

天竺のアジトに顔を出したらカウンターにが一人で座ってた。イザナは何してんだと広い店内を見渡したけど、それらしき姿はなく。ガラの悪いチームの下っ端が遠巻きにコッチを見ていた。

「もー姫って呼ばないでって言ってるのに」

は不満そうに頬をぷくっと膨らませて、ついでに口まで尖ってる。その可愛らしい表情についつい笑ってしまう。

「ああ、だってウチの王さまの嫁なら、それはもう"姫"じゃん」
「イザナは王さまなの凄く分かるけど、見た目もゴージャスだし。でもわたしなんか名前負けもいいとこだよ」
「そんなことないと思うけどなぁ」

隣のスツールに腰を掛けて軽くの頭を撫でる。あまりにちっさくてビビった。

「んで、その王さま気質のウチの大将はどこ行ったんだよ。最愛の姫を置いて」
「…さ…最愛なんてことはないと思うけど…イザナは武藤くんと奥の部屋で話してるの。ここ騒がしいから」
「あー…少し音下げさせりゃいいのに」

このアジトは元々倉庫をリフォームしてクラブにしてた場所だ。だから機材なんかも残ってて、チームの奴らが好き勝手に音楽をかけているせいか、いつ来てもやかましい。ついでにチームの奴らが騒いでるから尚更だ。

「つーか最愛じゃなきゃ、あんなにイザナも心配しないだろ?」
「そ、それは…きっとわたしに何かあったら亡くなったお父さんに申し訳ないって思ってるからだよ…」
「それもあるかもだけど、それだけじゃねえだろ」

あまりに謙虚で苦笑すると、は気まずそうに俯いてしまった。何か悪いことでも言ったか?と首を傾げつつ、普段はアジトに連れて来ないが一緒という状況にも疑問を感じた。

「でも珍しいな。イザナがをここへ連れて来るなんて。しかも夜に」
「あ、あのね。イザナがオレと一緒ならいいって言ってくれたの。今夜は店の仕事もないしデートの約束してたんだけど、でもチームのことで武藤くんと話あるから出かけるって言われて…ひとりじゃ寂しいだろって連れて来てくれたんだ」
「そっか。良かったじゃん」

嬉しそうに説明するを見て、こっちまで何故かほっこりした気分になる。いるだけで空気を明るくしてくれる子だと思う。色気はねえけど仔猫を可愛がる感覚と似てるかもしれない。

(ま、こんなこと言ったらイザナはキレるだろうけどな)

内心苦笑していると、そこへ一人の下っ端が近づいて来た。イザナがそばにいない時はオレがのことを守ってやらねえとなと思いつつ、その男を睨みつけると、ソイツはこの前に絡んでた男だった。

「あ、あの…」
「え?あ……」

も思い出したのか、声をかけられて驚いている。

「おい、馴れ馴れしく話しかけんな」
「い、いえ、あの…先日のことを謝りたくて…」
「あ?」

その男はの方へ向くと、いきなりその頭を下げた。

「この前はすんませんでした!イザナさんの嫁とは知らずに――」
「い、いえ…わたしもちゃんと説明できなくて勘違いさせちゃったし…ごめんなさいっ」

もスツールから下りると、同じように頭を下げて謝っている。そのおかしな光景に唖然としてしまった。謝られた方の男もギョっとしている。

「い、いや、あの頭上げて下さい!オレが悪かったんで――」
「いえ、わたしも悪いんです!ごめんなさいっ」
「ぶはは…っ、その辺で勘弁してやれよ」

二人でペコペコとお辞儀をしあっている光景は殊の外ジワってしまった。オレが笑うと二人して顔を赤くしている。

「何やってんだ?…」

そこへお待ちかねの大将が歩いて来て、の顏がパっと花が咲くみたいに笑顔になった。あまりに分かりやすくて少しだけイザナが羨ましく思う。

「イザナ!あのね、この前のこと謝ってくれて…」
「あ?ああ…オマエか」

イザナは下っ端の男に視線を向けると、思い出したように睨みつけた。でもそいつはビビりながらもイザナにまで頭を下げた。

「イ、イザナさんも…この前は知らぬこととはいえ、嫁さんに絡んでしまってすみませんでした!」
「……分かったならいい。二度とには近づくな」
「は、はい…!」

男は直立不動で返事をすると、最後にもう一度だけ頭を下げて戻っていく。それには内心驚いた。前のイザナならあの男は意識が飛ぶまでボコボコにされてただろう。随分な変わりようだなと苦笑が洩れる。

「おい、蘭」
「ん?」
にああいうの近づかせんじゃねえよ」

おーおー。怖い顔で睨んじゃって。そんなに心配なら一緒に連れて行けばいいのに。

「いやオレもそう思ったんだけど…二人でごめんなさい大会しだしたからさー」
「…何だそれ」

イザナが怪訝そうに眉を寄せるのを見て、が慌ててイザナの腕を引っ張った。

「あ、あのね…わたしもさっきの人に勘違いさせちゃったから謝ったの…」
「は?は悪くねえだろ。怖い思いしたのはオマエじゃん」
「う、うん…そうだけど…」

もう少し優しく話してやればいいのに、と思いつつ、二人を眺めていると普通にイザナに睨まれた。

「何見てんだよ」
「いや…別に」

どこか照れ臭そうに睨んで来るイザナは、の手を取ると「帰るぞ」と言いながら歩いて行こうとする。そこへ竜胆が歩いて来た。

「あれ、大将とちゃん、もう帰るの?」
「ああ…と約束あるから」
「あ、竜胆くん。あのね。今日はイザナお休みだから夜はデートなの」
「へえ、良かったじゃん。今日はいっぱい大将に甘えなよ」
「えっ」
「おい、竜胆。いちいち余計なこと言うんじゃねえ。つーか近すぎだからから離れろ」

