第七話


1.

と幼馴染ちゃん、いねぇなあ」

蘭が溜息交じりで言うのを聞きながら、オレも深い息を吐いた。が来たと思われる温泉街。そこの観光地を巡って一通り探してみたものの、どこにも姿はなかった。気づけば日も暮れ始め、観光名所は更に人出が増えて来る。格好を見れば泊り客らしかった。

「とりあえずホテルに行ってチェックインしとこうぜ」
「ああ…そうだな」

蘭に促され、この近くだというホテルに向かう。それでも後ろ髪を引かれる思いで振り返った。この沢山の人の中にがいるかもしれないと思うと、気ばかりが焦る。あんなにそばにいたのに、が何を思って離婚届を置いて行ったのかが分からない。今まで言えなかったことや聞けなかったことが、こうなってみて初めて沢山あることに気づいた。昔から知ってるから、はオレのことを理解してくれてると思い込んでいたのがいけなのかもしれない。

「大将~部屋行こうぜ。こっちは大将の部屋のキーな」
「ああ、さんきゅ」

チェックインを済ませてくれた蘭からキーを受けとりつつ、ロビー内にいる多くの客の中にがいないか探していく。家族連れやカップルが目立つ中、女の二人組が視界に入った。それもの髪型にそっくりな後ろ姿。それを見て足が勝手に動いた。

「ちょ、大将?」
と同じ髪型の子がいる」

蘭の声が追いかけて来たのを振り切って二人組の女を追いかけた。二人は外出するのかエントランスの方へ歩いて行く。ちょうどやって来た客とぶつかりそうになりながらも外に出てその後ろ姿を追いかけた。

「…!」
「え?」

後ろから肩を掴むと女が振り返る。だけどそれはとは似ても似つかない他人だった。

「誰…?」
「わ、お兄さん、カッコいい!」

訝しげにオレを見る女と騒ぎ出した女を見て、全身の力が抜けていく。そこへ蘭と竜胆も走って来た。

「わりーな。人違いだったわ」
「え、うそ。更にイケメン二人も増えたっ」
「あのー良かったら一緒にまわりませんか?」
「いや、オレ達観光目的じゃねーんだ。悪いな」

無駄に愛想を振りまいて蘭が上手く断っているのを眺めながら、オレはホテルの方へ歩き出した。同じホテルにが泊っている確率はどれくらいあるというんだろう。

「ったくー。ふわふわロングはだけじゃないからね、大将」

竜胆が苦笑交じりで言うのを聞きながら「分かってんだよ、そんなことはっ」と言い返す。分かっていても、追いかけずにはいられなかった。

「とりま、風呂でも入ろうぜ」

蘭がオレの肩に腕を回しながら歩いて行く。普段は適当でチャラチャラしている兄弟が、こういう時はやけに頼もしい。

「…悪い」
「らしくねえなあ…大将はいつもの唯我独尊でいりゃーいいんだよ」
「あ?唯我独尊はオマエだろ、蘭」
「はあ?自覚なしかよ。タチわりいな、オイ」

蘭が呆れたように笑うから、オレも釣られて笑みが漏れた。こんなオレのそばにいてくれるのはだけかと思っていたが、本当にキツい時、そばにいてくれる仲間がオレにはいたんだな、と改めて気づかされる。

(ま…鶴蝶は女のことに関しちゃ役に立たねえしな…)

ふと幼馴染の下僕の顔を思い出して苦笑が洩れた。

「はあ~部屋の露天風呂っつーから、もっと狭いのかと思えば、かなり広いし」

部屋に入った後、イザナも来いと言われ、半ば無理やり部屋の温泉に入れられた。何が悲しくてデカい男二人と温泉に浸からなくちゃいけねーんだと思いながらも、こうして男同士裸の付き合いをするのは初めてだなと思った。

