第一話:お伽話にするには重すぎる



父親の失踪から、全ての不幸は始まった。
は、寂しい財布の中身を見て思う。
全ては――あのクソオヤジのせいだ、と。

(うーん…今月残り五千円で生きてけるの?わたし…)

二十六にもなって何と侘しい財布なんだろう、と溜息しか出ない。
が中学を卒業する頃、不景気を理由に父がリストラされた。そこから家の地獄が始まる。
父も半年くらいは再就職する為に頑張っていたはずだ。だが気づけば家に帰ってこなくなった。母親は必死に夫を探し、失踪届も出したけど、大人の男が一人いなくなったところで、警察が親身に探してくれるはずもなく。母親はすぐに気持ちを切り替え、生活の為にと朝から晩まで働きだした。子供ながら、娘は女の強さを母から学んだ瞬間かもしれない。
そのおかげでは高校まで行くことが出来たものの、当然、大学へ行く余裕はなく、少しでも家計の足しになればと、すぐにアパレルメーカーに就職をした。
その頃にはも父親の存在など忘れ、母と二人、どうにか生活することが出来ていたと思う。
だがその母も三か月前の夏に亡くなった。過労が原因で入院。回復することなく、そのまま逝ってしまった。突然、最愛の母を失くし、一人ぼっちになったに更なる不幸が襲ったのは、母の死から、僅か一週間後のことだ。
七年も働いた会社が倒産した。更に最悪なことに、それまで働いた分の給料も不払いで社長が失踪。
そこからがまた、地獄の始まりだった。
絶望を味わっただったが、強い母のことを思い出し、もすぐに気持ちを切り替え、新しい就職先を探したものの。高卒で特に資格もなく、経験も乏しい女を雇ってくれる会社はない。仕方なく今は六本木にあるカフェでアルバイトをしていた。

(どいつもこいつも失踪すればいいと思って…)

が心の中で毒づきたくなるのも当然だった。
母の死を嘆く間もなく、生きる為に必要最低限のお金は稼がなくちゃいけない。前の会社に給料を支払ってもらえなかったことが、今のにとっては相当きつかった。母の入院費で、それまでコツコツと貯めていた貯金も全てなくなったからだ。
今のカフェもバイト扱いなので給料は生きていけるギリギリの金額しかもらえない。
唯一の財産だった持ち家は、父親が失踪した後に発覚した借金のせいで売り払って返済した為、今は母と住んでいた小さなアパートを、そのまま借りて住んでいる。でもボロいわりに港区というだけで家賃が高い。

(もっと安いとこに引っ越したいなあ…と言って今更、地元を出るのも不安だけど…)

は生まれた時から、この港区で育った。父親も若い頃は大きな広告代理店に勤め、リストラされるまでは、いわゆるエリートと呼ばれる存在だったのだ。

(エリートこそ、打たれ弱いってほんとね…あのクソオヤジ、どこで何してるんだか…)

母が亡くなったことも知らないはずだ。母親は仕事をしながら父親を捜してたようだったが、結局見つけられないまま。
どこかで野垂れ死んでてもおかしくはないが、それならそれで構わないとさえ思っていた。父親の借金のせいで家はなくなり、それも含めて母は余計に苦労したのだ。

「あー…ダメだ。お金ないと、どうしてもアイツへの恨みつらみが溜まってく…」

バイト先の休憩時間。は財布をバッグにしまい、深く溜息を吐いた。
そこへ新たな地獄がやってくることなど、今のには分かるはずもない。
きっちり一時間の休憩を取ったは、午後の仕事に戻る為、休憩室からフロアへ戻ろうとした。その時、カフェの店長が「さん」とフロアの方から歩いて来た。

「はい。何ですか」
「裏にお客様が来てるわよ」
「え…?」
「急いで行ってきて」
「…はあ」

客?と首を傾げつつ、「ちょっと行ってきます」と、は店の裏口へ向かった。そこは従業員専用の出入り口となっている。
自分を尋ねてくる客など、には心当たりがない。学生の頃の友人とは卒業後から疎遠になっているので、がここで働いてることすら知らないはずだ。前の会社も同様、倒産した後、社員はバラバラになり、以降、連絡が来ることもなかった。働いてた頃にはそれなりに親しい人もいたはずだが、離れると意外と稀薄な関係だったなと気づかされたりする。

(誰だろ…何か怖いな…)

