第三話



これは、わたしがイザナと出会った頃の話だ。あれは中二の夏だった。



――調理実習の班決め、さんだけペア希望出てないのよね。皆と仲良くしてくれないと、先生困っちゃうのよ。

担任の言葉が何度も脳内に繰り返されて溜息が出た。わたしだって好きでひとりなわけじゃない。

――ほら、あの子。親がお姉ちゃんのいるクラブとか踊る系とか、ホスト系の店までやってるらしいよ。
――あの子も将来キャバクラとかで働くんじゃない?いいよね~進路がすでに決まってるんだからー。

親の仕事のことでクラスメートだけじゃなく、他のクラスの子からも白い目で見られてるわたしと、誰がペアを組んでくれるというんだろう。

「…親の仕事のことなんて、わたしにはどうしようもないじゃない」

横浜の繁華街を歩いていると、お父さんの店があちらこちらに建っている。それらの派手な看板を見上げながら溜息をついた。
わたしはどんな仕事をしていてもお父さんのことが大好きだ。お母さんが病気で死んでからは、男手一つで必死に育ててくれたことを覚えている。忙しい仕事の合間に慣れない料理や洗濯も、それこそ何回も失敗しながら、でも一生懸命やってくれた。わたしが寂しがる時は自分の店に連れてってくれて、それこそホステスのお姉ちゃん、時にはホストのお兄ちゃん達が子供のわたしの相手をしてくれて。だからわたしは店の皆のことも大好きだった。
だけど――世の中はそれだけじゃダメみたいだ。

「……ただいま」

家について誰もいないと分かっているのに、ついそう言ってしまう。幼い時はお母さんが優しい笑顔で出迎えてくれたけど、今は――。

「お帰り、
「……っお、お父さん?」

不意に声がしたからびっくりした。顔を上げるとリビングからお父さんが顔を出している。まだ夕方なのに何で家にいるんだろうと不思議に思っていると、「話があるからおいで」と言われた。すぐ靴を脱いで中へ入ろうとした時、よく見ればお父さんの靴と、もう一つ大き目の靴が置いてある。お客さん?と首を傾げながらリビングに行くと、我が家のソファに日本人離れした綺麗な顔立ちの男の子が座っていてびっくりした。

、ここに座って」
「う、うん…」

お父さんに促されて、わたしはソファに座った。向かい側に座っている男の子は笑顔一つ見せない。彼はサラサラの髪を目元くらいまで伸ばしていて、色はアッシュに近い白髪だった。見た感じ、優等生には見えないタイプだ。

、彼は黒川イザナ。今15歳だからより一つ上かな」
「…黒川…イザナ」
「イザナ、この子はわたしの娘のだ。どうか仲良くしてやってくれ」
「……チッ。何でオレが」

口を開いたと思ったら、いきなり舌打ちをされて驚いた。ふとウチの学校の3年にいる不良を思い出す。イザナくんもあの人達と同じく不良なんだろうか。でも何故うちに?と思っていると、お父さんは苦笑交じりで「彼は少し口が悪いが悪い子じゃないから」とわたしの頭を撫でた。

、父さんな。このイザナくんの保護司になったんだ。この前、話しただろう?」
「…え、あ…うん」

そう言われて思い出した。保護司とは更生保護法に基づいて、法務大臣から委嘱を受けた非常勤の国家公務員で、犯罪や非行に走った人の更生を任務とするものだと。身分は国家公務員になるけど、お給料は支払われないからボランティアだと言っていた。何でも保護観察官の人数が不足していて、彼らだけで補えないから、お父さんみたいな一般の人がボランティアで協力するそうだ。
元々お父さんは世間でいうところの不良だったり、犯罪を犯した人の手助けをしていた。働き口を見つけるのが難しい彼らを自分の店に雇ったりしているちに、保護司にも興味が湧いたらしい。

(ということは…このイザナくんも何か犯罪を犯したってことかな…)

少し不安に思っていると、お父さんはニッコリ微笑みながら「大丈夫だよ」と言った。何が大丈夫なのかは分からなかったけど、お父さんがそう言うんだから大丈夫なんだと少しだけホっとする。それにイザナくんは口は悪そうだけど、わたしを見る目は怖くなかった。父の話では、イザナくんに保護者という存在はいないらしい。だから――。

「成人するまで今日から彼もこの家で一緒に暮らすことになるから、僕たちは家族だよ」
「…家族?」

その時、イザナくんが驚いたように顔を上げた。不思議なことに、笑顔の一つも見せない彼が、この突然の家族宣言を聞いた時、わたしには何故か照れているように見えて。そう感じた時、きっと大丈夫。仲良くなれると確信した。
そして――その日から、わたしとイザナは家族として一緒に暮らすことになった。




2.