「はあ~生き返るー」

竜胆はオッサンみたいなことを言いながら淵に両腕を乗せて天を仰いでいる。こうして二人の裸を同時に見ると、体に彫られたタトゥーが鮮やかなに重なるようだ。

「しっかし、あれだけ探してもいねえとか。ほんとに、この街にいんのかよ」
「でもまあ手がかりはここしかねえしな。あの伊藤ってオッサンが嘘ついたようにも見えなかったから探すしかないんじゃね」
「そうだよなー。明日はどこ探す?」

今ではオレと同じくらい積極的にを探そうとしてくれている二人に感謝しつつ――口では言えないが――ふと一つの不安が胸を過ぎる。

は…本当に今、あの幼馴染と一緒にいるのか…?」
「え?」
「オレにキスされて泣いたのは…他に好きな奴がいるからじゃねえのかな…」
「は?どーしたんだよ、イザナ。らしくねえ邪推してんじゃねえよ」

蘭は心底驚いたように顔をしかめている。でも他にが出て行く理由が思い当たらない。

はどう見ても大将のこと大好きだよ。なあ?兄貴」
「ああ。妬けるくらいオマエしか見てねえぞ、あの子は」
「……オレも…そう思ってたけど…」
「あ?今度は惚気かよ」

蘭は呆れたように笑っている。だけど実際、昔からはオレのことを大切にしてくれてた。最初は同情かと思って素直になれなかった時期もあったけど、次第に本気でオレのことを家族と思ってくれてるんだって気づいた。そのうち、がオレのことを兄以上に想ってくれてると感じるようになって。それが嬉しかったのと同時に、そばにいたら余計に傷つけてしまう気がして、社長にも迷惑をかけてしまう前に家を出る決心をした。
でも今、生きる世界が違うとか、そんなものは、もうどうでも良くて。この手で守りたいと思ったからこそ、プロポーズをしたって言うのに。結婚したらしたで今度はの気持ちが分からなくなるなんて思いもしなかった。

「もし今…がその男と一緒だったら……」
「い、一緒だったら…?」
「…ソイツ、殺しちゃうかも」
「こわっ」

竜胆が風呂から飛び出て蘭の後ろに隠れている。でも正直、が他の男と一緒にいるところを想像すると、昔のオレが薄っすら顔を出す。
その時、ふと蘭がオレを見て言った。

「不思議だな」
「あ?」
「ここまで溺愛してんのに何でそのイザナの気持ち、に伝わってねえの?」
「あー言われてみれば、兄貴の言う通り。何で?大将、ちゃんとに好きだって伝えてる?」
「…………」

いきなり兄弟に痛いところを突かれて言葉を失う。その様子を見て察したのか、蘭が口元を引きつらせた。

「まさか…イザナ、オマエ…」
「一度もない」
「はあ?!バカなの?元ホストやったり、更に言えば昔からその辺の群がってくる女を適当に口説いてたろ?」
「そーだよ!甘い言葉なんか息を吐くより出るだろ、大将は!使えよ、あのスキルを!」
「あ?バカは言いすぎだろ、蘭。それに竜胆、オマエはオレを何だと思ってんだ」

好き放題言って来る兄弟にイラっとしつつ、軽く舌打ちをした。

「言えねえよ」
「は?何でだよ」
「オレの愛の言葉なんて全て金に換えた。そんな軽い言葉、にだけは言えねえんだよ」
「イザナ…」

恥ずかしいこと言わせんなとそっぽを向けば、蘭の腕が肩に回された。いくら裸の付き合いとは言え、密着しろとは言ってない。

「その気持ちも分かるけどさ…まあ、オレも適当なことばっか女に言ってるし。でも…言わなきゃ伝わんねえよ。昔から知ってるつっても、心の奥なんて見えねえんだしさ。察して欲しいと思ったところで、がそんな器用な女に見えるのかよ」
「……蘭のクセにムカつく。ド正論かますんじゃねえよ」

舌打ちして肩に乗せられた腕を振り払えば、蘭は楽しげに笑いだした。でも確かにはそんなに器用じゃない。でも、だからこそ好きでもないオレとの結婚を受けてしまって悩んでたんじゃないかと思ってしまう。に想われてると思ってたのは、オレの自惚れだったのかもしれないと。