親戚連中も父親がリストラをされた時から疎遠で、母親を助けようともしてくれなかった。なので縁は切れたものとして、も距離を置いている為、働いてる場所を知らせたこともない。少し不安に思いながらも、通路奥まで行き、通用口を開けた。店の裏手とはいえ、そこは六本木。目の前の小道にもお洒落な雑貨屋などがあり、人通りも結構多い。その中に一際目立つ容姿の男が、手元のスマホを忙しくなく操作しながら立っている。やはり初めて見る顔だ。

「あの…?」

自分を尋ねてきたのがこの男か分からないのもあり、は少し遠慮がちに声をかけてみた。男はふとスマホから顏を上げると、へ初めて視線を向け、懐っこそうな笑みを浮かべた。年齢は二十代半ばか、少し上。とそう変わらないように見える。少し長めの髪をアッシュに染め、チャイナ風のスーツを着ている。一見してかなり派手な男だった。

さん?」
「はい」
「ここに名前が書かれてるの、君のお母さんだよね」
「え…っ?」

突然、挨拶もなく知らない男に母親の話をされ、は驚きつつ、差し出されたスマホの画面を覗き込む。そこには何かの書類が映っていて、署名欄には確かに母親の名前が手書きされている。

「はい…母です。これは?」

認めてから顔を上げると、派手な男は胸ポケットから名刺を取り出した。

「オレはこういうものです。宜しくね」

高級そうな厚手の紙に刷られた名刺には"BTファイナンス取締役 九井一"と書かれている。

「BTファイナンスの…九井さん…?」
「まずはお母さんのこと。ご愁傷様でした。ご挨拶にも伺えずにすみません。海外に長期出張に行ってたもので、訃報を聞いたのも昨日でした。ご焼香にも伺えず、申し訳ございません」
「え、い、いえ…」

丁寧に頭を下げられ、逆にの方が恐縮してしまう。

(お母さんてば…こんな若い人と知り合いだったの…?)

不思議に思いつつ、そのことで挨拶に来てくれたのかと思った。ただ、このバイト先は母が亡くなった後から働きだした店だ。それをどうやって知ったんだろうと思っていると、九井と名乗った男は、小脇に抱えていたバッグの中からA4サイズほどの書類を取り出し、へ見せた。

「実はうちの会社でお母さんにお金を貸してたんです。聞いてませんか」
「…えっ?」

お金を貸してた、という言葉が聞こえていても、脳に到達するまで、数秒は要してしまった。理解してからも、色々と聞きたいことはあれど。は一度それを飲み込んでから、その書類に目を通した。確かに、の母の字で署名と捺印が押されている。
金額は――一千三百万円。
今のにとって、それは目が飛び出るほどの大金だった。

「もしかして、お母さんの借金のこと知らなかった?」

九井に聞かれて、は茫然としたまま頷いた。こんな大金を母が借りるはずがない。きっと自分の知らない父親の借金が、まだ残ってたんだろう。
九井は困ったように溜息を吐いた。

「お母さんが亡くなって三か月は経っちゃってますよね。さん?も、その様子じゃ相続放棄してないでしょう。亡くなってから相続放棄の手続きを三ヶ月以内にしないと、財産相続したことになって、こんな風に借金があった場合、相続人がそれを引き継ぐことになるんですよ」
「そんな…」

目の前が真っ白になった。ただでさえカツカツで生活を切り詰めている時に、借金返済までが増えれば、自分の生活どころではなくなってしまう。
でも確かに借金があっても不思議じゃない。女手一つでの学費やら何やらのお金を稼いでくれてたのだから、生活費が足りなくなることもあったはずだ。しかし母はに一切、お金は要求してこなかった。が社会人になってからは毎月の金額を決めて渡していたが、一度も足りないとは言ってこなかった。
父親の借金に加え、母親もいくらか借りてたんだろう。

「知らなかったのに、こんな大金じゃ驚くよね」
「……はあ」
「でも相続しちゃってるものは取り消せない。ちょっと今後の返済について相談させて欲しいんだけど、ここのバイトは何時まで?」
「……午後五時には終わります」
「じゃあ、その後で時間あるかな」
「はい…」

