第二話


6月のある日――。


「は?猫ぉ?」
「ああ」

蘭が心底驚いたと言った顔でこっちを振り返るから、オレは照れ臭くなって思わずそっぽを向いた。
今日は先日モメた東京のチームを一つ潰して皆は宴会気分で盛り上がったまま横浜へ戻って来た。オレも途中まで一緒に飲んでいたものの、ふと時計を見れば午後7時。「そろそろ帰るわ」と言ったオレに、酔っ払った蘭や望月が絡んで来た。

「帰るの早くねーか?イザナ。今日はが幼馴染と飯に行くから遅くなってもいいっつってなかったか?」

望月がウイスキーを煽りながら、オレを仰ぎ見る。だいぶ出来上がってるのか、ゴツイ顔が真っ赤だった。

「いや…にオレは早く帰れるって言っちまったの思い出したんだよ」
もいねえのに早く帰って何すんだよ」

蘭がニヤニヤしながら聞いて来る。全く根掘り葉掘りウザい連中だと思いながら、つい「猫に餌やんねーと――」と口走ってしまった。オレも少し酔っているかもしれない。言ってから"しまった…"と思ったが後の祭り。デカい男二人に「猫飼いだしたんかっ」と驚かれるハメになった。

「新婚で猫まで飼うとか、マジでアットホームなことしてんじゃん、大将」
「いや飼ってねーし」
「あ?じゃあ餌って何だよ」
「…庭に住み着いてんだよ。小さい猫が二匹。がそれ見つけて人馴れするまで面倒みるって言いだした」
「マジか。あーそういや動物好きだつってたっけ。それで大将が仔猫に餌をねえ…」

蘭が苦笑しながら同情するように見上げて来るのがうぜえ。そもそもオレは小さい動物は好きじゃないってのに。
あれはだいぶ蒸し暑くなってきた先週のこと。梅雨入り宣言のされた朝だった。起きたらが傘をさして庭先をウロウロしているのを見つけた。彼女は何かを探しているようで、オレが「何してんの」と声をかけたら「猫の鳴き声がするの」と言い出した。




2.

「…猫?」
「うん。ほら。声の感じからして、まだ仔猫みたいなの」

オレも傘をさして庭に出ると、雨音に交じって確かに「ミャァ」という小さな声が聞こえた。庭に咲いてるツツジや植木の奥から聞こえて来る。

「怖くないよ…おいで」

がしゃがみながら声をかけてても、猫はなかなか姿を見せない。オレは一旦入ろうと言ってを中へ促した。でもはやっぱり気になるようで「わたし、今から買い物に行って来るね」と言いながら財布を手に玄関へ歩いて行く。どこに行くのかと追いかけたら「猫用のミルクとかご飯買って来る」と言い出した。この雨の中、ひとりで行かせるのも心配で、オレは一緒に行くことにした。

「車、出すから」
「え、いいの?」
「当たり前だろ」

オレがそう言うとは「ありがとう、イザナ」と凄く喜んではしゃいでた。車はの父親の社長が所有していたBMWで、は免許がないからオレが時々こうしてを乗せて出かけるくらいしか乗らない。前にこの車で天竺のアジトに行ったら「どこの会社の重役かと思ったわ」と蘭に笑われたから、今は絶対に乗って行かねえけど。
猫の餌というから最初は近所のコンビニかと思ったらが駅前のペットショップに行くと言い出した。家から駅まで徒歩で10分ほどかかるってのに、雨の中を歩いて行こうとしてたのかと苦笑が洩れる。それくらいは動物が好きで、昔も何か飼いたかったらしいが社長に反対されてたようだ。多分、が甘えん坊だから動物の世話なんか出来ないと思われたんだろう。結局、仔猫用の餌やミルクを数種類と餌とミルク用の器を買って家に戻った。

テラスの雨の当たらない場所にミルクや餌を置いておいたら、数日後には仔猫が姿を見せるようになった。一匹だけかと思えば二匹もいて、一匹は真っ黒で、もう一匹はキジトラという種類の猫だとが教えてくれた。

