第四話



1.

薄っすらと瞼の向こうが明るくなって、その光の刺激でゆっくり覚醒していく瞬間が好きだ。そっと瞼を押し上げれば、ぼんやりとした視界の中に大好きな人の寝顔がある。褐色の肌にはらりと垂れる白髪の間から、長いまつ毛が覗いてる。綺麗だなあ、なんて見惚れていると、そのまつ毛がかすかに震えて、イザナがゆっくりと目を開けた。

「お…おはよう…イザナ」

一瞬だけ驚いたようにバイオレットの虹彩が揺れたような気がしたけど、イザナはいつも通りのテンションで「おはよう、」と言ってくれた。前までは別々の部屋で寝てたけど、時々わたしが寂しいって言うと、イザナはこうして一緒に寝てくれるようになった。でも、やっぱりわたし達の間にはキスすらなくて、あの手紙の内容が頭を過ぎる。

(イザナはお父さんに言われたからわたしを家族にしてくれただけ…だから何もしてこないんだよね…)

一度でいいからキスしたいって思って欲しくて、「一緒に寝て」なんて恥ずかしい我がままを言ったりしてるけど、イザナは何も変わらず本当に一緒に寝るだけ。わたしのこと妹としてしか見てくれてない気がする。でも今だけ。今だけ甘えてもいい?

「イザナ…」
「どうした?」

少しだけ手を伸ばしてイザナに縋りつくと、優しい手が頭を撫でてくれる。嬉しいけど、でも今は――。

「ぎゅってして欲しい」
「……まだ寂しいのかよ」

イザナが苦笑交じりに言いながら、わたしの背中に腕を回して自分の方へ引き寄せてくれる。その一つ一つの仕草は優しいけど、お兄ちゃんが妹にするような抱擁の気がした。ついでにポンポンっとあやすように背中を軽く叩くから、子供扱いされてるようで悲しくなる。

「ねえ…」
「ん?」
「イザナはどうしてわたしと――」

結婚してくれたの――?

そう訊きたいのに、喉の奥で痞えて言葉が出てこない。昔、一緒に暮らしてた頃よりも、イザナを遠くに感じてしまう。

「…何だよ」
「ううん…何でもない…」

言ったそばから涙が溢れて来る。ダメだ。最近、情緒不安定かもしれない。お父さんが急にいなくなって、泣く暇もなく時間が過ぎて、生活環境も変わった。無条件に愛してくれたお父さんに会えなくなって、大好きなイザナと一緒にいるのに心は遠く感じてる。だから、時々無性に寂しさが襲って泣きたくなってしまうんだ。

「…?オマエ…泣いてんの…?」
「な…何でもない…ごめん。大丈夫だから…」

イザナが少しだけ体を起こしてわたしの顔を覗き込もうとするから、慌てて手の甲で涙を拭った。わたしが寂しくないように、せっかくイザナがそばにいてくれてるのに泣いたりしたらまた心配かけてしまう。いつまで一緒にいられるか分からないから、元気のない顔は見せたくない。

「何があった?」
「な…何も」
「オレには……言いたくねえの?」
「……っ」

何となく悲しそうな響きに聞こえて慌てて首を振って顔を上げると、イザナの指が濡れた頬を拭ってくれる。だけど、わたしのグチャグチャな気持ちをイザナにぶつけたくない。

「い、いつもの寂しい病が出ちゃっただけだから…」
「…ほんとに?」
「う…うん…」

頑張って笑顔を見せると、イザナは小さく息を吐いて急に体を起こすと同時に、わたしの両腕をぐいっと引っ張った。

「朝飯にしよう」
「…え?あ、そっか…イザナ、お腹空いたよね」
「いや…」

イザナはわたしの手を引いて寝室を出ると、「今朝はオレが作ってやるよ」と言い出した。それにはちょっとだけ驚かされる。前に一緒に住んでた時、イザナが料理をしてる姿は見たことがない。お父さんに言われても頑なに拒否していたのに。

