I knew

第五幕:ピアス


なんて日だ!なんてお笑い芸人のネタじゃないけど、真っ先にその言葉が浮かんだのは、別に悪いことがあったわけじゃなく、むしろ逆。最高だという意味で、そんな一言が頭に浮かんだ。というのも、今週前半は取材と言う名の出張もなく、新人作家さまのお尻を叩くという残業も急遽なくなったから。
何の気まぐれか、新人作家さまの筆がノリに乗って締め切り前に原稿を上げてくれたおかげだ。その分、自分の仕事も前倒しになったけれど、昨日から徹夜で頑張って終わらせることが出来た。それも先に出来る仕事は済ませておいたからこその結果で、急遽ぽっかりと空白の時間が出来たのだ。
時計を見れば午後4時。こんな時間に上がれる日なんて滅多にない。
わたしはデスクを適当に片付けると、すぐに会社を飛び出した。同時にケータイを出すと、タクシーを探しながらもすぐに竜ちゃんへ電話をかける。きっとこの時間なら家にいるかもしれないと思ったのだ。
普段、忙しくて会えない分、こうして時間が出来ると必ず竜ちゃんに報告することになっていた。コール音を聞きながら竜ちゃんが出るのを待つ間すらもどかしくて、自然に早く早くと足踏みしてしまう。これは幼い頃からのわたしのクセだ。竜ちゃんや蘭ちゃんに「子供かよ」と笑われることもあるけど、無意識なのだから直しようがない。

(おかしいな…いつもなら5コール以内には出てくれるのに…)

6コール以上、鳴らしてもなかなか出てくれないことに一抹の不安を覚える。クラブ内にいると時々そういうことがあったけど、最近は着信音量を爆上げしといたと言ってたし、バイブも連動にしてるから、と言って、わたしがかけると竜ちゃんは比較的、早く出てくれる。なのに今日に限ってなかなか出れくれない。
遂に10コール目を過ぎて、わたしは一度切ろうと、ケータイを耳から離そうとした。その時『もしもし…!』と慌てたような竜ちゃんの声が聞こえてきた。

「あ、竜ちゃん?ごめん、寝てた?」
『あー…うん。ごめんな…』

確かによく聞けば寝起きの声だった。ついでに大きな欠伸を噛み殺してる。それが伝わって少しだけホっとしてしまった。

『それより、どした?こんな時間に電話かけてくるなんて珍しいじゃん』
「あ、そうだ。あのね。今日珍しく早く仕事終わったから、竜ちゃんとこ行こうかなと思って」
『マジでっ?やり~。え、、今どこ?』

そんなやり取りの間にタクシーが見えたから、すぐに手を上げて止まった瞬間に乗り込んだ。

「あ、お迎えはいいよ。タクシー乗っちゃったから。竜ちゃん今は家?」

そう尋ねながら運転手さんにマンションの住所を伝えようとした。でも竜ちゃんは一瞬の沈黙の後『あーいや。例のマンションの方だよ』と言った。例のマンションとは、蘭ちゃんと住んでる自宅マンションとは別に竜ちゃんが借りてる家のことだ。先月、竜ちゃんが突然「もう一つ部屋を借りることにしたから」と言い出して、本当にクラブ近くのマンションに部屋を借りた。理由は簡単で、蘭ちゃんに迷惑かけることなく、気軽に仲間と飲んだりしたいらしい。まあ、でもそれは建前で、一番の目的は近い将来、わたしと一緒に暮らしたいからだと言ってくれた。それを聞いた時は驚いたけど、でも凄く嬉しかった。

――と一緒に住んだら今よりは会えるだろ。

竜ちゃんはそういうことも考えてくれてたらしい。だから今わたしが住んでるマンションの更新日が近づいて来たら引っ越そうかと考えていた。

「あ、じゃあそっちに行ってもいい?それとも誰か友達が来てるなら――」
『誰もいねーよ。んなことより早く来て』

竜ちゃんが甘えたような声を出すから、ちょっとだけ顔が熱くなってしまった。かすかに車の走る音や雑踏が聞こえるから、竜ちゃんはバルコニーに出たらしい。そこのマンションの最上階に決めたのは、屋上付きだからと言ってたように、リビングの窓からバルコニーに出ると、ちょっとお洒落な階段があって、屋上スペースへと出られるのだ。そこに日よけのパラソルとテーブル、椅子などが置いてあるから、天気のいい日は外でご飯が食べられる。わたしも凄く気に入ってるスペースだ。

