初めてココくんに抱かれた時、今まで何を怖がっていたんだろうと思うほど、幸せを感じた。恐れていたあの激痛も不思議なことに一切なく。初めての相手がココくんで良かったと、心から思ったくらい、素敵な体験だった。
だけどわたしは恋人じゃない――。
立場をわきまえて、情事の後はどれだけ遅くなっても帰るようにしていた。それでも、時々会えるだけで幸せだったのに。



五月も過ぎてここ最近は五月雨が続いている。継続して曇天から静かな雨が降り注ぐのを眺めながら、無意識に溜息を吐いた。この雨のせいで客足も遠のくのか、混む時間帯の店内も今日は人がまばらだった。

ちゃん、休憩いっといで」

レジ前の人気作品を整頓していると店長が声をかけて来た。ふと店の壁時計に目をやると、午後6時。今日は遅番の10時までだから合間に短い休憩があるのだ。

「はい。これやったら休憩させてもらいます」
「そんな急がなくてもいいのに。暇なんだからゆっくりでいいよ」
「はい。でも後は一段だけなので」

答えながらも手を動かし、先週新刊が出た作品を巻数ごとにきちんと積んでいく。人気作品は手に取る人も多く、綺麗に並べていても気づけば乱れていたり、違う巻のところに適当に置かれてる本もある。他のお客さんが見やすいよう並べ直すのも仕事のうちで、わたしは意外とこの作業も好きだった。

「よし、終わった」

最後の本を正しい巻のところへ積むと、新刊コーナーは見栄えも良く見やすくなった。満足して休憩に入ろうとバックヤードへ足を向ける。その時、自動ドアの開く音がした。お客さんが来ると無意識に視線がそちらへ向いてしまう。ココくんなんじゃないかと思ってしまうからだ。でも入って来たのはサラリーマン風の男の人だった。少しがっかりしつつも従業員用扉から裏へ入ると、ロッカーへ歩いて行く。そこで財布を手に近所のカフェへ行くことにした。エプロンを外し、傘を手に建物の裏口を出ると、すぐ隣にあるカフェへ足早に向かう。本屋とは違い、そこそこ混んではいたが並ぶことなくカフェラテを買うことが出来た。一瞬、テイクアウトにしようかとも思ったけど、気分転換に店内で飲むことにする。いつも満席になる窓際のカウンターが意外とスカスカだったからだ。

「…ふぅ」

あまり座り心地のいいとは言えないスツールに腰を下ろしながら、半日分の疲れを感じて息を吐く。湿度が多い今時期は何となく体も疲れやすい。でも今のわたしを憂鬱にしているのは、この長雨でも湿度でもなく。最近、連絡の途絶えたココくんのことだった。

あの同窓会の夜。彼の幼馴染の乾さんに危ないところを助けてもらい、ココくんまでが駆けつけてくれた。ココくんにとってわたしはただの遊び相手。そう思っていただけに凄く嬉しくて、あの日の夜は少し舞い上がってしまったかもしれない。怖い思いをしたクセに、そんなことは帳消しになるくらい、甘い夜を過ごした。
ココくんの食べたがっていた親子丼を作ってあげると、彼はとても喜んでくれたし、ベッドの中でもわたしを気遣いながら抱いてくれた。あの男達に殴られたショックがあるんじゃないかと心配してくれたらしい。だからかもしれない。乾さんの言った言葉の意味を聞いてみたくなった。

――オレのダチの大切な人だ。

あの時、彼はハッキリとそう言った。凄く驚いたし、乾さんが何か勘違いをしているんじゃないかとも思った。でも彼はココくんの幼馴染だ。そんな相手にココくんが遊びの女のことで誤魔化すとも思えない。
だけど――最後まで聞くことは出来なかった。
あの言葉はやっぱり乾さんの勘違いだと、ココくんの口からハッキリ否定されるのが怖かったのだ。そして、あの夜を最後にココくんからの連絡が途絶えた。
以前は一週間に少なくても2回は会っていたにも関わらず、この2週間、何の音沙汰もない。最初はわたしが何か失敗をしたのかと考えたりもした。でも気持ちがバレるような言葉を言った覚えもないし、わたしを抱いた時のココくんは普段と何も変わらなかった。帰り際は眠っていたココくんを起こさないよう静かに帰ったけれど、それはいつものことだ。となると――。

