二か月前――。

小奇麗な室内で、女のすすり泣く声と苦しげに呻く声が入り混じっていた。その中で数人の部下が無遠慮に家探しをしていく。それを眺めながらオレはゆっくりと女に近づき、目の前にしゃがんだ。

「…ひ…」
「残りもこの部屋に隠してんだろ?だったら素直に出さねえと」
「………」

女はぶるぶると身を震わせ、また涙で頬を濡らした。こんなに怯えるくらいなら何故愚かで間違った道を選択したのかと苦笑してしまう。オレの目を盗んで逃げられるとでも思ってたんだろうか。

「か…返すから…お願い……命だけは…」
「ほーら、やっぱまだ隠してた」
「ご…ごめんなさい…ココ…!」
「触んな」

腕に縋りついて来る女の腕を振り払うと、オレは立ち上がって涙でグチャグチャの顔を見下ろした。昨日までは恋人と思っていた女だが、今は何の感情も感傷も湧いてこない。ちょっと優しくしてやったらこれだ。

「で?どこに隠したんだよ。探すの面倒だからオマエが持ってこい」

女はガクガクと震える足で立ち上がり、部下の間を歩いて行く。オレは自分の部下に目くばせをして女について行かせた。万が一逃げられでもしたら面倒なことになる。

「うう…」
「…はは。痛そうだなあ?」

足元で呻いている男はオレも今日、初めて会った。

「人の女を寝取ったあげく、金を持ち逃げしようなんて、素人は怖いわ、マジで」
「ち…違……あの女が…」
「そうそう。アイツがオマエをたぶらかしたんだっけ?えーと…古田…良治さん。へぇ、LGで働いてんだ。いい会社なのにもったいない」
「た…助けて…」
「あーそれは無理――」

と言ってる矢先、女がボストンバッグを手に戻ってきた。それをオレの前へ置き、女が土下座をして「返すから…許して」と哀願してくる。

「ちょ…ちょっと目がくらんだだけなの……」
「フーン…まあ、そりゃ5千万が目の前にありゃー目がくらんでも仕方ねえよなあ。オレでも盗もうかなって気になるわ」
「…コ、ココ…」

女が期待のこめた顔を上げて縋るような視線を送ってくる。だがこれはすでにオレ個人の話じゃなくなってる。この金は組織の金だ。それも取り引きで使う為の。それをこの女は盗んだ。取り引き当日、先方のところへ向かう前、一時オレの事務所の金庫にこの金をしまい、別の用事で出かけた。そして戻って来たら金庫の中の金が消えていた。予感はあったのかもしれない。金を準備させた時、その場にいた女の顔を思い出した。金庫のある部屋に設置してある隠しカメラには案の定、この女が金庫を開けて金を持ち逃げする姿がバッチリと映っていて、オレは心底失望した。

気のいい女で美人の彼女とは表の会社の面接で知り合った。頭が良く、経歴もいい。人柄も申し分ない女をすぐに雇った。男女の関係になったのは半年前。美人なわりに控え目で、特に我がままも言わない女だった。だから信用して自分の本当の仕事を明かし、秘書として雇い直した後、事務所にあるオレの自宅にも連れて行った。オレがいない時は事務所内で待つことも許可していた。今回はそれが仇になった。オレが開ける際、金庫の番号を少しずつ確認してたことにも驚いたし、女の家に来たら見知らぬ男が一緒だったのも驚いた。二人は必死で荷造りの真っ最中だった。知らないうちに浮気までしてたとは恐れ入ったとしか言いようがないし、こんな女を僅かでも信用した自分にも腹が立った。

