第五話


1.

――イザナ。これからは一人だから、強く生きなさいよ。

母親だと思ってた女からそう言われた時、オレは一生、一人で生きて行かなくちゃいけないんだと思った。
でも違った。オレは最初から一人だった。誰とも血なんか繋がってない。笑ってしまうほど、オレは孤独だった。
そんなオレを家族にしてくれたのがの父親である社長だった。どんなに反抗してもしつこくオレを自分達の方へ引き戻そうと必死になる姿を見て、オレは嬉しかったんだと思う。ウザいと思っていた社長の説教も、本当は嬉しかった。人を傷つけることしか出来なかったオレを、本気で叱ってくれたのは社長だけだ。何度裏切っても、そのたび本物の父親のように、社長は叱ってくれた。

――不良だろうが暴走族だろうが好きなことをしたっていい。だけど自分より弱い人間を傷つけるな。ケンカは自分より強いヤツとしろ。

普通の大人ならケンカすんなって言うところだ。でも社長は「男同士は殴りあって分かり合えることもよくあるからな」と笑ってた。

"恐怖では何も生まれない。人との絆を大切にしなさい"

社長にそう言われた時、ガツンと頭を殴られた気分だった。だからかもしれない。少年院で出会い、暴力で支配しようとしてた蘭や望月たちと、きちんと向き合おうと思えたのは。アイツらとは未だにバカをやってるけど、最初の頃よりいい関係を築けたのは社長のおかげだ。今ならケンカ別れした真一郎とも笑って会える気がする。

そんな恩人とも言える社長が一番大切にしていた娘のを託された時、オレはこれまでのことを許された気がした。
大切だからこそ、懐いて来るを突き放していた時期もあったけど、そんなのはガキだったオレの自己満足でしかない。本当に大切なら、そばにいて守ってやらないとダメだったんだ。こんなオレが唯一、幸せにしてやりたいと思えた子だから。彼女の笑顔を守る為なら何だってする――。
そう、誓ったはずだったのに。

"だって不安に思ってんじゃねえの"

蘭に言われた言葉が頭を回ってる時、不意に「お嫁さんにしてくれてありがとう」とに言われて驚いた。色んな想いがこみ上げてきて、我慢も限界に来たのかもしれない。気づけばに口付けていた。まさか、泣かせてしまうなんて――。

…悪い…嫌だったか?」

手を伸ばしかけて、ふと止める。このまま触れて余計に怖がらせたら…と躊躇した。でもが首を振って体を起こしたのを見た時、そっと抱き寄せた。

(腕…振りほどかれなくて良かった…)

オレに身を任せてくれたにホっとしつつも、泣かせてしまった事実にかなり落ち込んだ。





2.

「……は?」
「キスして泣かせた…?」

夜、仕事の帰りだとかでアジトに顔を見せた大将は、見たこともないくらいにヘコんでいた。

「いや、何してくれてんだよ、天竺の姫に!」
「………(言葉もない)」

ソファに座り、がっくりと頭を項垂れている大将はある意味レアだけど、でもあんな向日葵みたいな可愛い子を泣かすのはダメだ。兄貴もそう思ったのか、「オレはを泣かせる為にアドバイスしたわけじゃねえんだけど」と珍しく大将にツッコんでいる。ってか、いつからは天竺の姫になったんだ?大将の姫だったはずが、今やチームのマスコット化してるかもしれない。

「オレはケダモノだ……」
「あ、本気で落ち込んでるな、これ」

未だに項垂れたままの大将を見て、班目パイセンが苦笑してる。

「天竺の王も相手じゃ形無しじゃね?」
「大将に入れこんでた女どもにこの姿、見せてやりてえなー」
「兄貴、酷っ」

落ち込んでいる大将をここぞとばかりに班目パイセンと兄貴がいじってる。後が怖いからオレは傍観。その時、ふと大将が顔を上げた。

「どうでもいい」
「…あ?」
「オレはしかいらない。が受け入れてくれるなら、他のヤツにどう思われてもいい」
「………」
「………」
「………」

ポツリと呟いた大将に、オレと兄貴、班目パイセンは互いに顔を見合わせた。落ち込んだ姿もレアだけど、堂々と真顔で彼女への愛を口にする大将も激レアだと思う。

「そのまんま言えばいいのに」

ついそう言ってしまったオレを、大将はチラっと見て一言。

「…重いだろ」
「自覚はあるんだな」

そこで兄貴は苦笑交じりで突っ込んだ。大将は兄貴みたいに思ったことを何でも言えるタイプだと思っていたけど違ったようだ。本気の子相手だとかなり不器用になるらしい。ケンカじゃ負けなしなのに、にはいつもみたいに強気になれないなんて、案外可愛いとこがあるんだなと驚いた。