(やっぱり…他に女の人が出来たか、わたしに飽きたか…それくらいしか思いつかない)

どっちの理由にしろ、ツラいことには変わりない。でも仕方ない。わたしとココくんの間に約束は何もなかった。会っている時でさえ、次の約束などしなかったし、会うのもいつも突然だった。でも、あの夜ココくんは言った。

――イヌピーに親子丼、作ってやって。

てっきり、あの夜のことだと思ったら、乾さんが「今夜は遠慮しとく」と言って実現はしなかったものの、今度改めて時間を作ると言っていた。直接ココくんと約束をしたわけじゃない。だけど、そんな些細なことでもわたしにとっては凄く嬉しいことだったのに。

(もう…会えないのかな…)

家も知ってる。連絡先も。だけど、わたしから尋ねたことも、連絡したことさえない。普通の男女の関係ではないのだから、始める時から分かっていたはずなのに、心のどこかで期待してしまったんだろうか。ココくんが、いつかわたしを好きになってくれる、なんて。そんなこと、ありはしないのに。

――

ココくんの優しい声に呼ばれるのが好きだった。頭を撫でてくれる大きな手も、壊れ物を扱うように抱いてくれる細い腕も。
窓に当たる雨粒を眺めながら幸せだった時間を思い出していると、かすかに視界が滲んだ。慌てて指先で目尻を拭う。こんな場所で女が一人、涙を流すなんてドラマじゃあるまいしバカみたいだ。
カフェラテを両手に包むと、その温かさにホっとした。

(大丈夫――。一人に戻るのは慣れている)

良治と連絡が取れなくなった時も、どうにか立ち直ったのだから、男に捨てられることなんて大したことじゃない。すでに免疫は出来てる。いつかココくんのことも思い出になっていくはずだ。

(そろそろ戻らないと…)

合間の小休憩は30分だ。時間を確認して席を立つと、わたしはカフェを出た。さっきよりも雨足が強くなっている。傘をさして小走りに目の前の裏口へ飛び込んだ。そのままロッカーに行き、財布をしまうと、またエプロンをつけて店内へと戻る。お客さんはさっきよりも減って、今は一人くらいしか見えない。この雨じゃ今日はずっとこんな感じかなと思いながら、レジにいる店長に「戻りました」と声をかけた時だった。自動ドアが開き、中に誰かが走り込んで来て、わたしの名前を呼んだ。その声にビクっと肩を揺らして振り返ると、そこには乾さんが雨に濡れた姿で立っている。驚きすぎて声も出ない。乾さんはわたしに気づくと大股で歩いて来て、徐にわたしの手首を掴んだ。

「オレと一緒に来てくれ」
「…え?」
「ココが…目を覚ましたんだ」

その言葉の意味を理解出来ずに固まったまま、わたしは乾さんに店から連れ出されてしまった。

――今日は暇だから上がっていいわよ。緊急事態みたいだし。

乾さんの動揺ぶりに店長は何かを察してくれたらしい。事情はよく分からなかったものの、店長にお礼を言って、わたしは乾さんに促されるままに、向かい側の通りに止めてあった車へ乗り込んだ。

「出せ」

乾さんの一言で車が滑るように走りだす。乾さんはホっと息を吐くと、シートに凭れ掛かって、ふとわたしを見た。

「悪かったな…仕事中に」
「い、いえ…あの…何があったんですか…?ココくんが目を覚ましたって…どういう…」
「ああ、そうか…まだ事情も話してなかったな…悪い。オレもちょっと動揺してて」

