"中秋の名月"とはてっきり今時期あたりの月のことを言うのだと思っていた。でも実際は旧暦の8月15日を意味する言葉だそうで、旧暦の季節では7月~9月の時期が秋に該当するらしい。現在は主に9月半ばから10月初旬くらいに見られるんだと、彼女は楽しそうに説明してくれた。ふとそんな会話を思い出しながら、夜空にぽっかりと浮かぶ月を眺めていると、ノックもなしに部屋のドアが開く。入って来たのは長年の幼馴染で親友のイヌピーだった。

「ノックくらいしろよ」
「あ?なーに窓辺で黄昏てんだよ」

苦笑気味に言いながら、遠慮もなくソファにどっかりと座るイヌピーは、手に持ったままのスマホを忙しなく指で動かしながら「今月も上納金オレらがトップじゃね?」と嬉しそうに口元を綻ばせた。それはオレの予想範囲内のことだ。金を稼ぐことにかけては他のどの幹部にも負ける気はしない。

「次の幹部会が楽しみだな~?ココ」
「あ~次は来週だっけか。また面倒なのと顔を合わせなきゃなんねーのはだりーけど~」

出窓から足を下ろすと、オレもイヌピーの隣に座り、さっき淹れたコーヒーを口に運ぶ。時計を確認すれば午後の7時半。あと15分ほどで出れば間に合うだろう。

「…誰かと約束あんのか」

イヌピーは目ざとく、腕時計とオレの顔を交互に見てから尋ねてきた。普段は仕事が終わればイヌピーと食事に行って飲みに行く流れだが、今夜はコイツの言う通り、約束がある。

「ああ。ちょっとな。この前の子と」
「…あ?あー…ここの駐車場で助けたって子か」
「そうそう」

渋谷の事務所はオレ個人のものだ。最上階を住居にしたこの事務所は主にIT会社を取り扱っている。他にもフロント企業を他の幹部に任せているものもあるが、あまり上手く回せる人間はいない。だからオレが個人的に事務所を作り、裏で仕切っていた。東卍の総長代理である稀咲さんとは今度新しいラウンジをオープンさせる予定で、今はそっちの物件や土地を探してるところだ。

「また会うのかよ。たまたま助けた形になったのを感謝されて先週、お礼をされたんだろ?」
「まーね。車で迎えに行ったらビックリされてさ。彼女はその辺で飯をおごろうとしてくれてたらしいんだけど、結局オレがあちこち連れまわしてディナーもホテルのレストランでオレがご馳走した」
「ハァ?何だよ。じゃあ結局お礼は体で払わせたってことか」
「いや、シてねーし。飯食った後はちゃんと送り届けたっつーの」
「……イヤ意味分かんねーんだけど。それじゃ普通にデートしただけじゃね?」
「デートっつーか…別にオレの暇つぶしに付き合ってもらっただけだよ。たまには可愛い子と頭使わず遊びたかっただけだし」

イヌピーがあまりに食いついてジロジロ見てくるから苦笑してしまった。

「それにあの子、全然男慣れしてねーの。手が触れただけで真っ赤になってるし可愛すぎじゃね。ありゃ絶対男知らねえよ」
「…だから手が出せなかったのかよ。ココらしくねえ」
「いやそうじゃねえけど。ああいう反応新鮮だし、面白いじゃん」
「で?面白いから今日も会うのか」

イヌピーは呆れたように笑ってソファに凭れ掛かった。まあ面白いってのもあるけど、それだけが理由じゃない。

「この前は結局のとこ彼女がお礼何もしてねーから今日改めてってなっただけのことだよ」

実際この前はオレが勝手に好きな場所へ彼女を連れて行って楽しませたようなもんだった。オレも仕事で疲れてたのもあって、たまには素人の子と普通に遊んでみたくなっただけだ。でも彼女はお礼が出来てないと言い張り、帰り際、次に予定が空いてる日を訊いてきた。それで今日こそ彼女の奢りで食事に行く流れになった。