「じゃあ、すぐ行くね。あ…そうだ。近くのスーパーに寄ってくから何か欲しいものある?」
『んー…じゃあ缶ビールと軽くつまめるもんお願い。ちょっと切らしてて』
「うん、分かった。じゃ…後でね」
『早くな』

最後に竜ちゃんが念押しするから、つい笑ってしまった。早く会いたいって言われてるようで嬉しくて顔が緩んでいるのが自分でも分かる。運転手さんに行き先変更を告げて、バッグからメイクポーチを出すと鏡を出してメイク崩れのチェックをしておく。当然仕事終わりだから崩れてるし、何なら髪だって一つに縛ったままだ。慌てて髪を解いて簡単にメイクを直すと、少しはマシになった。でも服装はそうもいかない。本当なら一度家に帰ってから行くと言えば良かったのだ。そしたらシャワーを浴びて、髪だってブロー出来るし、メイクもきちんと一から仕上げられる。可愛い服にも着替えられるし、靴だって先日買ったミュールを竜ちゃんに見せることが出来たのに。
でも、やっぱりたまに空いたこの時間が惜しくて、わたしはいつも自分を着飾るより、竜ちゃんと少しでも一緒にいられる時間をとってしまう。こんなんじゃダメだって思うのに、早く会いたくなるのはわたしも同じだ。

(竜ちゃんの周りにいる子達はいつも隙がないくらい綺麗にしてるもんね…)

ふと自分のマニキュアを塗っただけの地味な爪を見下ろしながら溜息を吐く。わたしだってネイルサロンにも行きたいし、髪を巻いたりしてみたい。でも仕事中はどうせ邪魔になるし、爪だって長すぎるとパソコンを弄りにくい。だからつい楽な方へと走りがちだ。
ケーコ先輩からは「ってそんなに女子力低いのにどうやって竜胆くん射止めたわけ?」と不思議がられるんだから終わってる。
まあ…それはわたしも不思議だけど。

(もしかしたら…いつも煌びやかなお姉さま達に囲まれてるから、たまにはわたしみたいな地味な女が珍しいのかも…。そう、よく言うじゃない。ステーキも食べ過ぎると飽きがきて、シンプルにお茶づけ食べたくなるっていうアレ。竜ちゃんにとって、わたしはお茶漬けなのかも…)

なんて自分で考えてて空しくなってしまった。でも、だとしたら竜ちゃんは一年間、お茶漬けを食べ続けてることになるから、それもちょっと違うか…と希望的観測をたてる。

(いや…でも実際、竜ちゃんに食べさせてあげてないな…)

ふと現実的なことを思い出して溜息が出た。普通一年も付き合ってたら体の関係があって当たり前だと思う。お互い子供じゃないんだし。なのに竜ちゃんはわたしの覚悟が決まるまで待つって言ってくれて、わたしはその言葉にどっぷり甘えてしまっていた。

(そろそろ…覚悟決めなくちゃ…)

本音を言えば初エッチは怖いけど、でもエッチしないことで愛想を尽かされて、竜ちゃんの気持ちが離れていってしまう方が怖い。

(作家先生の今の連載が終わったら有給とって竜ちゃんと温泉にでも行きたいな…それでいいムードになったら…もう拒んだりしないで受け入れる…そうだ…そうしよう!)

流れる景色を眺めながら悶々としていたわたしは、勝手に予定を立てながらこれしかないと思った。旅先なら雰囲気も変わるし、気持ちも昂って恐怖も半減しそうだ。
あとで竜ちゃんに提案してみよう――。
そう決めたら、少しだけ気持ちが軽くなった。


△▼△


「お疲れ~。おかえりー!」
「た、ただいま」

ドアを開けた瞬間、ガバっと抱きつかれてぎゅうぎゅう抱きしめられる。前回会ってから二週間以上経ってることもあって「会いたかったー」とまたしてもシミジミ言われてしまった。竜ちゃんからはボディシャンプーのいい香りがするから、寝起きにシャワーへ入ってたらしい。

、腹減ってねえ?」

わたしからスーパーの袋を受けとって、そのまま手を繋いだ竜ちゃんは、リビングに向かいながら笑顔で訊いてきた。

「減ってたからスーパーでお惣菜だけ買ってきちゃった」
「え、マジで?何だ…寿司でも取ろうかと思ったのに」
「えっお寿司!」

袋から色々出しながら、パっと顔を上げた途端、竜ちゃんが「ぶはっ」といきなり吹き出した。

「めっちゃ寿司に食いついてんじゃん。かわいー」
「え、ん、」

表情を緩めた竜ちゃんは素早く屈んでわたしのくちびるにチュっとキスをしてきた。その不意打ちのキスで頬にじわりと熱を持つ。竜ちゃんの可愛いの基準が分からないけど、きっとお寿司と聞いてわたしの目がキラッキラに輝いてたのかもしれない。恥ずかしい…。