乾さんの様子に何か悪い話なんだろうかと緊張する。時々忘れてしまうけど、彼らは反社組織の人間だ。何が起きてもおかしくはない世界の人達なんだと、改めて実感した。

「2週間前…ココは敵対してる組織に襲撃された」
「えっ」

襲撃、と聞いてビックリした。普通の人生を歩んできたわたしにはあまりに非現実的な話で、だけどすぐにココくんの容体が気になった。同時にさっきの乾さんの言葉を思い出す。

「え…じゃあ…目を覚ましたって…」
「ああ…昨日まで意識不明だった。至近距離で背中を撃たれて、もう少し処置が遅れてたら出血多量で死んでたと医者に言われたよ。でも手術は成功したけど長いこと血を流しすぎたせいなのか意識が戻らなくて…けど…さっきようやく意識が戻ったんだ」

乾さんは滔々と話しだした。2週間前、組織の取り引きに出向いた乾さんとココくんは、やって来た取り引き相手にいきなり発砲されたらしい。でもそれは敵対組織の人間で全てが罠だったようだ。相手は東京卍會の資金集めに長けているココくんを殺そうと、嘘の取り引きを持ちかけ、半年かけて信用させたところで、姿を見せたココくんを襲った。当然、乾さんとココくんの部下もその場にいたけど、相手は完全に武装していて、ココくん達の部下は半数以上が撃たれて即死。乾さんはココくんを車に乗せて銃で応戦していたものの、背後から狙われていることに気づかなかった。でも撃たれそうになったところを、それに気づいたココくんが飛び出して乾さんを庇って撃たれたとのことだった。

「すぐに病院に運びたかったが撃ちあいの最中、なかなか車を出せずにいた。それで処置が遅れた。まあギリギリで間に合ったけどな…」

話し終えた乾さんはふとわたしを見て「怖くなったか?」と訊いて来た。怖くないと言えば嘘になる。銃撃戦なんてわたしには最も縁遠い世界だ。

「ここまで連れて来て言うのも何だが…怖いならこのまま引き返してもいい」
「……っ」

黙ったままのわたしに気づいて、ふと乾さんが言った。

「その時はココのことも今の話も忘れてくれ。怖がってる子を無理に巻き込む気はねえよ」
「乾さん…」
「だけど…もしアンタが少しでもココのことを想ってるなら…そばにいてやって欲しい」

乾さんは脅すでもなく、怒るでもなく。ただ哀願するような悲しげな眼差しをわたしに向けた。何故か分からない。だけど乾さんはわたしがココにくんにとって必要だと思っているように見えた。やっぱり彼の勘違いなんだろうか。

「…何故…わたしなんですか…?」
「…あ?」
「わたしは…ココくんの恋人でもなんでもないのに…逆にわたしなんかがココくんに会いに行ってもいいんですか?」

本当はわたしも今すぐココくんに会いに行きたい。無事な姿を見たい。怖いけど、でもそんな怖さよりもココくんに会いたいと思った。本当に、彼のそばにいていいのなら。
乾さんはわたしの問いに一瞬、呆気にとられたような顔をしたけど、すぐに苦笑いを浮かべた。

「ああ。アンタじゃなきゃ…多分ダメだろうから…オレは出来ればついて来て欲しいと思ってる」
「え…?」
「ココはアンタを自分の世界に関わらせたくないとか考えて今まで一線を引いて来たつもりだろうが、オレから言わせれば遅いんだよ。本当に巻き込みたくないなら会わなきゃいい話だしな」
「え…それって…」

彼の話に驚いて言葉を失う。ココくんがわたしに対して一線を引いてたのは、そんな理由があったから?まさか、と思ったけど、乾さんがわたしにそんな嘘をつく必要はない。

「アイツには面倒なしがらみがあって、それも断ち切れないでいたのは事実だが、そんなものとっくに消化できてるはずなんだ」
「それは……赤音さん…という方のことですか」