憂鬱だが仕方がない。放置しておいていい問題じゃないのだ。素直に頷くと、九井はホっとしたように息を吐いた。

「じゃあ…バイトが終わったら事務所に来てくれるかな。住所はこの名刺に載ってるから」
「分かりました…」
「じゃあ、また後でね」

九井は優しげな笑みを一つ残して、去って行った。

「一千三百万…」

茫然としながらも、何とも現実味のない金額だ、とつい失笑してしまった。
これまでの地獄が単なる通過点にしか過ぎないと思ってしまうほど、は今、これまでにない絶望を感じていた。
全ては――あのクソオヤジのせいだ、と。


△▼△


「あれ、蘭さん。どーしたんスか」

九井が事務所に戻ると、応接室エリアのソファに座った長身の男が、優雅にコーヒーを飲んでいた。同じく梵天幹部の灰谷蘭だ。

「お~ココ。ちょっと相談あんだよ」
「何スか。珍しい」

九井は苦笑交じりで歩いて行くと、事務員の女性に「オレにもコーヒー淹れて」と告げてから、蘭の前に座る。同じ組織に属しているとはいえ、それぞれに仕事を持っているので、あまり互いの事務所を行き来しない。その為、蘭がわざわざ会いに来たのを見て、何か面倒ごとがあったのでは、と、九井は心配になった。

「相談って何ですか?」

若干の緊張をしつつ、身を乗り出す九井とは真逆に、蘭はのんびりした様子で足を組み替え、軽くネクタイを緩めた。

「あーいやさ~。今、オマエんとこで借金してっけど、返しきれずに困ってる可愛い子とかいねえの」
「あ、そっちの話っスか。また人手不足とか?」

特に面倒ごとでもない話で、九井はホっとしたように運ばれてきたコーヒーへ口をつける。

「そーなんだよ。今月に入ってソープの方で三人と、AV女優部門の子が二人、借金完済しちゃってさー。ったく、何で同時にかぶるんだよって感じで困ってんの。だから、またココの方でいい子いねえかなーと思って」

蘭は苦笑交じりで言いながら肩を竦めた。
この蘭と弟の竜胆は、いわゆる風俗やアダルト系の動画を制作、マネジメントする会社を仕切っている。アダルト系は資金源としてもかなり大きいので、九井にとっても無関係ではない。九井がトップを務める金融会社に借金を作った客の中に、金になりそうな女がいれば、蘭の方へ回すことも多々あった。

「そりゃもちろん、いいスけど…電話くれたら良かったのに」
「ああ、今日は近くで面接あんだよ。この近くの会社のOLらしくてさ。女優になりたいんです~って言うから、一応、素質あるかどうか見ねえとなー」
「また蘭さん直々に面接っスか。まあ…蘭さんも好みうるさいっすもんね」

幹部なのだから、面接などは店の店長にやらせればいいものを、そこは蘭が直に見極めないとダメらしい。

「バーカ。下の奴らに任せて質の悪いのだったら困るだろ」
「まあ、分かります。金額デカいとオレも下に任せられずに、取り立て行っちゃいますから」

そう言って笑いながら、ふと先ほど会ってきた女のことを思い出した。母親の借金を放棄せず相続してしまい、一千万以上の借金を被った女だ。

「ああ、そう言えば、昼間に会ってきた債務者の中に、なかなか可愛い子いたんですよね」
「マジ?どんな女だよ」

蘭が早速食いついて、身を乗り出す。

「まあ年齢は二十六で若くもないけど、見た目はなかなか可愛らしい子で、スタイルも良かった気がします。こう、何か不幸を背負ってるような寂しげな感じだけど、そこがそそる、みたいな」
「そりゃ借金あんなら不幸顔になるだろ。でもあんま暗いのはダメだな。華がねえと務まらねえし」
「暗いって感じじゃ…。ああ、この後に事務所に来ますよ、その子」
「マジ?」
「母親の借金被っちゃった子で、調べたら生活状況はかなり逼迫してんスよね。だからちょうど返済方法を話し合う予定だったんです」
「へえ、いい感じじゃん。で?借金っていくら?」
「千三百万っす」
「ん~ちょーっと少ねえかなぁ。それだとエロ動画でりゃ回数によって上下するにしても…まあ一年以内に返せちゃうじゃねーか」
「まあ、そうっスね。彼女がやると言うかも分からねえし。かなり普通の人生歩んできたような子だったから」
「素人っぽいのは大歓迎だな…。まあ、それとなくソープか動画か進めとけよ」
「え、蘭さん、見てかないんスか?」