「黒猫の子、片目がないの…仔猫の時に他の猫か鴉にやられたのかも…」

が涙を浮かべながら報告してきた時は慰めるのが大変だった。病院に連れて行きたくても、近づくと仔猫たちは逃げてしまうらしい。ただオレが確認すると、目の傷は自然に治癒してるようで、黒猫も痛がる素振りはなかった。そうに伝えると、少しはホっとしたらしい。
そんなことが一ヶ月は続いた頃、仕事から帰ったらが嬉しそうに出迎えてくれた。

「おかえり、イザナ!あのね、今日、クロとメメちゃんが触らせてくれたの!凄いでしょ」
「へえ、だいぶ懐いたな」
「うん、嬉しい」

は本当に嬉しそうな笑顔で言うから、オレも釣られて笑顔になる。名前はがつけた。黒猫はそのままクロで分かるけど、キジトラの方は何でメメなのか尋ねると、「あのね、あの子、目がクリクリしてて印象的だったから、オメメちゃんって付けたの!」と張り切って教えてくれた。いや、そのままかよって突っ込みたくなったけど、そういうところもらしい。

本当は野良猫を見ると、昔の自分を思い出してしまうから無意識に避けていた。母猫に捨てられたアイツらを見るたび、自分と重ねていたのかもしれない。今ではが庭に出るたび、嬉しそうに鳴きながら駆け寄って来る仔猫たちを見ると、胸の奥の古傷がジクジクと痛む気がした。

「オメメちゃんは凄く臆病で逃げ足が速いの。でもクロはちょっとのんびりしてるから心配で…」

オレが家に帰るたび、その日にあったことを報告してくれるは、いつも仔猫たちのことを気にしていた。

「もう保護できんじゃねーの」
「それがご飯食べてる時は触らせてはくれるけど、食べ終わると警戒モードが少しアップして、わたしが動くたびに逃げちゃうんだ…」
「そっか。まあ…野良はそんなもんだろ」
「うん……え、でも…もしあの子達を保護出来たら飼ってもいいの…?」

ソファで寛ぎながらビールを飲んでいると、が心配そうにオレの顔を覗き込んで来た。

「いや、どうせ飼う気だろ?は」

苦笑しながらオレが突っ込むと、はエへへっと笑っている。

「でも…イザナ、あまり猫好きじゃないでしょ…?だから迷ってたの」
「……いや、そんなことねえよ」

正直ドキっとした。そういう気持ちがに見抜かれてるなんて思ってもいなかった。でも嫌いなわけじゃねえんだ。ただ…アイツらを見てるのがツラいだけで。




3.

「…チッ。また雨かよ…」

家についたところでパラパラと降り出した雨に思わず舌打ちがでる。蘭や望月に散々「仔猫によろしくー」とからかわれたものの――ウザいから一発ずつ制裁は加えてやったが――急いで戻ってきたけど、家の電気は暗いままで。はまだ帰っていないようだった。ケータイに「帰る時は電話しろ。迎えに行く」とメッセージを送ると、オレはすぐにリビングのテラスへ向かった。そこだけライトをつけてあるから夜でも庭は見通せる。そこで思わず息を飲んだ。

「…何だ…?」

窓を開けて庭に出ると、ひっくり返った器が割れている。それに毛の塊のようなものがあちらこちらに落ちていて、何かあったのは明らかだった。

――時々、他の野良ちゃんも庭に来ることあるから心配。ご飯の匂いに釣られて来ちゃうみたいなの。

この前がそう話してたのを思い出した。

(まさか…他の猫が餌を求めて庭に侵入してきたのか?この様子だと、仔猫たちは襲われたのかもしれない…)

そう思った瞬間、自分でも驚くほどに血の気が引いた。

「クロ…!メメ!」

そう呼び掛けてもアイツらが来る気配はない。いつもならご飯を貰えると思って走って来るのに。

「クソ…どこ行ったんだよ…っ」

仔猫がいなくなったことを知ったらが大泣きするのは目に見えている。彼女の泣き顔は絶対に見たくなかった。その時、庭の奥で「ミャアァ」と小さな鳴き声が聞こえてきた。ハッと我に返って視線を向けると、キジトラのメメが一匹で歩いて来るのが見えた。