「え、イザナ、料理いつの間に覚えたの…?」
「あ?ガキの頃だよ」
「嘘…ほんとに?」
「孤児ナメんなよ?何でも自分でやんなきゃいけなかったしな…鶴蝶と施設飛び出してから覚えたんだよ」
「そ、そうなんだ…」
「んで?は何食いたい?」

キッチンにつくと、わたしの手を離してイザナがニヤリと笑った。急なことで頭が追いつかなかったけど、パっと頭に浮かんだものを口にする。

「えっと…じゃあ…オムレツ!」
「そんなんでいいのかよ」
「う、うん」
「そういやってオムライスとかハンバーグとか子供が好きそうなもん好きだったよな」
「こ、子供って…」
「まあ、いいよ。朝だし軽めのもんの方がいいよな。んじゃーは仔猫たちにミルクあげて来い。その間に作るから」

イザナが腕まくりをして手を洗いだした。それを見て「分かった」と冷蔵庫から猫用のミルクを出す。チラっと見ればイザナは手際よく卵を割ってて何気にカッコいい。

「どうした?早くやってこいよ。アイツら腹空かせてっから」
「う、うん」

イザナが料理をしてるとこを見ていたかったけど、仔猫も心配だ。先にミルクをあげようと庭先へ出た。

「ミャァァァ」
「ミャャァァァァアアアア」
「はいはい…息継ぎしてるの?メメちゃん」

イザナの言う通り、仔猫たちはお腹を空かせていたようで、わたしの姿を見ると植え込みから走り出て来て勢いよく鳴き出した。クロはまだ声が小さいけど、メメちゃんの雄たけびのような鳴き声があまりに長くて笑ってしまう。

「もーちゃんと二つお皿あるから、オメメちゃんの盗っちゃダメだよ、クロ」

ミルクをあげるとクロはあっという間に飲んでしまった。なのにメメちゃんの方はまだ半分しか飲んでいない。もう一度クロのお皿にミルクを出すと、美味しそうに飲みだした。先月割れてしまった猫用の皿は、また同じ店にイザナと買いに行ったものだ。

、出来たぞ」
「え?」

その時、テラスにイザナが顔を出した。

「もう出来たの?」
「だって簡単だし」

イザナは笑いながら「早く来いよ」とわたしに手招きをした。こんな短時間でちゃちゃっと作れるのだから料理が出来るのは本当なんだろう。何か意外すぎて驚く。

「うわ、凄い。お店のみたい」

リビングに行くとテーブルの上に綺麗な形のオムレツがあって、サラダやコーンスープまで用意されている。

「スープはインスタントだけど」
「でも短時間で出来るの凄い。手際いいんだね、イザナ。前は"オレの手は生意気なヤツをぶっ飛ばす為のもんだから掃除も料理もしねえ"なんて言ってたのに」
「そんな恥ずいこと言ってたっけ?」
「言ってたよー。お父さん苦笑いしながら困ってたし、ちょっと笑っちゃったもん」
「…そうだっけ。まあ…社長にと当番制にされそうだったから、そう言っておけばいいや的に言ったのかもな」

イザナは苦笑しながらわたしの隣に座った。そう言えば家事は当番制なんてお父さんが言ってた気がする。ふと懐かしくなって、お父さんに会いたくなってしまった。

「…そんな顔すんなって」
「ご、ごめん。っていうかお腹空いちゃった。オムレツ頂きます」
「おー」

また勝手に寂しくなりかけた気持ちを振り切って、オムレツを一口食べてみる。中がふわふわでツナが入ってるのが分かった。

「ん、美味しい!」
「なら良かった」

イザナもオムレツを食べながらホっとしたように微笑む。どこか嬉しそうなその笑顔にドキっとさせられた。

「イザナ、凄いね。わたしより断然上手だもん」
「オレはのカレーや肉じゃがのが最高だと思うけど」
「…っい、いいよ…そんな気を遣わないで…」
「本心だよ。仕方なく覚えたオレとは違うし。家庭の味っていうの?オレ、初めてだったから。人に美味しいご飯作ってもらうの」
「……イザナ…」