不意に立ち上がった蘭を見上げると「言ったろ?これから大事な面接官・・・の仕事があるって」と意味深に笑う。
この場合、面接して互いに条件が合意すれば、仕事内容のノウハウを蘭が直々に教えることを示している。その中には当然、エロいことも含まれる場合があった。特に相手が素人の場合、男の悦ばせ方を全く知らない女もいるからだ。風俗と言っても、普通のセックスと同様に考えて勘違いしている相手に、きちんとプロとして働いてもらう為の必要なことでもある。

「蘭さん、楽しそうっスね…」
「そーか?これでも結構大変だって。可愛くても好みじゃねえ女は特に」
「はいはい…」
「じゃあ、その女、きっちり手中に収めとけよ?」
「了解っす」

九井が頷くと、蘭は手を振りつつ帰っていく。その後ろ姿を見送りつつ、九井はふと時計を確認した。そろそろ夕方の五時。あのバイト先からこの事務所までは、徒歩で数分といったところだ。そろそろ迎える用意をしておこうと、九井は事務員に新しいコーヒーを淹れておくよう頼んだ。

(さっきの様子じゃ相当へこんでそうだし、話もスムーズにいくかもしれねえな…)

これまで色んな債務者を見てきた九井は、相手がどこまで本気で返す気があるのか、何となく分かるようになってきた。
口では謝罪しながら、全く適当な返済プランしか考えてない者もいれば、真剣に考えて、無理のない返済プランを提案してくる者、とにかく楽に稼いでサッサと返したがる者。相手によって、それは様々だ。
そんな九井から見ても、はどちらかと言えば無理のない範囲での返済を望むタイプに見えて、こっちが強引に言えば。楽に返すパターンに飛びつきそうでもある。そもそも今の時点で生活に苦しんでいるのだから、一千万以上の借金は、無理のない範囲の容量を超えているはずだ。

(まあ…早く完済出来た方が、あの子の為なんだろうな…)

書類に目を通しながら、ふとそんなことを考える。ああいう思い悩むタイプは、あまり追い込むと自殺してしまうケースもある。死なれてはお金を回収出来ないのだから、九井としても困るわけだ。
ここは優しく、丁寧に風俗へ行ってくれるように誘導しなくてはならない。

「まあ…素材は良かったしな」

の容姿を思い出し、独り言ちる。染めたことなどないであろう綺麗な黒髪と、日焼けしたことなど絶対ないような透明感のある色白な肌。
それだけで男ならそそられるものがある。それに可愛らしい顔が追加されるのだから、磨けばAV女優でも十分いけるかもしれない。

「さて…どうやって話を持ってくかな」

借金返済のために風俗やAVを進めるにも、口が上手くなければ成功しない。相手がビビらないように、話す必要がある。

「九井さん。お客様がお見えになりました」

その時、事務員が声をかけてきた。九井は「応接室に案内しろ」と言い残し、静かに椅子から立ち上がった。



△▼△



「コーヒー冷める前にどうぞ」
「あ…はい…」

高級そうなカップから立ち上る湯気をボーっと見ていると、九井が笑顔で進めてきた。元々、はコーヒーに目がなく、贅沢と言えば、少し高めの豆を買うことだった。でも母が亡くなってからは、それすら切り詰めて生活してきた為、久しぶりにコーヒーを口にした。それも一口で分かるほどにいい豆だ。

「美味しい…」

ホっと息を吐くように呟くと、一緒にコーヒーを飲んでいた九井が、ふと顔を上げる。

「そう?ちょっと豆にはこだわってるんだ。機械もドイツ製の物を取り寄せて」
「凄いですね。本当に美味しいです。お店で飲むよりもずっと」
「ありがとう。ちゃんはコーヒー好きなの?」
「はい。唯一の趣味みたいなもので…世界中のコーヒーを飲むのが夢です」
「へえ、いい趣味してる」

好きな物について話したせいか、も多少緊張が解れてきた。嘆いていても仕方がない。今、目の前の状況が、自分にとっての現実なのだ。

「ところで…今はあの店でバイトをしてるんだっけ」
「はい」
「そう。他には?」
「今のところあの店だけです。もう少し慣れたら他の仕事も探そうと思ってたとこで…」
「そっか。まあ…今のちゃんにすぐ一千三百万を返せとは言わない。無理だと分かるしね」
「すみません…」