は…オレが怖くなったのかもな…。の孤独につけこんで籍入れて。あげく何も言わずにキスした男なんて…もう顔も見たくないのかもしれない」
「は?んなわけ…嬉しいつってくれたんだろ?」
「そんなの本心かどうか分かんねえじゃん。オレにビビってそう言ったのかも…」
「はあ…こりゃ重症だな、大将」

悪い方へ考えれば考えるほど、そうなんじゃないかと思えて来る。オレはいつからこんなネガティブな男になったんだと苦笑が洩れた。

「いや、地味にイザナって昔からネガティブだろ」
「そーだった、そーだった。特にに関してはなー」
「あ?」
「可愛すぎて手が出せねえ、までは良かったけど、家を出て会ってない時期はいっつも"もしかして彼氏できてるかも"つって定期的に社長に探り入れてたんだろ?そんなに好きならサッサと口説けばいいのにって思った記憶あるわ」
「チッ…うるせぇな…。あん時はまだガキで、大事なもん壊すのが怖かったんだよっ」
「へえ、大将の口から怖いなんて言葉聞けるとはなー。レアだわ、これ。帰ったら鶴蝶に教えてやろう」
「は?竜胆、アイツに言ったら、マジでボコすからな」

それは勘弁して、と言いつつ、笑っている二人を見ていたら、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。これまでこんな情けない話は誰にもしたことがない。一人で考えて一人で完結してたオレは、やっぱり他人と向き合えていなかったんだろう。

「サッサと見つけて帰ろうぜ」
「帰ったらキャバクラ、貸し切りね」
「美人以外、つけなくていいけど」

二人は相変わらずバカなことを言って笑ってる。でも今はそれがオレにとっては有難かった。





2.

「はあ~気持ち良かったね、お風呂」
「うん」

温泉から上がって部屋に戻ったわたしはドライヤーで髪を乾かしながら頷いた。だいぶ伸びて来たから、ボブの紀香ちゃんよりも乾かすのに時間がかかるのだ。

「やっと渇いたー」

ドライヤーのスイッチを切ってホっと息を吐き出すと、紀香ちゃんが早速ビールを開けてくれる。

「ありがとう。ご飯前に飲んじゃったら酔いそうだけど喉乾いちゃったね」
「ねー。でもって髪綺麗だよね~。サラサラ。昔に比べたらかなり伸びたんじゃない?」

紀香ちゃんがわたしの髪に触れながら「まだ伸ばすの?」と訊いて来た。

「…もう…切っちゃおうかな」
「え、切っちゃうの?っていうか、ってば中学の頃からずっとセミロングじゃなかった?伸びたらすぐ元の長さまで切ってたよね」
「うん。ほら、わたし、髪を縛ったり結ったり、あの頃はそういうこと出来なかったから中学に入ってからは面倒でずっと肩くらいにしてたんだ」
「ふーん。じゃあ、何で急に伸ばし始めたの?中学の後半はもう伸ばしてたよね、確か」
「それは…イザナが…長い髪が好きだって言ってたから…?」
「え?イザナさん?」
「うん…」

ちょうどイザナが家に来て半年が過ぎた頃、一緒にテレビを見てたら、ドラマに出ていた女優さんを見てイザナが言ったのだ。

――やっぱ長くてさらふわな髪っていいよな。

たった一言。そう言ってたのを聞いて、何故かわたしは毎月恒例の美容室に行くのをやめた。きっと少しでもイザナの理想に近づきたかったんだと思う。それ以来、長い髪のままだった。

はさ…」
「え?」

顔を上げると紀香ちゃんはわたしを見て微笑んだ

「ずっとイザナさんだけだもんね」

そう言われてドキっとした。イザナと出会ったあの日から、わたしの胸の奥はずっとざわざわしていて、淡くてほろ苦い想いが燻っている。

「そう、なんだよね…こんなにイザナでいっぱいだから、これからイザナなしで生きてく自分なんか想像できないな…」
…」
「でも慣れなくちゃね。これからはイザナがいないことが当たり前になっていくんだから」