「フーン。確か…道玄坂付近のあの大きな本屋に勤めてるんだっけ?ド素人の女のクセに、反社のオマエとまた会おうなんて変な女だな」
「はは、言えてる~。オレもそれ言ったけど、は怖くないですって言い張るんだよなぁ。そーいう純粋なとこ可愛いだろ」

ただ、たまたま助けたオレに感謝をして信頼を寄せるなんて素直すぎて逆に危ういとも感じた。ああいう穢れも知らないような子に会うのは久しぶりだ。学生の頃を思い出させるような素朴さは、オレには眩しすぎる。それはきっと、こんなオレを赤音さんは望んだわけじゃないという意識が根底にずっと残っているからだ。
最初は純粋にただ助けたかった。でも赤音さんがこの世から姿を消し、オレは悪事に手を染めることこそが生きる意味に変わって行ってしまった。その小さな罪悪感を抱えたまま、今日まで生きて来て。だからのような純粋な子を見てると、自分が汚れた人間のように感じる。でも逆に、彼女から慕われると今の自分でいいんだと安心できる。矛盾してるけど、この前と過ごした時間は意外にも悪くなかったのだと自覚した。

「随分と気に入ったもんだな」
「そんなんじゃねえけど…ってことでイヌピー、オレもそろそろ行かねえと」
「はいはい…。んじゃーオレは一人寂しく飲みにでも行くよ」

苦笑交じりで肩を竦めたイヌピーも一緒に立ち上がる。イヌピーだってその気になれば呼べる女の一人や二人いるくせに、コイツは何故かオレとの時間の優先するんだから笑ってしまう。

「この前の女でも呼べばいいじゃん」
「いいよ、めんどくせえ。一回寝ただけなのにブランド物のバッグ強請ってきやがるしウザいだけ。電話もしつけーし」
「それは怠いな、確かに。ガールズバーの子だっけか」
「そうそう。ココも素人の女には気をつけろよ。逆にそっちの方が強欲だぞ、マジで」
「あの子はそんな感じじゃねえよ。むしろ遠慮深いし。この前のホテルのディナーも自分で払おうとしてオレがビビったわ」
「フリじゃなく?」
「いや、それがオレがトイレ行ってる間に勝手に払っちゃってて。慌ててオレが後から支払って金をに返したんだよ」

そんな話をしながら二人でエレベーターに乗り込む。あの時はオレもちょっと驚いた。あの時の会計はいいワインも頼んだことで20万は超えてた。なのにはカードで支払ったというから、すぐに取り消させてオレが支払ったというわけだ。その話をしたらイヌピーも目を丸くして驚いてる。

「マジで?え、どっかのご令嬢だったとか?」
「さあ?知らねーけど…」
「家は?送ってったんだろ?」
「まあ…普通のマンションだったかな…ってかご令嬢が本屋で働くか?」
「それも…そうだな…」

イヌピーも真顔で頷くと、ふとオレを見た。

「その女、今度紹介しろよ」
「…あ?何で」
「だって滅多にいねーじゃん。そんな女。ココが気に入ってるわけじゃねえならオレが口説こうかと思って」
「…マジで?顔も知らねーのに?」
「可愛らしい子だつってたろ、オマエが。なら間違いねえ」
「いや言ったけど……さっき素人は怖いからやめとけっつったクセに」

ジトっとした目で睨めば、イヌピーは軽く吹き出して笑った。心底楽しげな顔を見てちょっとだけ絶句する。

「冗談だよ、バーカ。ムキになりやがって」
「……は?からかったのかよ」
「素直じゃねえからなー。気に入ったならサッサと口説いて自分のもんにしろよ。得意だろ?」
「…いや…今までみたいな簡単なタイプじゃねえし」
「でも二回もオマエを誘うんだから向こうだって気はあんだろ、絶対。据え膳食わぬは何とやらってな」
「ま…そうだけどさ」

何となくモヤモヤする。他の軽そうな女なら多分イヌピーの言うようにサッサと口説いてヤることヤってバイバイってとこだろう。でも彼女はそういうタイプじゃない。オレに気があるかどうかも謎だ。根がいい子だから本気でお礼をしたいと思ってる感じにも見える。