イザナくんが我が家に来て一ヶ月。何事もなく過ぎ去って、彼も少しは打ち解けてくれるようになっていた。

「イザナくん、ご飯出来たよ」

ノックをして声をかけると、しばらくしてからイザナくんが顔を出した。わたしよりも身長があるから少しだけ見上げる格好になる。間近で見れば見るほど端正な顔立ちで、綺麗だなあと見惚れてしまう。ホストクラブのお兄さん達で顔のいい人は見慣れてると思ってたけど、イザナくんは別格だ。

「人の顔、ジロジロ見んじゃねえよ」
「あ…ご、ごごごめんねっ」

彼の大きな瞳がかすかに細められたのを見て、わたしは慌てて後ろを向いた。わたしも学校でジロジロ見られる方だから、それをされると不愉快で嫌な気分になるのを分かってるはずなのに、と反省する。なのに突然後ろで「ぷ…っ」と吹き出す声が聞こえて驚いた。

「どもりすぎだろ。変な女だな」
「え、えっと…ごめん…イザナくん」

よく分からないけど怒ってはいないみたいだ。ホっとしつつ、もう一度謝ると、彼は「こっち見ろよ」と言ってわたしの肩を掴んだ。恐る恐る振り返ると、目の前にイザナくんの顏があって心臓が大きく跳ねた気がした。

「あと、イザナくんじゃなくてイザナでいいから」
「…え?」
「くん付けなんて呼ばれたことねえし気色わりぃ」
「……気色悪い…わ、分かった…じゃあ…イザナ?」
「よく出来ました」

イザナはニッコリ微笑んで、片手でわたしの頭をぐりぐりと撫でて来た。そうされると前より打ち解けてくれた気がして嬉しくなった。

「オマエ、頭ちっさくね?片手で持てるわ」
「も、持たないでよ…」

男の子にこんな風に触られたことがないから、急に恥ずかしくなった。イザナの手は大きくて、何でもつかみ取れそうな手だなと思う。彼は人を殴って捕まって少年院に送致されたみたいだけど、この手は誰かを殴る為じゃなく、守る為に使って欲しい。ふと、そう思った。

「ところで…今日の夕飯なに?」
「カ、カレー」
「お、いいじゃん。オレ、カレー好き」

イザナはそう言って嬉しそうにリビングへと歩いて行く。

(そっか…イザナはカレーが好きなんだ。覚えておこう…)

イザナは、恋もまだ知らないわたしが、初めて意識した男の子だった。





3.

ガキの頃から、オレはいつ死んでもいいと思っていた。
父親は誰か知らない。母親は――オレを捨てた。

オレだけ施設に行かされて、孤児になった。唯一大事にしてた妹のエマとも離れ離れ。オレに自分の未来なんて見えなかった。
そこで出会った鶴蝶と施設を飛び出し、ケンカに明け暮れる毎日。ケンカの仕方は兄だと言って尋ねて来た真一郎に教わった。笑えることに、真一郎よりオレの方がケンカのセンスがあったみたいだ。オレはどんどん強くなっていった。オレがケンカを教えた鶴蝶もめきめきと力をつけて、オレの右腕になった。

二人で夜の街をうろついてたら色んな人間がいる。

――君、綺麗な顔してるわね。今日、うちに来ない?

そんな声がかかることも多くなった。

――いくら、くれる?

大切にされたことのない人間は、自分を大切にする方法を知らない。だけど…

「イザナ、お帰り!今日、カレーだよ」

そんなどうしようもないオレを、が変えてくれた。

「んま!オマエ、カレー作るのマジでうまい」
「ほんと?良かったー」

この家に来て半年が過ぎると、オレは自然に笑えるようになっていた。これもきっと、どんなオレでも受け入れてくれるのおかげだ。最初はエマのように妹みたいに思っていた。だけど日に日にはオレの中で"女の子"になっていく。

「お父さんに教わったの。お父さんは死んだお母さんのカレーが大好きで、その作り方を思い出しながら作ってたら、だんだん自分の味になっていったんだって」
「へえ、そっか。社長、いいお父さんじゃん。は幸せだな。あんな優しい人が親で」
「……う、うん」