ふと思い出して訊いてみた。ココくんの過去は少しだけ聞いたことがある。

「…っ?知ってたのか…」
「はい…前にココくんが酔っ払った時にチラっと話してくれて…」

いつものようにココくんと一緒にお酒を飲んでいた時、珍しく彼が酔っ払った日があった。その時にココくんが教えてくれたのだ。ココくんには忘れられない女性がいた。この乾さんのお姉さんらしい。聞いてみれば、それはココくんの淡い初恋だった。

――オマエ、ちょっと赤音さんに似てる。

ココくんにそう言われた時、少し複雑な気持ちになったけれど、でもきっとわたしは嬉しかったんだと思う。顔が似てるのか、性格か、それとも雰囲気なのか。それは教えてくれなかったけど、ココくんがそんなにも大切に想っていた人にちょっとでも似てると言われたら、それはやっぱり…嬉しかった。

「そっか…ココのヤツ、そんなこと…」
「あ、えっと…乾さんのお姉さんなんですよね…。何かすみません…似てるなんて…」
「いや…何で謝るんだよ」

気分を害されたかと思って慌てて謝ると、乾さんは軽く吹きだして笑っている。だいぶ落ち着いたのか、さっきよりは表情が柔らかくなっていた。

「まあ…オレも似てると思ってた。外見とかじゃなくて…ほんわかしたとことかな。オレの姉貴はおっとりした性格の人だったから」
「え…そ、そう…なんですか?」

苦笑を洩らす乾さんにホっとしつつ、その赤音さんという人に会ってみたかったな、と思った。ココくんの心を捉えて離さないその人が羨ましい。

「そんな顔をするな。赤音のことは過去の話だ」
「え?」

乾さんはふとわたしを見て真顔で言った。

「ココが女を大事に扱う姿を見たのは、赤音の他にアンタだけだ」
「……わた…し?」
「アンタも見たろ?この前のココの慌てぶりを」

同窓会の夜のことを言ってるのだろう。乾さんは笑いながらシートに凭れると、もう一度「で、どうする?」と訊いて来た。

「このままココの元へ行くなら更にオレ達と深く関わることになるかもしれない。それでも――行くか?」

そう聞かれても、もう迷うことはなかった。関わりたくないなら、とっくにこの想いは諦められている。

「…ココくんのところに連れてって下さい」
「いい度胸だ」

乾さんは笑いながらわたしの頭へ手を置くと「ありがとな…」と優しい声色で呟いた。



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(おせぇ…)

体の痛みに耐えながら時計を見た。イヌピーが出て行ってから、すでに一時間。どこまでを呼びに行ってんだとイライラしてきた。

「…おい、イヌピーと連絡ついたか?」
「い、いえ。まだ…」
「チッ…」

病室の入り口に立っている部下に飲み物を買って来いと命令して出て行かせると、オレは痛む背中に顔をしかめつつ体を起こした。
あの襲撃からまさかの2週間。意識が戻った時、そんなに日にちが経っていたことに驚愕した。結局オレはあの場で意識を失い、そんなオレをイヌピーは守りながら応戦してくれてたようだ。その間に負傷しながらも部下が他の幹部へ応援要請をしてくれたことで、事なきを得た。最後は相手も数人ほどになり逃げだしたようだが、必ず報復してやると決めた。

あの時、イヌピーが撃たれそうになったのを見て、オレの脳裏に赤音さんの顏が過ぎった。
また失うのか――?
そう思ったら頭が真っ白になって、気づけば車を飛び出しイヌピーを庇っていた。弾が背中から左肩へ貫通したのが分かり、焼けるような激痛を感じて、一瞬もうダメだとそう思った時、今度はの顏が脳裏をよぎって。その時に思ったのはただ、"会いたい"だった。このままオレが死んだら、は少しでも泣いてくれるのかな、なんてガラにもないことを考えて。意識が戻った時も一番に思い出した。ベッドの脇に真っ青な顔をしたイヌピーが見えて、無事だと分かった瞬間、我がままを言いたくなった。

――何か欲しいもんあるか?