(まあ…今夜お礼を受ければ彼女も気が済むだろうし、もう会うこともないだろうな)

そもそも住む世界も違う。その方が絶対にいいだろうというのはオレも分かっていた。



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定時に仕事を終えてすぐに店を出ると、家まで小走りで帰って来た。今日こそ、ココくんにお礼と称した食事をおごる約束だ。

「えっと…軽くシャワー入って、服は…昨日選んでおいたやつ出して…」

家に入った瞬間からドタバタと準備を進めていく。この前はわたしがご馳走するはずだったのに逆にこっちがご馳走されてしまって、あれじゃ何のために行ったのかすら分からない。ただ、ココくんに連れて行ってもらった店はバカ高くて目が飛び出る値段だった。でも今更、払えないなんて言える空気でもなく、コッソリとボーナス払いで支払ったのだ。なのにココくんは店側にわたしの支払いを取り消させて自分が払ったようで驚いてしまった。

――最初からちゃんに出させる気なかったし。

後でココくんはそう言いながら苦笑してた。わたしが先に払ってしまったことで酷く驚いたらしい。

――今夜はオレに付き合わせたから、そのお礼。

なんて言ってたけど、お礼する為に行ったのにわたしがお礼されてどうする。だから今日こそ、わたしがココくんに奢らねば。

「お店…わたしに任せるって言ってたっけ…どうしようかな…この前みたいなレストランは高いし…」

シャワーを浴びつつ、この前の夜のことを思い出すと、胸が自然とドキドキしてしまう。あれが大人のデートってやつだろうか。彼にすらあんなレストラン連れてってもらったことはない。

(まあ…もう元カレになってるんだろうけど)

これでも一応、最近まで彼氏はいた。高校の同級生で結構付き合いも長い彼が。でも体の関係はなかった。お互い高校を卒業して少しした頃、遂にエッチをするという段階になって、最後の最後でわたしがギブアップしてしまったからだ。ぶっちゃけると、痛すぎて無理ってなった。全然そんなに入ってもない状態でも、痛みに耐えきれず泣き叫ぶわたしに彼の方も萎えてしまったようで、それからは何度チャレンジしても同じ状態になり、そのうち彼も迫ってこなくなってしまった。それでも最近までは上手くいってたし、愛されてると思ってたのに、ある日突然。一切の連絡が途絶えてしまった。最初は忙しいんだろうとこっちも連絡するのを遠慮していたけど、二カ月も音沙汰がないとなると急に心配になった。だから会社に連絡したのに、彼はいつの間にか退社していてすんごく驚いた。慌ててマンションへ行ったら、そこも引き払っててもぬけの殻。わたしは急に世界で一人ぼっちになった気分だった。まるで悪い夢を見てるのかと思うほどに。

(別れたいなら言ってくれれば良かったのに…)

あんなに忽然と姿を消されたら、わたしの存在を全否定されたみたいで悲しくなった。そこまでしてわたしから逃げたかったのかと思うとつらかった。

(でも…実家にも連絡ないっておばさん言ってたし、わたしから逃げるだけで本当にそこまでするのかな…)

ボーっとそんなことを考えていたけど、ふと我に返る。

「いけない…!時間がないのに!」

急いでバスルームから飛び出すと、濡れた髪を乾かして簡単にメイクをする。用意してた秋物のワンピース、それも少し大人っぽいデザインにしたのは、ココくんに合わせるためだ。2つ年上だというココくんは、反社の人というわりに凄く気さくで、この前の夜はわたしを色々と楽しませてくれた。美味しい食事やお酒をご馳走してくれたり、会話で笑わせてくれたり。久しぶりに楽しい夜を過ごせた気がする。