「じゃあお惣菜は冷蔵庫にしまっておいて寿司とる?」
「え、ホントにいいの?」
「当たり前だろ。オレ、が美味そうに食べるとこ大好きだし」
「…そ、それって子供に持つ感想なのでは…」
「まあ、そうとも言うなー?」

竜ちゃんはわたしの髪をわしゃわしゃ撫でながら腰を抱き寄せてくる。ゆっくり身を屈めるのが分かって、慌てて目を摘むると、さっきの不意打ちのキスとはまた違う甘ったるいキスをされた。竜ちゃんのくちびるは、わたしのくちびるをホントに食べる気なんじゃないかと思うほど大胆に食んでくるから、心臓がドクドクうるさいくらいに鳴ってしまう。
どれくらいキスを交わしていたのか分からないけど、わたしの顔が燃えるように熱くなってきた頃、ちゅっという可愛い音を立てながら、竜ちゃんは名残惜しげにくちびるを離した。その瞬間、わたしのお腹がぐぅぅっと情けない悲鳴をあげた。

「ぷ…マジで腹減ってんじゃん」
「だ、だって…お昼も返上して仕事終わらせたから…」
「そっか…そのおかげで早く終わったなら、いっぱい食わせたくなるな」

竜ちゃんは至って真面目な顔でそんなことを言うと、自分のケータイを手にした。竜ちゃんと蘭ちゃん御用達のお寿司屋さんが近所にあって、その店は本来出前はしてくれないようだ。なのに二人は特別に運んでもらってるらしい。何度かご馳走になったことがあるけど、物凄く美味しくて、ホッペが落ちるほど美味しいとはああいうことを言うんだと実感した。

はいつものお子様セット?」
「お、お子様セットって…」
「だってマグロといくらの軍艦にカニだっけ?殆ど子供が好きなのばっかだろ」
「う…そうかも」
、寿司大好きなわりに食えるネタ少ねーもんな」

竜ちゃんは笑いながらケータイを弄っている。でも確かに竜ちゃんの言う通りで、お寿司は好きだけど、貝類はもとより、生のイカ、ホタテ、ウニなどは苦手で、もっぱらマグロといくらの軍艦巻き、あとはズワイガニばかり頼んでしまうのだ。最初にお寿司を頼んでくれた時に教えたら、竜ちゃんだけじゃなく、蘭ちゃんにまで爆笑されたのを思い出す。

「ああ、、そのジャケットはクローゼットにかけとけよ。シワになるから」
「あ、うん。ありがとう」

仕事用のスーツジャケットを脱ぐと、わたしは前に何度か足を踏み入れたことのある寝室に向かった。こっちのマンションにはまだ数えるくらいしか来たことがなく、普段会う時は兄弟で住んでいるマンションの方が多い。わたしが引っ越してくるまでは竜ちゃんも友達との飲み会で使ってると前に話してた。

「えっと…電気…」

部屋に入って電気のスイッチを押す。薄暗い室内がパっと明るくなって、わたしはホっとしながらクローゼットを開けた。竜ちゃんの服もまだ数着しかなくて、中はガラガラだ。その中から一つハンガーを借りてジャケットをかけた。

「これでよし…と」

クローゼットを閉めてリビングに戻ろうとした時だった。奥にあるベッドの方へ何となく視線を向けた。

「あ~グチャグチャだ…」

かけ布団は足元に寄せられ、シーツにはシワがついてしまっている。ついでに直しておこうとベッドへ近づいた。

「そう言えば寝てたって言ってたもんね、さっき」

ふと電話をかけた時のことを思い出して苦笑する。ただ小さな違和感はすでにあったのかもしれない。

「竜ちゃんって寝相いいのに、何でこんなにグチャグチャ?あー枕も吹っ飛んでる…」

いつもは二つ並んでいる枕がおかしな格好でズレてたのを見て、それも元の位置に戻しておく。でももう一つの枕を手に取った時、それはあった。

「……何これ」

キラっと何かが光った気がして、今まで枕があった場所を見下ろしてみた。すると小さな女物のピアスが落ちている。
ドクンと大きく心臓が鳴った。もちろんわたしのじゃない。わたしのコレクションの中に、パールのピアスはないからだ。それに――。