「そんな話、信用すると思うか?金庫の番号、毎回盗み見てた時点で計画的なんだよ、オマエ」

言いながら中の金を確かめる。ざっと見てもやはり200万近く足りない。

「やっぱこの金でファーストクラスのチケット買ったんだ」

二人が持っていたロンドン行きのチケットをヒラヒラと目の前で振れば、女の顔が更に青ざめた。

「…そ…それは…」

女はこの男と金を持って逃げる気だったらしい。男は会社を辞めたがっていた。そんな時に大金が手に入れば気が大きくなったんだろう。「二人で海外に逃げよう」なんて甘い言葉を吐き、女をますますその気にさせた。まあ反社のオレと一緒にいるより、素人でエリートの男と一緒になりたいと思うのは別におかしなことじゃない。組織の金に手をつけさえしなけりゃ、ただの別れ話で済んだのに。

「オマエらの命は合わせて200万か。安いなぁおい」
「や…ココ…お願…」
「むーり。オマエのせいで夕べは取り引きが出来なかった。明日に変更になったとはいえ、先方を怒らせた罪は重い。オレらの世界も信用で成り立ってんだよ」

そう言ってバッグを手に立ち上がると、部下に合図をした。女は悲鳴を上げる暇もなく気絶させられトランクに詰め込まれて運ばれて行く。皮肉にも女が服をつめてたソレに、まさか自分が詰められることになるとは思わなかっただろう。
そこへイヌピーが顔を出した。

「おい、あったか?」
「あった。200万使い込まれてたけどチケット払い戻させりゃだいたい戻ってくる。あとはコイツの始末だな」

言いながら足元に転がっている男を見下ろす。男の名前や住所、勤め先は確認した時点で丸裸に出来ている。すでに会社は自分から辞めてくれてたのは有難い。

「おい、コイツも女と同じように処理頼むわ」
「分かりました」
「あとこの家と男の家の始末は解体屋に頼め。家財道具全て足がつかないよう好きに売り払えって言えば喜んで半日で終わらせるだろ」
「了解です」

側近の男にはそれだけ告げて女の部屋を出る。とりあえず金が戻ってきたことで多少気分も落ち着いてきたが、腹の中のどす黒い怒りは増すばかりだ。

「大丈夫か?ココ」
「…んぁー…大丈夫じゃねえかも。もう女なんて信じられねえ。いい女だと思ってた分、余計にムカつくわ」
「はは。言えてるな」
「笑い事じゃねえよ。なまじ恋人関係築くからこういう面倒ごとが起きる。――女なんて遊びでいいわ」


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――そう言い切ったのが二か月くらい前。あの後、女も男も始末して体は綺麗に消滅した。部屋を丸ごとスッカラカンにしておけば世間的には夜逃げだと思われる。二人の戸籍は売っぱらったし、後は二人との接点がこちらに向かないよう色々と仕込みをしておけば、そのうち失踪扱いで忘れ去られて行くはずだ。そう、思ってたのに――。

「あ、あの…ココくん?」
「…え?」

不意に肩を揺さぶられ、ハッと我に返る。気づけばが心配そうな顔でオレの隣に座っていた。

「大丈夫…?顏色悪いけど…」
「あー…大丈夫。ちょっと嫌なことまで思い出して――」
「え?」
「…ああ、何でもないよ」

そう言いながら、オレを裏切った女の顔がちらついた。たった二か月前、女なんてこりごりだと思っていたはずなのに、性懲りもなくまた、それも会ったばかりの女を家に招いてる自分に呆れてしまう。それもオレが殺した男の恋人だったなんて全く笑えない。

(つーか、あの男、彼女いたのかよ…それでオレの女と?どっちにしろ最低じゃねえか…)

あの女と付き合ってるものだとばかり思っていただけに男の交友関係まで詳しく調べてなかった。どうやらの存在は見逃してたらしい。彼女の口から男の名前を聞いた時は一瞬ヒヤリとした。

「ああ、えっと…古田…良治ね。調べて…みるよ」

オレが言い出した手前、やっぱり無理だと言うのもはばかられ、仕方なくそう言っておく。は「ありがとう御座います」と可愛らしい笑顔を浮かべた。その顏を見ているとオレでも多少の罪悪感を覚える。あの男が消えたせいで、彼女が傷ついたことは簡単に想像できるからだ。