――九井さんって何か堅苦しいからココでいい。
――え…と…じゃあ…ココ…さん?
――ふはっ…だから"さん"はいらねーって言ってんの。真面目かよ。

知り合ったばかりのわたしに優しい笑顔を見せてそう言ってくれた時は、ちょっとだけドキっとしてしまった。友達にも「ココ」と呼ばれてるらしく、可愛いあだ名だなと思いながら、わたしも年下ながらココくんと呼ばせてもらうことにしたのだ。最後もきちんと家まで送ってくれたし――運転手付きのベンツなんて初めてだった――むしろ一般人の男の人よりもスマートだったと思う。でも別れ際、自分が何もお礼をしていないことに気づいて焦った。だから――。

――あの…また会えますか?今度こそお礼します。

ちょっと強引だったかな?と思ったけど、どうにか今日の約束を取り付けたのだ。ココくんは「気にしないでいいのに」と言ってくれたけど、奢ってもらってばかりじゃわたしの気が済まない。まあわたしの給料じゃココくんがいつも行ってるようなお店は無理かもしれないけど、彼も何でもいいよって言ってくれたし、今夜は――…。

「あっお店考えてなかった!」

最後に髪をセットしようとした手が止まる。何だかんんだ今日まで忙しくて、帰って来たら疲れて寝るを繰り返してた結果、食事に行く店を探すことさえ出来ていなかったことに気づく。

「どどどうしよ…もう迎えに来ちゃう…」

時計を見ればすでに午後8時10分前。髪のセットを諦め、わたしはすぐにスマホで食事処を検索し始めた。いつも職場の人達と行くような店はさすがにココくんを連れていけない。焼き鳥屋とか絶対浮くし、ココくんも焼き鳥とか食べなさそうだし…じゃあ焼肉?ちょっと奮発して叙々苑とかなら喜んでくれるかもしれない。

「…あ…で、でも会うの2回目でいきなり焼肉って…ダメなやつ?」

よく焼肉食べてるカップルはエッチ済みだって聞いたことがある。でもわたしとココくんはそんなんじゃないし、ましてエッチなんて恐れ多い。

「ダ、ダメだ…焼肉はなし!もっと別の何か豪華なお食事処は……あ、しゃぶしゃぶとか……って反社の人に"シャブ・・"がつくもの誘うってこれダメなやつ…!」

時間がなくて頭がテンパっていたかもしれない。おかしなところが気になって、また別のお店を探すのに画面をスライドさせる。でもその瞬間、画面が切り替わり、電話着信と表示された。表示名は"九井さん"となっている。

「わ、もうついちゃった?ど、どうしよ…っていうか早く出なきゃっ」

一人でワタワタしながら画面をタップすると、恐々とスマホを耳にあてる。

ちゃん?オレ。九井だけど。ついたよ』
「は…はははいっ」

思わず声が上ずって変な声が出てしまった。ココくんが軽く吹き出す声が聞こえてくる。

『どーした?何か慌ててる?』
「い、いえ…別に…!」
『ああ、まだ用意が終わってないなら待ってるけど』
「えっコ、ココくんを待たせるとかそんなこと出来ません…!えっと…今、下りますねっ」
『そう?じゃあ…待ってる』
「……はい」

そこで通話は終了したものの、今の"待ってる"という言葉が心地よく耳に響いてちょっとだけキュンとしてしまった。最近落ち込むことばかりで、人の、というか男の人の優しさに飢えてるのかもしれない。あんな酷いフラれ方をしたから余計に、ココくんの優しさが身に沁みる。だけど、これ以上はマズいな、という自覚はわたしにもあった。

(どうせ今夜で会うのは最後だもんね…大丈夫)

そう心に言い聞かせつつ、わたしはすぐにマンションの前で待っててくれるココのくんのところに向かった。今日はわたしが渋谷近辺でご馳走すると言ったので、ココくんは車じゃなく、徒歩で迎えに来てくれたようだ。ウチから彼の事務所までは徒歩で5~6分のところにある。
マンションを囲む塀に寄り掛かりながらスマホを見ている立ち姿が、やっぱり素敵だなと思うのは、この前の夜で下地が出来上がっていたからかもしれない。