ふとの表情が曇った気がした。

「何だよ。社長に不満でもあんの?」
「……不満じゃない。お父さんも、お父さんのお店で働く皆も大好き…。だから…何も知らない人に悪く言われたくない…割り切るしかないって分かってるんだけど…時々すごく悲しくなっちゃうことがある…」

そう言っては泣きそうな顔をした。話を聞けば、親の仕事のことで色々言ってくる奴が学校にいるらしい。オレは俯いたままのの頭を掴んで、いつものように軽く撫でてやった。

「そんな奴ら勝手に言わせとけ。もし今度何か言って来るようならオレがぶっ飛ばしてやる」
「イザナ…」
は社長の大事な一人娘だからな」
「イザナ…お父さんのこと大好きだね」
「……当然。オレをどん底から引き揚げて救ってくれた人だからな」

社長だけじゃない。オレはのその笑顔にも救われた。女なんて生きる為に利用するだけの存在だと思ってたし、こんなオレは誰からも本気で愛されるとも思っていなかった。だけどと出会って、初めて本気で欲しいと思った。から愛されたいと、そう願ってしまった。
だから病気で社長が入院した時、オレに託してくれた手紙を読んで、と家族として生きていきたいと思ったんだ。



「はあ?結婚?!大将が?」
「何だよ…」

少年院で出会って、数年後に集まろうと約束をした奴らの中で、一番この手の話が得意そうな灰谷蘭に相談したら、ひどいリアクションが返って来た。

「オレには出来ねえと思ってんの」
「い、いや…出来る出来ねえとかの問題じゃねえっつーか…え、マジで言ってる?」
「冗談で言うか、こんなこと」

真顔で言うと、蘭は呆気に取られたような顔でオレを見るから、マジで殴りたいのをこらえるのに大変だった。

「いや…でもその手紙にあった家族ってそういう意味合いじゃないんじゃ――」
「あ、そーだ。結婚指輪ってどこのがいいと思う?」
「いや、話聞いて?」
「あ?」
「大将って時々天然入るんだよなあ…意外に素直つーか…」

蘭はブツブツ何か言ってたけど、オレはが何をあげたら喜ぶかを考えるのに必死だった。すると不意に蘭が訊いて来た。

「ってか、いつの間にあの子とそういう関係になってたんだよ。しばらく距離置いてたよなあ?」
「それは黒龍時代に迷惑をかけたからだよ。天竺で同じようなことにならない為に家を出た。それにとは別に何でもねえよ」
「は?」
「あ?」

蘭が見たこともないようなハニワ顔でオレを見るから、思わず笑いそうになった。

「何もないって…え、付き合ってんだろ?あの子と」
「付き合ってねえ」
「いや、でもさっき結婚するって…」
「別に付き合ってなくても結婚はできんだろ」
「………」

蘭ならこの手の話をしやすいと思って話してんのに、蘭の奴は急に黙り込みやがった。オレだって付き合ってたらどんなに楽かと思う。でもにだけは簡単に手が出せなかった。
その時、急に蘭が吹き出して笑いだすから何事かと思った。

「い、いやまさか…つき合ってねえとか…思わねえよ、オレも」
「うるせえな…」
「いや…まあ前もオレが聞いたら可愛すぎて手が出せねえつってたもんなぁ?」
「いいだろ、別に。はその辺の女とは違うんだよ。簡単に口説けたら苦労しねえっ」
「はいはい…いや…大将がねえ…」
「…テメェ、笑ってねえでどう言えばいいのか教えろよ」

頭に来て胸倉を掴むと、蘭は憎たらしいほどの笑みを浮かべてホールドアップをした。

「そのまま言えばいいんじゃねえ?」
「…そのまま?」
「ああいう子にはストレートが一番ってこと」
「……なるほど、ストレートに…」

オレが頷くと、蘭は素直すぎとか言って、また笑いだした。でもオレはそんなことよりもプロポーズをしたとして、がオレと結婚してくれるかどうかの方が気がかりだった。自惚れじゃなければ、の態度を見て、少なからずオレに気持ちがあるんじゃないかとは感じていたが、ハッキリ聞いたわけじゃない。

でも――その夜に社長が亡くなって、オレに迷っている時間はなくなった。
あれが正解だったのかは今でもまだ分からない。ただオレにとって他に選択肢はなく、をこの手で守っていくと誓ったガキの頃からの想いに間違いはなかったと思う。

「イザナ、今日のご飯は何がいい?」
「…んー」
「カレー」
「先に言うなよ」

願わくば、彼女との穏やかな時間がこの先も続いてくれたら、他には何もいらない。