「メメ…オマエ、無事だったのか…!」

普段、コイツラの世話をしてるのはで、オレは隣で見ているだけだから正直懐かれてるわけじゃないが、メメは一定の距離を保っていつもの寝場所まで歩いて来た。雨に濡れたのかプルプルと体を揺らして体の水滴を払っている。とりあえず家の中に戻って使っていない食器に餌とミルクを入れてテラスへ戻ると、メメはちょこんと座って待っていた。その姿を見ると、自然に笑みが零れる。コイツらを可愛がるの気持ちが、少しだけ分かった気がした。

「ほら、腹減ったろ。食えよ」
「ミャアァ……」

餌とミルクを置いてオレが家の中に入ると、メメは安心したのか、ゆっくり近づいて来て、まずはミルクを凄い勢いで飲みだした。その姿を見てホっと息を吐く。でも心配なのはクロの方だ。未だに姿を見せないということは、他の猫に襲われてどこかへ逃げてしまったのかもしれない。そこで前にが話してたことを思い出した。

――オメメちゃんは凄く臆病で逃げ足が速いの。でもクロはちょっとのんびりしてるから心配で…

確かそう言ってた。メメはの言ったように逃げ足が速かったんだろう。だから無事だった。でも、じゃあクロは?そう思ったら心配になった。すぐに玄関から飛び出し、裏庭の方へ探しに行く。裏には植木が多く、雑草も生えてるから夜だと殆ど見えない。でも時々クロとメメはこの辺りで鳴いてることがあった。もしかしたら隠れているかもしれない。

「クソ…植木が邪魔だな…」

雨の降る中、枝に体を引っかけながら仔猫を探してる自分が意外だった。でも今はただ、あのノンビリ屋の黒猫が無事であることを祈っているオレがいる。

「…クロ!いんのか?」

そう叫んでも鳴き声は聞こえない。ただ雨の音が辺りに響くだけだった。





3.

「おかしいなあ…」

何度コールをしてもイザナが出る様子はなく、わたしは溜息を吐いた。少し前に"帰る時は連絡しろ。迎えにいく"とメッセージが来てたのにどうしたんだろう。

「どうした?イザナさん出ないの?」
「うん…何かあったのかな…」
「お風呂入ってるんじゃない?家に帰ってるんでしょ?」
「でもイザナはお風呂でもそばにケータイ置いてるし」
「じゃあトイレとか。とりあえずメッセージ送って今日はタクシーで帰っちゃえば?雨も降って来たし、イザナさん待ってるよりそっちの方が早いって。私もタクシーで帰るし」

紀香ちゃんは目の前に止まってるタクシーに手を上げてわたしの方へ振り向いた。今日は紀香ちゃんの誕生日祝いをするのに駅前のスペイン料理屋さんでご飯を食べてたのだ。

「ごめんね。イザナに紀香ちゃんも送ってもらおうと思ったのに…」
「いいよいいよ。まあ久しぶりに会えるの楽しみだったけど、また次の機会にね」
「うん…」
「ああ、でも…あのことはよく考えた方がいいよ」
「え?」
「イザナさんと別れるってやつ」
「……」
「本人にちゃんと聞いてからでも遅くないでしょ」
「…そう、なんだけど…聞くの怖いから…」

紀香ちゃんにはお父さんの手紙の件を話してしまった。ひとりじゃやっぱり耐え切れなかったから。最初は紀香ちゃんも「やっぱそうか…」と言ってたけど、「でもよく考えたら…それだけの遺言で結婚までするかなぁ?」と言い出した。それなら別に結婚って形とらなくてもいい気もする、と言われたのだ。

「まあ最悪店目当てかもしれないけど」

と、余計な一言までつけられたから、一瞬喜びかけた気持ちはすぐにしぼんでしまった。

「彼の本心聞くのは怖いの分かるけど…聞きもしないで別れたら絶対後悔すると思うよ」
「…うん…そうだね」
の話を聞く限り、イザナさん、相当優しいし。仔猫のことも懐いた時は保護していいって言ってくれてるんでしょ?動物苦手なのに」
「うん。今日もね、わたしの代わりにご飯あげてくれるって言ってくれたの」
「普通、好きでもない子の為に苦手な猫にご飯あげようとか思わないんじゃない?彼、暴走族のトップなんだし、うぜえって言いそうじゃない」
「そ、それも…そうかも」

普段、仲間の人達に取ってるイザナの態度を思い出して笑ってしまった。イザナがわたしに怖い物言いをしてたのは過去のことで、今は絶対にそんな言葉を言わない。わたしのしょぼいお願いも「いいよ」っていつもきいてくれる。お父さんに義理立ててるだけかもしれないけど、でも本気で面倒だと思えば、イザナだったら本当にそう言いそうだ。