そう聞かれた時に「…連れて来て」とつい言ってしまったのだから自分でも笑ったけど。意外だったのはそんなオレの我がままをイヌピーがすんなり了承して「待ってろ」と病室を飛び出したことだった。オレが何も言わなくてもイヌピーには全てお見通しなんだから嫌になる。結局、オレは人を本気で好きになるのが怖いと思いながらも、また誰かを愛したかったんだと気づいた。だからあの夜。取り引きが終わった後で、彼女に会いに行こうと決めていたのに、まさかそんな長い間、意識がなかったなんて自分でも結構驚いた。

(2週間も連絡してなかったんじゃ…もオレのことなんか忘れてるかもしれねえな…)

そこで心配になったのは、また傷つけてしまったんじゃないかということだ。前の男のように、突然連絡が取れなくなれば、彼女のことだからまた自分を責めてしまうかもしれない。いつでもオレのことを優先に考えて、決してでしゃばることなく距離を保っていたのことだから。
オレはそんな彼女の気持ちに気づきながら、なかなか本心を伝えることも出来ず、の優しさに甘えていた。愚かだと思う。過去に拘らず、素直に言えば良かったんだ。オレのいるこの世界は、いつ死んでもおかしくないのに。まさかオレがそれを忘れるなんて、本当に情けない。

「…クソ。思うように動かねえ…」

痛み止めは打たれたものの、動かすと傷口がやたらと痛い。ベッド上部を起こしてはあるが横になるのも一苦労だ。

「五月雨か……」

曇天から降り続いている雨を眺めながら呟く。と出会ってから半年。あまり二人で出かけたことなどないが、今度晴れた日に彼女と二人でどこかへ出かけてみるのもいいかもしれない。

「早く……会いてぇな…」

薬が効いて来たのか、心地良い睡魔に襲われながら呟く。今なら、素直に気持ちを言えそうな気がした。



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「ココくん…」

乾さんに連れて来られたのは普通の病院ではなかった。当然のことながら彼の傷は銃創だ。一般の病院へ行けばすぐに通報されてしまう。ここはそういった後ろ暗い人間が使う闇医者の病院らしい。普通の生活をしている人間には最も縁遠い場所で、多少緊張したけど院内は普通の病院とさほど変わらない。ただ患者がほぼいないということを除けば。ココくんは最上階の一番奥の部屋。重厚なドアの向こうで眠っていた。病室というよりはどこかのスイートルームのような造りの部屋に驚きつつ、ベッドの周りには色々な器具が置かれている。ベッド脇のミニテーブルには飲みかけのお茶が入ったペットボトル。さっきまで起きていたのは間違いないようだ。

「ココのヤツ、待ちくたびれて眠っちまったようだな。まあ痛み止め打たれてたし仕方ねえか」

乾さんは苦笑気味に言いながら、そのペットボトルを指でつまんだ。

「でもま、睡眠薬じゃねえし、そのうち起きるだろ」
「じゃあ…わたし、ここにいてもいいですか?」

ベッドの傍にある椅子をさして訊けば、乾さんは「もちろん」と肩を竦めた。

「その為に来て貰ったんだ。ああ、腹が減ったなら何か買って来るけど」
「い、いえ。大丈夫です」
「…じゃあ…オレはちょっと報告がてら本部に顔を出しにいくが…ここを任せても?」
「はい」
「じゃあ頼む。廊下に部下を置いて行くから何かあればソイツに頼め」
「分かりました。あ、あの――」

出ていきかけた乾さんを呼び止めると、「連れて来てくれて…ありがとう御座います」と頭を下げた。彼は何も言わず、ただ軽く手を上げると静かに病室を出ていく。きっと彼はココくんのことを凄く大切に想ってるんだな、と何となく伝わって来た。

(ううん…それはココくんも同じなんだよね…)

体を張って乾さんを守ろうとしたくらい、ココくんも彼のことを大切に想っている。ちょっと妬けてしまうくらい、二人の絆は強い気がした。その乾さんからココくんのそばにいて欲しいと言われるのは、凄く嬉しい。