どんなに会いたくても、もう会えない――。
そう思ったら、また泣けて来た。

…泣かないで」
「ん。ごめん…紀香ちゃん…」
「あ、ほら!美味しいもの食べよ!どれだけウチにいてもいいし、もし本当にイザナさんが女作ったら私が殴ってあげる!」
「殴っちゃダメだよ…イザナ、短気だし」
「そ、そっか…横浜天竺の総長だもんね…私が瞬殺だわ」
「イザナは女の子に手をあげたりしないよ」

青い顔をする紀香ちゃんに笑いながら、ホテル内にある居酒屋さんに行こうということになって部屋を出た。

(でも、そっか…。イザナのいない生活が、これから始まるんだな…)

ふと現実を思い出して、胸の奥が締め付けられる。いつもいつもイザナのことばかり考えていた日々が、少しずつ減っていくのかな。
そんなことをぼんやり考えながら、居酒屋さんの暖簾をくぐろうとした時だった。反対側から同時に暖簾を捲った人がいて、ふと顔を上げる。

「……っ?」
「――ッ」

一瞬だけ目が合ったバイオレットの虹彩が、幻かと思った。

「えっ?イザナさん…っ?」
「あっ姫っ!」

紀香ちゃんの驚きの声と同時に聞こえて来たのは蘭さんの声。これはもう幻覚でも幻聴でもない。そう思った時だった。突然伸びて来たイザナの腕に思い切り抱きしめられた。

「…

その大好きなイザナの声がすぐ近くで聞こえて心臓が一気に動き出す。イザナの香りに包まれると、このままこの腕の中に閉じ込めておいて欲しいとさえ思う。その気持ちを押し殺してイザナの腕を振り払うとその場から逃げ出そうと背中を向けた。でもすぐにまた腕を掴まれて後ろから強く抱きしめられる。

「…オレの部屋に…来ねえ?話がしたい」

そう言われてビクリと肩が跳ねた。恐る恐る後ろを仰ぎ見ると、イザナの悲しそうな瞳が揺れている。やっぱりあのままじゃいけない。イザナの顔を見ていたらふとそう思った。ちゃんと今後のことも話さないと、リアルな話、離婚は成立しない。

「分かった…」

頷くと、イザナは蘭さん達に「部屋に戻ってて」と言っている。わたしも紀香ちゃんに「行って来るね」と声をかけると、紀香ちゃんの方が泣きそうな顔で頷いていた。
そのままイザナの手に引かれ、彼の部屋へ行くと、チェックインして間もないのか、綺麗に整えられた空間に通された。イザナを見ればホテルの浴衣姿で、今までわたしと同じように温泉に入ってたんだろう。さっき抱きしめられた時、ふわりと硫黄の香りがしたことを思い出す。

「ほら、飲む?」
「あ…うん」

イザナは冷蔵庫から炭酸ジュースを取ってわたしにくれた。受け取りながらもかすかに手が震えるのを感じながら、何となくイザナの手に目が向く。その時、薬指にしてた結婚指輪がないことに気づいた。

(イザナは…もうそのつもりなのかな…)

自分で離婚届を置いて来たクセに、身勝手な悲しみに襲われる。冷たいペットボトルを握り締めながら、緊張でカラカラに乾いた喉を潤そうとキャップを外して一口飲んだ。

は…離婚したいの?」

不意にイザナが口を開いてビクリと肩が跳ねた。その拍子に手にしていた炭酸ジュースのペットボトルがするりと手から滑り落ち、膝の上に落下。跳ねたペットボトルは中身が吹き出して、わたしの顔や髪、浴衣を濡らして床の上に転がった。