「とにかく急いで答えを出さないで、ちゃんと時間見つけて話しなよ。分かった?」
「うん…分かった。ありがとう、紀香ちゃん。ごめんね、いつも相談に乗ってもらっちゃって…」
「そんなの今に始まったことじゃないでしょ?」
「う…た、確かに…」
「いいから早く帰ってあげなよ。先にタクシー乗っていいから」
「ありがとう。じゃあ…帰るね」
「うん。あ、今日はお祝いありがとうね」

紀香ちゃんは笑顔で言うと、後ろのタクシーに歩いて行った。それを見送りつつ、わたしもタクシーに乗りこんで住所を告げると、もう一度イザナに電話をかけてみる。すれ違いになったら大変だ。だけど――。

(やっぱり出ないなあ…)

もしかしたら一度帰って来たけど、また用が出来て出かけたのかなと思った。でもそれならそれでメッセージをくれそうなものだ。

(さっき少し飲んでから帰るってメッセージも来てたし、もしかして酔っ払って寝ちゃってるのかも…)

「すみません。少し急いで下さい」

運転手さんにそう告げると、タクシーは少しだけスピードが上がった。梅雨らしい雨が次第に本降りになってきて雨粒が窓に当たるのを見ながら、ふと仔猫たちのことが心配になった。テラスのところは屋根が大きくせり出してるから濡れはしないと思うけど、こういうお天気の時は他の猫も雨宿りをしに来たりする。猫は縄張り意識が強いから、そこでケンカになるのが一番心配だ。そんなことを考えていると、アッという間に我が家へ到着した。支払いを済ませてタクシーを降りるとバッグから門を開けるリモコン付きのキーを取り出す。でもそこで足が止まった。

「あれ…門が開いてる…」

家の方へ視線を向けると、かすかにリビングの明かりが点いているのが見えた。

「もしかしてイザナ、閉め忘れたのかな」

珍しいこともあるものだと思いながら中へ入ると、すぐに玄関のカギを取り出す。でもまさかね、と思いつつドアノブを下げると、すんなりドアが開いた。

「え、嘘…ここも?」

次から次にいつもならあり得ない状態になっていて、少しだけ不安になった。何かあったのかもしれない。

「ただいまー!イザナ、帰ってる?」

そう声をかけながら中へ入ってもシーンとしていて何の返事もない。よく見れば玄関に靴もなかった。

「やっぱり出かけたのかな…。でもドアや門を開けっぱなしで出かける?」

首を捻りつつリビングに行くと、やはり一度は帰ったようだ。ソファにイザナのジャケットか引っ掛けてある。ポケットを確認すると、そこにはケータイと財布が残されたままだった。

「……何で…」

と驚きつつ、ふとライトに照らされた庭先へ視線を向ける。そこで小さく息を飲んだ。

「…え、何これ…」

いつも仔猫のご飯を入れる器が割れていて、破片がテラスに散乱している。ただ別のお皿にご飯の出した形跡はあった。

「これ…イザナがあげたんだよね…え、何があったの…?」

だんだん心配になって来て庭を見渡した。するとわたしの気配を感じたのか、「ミャアァ」と鳴きながらメメが駆け寄って来る。雨に濡れているところを見ると、植え込みの中にいたんだろう。――テラスにいれば濡れないのに、時々雨が降ると濡れないよう木の陰に隠れるのが習性らしい――だけど来たのはメメちゃんだけでクロの姿が見えない。

「メメちゃん…だけ?」
「ミャァ」
「クロはどこに…」

と言いながら立ち上がった時だった。植え込みの方でガサガサと音がして、ビクっとなった。

「だ…誰…」

まさか――泥棒?と思うと急に怖くなった。家は戸建てでセキュリティ対策はしているものの、この一帯は高級住宅街と呼ばれる場所で、それなりに空き巣や強盗事件もあったりする。家の周りの高い塀を乗り越えたら警報がなるシステムだから安心してたけど、空き巣とかの常習犯はあの手この手で侵入してくるとテレビでやっていたのを思い出す。
その時、またガサガサと音がして泣きそうになった。でも――その時だった。葉の揺れた植え込みの奥から姿を見せたのは、クロを抱っこしたイザナだった。