(しっかし…も男見る目ねえな…あの古田って男、相当最悪だったはず…)

会社は一流だが、営業だった男は成績が悪くて金にも困ってたようだ。そのうち上司の当たりがきつくなり、仕事を辞めたいと思い始め、あの女とこの近くのバーで知り合った時から「どこか海外にでも住みたい」とほざいてたらしい。それを鵜呑みにした女はオレが大金を動かしてることを知って盗む計画を立てたという。処理する前に男から聞きだした主な経緯だ。あの女も内心ではオレが反社だと知って少しずつ怖くなっていったようだ。平気で大金を動かしてるのを見て、ヤバい組織だと理解したらしい。でも別れ話を言うのは怖い。そんな時に行きつけのバーで知り合った見栄えのいいエリートの男と関係を持ち、耳障りのいい愛を囁かれ、のめり込んでいった。

別れ話が怖い――?
オレが一番呆れたのはその理由だ。そんなもの、言ってくれればすぐに手放してやったのに。そもそもそこまで執着などしていなかった。他の女よりは気楽でいい。その程度だ。なのに一番愚かな方法でオレを裏切った。

(さて…どうしたもんかな…)

男が何故自分の前から姿を消したのか知りたい――。
そんな彼女を見ていると、あんなクソ男にまだ惚れてるのか、と少しイラっとした。アイツはもう、この世にはいないというのに。
オレが恋人を殺したと知ったら、はどう思うんだろう。今あるオレへの理解不能な信頼も、好意も、全て消え去るのは間違いない。それだけは確信できる。ただ、後日「何も分からなかった」と伝えても、彼女はどんな形であれ、あの男への思いを引きずる可能性がある。二度と戻らない男の影を、この先も彼女が抱えて生き続けるのはかわいそうだ。

「――ご馳走様、マジ美味かった」

食事を終えて彼女にそう告げると、はまた嬉しそうな笑みを浮かべた。

「いえ…あ、じゃあ片付けちゃいますね」

はすぐに立ち上がって食器をキッチンへと運ぶ。食器洗浄機があるのにそれを使わず、彼女は手早く手洗いで食器を洗った。普段から家事をしていると言ってたように、手際よく片付けていく。そして最後の皿を食器かごへ入れると、は軽く手を洗ってから、ふとオレを見た。

「あ…じゃあ…わたしはこれで…」
「えっ?」

一通り片づけを終えた彼女は秋物のコートを手にしてそれを羽織ろうとした。まさか本当に食事を作っただけで帰るのか、と驚いて思わずその手を掴む。彼女は酷く驚いたようにオレを見上げた。

「もう帰るの?」
「え…」

何を言う気だ、と自問自答しながらも引き留める理由を探す。もう少し男の話を詳しく聞いておきたいという思いもあった。こういう小さな綻びが致命傷になる場合もある。

「もう少し…いてって言ったら迷惑?一緒に酒でもどうかと思って。ちゃん、ワイン好きだって言ってたろ」

と言った傍から後悔した。こんな言い方じゃ下心があると勘違いされるか?と若干焦る。でもはそんなことまで考えていないのか、申し訳なさそうな顔をした。

「…え…いいんですか?ココくん、忙しいんじゃ…」
「いや…今日はちゃんと会うから仕事は全部終わらせたし大丈夫だよ。ああ、マジで帰りたいなら送るけど」

なるべく怖がらせないよう優しい口調で話す。彼女は数秒ほど逡巡して「じゃあ、頂きます」と可愛い笑顔で頷いてくれた。内心ホっとはしたものの、逆に(疑えよ、もっと!)という変な苛立ちを覚えた。彼女があまりに無防備すぎるだからだ。もしオレが本当に下心ありきで誘ってたなら、は確実にヤられてる。酒で酔わせてしまえばいいだけの簡単な作業だ。

(それだけオレを信用してくれてるってことだろうけど……何かモヤモヤすんだよなァ…)