は謝ることしか出来ない。ただ言えるのは、亡くなった母の為にしてあげられることは、これしかないのだということだ。生きている時は親孝行することが出来なかった。母にしてもらうばかりで、何一つ返せていない。社会人になってからも、もう少し余裕が出来たら、と考えるばかりで、結局旅行すら連れて行ってあげることは出来なかった。母が亡くなってから、ずっと今日まで、もっと家事を手伝えば良かった、と後悔してばかりだ。

膝の上でぎゅっと握り締めた手が、かすかに震えた。
泣くな――。
こみ上げてくるものを、ぐっと堪える。その様子に気づいた九井は、気づかれないよう、そっと息を吐いた。

「まあ…こっちも仕事だから、いくらお母さんが亡くなってるといってもチャラにしてあげることは出来ないんだけど…」
「…はい。分かってます。あの…分割でも大丈夫なんでしょうか」
「ああ、それはもちろん構わないよ。ちゃんにも生活があるだろうし」
「すみません。あの…月々…どれくらいお支払いすれば…」

が訊ねると、九井は「そのことなんだけど…」と少しだけ身を乗り出してきた。

「高額のバイト、紹介できるんだけど…ちゃん、やる気ある?」
「え…?」

高額、と聞いてドキっとした。九井はの様子を伺いながら、言葉を続ける。

「日給にすれば五万円から十万円」
「…水商売は…無理です」

少し逡巡しながらも、は答えた。
日給五万円から、という金額が普通の水商売じゃないことくらい、にも分かっている。きっともっと過激な仕事だということも。
そんな仕事を自分なんかが出来るはずもない。だが、九井は引く素振りも見せず「今のバイト、月にいくらくらい?」と訊いてくる。

「十万から十二万くらいです」
「家賃は?」
「…四万五千円です」
「そこから光熱費などを引けば、手元に残るのは三~四万?そこからウチに月々返済することになるけど…どうやって生活するのかな。食費を削る?それも限界あるでしょ」
「…それは…」

現実的に金額を言われると、も不安になってきた。でも夜もバイトを見つければ、どうにか食費くらいは稼げそうだ。

「夜…夜も仕事見つけます」
「水商売?」
「い、いえ…居酒屋とか…」
「居酒屋も拘束時間は長いでしょ。昼間働いて、休む間もなく、深夜まで仕事できる?睡眠時間を削ることになるけど」
「……」

九井はいちいちリアルを突きつけてくる。ただ、全て正論すぎて何も返す言葉がない。今、言われた状態を頑張って半年続けたとして、きっとその頃には心身がやられてるかもしれない。

「身体を壊したら仕事が出来なくなって、借金返済どころじゃなくなる。そうなると、オレも困るから言ってるんだけど、分かる?」
「…はい」

九井の言い分は正しい。そんな生活を続けて体を壊してしまえば、働けなくなるどころか、治療費がかかることもあるかもしれない。それこそ本末転倒だ。そもそも、の母はそんな状態を続けて亡くなっているのだから、九井の言い分は最もだと思う。

「まあ…でも俺がさっき話したバイトなら、短時間で高額貰えるし、ちゃんへの負担は減る。借金も普通より早く返せると思うんだけど…どうかな」
「……はあ」
「オレの知り合いが、人手不足で困ってるんだよ。だから…面接次第なんだけど、受けるだけ受けてみてくれないかな。もしその人がNOって言ったなら、また別のバイトを紹介するし」

九井はやけに熱心だった。こうなると断る空気でもなくなってくる。それに面接を受けるだけならいいか、とも思えてきた。具体的に何をするのかは分からないが、先方が使えないと思えば断られることもあり得るのだから、むしろ自分はこの手の仕事が向いてない、と九井が諦めてくれるかもしれない。

(と言っても…そうなると返済方法に行き詰まるんだけど…)

これから一千三百万という大金を、一人で返していかなくちゃいけない。本当なら仕事の選り好みをしている場合じゃないのかも。

「どうする?」

九井が柔らかい笑みを浮かべながら訊いてくる。その静かな声は、から未知の世界へ飛び込むという恐怖をなくしてくれた。
どんな仕事だろうと、これ以上の最悪を更新することはない。
ふと、そう思えた。

「…面接、受けてみます」

ハッキリ応えると、九井は満足そうに微笑んで「早速先方に連絡するよ」と、すぐに立ちあがった。


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