「おーイザナ!来てたのかよ」

そこにチーム一、空気の読めない下僕が来た。ヘコんでいる大将の隣に座って、「何だ?腹でも痛いのか?」と言い出すんだから目も当てられない。案の定、後頭部をシバかれて「何で殴んだよ?!」とビックリしている。

「…少しスッキリしたから帰るわ」
「オレでスッキリすんなっ」

ふらりと立ち上がった大将に鶴蝶が突っ込んでるけど、またゲンコツを食らってる。全く懲りない男だ。

「じゃーな」
「おー。ちゃん、あんま一人にしちゃ可哀そうだし一緒にいてやれよ」
「…他人事だと思って…」

声をかけた兄貴を睨みながら、大将は背中に黒背景を背負いつつ重たい足取りで歩いて行く。あの後ろ姿を見てるとオレまで心配になってきた。

「大将、大丈夫か…?」
「まあ、ここを乗り越えねえとな。夫婦なんだから」

大将を見送ってた兄貴が笑う。確かにその通りだ。けど大将とを見てると、結婚がゴールじゃないんだなと実感した。想いあってるはずなのに、二人はどこかかみ合ってない気がするのは何でなんだろう。

「でも何では泣いたんだろーな。見る限り、も大将のこと大好きなはずなのに」
「だよなァ…逆に嬉し泣きとか?」
「あーありえるな。、凄く純粋だし」

オレと兄貴が話してると、そこに鶴蝶が「何の話だ?」と割り込んで来た。鶴蝶は昔から二人のことを近くで見ていたはずだ。

「いや、イザナがにキスしたらが泣いちまったらしい」
「は?イザナのヤツがを泣かした?ありえねえぞ」

鶴蝶はギョっとした様子で言い切った。

「アイツは昔からのこと大切にしてたし、の笑顔が見たいってだけでガラにもなく黒龍時代から遊園地だの水族館だの、よく付き合ってたしな」
「「は?大将が遊園地と水族館…?!」」

オレと兄貴の言葉が見事に重なって、鶴蝶は兄弟でハモるなと突っ込んで来た。でもそれだけ驚いたってことだ。酒を飲んでた班目パイセンはウイスキーを口から噴射してるし。

「大将がねえ……似合わねー」
「園のつく場所、似合う奴、この天竺にいねえけどな」

オレが笑うと、鶴蝶と班目パイセンも顔を見合わせ「確かに」と納得してる。特に大将はオレの知る限り、女に対して誠実の欠片もなかったはずだ。一時ホストをやってたと言ってたけど、そういうんじゃなく、もっとガキの頃から女を転がしてたようなとこあるみたいだし。でもと結婚してからは女に言い寄られても一切、なびかない。それはそれですげえなって思う。

「まあは昔から泣き虫だったから泣かさない方が難しいだろうけどなァ」

鶴蝶はそんなことを言いながら苦笑してるけど、さっきの大将を見てると、どうも心配だ。重くても何でもいいから、思ってる気持ちを伝えればいいのに。ふと、そう思った。





3.

そっと音を立てずにドアを開けて中に入ると、リビングの電気は消えていた。どうやらは先に寝たらしい。一応、靴があることを確認してからの部屋へ向かう。静かにドアを開けてベッドを確認すると、布団に潜って寝ているの頭だけが見えた。いてくれたことにホっと胸を撫でおろし、ドアを閉めた。

「情けな…」

もしかしたらが出て行ってしまうんじゃないかと不安だった。あんなことをして泣かせるなんて最低だ。いや、オレは元々そんな男だったけど。

を幸せにする――。

そう誓った。それは嘘じゃない。だけど――出来るのか?
"普通の家庭"を知らないオレに。
仕事や遊びでなら、いくらでも上手くやれる。でもそれじゃダメだ。本気の愛し方なんて、オレは知らない。