イザナは笑いながら言ってたけど、少しだけ横顔が寂しそうに見えた。わたしが作ったもので良ければ、毎日だって作ってあげたい。

「…結構イザナのことは何でも知ってる気がしてたけど、まだまだわたしの知らないことがあったんだね」
「まあ…や社長に言えねえことも色々してたからなー」

そう言いながら笑うイザナを見ていると、もっと知りたいと思ってしまった。

「今までのイザナのこと、もっと知りたいな…」
「え?」

どう生きて来て、今のイザナになったのか、全部知りたい。今までは聞けなかったこと、少しずつでいいから話して欲しい。なんて思ってしまう。

「………」
「…イザナ…?」

するとイザナの手がわたしの肩に伸びてきてドキッとした。でもそれはすぐ頭に乗せられる。いつものようにぐりぐりっと撫でられて「早く食えよ」と言うから、わたしは黙って頷いた。

(一瞬――抱きしめてくれるのかと思ったのに…)

少し落ち込みながらも、なるべく笑顔を絶やさないようにしながら、イザナと二人で彼の用意してくれた朝食を食べる。これだけでも十分嬉しかった。





2.

『…は?が可愛すぎて襲いそう…つった?今…』

通話口から蘭の間抜けた声が聞こえて来て、軽く舌打ちをした。事実そうなんだが、改めて他人の口から聞くと、どんだけヘタレなんだって自分でも思う。他の女だったら全然余裕で押し倒せんのに、が相手だと心のどっかでブレーキがかかっちまうんだから笑うしかない。いや、実際は笑えねえけど。

『ってか何か声が反響すんだけど、大将どこにいんだよ』
「…トイレ」
『は?トイレ?つーことは…が可愛すぎて襲っちゃいそうだからトイレに逃げ込んだってことで…あってる?』
「チッ…そこ深堀すんじゃねえよ…っ」

蘭の馬鹿笑いが聞こえて来て、史上最悪の気分だった。

『悪かったよ、変な時に電話して』
「うっせえな…で?用って何だよ…」
『いや、大将立て込んでるみてえだし、今はいーわ。大した用じゃねえし』
「あ?何だよ…気になんだろが。今言えよ」
『そ?んじゃあ…相談なんだけどさー。大将んとこの店の子とデートしたいんだけど、いい?っていうか、食っちゃっていい?』
「…マジでどーでもいい話だな、おい…!…つーか食うな!…大事な商品だっつーの!」

蘭のすっとぼけた相談にイラっとして思わず怒鳴ってしまった。に聞こえたらヤバいと我に返ってすぐに口を閉じる。蘭は苦笑しながら『なーんだ、残念』と呑気なもんだ。

『でもさー大将』
「…あ?!」
『…怖。なーんか最近イライラしてね?欲求不満じゃねえの』
「大きなお世話だ…っ」
『いや、真面目な話。を怖がらせたくないって気持ちはよ~く分かるんだけどさ。もう結婚してんだし、あまりに手を出さな過ぎてもおかしくね?ってかだって不安に思ってんじゃねえの』
「…は?が…何を不安に思うってんだよ」
『いやまあ…これはオレが感じたことなんだけど…、何か大将に愛されてるって自覚が全然ねえ気がすんだよなぁ。いつもどことなく不安そうだし…』
「…まさか…」

愛されてない――?
がそんな風に思っているかもしれないなんて、蘭に言われるまで考えたこともなかった。良くも悪くも蘭は女に対してマメな性格なのは知ってる。だからコイツの言うことは、あながち間違ってねえ気がした。

「いや、でも…プロポーズしたのに?」
『そーだけど、結婚して二カ月過ぎてんのに未だキスすらしてねえんだろ?最悪、店目当てとか思われてたりして』
「………は?」
『いや、意外とありえんじゃね?実際、と結婚して大将は数ある店全てのオーナーって立場になったわけだし』
「……」
『あれ…イザナ…?大丈夫かよ』

蘭の声は聞こえてた。でもあまりにショックすぎて応えることが出来ず、オレはそのまま電話を切った。

「オレの気持ちが…伝わってない…?」

そんなの今日まで、考えたこともなかった。オレとしては大切にしているつもりでいたのに、それを店目当てと思われてるなら――最悪だ。

――だって不安に思ってんじゃねえの。

蘭の言葉が頭の中で何度も何度もループしていた。





3.