「…ココくん」

椅子に座ってそっと手に触れる。ココくんの体温を感じてたら、やっと実感が湧いてきた。連絡が途絶えても会いたくてたまらなかった。もう会えないんだと思うたび、夜がツラかった。だけどココくんはその間、ずっと意識不明だったなんて。

「…良かった……助かって」

これまでの不安や絶望、ココくんが助かったことへの安堵感。色んな思いがごちゃ混ぜで涙が溢れてきた。両手でココくんの手を握り締めながら、少し痩せた寝顔を眺める。ずっと会いたかったから、いつまででも眺めていられる気がした。
病室は静かで、雨音だけが聞こえる中、わたしは飽きもせずにココくんの寝顔を見ていた。彼が目を覚ましたら、今度こそ自分の気持ちを伝えよう。ココくんがどんな世界の人でも構わない。会えなくなってよく分かった。わたしはココくんのことがこんなにも好きなんだってことに。わたしの知らない世界を見せてくれて、何も持たないわたしに自信をくれた。いつだってココくんはわたしに優しかったから、それが何より嬉しかった。

「ココくん…大好き。早く…目を覚まして…」

いつもはココくんの寝顔を見て起こさないようこっそり帰っていた。でも今は早く起きて欲しい。ココくんの目を見て話したいと思う。そう願いながら、ぎゅっと手を握り締めて手の甲へ口付けた。



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温かい、と思った。手が何かに包まれている。そう感じた時、ゆっくりと瞼を押し上げた。ぼやけた視界に映るのは病院の天井。聞こえる雨音が耳を刺激して次第に頭もハッキリしてきた。

(誰か…いる?)

左手が握られている感触。それに腕の辺りにかすかな重みがある。ゆっくりと視線を向けてそこにいる人物を認識した時、完全に覚醒した。

「…?」

オレの手を握り締めながらベッドに突っ伏してたのは、夢の中でも会いたいと思っていただった。きっとイヌピーが連れて来てくれたんだろう。時計を見れば、すでに午後10時になろうかという時間。は疲れてるのか、そっと手を外しても目を覚ますことはなかった。自由になった手で彼女の頭に触れて起こさないよう髪を撫でる。久しぶりに見たは、少し痩せたようだった。寝不足なのか、薄っすら目の下に隈が出来ている。もしかして自分のせいかもしれないと思うと、胸の奥がぎゅっと何かにつかまれたみたいに苦しくなった。

「…ごめんな」

そんな言葉をかけながら指先で線の細くなった頬へ触れる。思わぬ出会い方をして、最初はオレの殺した男の恋人だという事実に驚かされた。捜索願を出されでもしたら面倒だと少しの間、傍で様子を見ていたけど、意外にも彼女と過ごす時間は楽しかった。は自分が普通の女だということを気にしてるようだったけど、オレは彼女の普通さに癒された。との時間を重ねるたび、次もまた会いたくなるような、そんな女だ。なのにオレは自分のそんな気持ちを押し込めて気づかないふりをした。また本気で人を好きになるのが怖かったから。好きになって、また失うのが心の底から怖かった。住む世界も違う。こんなにいい子を自分の勝手な想いで裏の世界に引きずり込んでいいのか迷った。でも結局会いたくなる気持ちは止められない。最高に我がままだと自分で呆れてしまう。今こうして彼女の寝顔を見ていると、色んな思いが溢れてくる。

――赤音さん以外、誰も好きにならない。

そう誓った過去の自分は、きっと何かに縋りたかったのかもしれない。そう思い込むことで、彼女を助けられなかった自分を肯定したかったのかもしれない。彼女を失ったこの世界で、一人でも生きていけるように。

(もう…別の人を好きになっていいかな…赤音さん)