「…イザナ…!」
「……?」

驚いてサンダルも履かないままイザナの方へ走っていくと、イザナの腕の中でクロが震えていた。

「悪い…タクシーで帰って来たのかよ」
「う、うん…それより…どうしたの…?」
「ああ、その前にコイツ、今のうちに保護しよう。濡れてるしタオル持ってきて」
「わ、分かった!」

言われた通り家の中に戻ると、すぐにタオルを持ってリビングに戻る。クロは知らない匂いのする場所にいるからか、今もイザナの腕の中でジっとしていた。

「何があったの?」

濡れたクロをそっと拭きながらイザナを見上げると、彼は困ったような顔で苦笑いを零した。

「いや…オレが帰って来たらコイツらの器が割れててさ。他の猫に追い立てられたのか、メメは戻って来たけどクロがいねえから庭中探してやっと裏庭の植え込みの中で震えてるコイツ見つけたんだよ」
「えっ?そうなの…?でもよく抱っこ出来たね」
「多分、逃げ回って疲れたんだろ。何となく顔がグッタリしてるし」
「言われてみれば…」

確かにイザナの腕の中でクロは目を瞑ったままだ。かすかに震えてるから濡れて寒いのかもしれない。

「と、とにかくこの子のベッド作るね。暖かくしてあげないと…」

と言っても猫用のベッドはまだ買ってないから、小さなダンボールにタオルを敷いてふわふわのブランケットをつめてあげた。そこにそっとクロを入れると、喉からグルグルという音が聞こえて来てホっとする。

「はあ…良かった…ケガもしてねえし」

ふと見ればイザナは雨に濡れて綺麗な髪がびしょ濡れだった。すぐに別のタオルでイザナの髪を拭いてあげると、「自分で出来るって」と苦笑された。

「イザナ……この子のことずっと探してくれてたの…?」
「メメは無事だったけど…クロがいなくなったら、どうせ大騒ぎするだろーが」
「…で、でも雨降ってるのに…」

まさか猫が苦手なイザナがそこまでしてクロを探してくれるとは思わなかった。嬉しくて、胸の奥が小さく音を立てる。何だかんだ言っても、やっぱりイザナは優しい人だ。

「な…何で泣くんだよ…。オマエが泣くのイヤだからクロ探したってのに」
「イザナ…ありがとう…っ!」
「うわっ」

嬉しくて思わずイザナに抱き着くと、全身が濡れていて体も冷たかった。こんなになるまでクロを探してくれてたんだと思うと涙が止まらなくなる。

「バカ、離れろって。オレ、濡れてんだよ…」
「…平気…」
「いや、平気って……オレが平気じゃねえんだけど…」
「え…?」
「……何でもねえよ」

ふと顔を上げると、イザナは優しい眼差しでわたしを見つめるからドキっとした。

「さ…寒いでしょ…お風呂沸かしてくる――」

涙を手で拭いながらイザナから離れようとした。その瞬間、手首を掴まれてイザナの腕の中へ引き戻される。胸に顔を埋める形になって、ドキドキが一気に加速した。

「イ、イザナ…?」
「寒いからの熱、少し分けろよ」
「え…」

軽くぎゅっとされて顔に熱が集中してくのが自分でも分かった。それに一つ心配なことがある。

「あ、あの…イザナ…」
「ん?」
「い、いいの……?」
「あ?何が」

少し体を離して見下ろしてくるイザナに、自然と頬が赤くなる。

「だから…その…お金払ってないのにこんなことしてもらって…」
「…は?」

イザナは一瞬ギョっとしたようにその大きな目を見開いたけど、すぐに軽く吹き出すと「…の言いたいこと何となく分かったわ」と笑いを噛み殺している。でも不意に意地悪な笑みを浮かべると、わたしの頬をむぎゅっと摘んだ。

「…で?いくら払ってくれんの?」
「え……わたしのお小遣いで足りる……?」
「…ぶはは…っ何、本気にしてんだよ、は」

イザナは楽しげに笑うと、もう一度わたしを強く抱きしめてくれた。

「とりあえず……お帰り、

すぐそばで聞こえたイザナの「お帰り」は、ものすごく優しい音がした。