複雑な心境になりつつ、ワインセラーから彼女の好きだと言っていたピノノワールの赤ワインを取り出す。手伝います、と言うのでグラスや冷蔵庫の中のチーズを頼むと、はテキパキと動いてリビングにそれらの物を運んでくれた。気が利くし、性格も素直。見た目も悪くない。だからこそ、あの男が何故、たかが金と女の為にこの子を裏切ったのかが不思議だった。あの女も見た目は美人だしスタイルも良かった。家事は一切せず浪費癖が多少あったものの、性格もまあ悪くはなかったと思う。でもこんないい子を裏切ってまで一緒に逃げようと思うほどの女じゃない。結局あの女は男と自分の為に大金を盗もうと考えるような女だったってことだ。

(それとも…にも何かそういう秘密でもあるのか…?)

あの女のことがあってからはオレも相当疑り深くなったかもしれない。

「じゃあ、乾杯」
「乾杯。頂きます」

ソファに並んで座り、グラスを軽く合わせると、心地いい音がかすかに響いた。は嬉しそうに赤ワインを飲みながら頬を綻ばせている。素直な感情を乗せて、彼女は「美味しい」と呟いた。

「ココくんの選ぶワインはどれも美味しくて飲みすぎちゃう。この前のお店で飲んだワインも美味しかったし」
「そう?なら良かった。ちゃんはその…彼氏?と飲みに行ったりしてたの?例えば…バーとか」
「え…?ああ…彼とは…時々」

男の話題を振ると途端に表情が曇る。意識的なものじゃなく、やっぱり男のことを思い出すと気分が勝手に沈むのかもしれない。

「でもバーとか、そんなお洒落なとこは連れてってもらったことないかも。だいたいはいつも居酒屋さんとか焼き鳥屋だったし」
「そう…」

あれこれ聞こうかとも思ったが、はあまり男の素顔を知らないように見えた。あの男はバーどころか高級ホテルのレストランなども利用していたのだから。アイツの持ち物は所持していたものから家にあったものまで細かく調べた。主に領収書やケータイ履歴、パソコンのデータ。その中にの名前もあったのかもしれないが、男のケータイは全て苗字で登録されていて、男か女か見分けがつかないようになっていた。残っていた写真なども主にどこかの名産品だとか、書類みたいなものがあるだけで、人物のものは一切なく、営業で必要なものばかりといった感じだった。そこでふと思いつく。

「ああ、その彼氏の写真とかはないの?」
「あ…写真は…彼、学生の頃から写されるの苦手だって言っててとったことないの。卒業アルバムでもムスっとした顔で映ってたくらいだし…」
「そう…」

なるほど、そういうことか。写真嫌いだからカメラ機能は殆どが仕事でしか使用してなかったんだろう。これであの質素なアルバムの理由が分かった。

「ごめんなさい…写真があれば探しやすいですか…?」
「え?あ、いや…」

探す、とは言ってないんだけど…と思いつつ苦笑する。彼女はどこか期待を込めた目でオレを見ていて、やっぱりその男に未練があるのかもしれないと思った。営業マンらしく、女をたらしこむのが得意だったことをは知らないんだろう。

(こうなったら…半分だけ事実を伝えるか…?)

ふと、そう思った。今ならまだその話をしても不自然じゃない。結局あの男は戻らない。そんな奴を彼女が待ち続けるなんてあまりに酷だ。いつか想いは薄らいでいったとしても、一生記憶に残るかもしれない。ならば失踪の理由を伝えて、確実にあの男と彼女の時間を止めた方がまだ傷は浅い。恋人が浮気してた事実に傷つくだろうが、理由があればもいつかは前を向けるはず。

(オレが関与したことは伏せて、女のことだけ真実を言えばいい)

最初は調べるふりをして何も出てこなかったと嘘を言おうと思っていた。それか莫大な借金があって夜逃げしたでもいい。理由はでっちあげられるし、はオレの言葉を疑わないはずだ。だけど、恋人のに何も告げず消えた理由としては多少弱い。それなら一度くらい相談してくれるはずだとが思うかもしれない。それなら女と逃げようとしたと、そこだけ真実を伝えれば、も諦めがつくだろう。