「お、お待たせしました」
「おー。あれ、今日は大人っぽいね」
「…そ、そうですか?ココくんに合わせてみたんですけど…変かな」
「オレに…?」

ココくんは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに優しい笑みで微笑んでくれた。

「いや、可愛いよ。そういうのも似合うね、ちゃん」
「あ…ありがとう御座います…」

さすがは反社の男。サラリと褒めるのも自然だし、大人って感じでカッコいい。

「えっと、じゃあ、どこ行く?お店はちゃんが探しておくって言ってたけど、駅まで行けばいい?」
「え?あっ…」

ココくんが歩いて行きかけるのを見て、再び思い出す。ココくんを連れて行けるようなお店は今のわたしじゃパっと思いつかない。

「ご、ごめんなさい。それが…まだ探せてなくて」
「あ、そーなの?」
「ごめんなさい。えっと…今から探すのでココくん、何か食べたいものとかありますか?渋谷近辺にあるようなお店で」

わたしが訊ねるとココくんは特に気分を害した様子もなく、首を軽く傾げた。

「いや特に…」
「普段はどういう食事をされてるんですか?」

何かヒントになるかも、と思って尋ねると、ココくんは苦笑しながら「別に大したもん食ってねえよ」と言って歩き出す。わたしも慌ててついて行った。

「殆ど外食だけど、たまにコンビニ弁当とか、デリバリーで適当に頼んだり」
「え、そ、そうなんですか…コンビニ…」

何か意外。と思いながらココくんを見上げていると、彼もふとわたしを見下ろした。その整った顔には微妙に意味ありげな笑みが浮かんでいる。

「まあ、だからってわけじゃねえけど、誰かの手料理には飢えてるかも」
「…へ?手料理…」
ちゃん、この前、料理は得意…つってたよなァ?」
「あ…まあ…。ずっと自炊してたから色々と覚えちゃって」

ウチは親が共働きで食事の準備とかはわたしがやることも多かった。おかげで一人暮らしを始めた時も家事で困ることはなく、今現在もなるべく外食は控えて自炊するようにしている。

「へえ、色々作れるんだ」
「は、はい…簡単なものなら…」

何故こんな話の流れになってるのか分からないまま応えていると、ココくんが不意に足を止めた。驚いて顔を上げると、彼はニッコリとした笑顔でわたしを見下ろす。

「じゃあ…さ。お礼で奢るって言うなら奢らなくていいから、ちゃんの手料理、何か作って食べさせてくれる?」
「…へえっ?!」

ココくんのまさかの提案に、わたしは素っ頓狂な声を上げてしばし固まってしまった。



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「んま!マジで美味いわ、これ」
「そ…そうですか?お口に合って良かった…」

オレが褒めたことで頬を赤く染めながら、は恐縮している。隣に借りてきた猫のようにチョコンと座る姿は、まだどこか緊張している感じだ。
さっき思い付きで言った「手料理が食べたい」というオレのリクエストを、彼女は驚きながらも何とか承諾してくれた。まあ言ったのは思い付きだったが、人の手料理に飢えてたのは本当だ。彼女にも言ったように毎日がほぼ外食か、それさえ出来ない時は近くのコンビニで適当に弁当などを買って食べる日々。正直ウンザリするくらい飽きていた。そんな時に料理が出来るという話を彼女から聞いて、どんな物を作るのかと興味が湧いた。別に計算してたわけじゃないが、まだ店を決めていないと聞いた時、今から探して知らない店に行くよりも、徒歩数分のオレの家で手料理を作って欲しい。ふとそう思ってしまった。

幸い近くにちょっとした新鮮野菜や肉を扱うコンビニがある。近くに富裕層の暮らすエリアがあり、金持ち御用達の無添加の食材を売りにしてる店だ。とその店に立ち寄り、適当に食材を買って、事務所の最上階にあるオレの自宅に彼女を招いた。はかなり緊張して手もかすかに震えてた気もするが、どうにかオレのリクエストをしたカレーをしっかり作ってくれた。