心の中でそう呟いた時――記憶の中の赤音さんが微笑んでくれた気がした。

コンコン――。
その時、小さなノックの音がした。

「誰?」
「起きたのか。入っても?」

返事をすると静かにドアが開き、イヌピーが顔を出した。いつもならノックなんてしないクセに、と苦笑しながら「入れよ」と応える。大方がいるから気を利かせたんだろう。

「彼女、オレが起きた時には寝てたよ」
「そっか」

イヌピーも苦笑しつつ「どうだ、痛みは」と訊いてくる。

「薬が効いてるから動かさなければ平気。で、本部に行ってたのか?」
「ああ。稀咲さんも心配してたぞ。まあ意識が戻ったって言ったら見舞いに行くと言い出したけど、明日にしてもらった」
「…さすがイヌピー。気が利くじゃん」
「ったく。オレはココのパシリじゃねーぞ」

イヌピーは仏頂面で文句を言ってきたが、ふと真顔でオレを見下ろした。

「さっきはオマエの意識が戻ってテンパってたから言うの忘れたが……助けてくれて…ありがとな、ココ」
「別に…咄嗟に体が動いただーけ」

言いながら舌を出すと、イヌピーは呆れたように吹き出した。

「…ったく。二度とごめんだ。あんまビビらせんなよ…」
「あれ、そーんな心配してくれたのかよ。イヌピー可愛い~。オレが死んじゃったら寂しいもんなァ?」
「うっせぇな…そんなことになったらこの子だって悲しむだろが。もう二度とバカなことすんな」

イヌピーは短気だからすぐ怒る。だけど、これも全て心配してくれてるんだってことは、オレも分かってる。

「…に…話した?今回のこと」
「ああ。ビックリしてたけど…強いな。最終的にここへ来ることを決めたのは彼女だ」
「そっか…」
「この子が目を覚ましたら…ちゃんと気持ちを伝えてやれ」
「…言われなくても考えてるよ」

これまで何度か、もう会うのはよそうと思ったこともある。でも結局無理なのだから、素直に自分の気持ちを認めたら凄く楽になった。

「ああ、イヌピー。クローゼットの中にオレのジャケット入ってる?」
「ん?あー。穴の空いた奴か」
「それの左ポケットに箱が入ってんだけど取ってくれる?」
「…箱?」

怪訝そうな顔をしつつ、イヌピーはクローゼットを開けると中からあの日着てたジャケットを取り出した。オーダーメイドで作らせたお気に入りだったのに、背中には銃で撃たれた穴が空いている。胸糞悪いが今はそんなことより――。

「これか?」
「そうそう」

コッチの方が大事だ。

「これって…」
「ほんとはさー。あの取り引きが終わった後で、に会いに行こうと思ってたんだよ。これ渡しに」

言いながら受け取った箱のリボンを解き、ジュエリーボックスの蓋を開けると、中から眩い光を放つものを手に取る。イヌピーの顏が見る見るうちに驚愕の表情へと変わった。

「コ、ココ…オマエ、まさか結っ…」
「ハァ?何言ってんだよ。まだそこまで急いでねえし」

真面目なイヌピーらしい発想に苦笑しつつ、手にした輝きを眠っている彼女の指へそっとはめていく。彼女が目を覚ました時、これを見てどういう反応をするのか楽しみだった。

「ただオレと会ってない時に変な虫がつかないようにするため♡」
「……首輪かよ」
「その例えやめて。ロマンティストじゃねーな、ったく」

呆れ顔で笑うイヌピーを睨みつつ、彼女の指へ収まった輝きに自然と笑みがこぼれる。思った通り、華奢なの手に良く似合ってる。その指先へ口付け、軽く握りしめながら「好きだ」と呟く。その時、眠っている彼女が、かすかに微笑んだ気がした――。


...END




これでココの短編連載終わりとなります!
最後、互いに告白させようかと思いましたが、今回は今まで書いたことのないパターンで笑。
この二人は微妙にすれ違いのまま気持ちを知る感じの方が想像できるかなと思い、こんなラストにしてみました。
タイトルがココの気持ちを現わしてるので、最後ココ視点で眠る彼女へこっそり告白させましたが、次回ココを書く時はもっと甘々のを書いてみたい…笑
拙いお話ですが最後までお付き合い下さった方がいましたら、本当にありがとう御座いました✨