「ご、ごめんなさ――」

慌てて腰を浮かした時、イザナがわたしの濡れた頬に触れてくる。ジュースの糖分で髪も顔もベタベタだから急に恥ずかしくなった。

「よ、汚れちゃうから触らないで…」
「いいから、そこの風呂に入って来いよ」
「え…?」

見ればイザナの部屋には露天風呂がついている。驚いて顔を上げると、イザナは「待ってるから」とひとこと言った。とにかくこんな恰好じゃ落ち着いて話も出来ない。そこは素直に頷いてお風呂に入らせてもらうことにした。

(何…やってんだろう…)

夜空に浮かぶ三日月を見上げながらふと苦笑が洩れる。自分のダメさに溜息しか出ない。イザナから逃げて、こんなところまで来て、今更終わりが来ることに怯えている。

「…イザナ、指輪外してた…」

自分の左手を空に翳しながら、今も外せないでいる指輪を眺めた。きっとそれがイザナの答えで、ここまで来たのはきちんと話をする為なんだ。そう思ったらまた胸がジクジクと痛みだす。

初めて我が家にイザナが来た日から、特別な存在だった。日に日に打ち解けていってくれることが嬉しくて、そのうちそれが恋に変わって。だけどイザナは家から出ていってしまった。仲間の人とチームを作ってはケンカばかりしてた時期には何度も諦めようと思った。いつかイザナがもっと悪いことをして、また捕まる日が来るかもしれない。そう思うと耐えられなかったから。なのに――。

――、これイザナから。誕生日おめでとうだって。
――覚えてくれてたんだ…

お父さんとだけは連絡を取りあっていたイザナは、毎年わたしの誕生日には何かしらプレゼントをくれる。忘れたいのに、いつも忘れさせてくれなかった。
実らないまま、大きくなったわたしの初恋。

(今までありがとう。勝手に家を出てごめんね。わたしは一人で大丈夫だから、イザナは自分の人生を自由に生きて、いつか夢を叶えて)

イザナに伝えたい言葉はたくさんある。

「ちゃんと…言えるかな…」

部屋に戻ったら、本当に終わってしまう。お湯に浸かりながら、流れる涙を拭った。泣いても泣いても、涙は枯れないんだな――。

「…?時間かかってるけど平気か?」
「……っ」

不意にノックをされてドキっとした。

「ご、ごめん…すぐ出るから――」

出たら終わってしまう。だけど、もう行かなくちゃ。ちゃんと話をしなくちゃ。
頭の中で何度もその言葉を繰り返しながら、立ち上がろうとした。

「………っ」

動いた瞬間、視界がぐにゃりと曲がって、全身の力が抜けていく。そこで、わたしの意識は途切れていた。





3.