「ヤバ。何杯でも食べられそう」

どうして人が作った飯はこうも美味いんだ?と不思議に思う。どんな高級店でも味わえないものがある。米は家にあったものをが手早くといで焚いてくれた。オレ好みの硬めのご飯に感動すらしてしまう。一応家電は一式揃ってるが、炊飯ジャーは初めて使ったかもしれない。久しぶりに炊き立てのご飯を食べた気がした。

「おかわり~」
「え、早い」

はびっくりしながらも、皿を受けとるとご飯をよそってカレーをたっぷりかけてくれる。またそれを受けとって食べ始めると、もだいぶ緊張が解れてきたのか、自分も食べ始めた。

「ココくん、そんなに細いのに結構食べるんですね」
「んあ~そうかな。マジで美味いから。こういう手料理に飢えてたし」
「え…そうなの…?奥さんは…」
「ぶはは…っオレ、結婚してるように見える?」
「え…えっと…見えない…」
「だろ?いねえよ、そんなの」
「…え、じゃあ恋人とか…」
「んなもんいたらに飯作ってなんて言わねえだろ、さすがに」
「そ、そっか…」

そんな会話をしながら食事を楽しむ。そういや久しく家にイヌピー以外の人間を入れてないことに気づいた。こんな風に緩い会話をしながらの食事も久しぶりだ。
恋人がいないと言ったことが信じられないのか、は不思議そうに「何か意外。ココくんなら素敵な恋人いそうなのに」と首をかしげている。

「そーお?まあ、ぶっちゃけると夏まではいたかな…彼女って感じのは。でもその子は家事とか一切しない感じの子だったから手料理とか食ったことなかったし」
「あ、そうなんだ…」
「そういうは?」
「え…?」
「彼氏。こんなに料理とか出来るなら喜ばれんだろ」

男慣れはしてなくても、こんだけ可愛らしい子で料理も得意なら、今まで男の一人や二人はいただろう。または現在進行形か…と思いつつ返事を待っていると、の表情が急に翳った。

「わたしも…夏くらいまではいました。彼氏」
「…夏くらいまでは…って…別れたのかよ」
「…………」

急に口が重たくなったように、彼女は黙ってしまった。何かマズいことでも訊いたか?と思っていると、不意にが「いなくなっちゃって…」と話し出す。いなくなったとは穏やかな話じゃない。どういう事情だと詳しく聞き出すと、高校時代から付き合ってた恋人は、彼女に何も告げることなく、会社を辞め、マンションを引き払い、その言葉通り姿を消したということだった。こんな可愛い子をそんな方法で捨てるなんて酷い男もいるんもんだと少しだけ驚く。ただ、その姿の消し方が素人っぽくない気がして気になった。

「その彼氏さ~名前、なんてーの?」
「え…?」
「オレの方でちょっと調べてやるよ」

そう申し出ると彼女は目を丸くして驚いている。その表情がリスみたいで思わず吹き出しそうになった。

「で、出来るんですか…?そんなこと」
「オレの仕事忘れた?反社っつーのは表の顔を持つ人間の裏の顔も調べられんだよ。ちょっとその消え方が気になってさ。まあ何も出てこねえ場合もあるし、そん時はマジで人生が嫌になってドロップアウトしたっつーことになるけどな。そういうの知りたくねえってんならやめとくけど。どーする?」

ちょっとした興味本位だったが、彼女がどこか思い詰めてる感じが気になった。その男が本当にただ彼女が嫌になっただけなら会社を辞めて家を引っ越す必要なんかない。別れようと言えば済む話で、きっとなら男を困らせるほどゴネたりはしないはずだ。
オレの問いには少しの間、逡巡していたが、やっぱり消えた理由が知りたかったんだろう。パっと顔を上げると真剣な顔で「お願いします…」とひとこと言った。

「りょーかい。んじゃー早速明日にでも調べてみるから、ソイツの名前を教えて」
「はい。えっと…名前は古田良治。26歳。LG広告代理店に勤めてました」
「―――っ」

恋人の名前を聞いて言葉を失った。その男は今年の夏の終わり――オレが殺した男の名前だったからだ。