に耳打ちした竜胆にシッシと手で払ってを引きはがしているイザナに、竜胆も笑いを噛み殺しながらオレのところまで歩いて来た。

「あーあ。何かめっちゃ浮かれてんじゃん、大将が。わかりづれーけど」
「まあ、やっと落ち着いて来たし時間も取れたみてえだからなー」

そう言いつつ、オレは少しだけ気になっていた。イザナがあれだけ大切にしているのに、にはどうも伝わってないような気がする。あんなに分かりやすい愛情表現をしているのに、自分はそんなに愛されてないとでも思ってるように見えた。

「どーした?兄貴」
「いや…の様子がちょっと気になって」
「何?何かあった?」
「いや…」

と応えながら、仲良く手を繋いで歩いて行く二人を見送った。最初イザナにを紹介された時から、イザナは分かりやすいくらいに優しかった。あの暴君があんなに穏やかな顔をするのを初めて見たし、まして危なっかしいヤツだから常にそばに置いておかないと心配だとか言いだした時は本気で驚いた。でも自分は不良と呼ばれる人種で、彼女は当時普通の高校生だから、と少し距離を置いていたのは知っている。の家を出たのもその辺が理由だったことも。でもきっと父親が亡くなったことを知って覚悟を決めたからこそ、結婚を申し込んだんだろうとオレは思っていた。その辺は彼女の父親と何かしら話し合っていたのかもしれない。

"社長はどん底のオレを唯一見捨てなかった大人だ。そしてそのキッカケを作ってくれたのが――"

前にチラっとそう話してたのを思い出した。

「でもさあ、大将とって初めて会ったのは中学三年くらいの頃だろ?何気に長いよなぁ」
「ああ、家を出ても時々は会ってたって言ってたしな」
「その頃からちゃんのこと、好きだったのかな」
「多分な。何か…に救われたって言ってたけど」
「え、救われたって…?」
「知らね。その辺のこと話したがらねえんだよ。照れくさいんだろ、きっと」
「大将が照れるって、兄貴が照れるくらいらしくねえな」
「あ?」

何気にオレをディスる竜胆を睨みつければ、そそくさと逃げていく。頭に来たから追いかけて一発後頭部をシバいてやった。




2.

夜の横浜の街並みは、いつもキラキラしていて華やかだ。時々潮の香りがしてくるこの街が、オレは昔から好きだった。何より、この街でに出会えたから。

「イザナ、ほんとにいいの?仲間の人達といなくて」

はいつもオレのことを優先してくれる。でもそれに甘える為に結婚しようと言ったわけじゃない。オレにはこれからやることが山ほどあるけど、自分の夢はと一緒じゃなきゃ意味がないんだ。

「いいって言ったろ。いつもいつもツルんでねえし」
「なら…わたしは嬉しいけど…」
「それより…どこ行きてーんだよ。の行きたいとこ言えよ」

とノンビリこうして手を繋ぎながら歩くのは初めてかもしれない。出会った頃はオレもまだまだガキで、社長やに優しくされることに慣れてなかった。反発しては家出を繰り返して、そのたび警察に補導されて連れ戻されるの繰り返し。だけど…いつもは笑顔でオレを出迎えてくれた。

"イザナ!お帰り"

あの笑顔にどれだけ救われたか分からない。オレにも"お帰り"と言ってくれる人が出来たことが嬉しかった。兄だと尋ねて来た真一郎にも家族がいて、だけどオレは真一郎の家族の中に入れない。そう思っていたから尚更、社長との存在がオレには大切だった。と本当の家族になりたい。社長からの手紙を読んだ時、そう願ってしまった。

「ねえ、イザナ。お腹空かない?」

ふとがオレを見上げて訊いて来た。時計を見れば午後7時を過ぎている。

「そういや、もうそんな時間か。じゃあ、どっかレストランでも――」
「ううん、わたし、イザナとお家でご飯作って食べたい」
「は?何で。せっかく出かけて来たのに?」
「ダメ…?」
「………(可愛すぎじゃね?)」

悲しそうな顔で見上げて来るにドキっとさせられつつ、「ダメじゃねえけど」と返せば、途端に嬉しそうな笑顔へ変わる。ハッキリ言ってオレの心臓がヤバかった。その笑顔は反則だろ。

「じゃあ買い物して帰ろ」
「ああ、そうすっか」

無邪気にオレの手を引っ張りながら歩くに癒されながら、こんな時間がこれからも続けばいいと思った。その為なら慣れない経営も頑張れる気がする。いつか鶴蝶と交わした夢を実現させる為にも、当然必要なことだ。社長の厚意を受けた一番の理由はと社長の残した財産を守る為、そして自分の夢の足掛かりを作る為だった。

(ただ…がどう思ってんのかだよな…)

社長にを託されたことが嬉しくて、つい勢いでプロポーズをしてしまったけど、まさかのOKでオレもあの時はびっくりした。がどういうつもりでOKしてくれたのかは未だに聞けていない。寂しがり屋の甘えん坊だから、傍にいてくれるなら誰でも良かったのか、それとも父親の残した店を継いでくれる相手が欲しかっただけか。その辺が分からなくて毎日悶々としていた。この前「一緒に寝ていい?」と言われた時はガラにもなくドキっとしたけど、どう見ても兄貴に甘えてきたって感じのノリだった気もするし、オレも変な気を起こさないよう必死だったから、ぶっちゃければあの日は寝不足になった。を怖がらせることはしたくない。
だから――未だに手を出せないでいる情けないオレがいる。

「イザナ、何が食べたい?」
「カレー」
「えーまた?」

この笑顔を、失いたくないから。