「ん……」

何だろう。頭がボーっとする。ゆっくり瞼を押し上げた時、見慣れない天井がぼんやりと見えた。

「気が付いた?」
「―――ッ?!」
「大丈夫かよ」

見えていた天井を遮るようにイザナの顏がわたしを見下ろしている。目が飛び出そうなほど驚いた時、自分がイザナの膝の上に頭を置いて横になっていることに気づいた。

「わ…っ」
「あ、コラ、ダメだって」

驚いて飛び起きた時、イザナの腕に阻まれ、また膝の上に寝かされた。

「急に動くなって。危ねえから」
「え…」
「何があったか覚えてねえの?」
「えっと…」

イザナに訊かれて考えた時、お風呂に入ったことを思い出した。風呂上りだったのに、またすぐお風呂に入って逆上せたことを思い出す。その時ハッとした。

「え…浴衣…」

何故か真新しい浴衣を着ている自分に驚いて顔を上げると、イザナは急にそっぽを向いた。その頬が少しだけ赤い。

「あー…出来るだけ見ないようにはしたし…」
「……っっ?」

その言葉の意味を理解した瞬間、顏がかぁぁっと燃えるように熱くなった。恥ずかしいのと、こんな形でイザナに見られてしまったショックが大きくて涙が溢れて来る。

「な、泣くなよ…っ見てねえからっ」
「…ん…ごめん…ごめんね、イザナ…」
「何でオマエが謝ってんだよ…」

ゆっくり体を起こすと、イザナが苦笑しながら背中をさすってくれる。この優しい手を放さないといけないんだと思うと、余計に泣けてきた。

「体…大丈夫か?」
「……ん」
「…オレが無理やり連れて来たから…色々考えさせちゃったか?」

ふと真剣な顔でイザナが言った。

「もし…今、話すんのが難しいなら今じゃなくても――」

思わずイザナの手に自分の手を重ねていた。こんな時でもイザナは優しい。これ以上、イザナに負担をかけたくはない。

「…じょうぶ…」
「え?」
「話…するから、ちょっと待ってね…」

次から次に涙が溢れて来るのを手で拭いながら、気持ちを静めようと深呼吸を繰り返す。

(涙、止まって…ちゃんと話したいのに…)

なのに余計に感情が昂っていくせいで、涙はなかなか止まってはくれない。その時、ぐいっと背中を抱き寄せられた。

「その涙…まだオレに拭う権利…ある?」
「……え」

驚いて顔を上げると、濡れた頬を撫でていくイザナの薬指には指輪がはめられていた。

「ゆ、指輪…」
「ん?」
「さっきしてなかったのに…」
「ああ、風呂入るのに外しただけ。何かあってもやだし…」

そうだったんだ、と少し驚いていると、イザナはいつものように頭を撫でてくれた。

「オレの質問に応えたくないなら…首ふるだけでいいから答えて」

その言葉に思わず頷くと、イザナは小さく深呼吸をして、真っすぐにわたしを見つめた。

「オレと…別れたい?」
「……っ」

思わず首を振ってしまった。本当は別れたいわけじゃない。ただイザナに自由になって欲しいだけだ。そう思っていたら、次に驚きの質問をされた。

「…他に…好きなヤツいる…とか?」
「え…っ?」
「答えろよ」
「い…いないっ」

いるはずがないと思いながらつい口頭で応えてしまった。何でそんな突拍子もないことを訊いて来たんだろうと思っていると、イザナは「じゃあ…」と言葉を続けた。

「オレのこと…好きか?」
「…え」

真っすぐ、真剣な顔で、イザナは言った。

「オレは…を愛してるよ」

そのストレートな言葉が、わたしの胸を震わせて、まるで夢を見ているようにふわふわと視界が揺れたような気がした。

も知っての通り…オレは昔、金で愛を売ってたことがある。だから…にそんな言葉を言いたくなくて、今まで言えなかった。でも、それじゃ何も伝わらねえって気づかされたから…ちゃんと伝えたい」
「…イザナ…」

そっとわたしの手を取って、イザナは自分の胸に押し当てた。

「オレの心はのものだ。今までも、これからもオマエしかいらない」

夢を見ているのかと思った。結婚しても愛の言葉を一度も口にしてくれなかったイザナが、まさかそんなことを言ってくれるなんて。今の言葉が本心だと、手から伝わるイザナの鼓動が教えてくれる。

「わたしも…わたしもイザナが好き…っ」

今までの色んな想いがこみ上げてきたら、気づけばイザナの首に抱き着いて素直に自分の想いを口にしていた。これまで怖くて言えなかったのは、わたしも同じだ。

「ずっと…イザナのものになりたかった――」

そう心の内を言葉にした瞬間、くちびるを塞がれた。柔らかく、何度も重なるイザナのくちびるが、彼の想いを伝えてくるから、まるで夢みたいだと思ってしまう。そう呟いた途端押し倒されて。イザナの少しだけ拗ねた双眸に、驚いたわたしの顏が映っていた。

「やっと本当に手に入れたんだから夢になんかさせねえよ」

怒ったように聞こえる言葉の音とは裏腹に、イザナはわたしの首筋へ優しく口付けた。布越しに伝わるイザナの鼓動がわたしのと重なって、一つの音になった時、やっとイザナと本物の夫婦になれた気がした。