「…髪の毛?」

ピアスのキャッチの部分に長い髪の毛が一本引っかかっているのを見て、お腹の奥から重苦しい感情がこみ上げてくる。
それは金色に脱色されたものだった。そこで突然さっきすれ違った女の子の姿が脳裏を過ぎった。タクシーでこのマンションへ着いた時、エントランスでスタイルのいい金髪の女の子とすれ違ったのだ。てっきり住人かと思って気にも留めなかったけど、一瞬だけ目が合ったから軽く会釈をした気がする。

「まさかこれ…あの子の…?」

足元がグラグラするような感覚に襲われて、焼けるように胸の奥が苦しくなった。

「…?何してんだよ」
「……ッ」

その時、背後から竜ちゃんに声をかけられ、ビクリと肩が跳ねた。

「…竜ちゃん」
「どした?怖い顔して――」

と歩いて来た竜ちゃんは、わたしが持っていたピアスを見て「あ」と声を上げた。

「何だ、が見つけてくれたのかよ、それ」
「……え?」
「いや、ほら、クラブの店長知ってんだろ?」
「あ…うん。健太郎くん…だっけ」
「アイツがこの前ここに泊まった時、ピアス失くしたって騒いでてさー探してたんだよ。さんきゅーな」
「え、それ…健太郎くんの?」
「何だよ。女のだと思ったー?」

驚いたわたしを見て、竜ちゃんが笑いながら顔を覗き込んでくる。特に焦った様子はない。

「だって…パールだし…」
「アイツの誕生石なんだよ」
「あ…そうなの?」
「そー。ったく…に変な誤解されたっつって文句言ってやろ」

竜ちゃんはそのピアスをポケットの中へしまうと「こっち来いよ」と言ってわたしの手を引っ張った。

「マジで女のもんだって誤解した?」
「う…ご、ごめん…」

言われてみれば店長の健太郎くんは金髪のロン毛だ。辻褄は合う。そう思ったら一気に心が軽くなって、わたしは素直に謝った。

「別に怒ってねーよ。まあ、そんなもんがベッドに落ちてたら誰でも誤解するし」
「…竜ちゃん」
「まあ、でも罰として…今夜はここに泊まってって」
「…えっ?」

落ち込んでたら突然のお誘いにギョっとして顔を上げた。竜ちゃんはニヤリと意地悪な目でわたしを見下ろしている。だけど、いきなり泊まってと言われても心の準備が出来ていなかった。

「で、でも明日も仕事だし…」
「ここから出勤すりゃいいじゃん。オレ、車で送ってくし」
「でも着替えないから…無理だよ」
「えー…マジでダメ?」

竜ちゃんは悲しそうに額を合わせて訊いてきたけど、わたしは「ごめん」としか言えなかった。だって同じ服を着て出勤はまだ誤魔化せるとして、下着はやっぱり同じ物を身に着けるわけにもいかない。そこは女心としてどうしても譲れないものがあった。
わたしの言葉を聞いて諦めたのか、竜ちゃんは「仕方ねえかー」と少し寂しそうな顔で溜息をついた。その顔を見ると、わたしも胸が痛む。

「あーでも今度、も自分の着替えここに持ってきておけば?」
「え?」
「そしたらも帰らなくて済むじゃん。ああ、バスグッズとか洗顔とかも」
「あ、そう、だね。うん、そうする」

普段忙しくてそこまで頭が回らなかった。でも竜ちゃんから提案されて、何故かホっとした。わたしの物をここに置いていいなら、他に女の子を連れ込まないだろうと、無意識に思ったのかもしれない。
その時、部屋のインターフォンが鳴った。

「お、寿司きたぞ」

竜ちゃんがわたしの髪を撫でながら微笑むと、すぐにリビングへ戻っていく。わたしも寝室の電気を消してからついて行こうと、もう一度ベッドの方を振り返った。
あのピアスを見つけた時、ここで竜ちゃんが他の子と抱き合ってる光景を想像してしまったことを深く反省する。

(でも…健太郎くんってパールのピアスなんてしてたっけ…)

ちょっと思い出せなくて首を傾げたものの「~食おうぜ」と竜ちゃんに呼ばれ、慌てて部屋の電気を消した。

(大丈夫だよ…わたしの物を置いておけって言うくらいなんだし…)

笑顔で手招きをする竜ちゃんに微笑み返しながら、心の中で何度もそう言い聞かせていた。


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