「すみません…社長。を泣かせました…」

部屋に飾ってある社長の写真を眺めつつ、託された手紙を手に溜息が洩れる。大切な子を大切にするというのは案外難しいことなのかもしれない。

(まあ…オレの場合は、だけど)

その時、廊下の方でかすかな物音がしてハッと顔を上げた。そっと立ち上がり、部屋を出ると、ちょうど隣の部屋から出て来たとバッタリ会う。

「あ…わり。起こしたか?」
「イザナ…」

オレを見るなり笑顔を見せるにホっとしつつ尋ねると、「喉乾いちゃって」とが言った。

「おかえり、イザナ」
「…ただいま。

そんな言葉を交わして微笑みあう。このオレが、たったこれだけで幸せを感じてるんだから笑ってしまう。

「何か作ってやるよ」
「え…?」
「眠れそうなもん」

そう言ってキッチンに行くと、以前社長から教えてもらったの好きなホットミルクを作った。

「ほら」

ソファに座るの隣に腰を下ろしてカップを渡すと、の瞳が戸惑いで揺れた。

「え…これ」
好きだろ?熱すぎないハチミツ入りのホットミルク」
「うん…でも、どうして?」
「社長が教えてくれた」
「……お父さん、イザナにわたしの話してたんだ」

どこか嬉しそうな笑みを浮かべるを見ていると、今朝のことを思い出した。この笑顔を失いたくない。

…」
「え?」
「ごめんな」

ずっと欲しかった子が腕の中にいて、歯止めが効かなかった。こんなこと、一度もなかったのに。

「怖かったよな…いきなりキスなんかして」
「イザナ…」

思い切って謝ると、は少し驚いた顔でオレを見上げて、手にしていたカップをテーブルの上に置いた。その瞬間、オレの手をぎゅっと握って「謝らないで」と、また泣きそうな顔をする。

「違うの…ビックリしたけど…泣いちゃったけど…違う。怖かったんじゃない…嬉しかったの」
「……は?」

予想外の答えが返ってきてオレがビックリした。は恥ずかしそうにオレを見上げていて、その笑顔は反則級に可愛い。

「バレてると思うけど……初めてだったの。だから…イザナの悪い思い出にならないで欲しいなって思って…」

その告白に鼓動が素直に反応する。彼女のいじらしさはいつもオレの理性を崩してくるから困ってしまう。

「…悪い思い出になんかなるわけねーだろ」
「イザナ…」

そっとの頬に手を伸ばせば、かすなか熱を感じた。

の唇を他の男が知ってたら…」
「…え?」
「そいつ、殺してたかも」
「イザナ…」

そっと唇を近づけて「いい?」と尋ねると、は恥ずかしそうに、でも小さく頷いた。もう片方の頬にも手を添えて、今朝よりも優しく唇を塞ぐ。の柔らかい唇の感触で、オレの全身にも熱が回った。

(理性…飛ぶなよ)

頭の中で唱えながら、何度も角度を変えて口付ける。柔らかく触れあう唇から想いが伝わっていくように。こんなに優しいキスをしたのは初めてだったかもしれない。ゆっくりと唇を離しての手を握ると、彼女は照れたようにオレの胸に顔を埋めた。その華奢な身体を抱きしめると、さっきまでの焦燥が綺麗さっぱり消えていく。

普通の家庭は知らない。過去は変えられない。でもオレは、オレのやり方でを幸せにする。

…」
「…ん?」
「嫌がることはしないから…オレの部屋に来ねえ?」
「え」
「眠るだけ。何もしない」

そう言ってそっと顔を覗き込むと、は柔らかい笑みを浮かべて頷いてくれた。

「何かしてくれてもいいのに…」
「…え?何て言った?」
「ううん…何でもない。大丈夫だよ。イザナの部屋にはお父さんもいるもんね」
「あー…だな」

社長の写真のことだと気づいて思わず吹き出せば、も楽しそうに笑った。

――良かった。またこの子が笑ってくれて。

その夜、オレは初めてに腕枕をしながら、体を寄せ合って眠りについた。