「ココくん…どうしたの?また何か考え込んでる…」
「え?ああ、ごめん」
「やっぱり仕事あるんじゃ…」
「いや、そうじゃなくて…ちょっと言いにくいんだけど…」

オレは彼女に真実を話すため、ワイングラスをテーブルに置いた。殺したことは伏せて、あの二人の関係だけを話すために。



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――ごめん、さっきは言いそびれたんだけど。

そんな言葉から端を発したココくんの話は、わたしが想像すらしていなかったものだった。

「え…ココくんの…彼女さんと…良治くんが…?」
「…うん、そう」
「……お金盗んで…海外に逃げた…?」

信じられなかった。きっと愕然とした顔をしてたと思う。ココくんが心配そうな顔で、ただ黙ってわたしを見つめている。

ちゃんから彼の名前を聞いた時は…オレも驚いた。だからすぐには言い出せなくて…ごめんな」
「い、いえ…そんな…!た、ただ…ちょっと驚いちゃって……あの良治くんが…女の人にお金を盗ませるなんて…」

酷く頭が混乱していた。学生の頃の良治くんは真面目で勉強もスポーツも何でもできる万能型の人だった。何でも積極的に物事に取り組む性格で、わたしとは真逆のタイプ。でも席が隣でわたしは自分にないものを持っている彼に惹かれた。良治くんもまた同じような理由でわたしを好きになってくれて、高校卒業間近に迫った頃、彼から告白してくれた。社会人になってからは営業が大変なのは聞かされて知っていたし、多少お金遣いも荒くはなってたけど、それも接待で必要なんだと言われれば納得するしかなく。時々金欠になった時はわたしがお金を貸したりしていた。でも、だけど。人のお金を盗むなんて思わなかった。それもココくんの彼女さんをたぶらかして、大金を盗ませるなんて――。

「ご…ごめんなさ…」
「えっ?」

一気に色んなことを理解した瞬間、ボロボロと涙が溢れて頬に零れ落ちた。浮気をされていたショックよりも、お金を盗んだという衝撃で感情がめちゃくちゃだった。

「何でちゃんが謝るんだよ」
「だ、だって…良治くんが……ココくんに凄い迷惑かけたし……」
「だからってちゃんが謝ることねーだろ。あの男の問題だ」
「でも…」

ココくんは酷く驚いた顔でわたしを見ていたけど、不意に肩へ手が伸びて軽く抱き寄せられた。ココくんの爽やかな香水の香りが鼻先を掠めて、心臓が小さく跳ねてしまう。ココくんはそっとわたしの頭を抱き寄せると「泣くなって」と小さく呟いた。涙でグチャグチャな顔を見られたくなくて、わたしも素直にココくんの肩に顔を埋める。久しぶりに男の人の体温を感じた。

「言うか迷ったんだけどさ…ちゃんが傷つくのは目に見えてるし…だけど、このまま真相を隠して理由も分からないままの方が、もっとツラいと思って」
「…うん…言ってくれて…良かった…」

凄くショックだけど、でも何も分からないまま待つのもツラかった。そのうち諦めが出て、フラれたんだと思っても、やっぱり理由が気になっての堂々巡り。そこから解放されたことだけは、わたしもホっとしたんだと思う。そして傍にココくんがいてくれたから不思議とざわざわしていた心の中も少しずつ静まってきた。よく考えたらココくんもわたしと同じ傷を持ってるということで、こんな時なのに一人じゃないんだ、と思うと安堵感すら湧いてくる。

「…大丈夫?」
「は、はい…ごめんなさい…泣いたりして…。ココくんもツラいのに…」

ぐすっと鼻をすすりながら顔を上げる。涙でメイクも落ちて、きっと酷い顔をしてるだろう。そう考えると少し恥ずかしくて、テーブルの上のティッシュに手を伸ばした。でもそれをココくんが先に取る。