(イザナ、遅いなぁ…)

朝食の後、片付けを終えた途端、ケータイが鳴ってリビングを出て行ってから、かれこれ30分。蘭さんからって言ってたけど、何かチームの揉め事でもあったのかな、と心配になりつつ、ソファから立ち上がろうとした時、イザナがリビングに戻って来た。でもどこか顔色が悪い。

「イザナ…?蘭さんなんだって?」

やっぱり、またどこかのチームと抗争とか、そういう話だったんだろうか。イザナはふらりと歩いて来て、わたしの隣に座ると、ふと顔を上げてわたしを見た。

「ん?何か言った?」
「え、だ、だから…蘭さんの…用って?」

やっぱり様子が少しおかしい。いつものイザナっぽくない気がする。でも今度はわたしの問いに対して視線を巡らすと思い出したように苦笑いを零した。

「蘭…?ああ……何か店のキャバ嬢とデートしていいかっつー最高にどうでもいい相談だったわ」
「えっ店のって…うちの店のってこと?」
「ああ。でもダメだって言っておいたから心配すんな」

イザナはそう言いながら優しく頭を撫でてくれる。でもふと真剣な顔でわたしを見ると「…」と名を呼んだ。

「さっきの話だけど…」
「さっき…?」
…朝起きた時、元気なかったろ」
「あ、あれはだから…」
「本当のこと言えよ」
「…え…?」
「ホントは…他に何か理由あんじゃねえの…?」

いきなり真顔でそんなことを訊かれてドキっとした。

「寂しいって言ってたけど……それって社長のことだけじゃねえんじゃねーの…?」
「……え?」

核心を突かれて今度こそ心臓が大きな音を立てた。イザナの大きな瞳がわたしを真っすぐに射抜いてくる。

…もっと素直になれよ。いい子になって我慢すんな。オレには…何も我慢なんかしなくていいから」
「イザナ……」

まさかの言葉に涙が零れ落ちた。このまま、イザナの優しさに甘えてしまいたくなる。だけど、だからこそ。わたしがそばにいちゃイザナは自由になれない。

「泣くなよ…」

ポロポロと頬を伝って落ちていく涙を、イザナがさっきみたいに指で拭ってくれる。そのうち腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられると、また涙が溢れてしまう。イザナにとって、わたしは妹みたいなものなんだろうか。前に話してくれた生き別れた妹の代わりに、大切にしてくれてるのかもしれない。ひとりにさせないように、愛してもいないわたしと結婚をしてくれたのかも――。

「イザナ…」
「…ん?」
「お嫁さんにしてくれて…ありがとう…」
「……っ」

あと、どのくらい一緒にいられるんだろう。少しでも、長く続いたらいいのにな――。
そう思った時、イザナの抱きしめる腕の力が強まって、驚いて顔を上げると、不意に目の前が陰ってくちびるに柔らかいものが押しつけられた。

「―――っ?」

イザナが覆いかぶさってきて、彼の体重を受け止めることが出来ず、わたしの体が後ろへ傾き、ソファに倒れ込む。何が起きてるのか頭が追いつかなくて、真上に見えるイザナを見上げた。綺麗なバイオレットの虹彩が、妖しくゆらゆらと揺れている。声も出せないまま、その淡い光を見つめていると、頭の後ろに手を添えられて、イザナがゆっくりと身を屈めたと思った時、またくちびるを塞がれていた。

「ん…」

いったい、何が起きてるの――?

混乱した頭の中で思い出した。

"一度だけキスをしてもらえたら、その思い出を大切に、ひとりで生きていく"

そう、決めたのに。

「………?」

ゆっくりとくちびるが離れた時、わたしの瞳から涙が零れ落ちたのを見て、イザナが驚いたように息を飲むのが分かった。

どうしよう。まだ終わりになんか、したくないのに――。