「拭いてやるよ」
「え…いえ、あの……」
ちゃんじゃ見えないだろ?マスカラ落ちてるから拭いてやるって」
「えっ」

ココくんが苦笑しながらわたしの目元を丁寧に拭いてくれる。濡れたマスカラを擦ったら黒い部分が肌に伸びてしまうことを知ってるようで、軽く叩くように目元のマスカラを取ってくれた。ココくんの顏が意外と真剣で、可愛い…なんて思ってしまったのは内緒だ。

「こんなもんか。綺麗になった」
「あ…ありがとう…おかげでパンダにならずに済んだ…」
「いいよ、こんくらい…。…少しは落ち着いた?」
「はい…重ね重ねすみません……泣いちゃうなんて…」
「彼氏に裏切られたら普通は泣くだろ。気にすんな」

ココくんは笑いながら、わたしの髪を優しく撫でてくれる。その感触だけでまた泣きそうになった。誰かに頭を撫でてもらえたのはいつ以来だろう。良治くんはこんな風にしてくれたことはなかった。

(やだ…何でドキドキしてるの…?良治くんが何故わたしを捨てたのかハッキリしたから気が緩んでるのかな…。浮気されて夜逃げ同然でいなくなられたのに、今は気持ちがスッキリしてる…)

それに――何となくそんな気はしてた。

「わたし…ココくんに聞く前から、もしかしたら女の人絡みじゃないかなとは…思ってたの」
「…え、そう思うってことは…前にも浮気してたとか?」
「それは分からないけど…良治くんは明るくて人当たりもいいし、昔から女の子にはモテる方だったから…会社の女の子とも飲みに行ったりしてたみたいだし、もしかしたらって…」

ううん、もしかしたらじゃなく。きっと良治くんは浮気してたんだと思う。連絡がなくなる少し前も優しかったけど、上手く行ってると思ってたけど、きっとあれはわたしに対する罪悪感もあったんだろう。本当は、付き合ってるのにセックス出来ないことで彼も不満があったはずだ。そう言う意味では浮気されても仕方ないと思ってしまう。

「わたしも悪いの…。良治くんの気持ち考えてあげられなかったことあるから」

苦笑気味に言うと、ココくんは「ハァ?」と呆れたように項垂れた。

「…あのな。そういうちゃんの優しいとこいいと思うけど、こういう場合、少しは怒れよ」
「でも本当に…わたしもダメなとこあったし――」
「オマエはダメなんかじゃねえよ」
「…ココくん…」

強めの口調にハッとして顔を上げると、ココくんは真剣な顔でわたしを見ていた。その鋭い瞳には不機嫌そうな色が滲んでいて、怒らせてしまったのかなと思うと悲しくなる。

「ご、ごめんなさい…」
「あ?何で謝るわけ」
「だって…怒ってるから…ココくんに嫌われちゃったかと思って…」

せっかく励ましてくれてるのにウジウジしたこと言ったから怒らせてしまったんだ。そう思った。だけどココくんは溜息を吐いて、また俯いてるわたしの頭へポンと手を乗せた。

「嫌いになんかならねえよ…むしろ――」
「……え」

ドキっとして顔を上げた瞬間、ふわっと空気が動いてココくんの香水が香る。ココくんが顔を傾けるのが視界に入って、あ…と思った時にはくちびるに柔らかいものが押しつけられた。時が止まったかのように息も止まる。とても長く感じられたそれは、実際に考えるとほんの数秒だったのかもしれない。ゆっくりとココくんのくちびるが離れていく。

「オマエのそういうとこ、可愛いって思ってるけど?」

ココくんの優しい言葉が鼓膜を揺らして、心臓が大きな音を立てた。失恋したばかりだというのに、わたしの心はどうなってしまったんだろう。目の前でわたしを見つめるココくんのことが好きだと思ってしまうなんて、本当にどうかしてる。