第四話:勘違いにするには熱すぎる



阿弥陀あみだの光も銭次第、とはよく言ったもんだな、と、手にした資料を見ながら蘭は思った。
仏のご利益もお供えする金額によるものから、お金の威力は大きいというたとえだ。

(まさか、あのが借金返すために風俗嬢になろうとするなんて、昔は思いもしなかったわ…)

懐かしい笑顔を思い浮かべると、深いため息が漏れる。
当時のは蘭にとって、まさに高嶺の花とも言えるような女の子だった。美人とまではいかないが、いつもほんわかした可愛らしい笑顔をふりまき、明るくて優しい、人気者の女の子。そんな印象だった。
たまたま、出先で自分の学校の女子が不良に囲まれてるのを見た時、暇つぶしで助けに入った。まさかその相手がクラスメートだとは気づかなかったし、あれほど感謝されるとも思っていなかった。
それ以来、何かにつけては話しかけてくるを、最初は少し疎ましく思っていた蘭も、自然体で接してくれるに少しずつ打ち解けていき、気づけば受け入れるようになっていた。自分を腫れ物扱いする他のクラスメートとは違い、は他の人と同じように笑いかけてくれる。そんな些細なことでも蘭にとっては嬉しかった。

――灰谷くん、何で昨日は休んだの?体調崩した?
――別に。面倒臭かっただけ。
――ダメだよ、ちゃんと来ないと。あ、これ昨日の授業内容をまとめたノートね。
――ハァ…?いらねえわ、そんなもん。
――ダメだよ。来週からテストだし、ちゃんと目を通して。
――チッ…めんどくせえ…
――舌打ちしない!あ、そのノート返さなくていいから。灰谷くん専用ノートなの。
――…あ?オレ専用って…何だよ。
――よくサボるから灰谷くん用に買っておいたの。だから無駄にしないでね。
――…マジ?

意外とお節介なところもあり、それが玉に瑕ではあったものの。
そんな風に自分のことを考えてくれる他人がいると思うだけで、学校も悪くないと思えた。
ちょっと助けただけなのに、不良の自分に感謝して、色々と世話を焼いてくれる女の子が初恋だったと、蘭が知ったのは会えなくなってからだ。
過失致死とはいえ、人を殺した時点で、への想いを封印したのは遠い過去の話。でも今、その過去が現実となって目の前に現れたのだから、さすがの蘭も未だ少し混乱していた。

(元々は親父の借金か…それを連帯保証人の母親がどうにか返済してたようだな。でも…亡くなる二年ほど前から返済が滞っている。利子が膨らんでいった典型だな…)

の引き継いだ借金の契約書や、その他の書類に目を通しながら、借金の全容を把握していく。
今は九井の会社に来ていた。のことで相談しようと思ったのだ。だが九井は不在ということで、書類を事務員から見せてもらい、今は九井の私室で待っているところだ。
蘭は出されたコーヒーを飲みながら、ホっと息を吐く。相変わらずいい豆使ってんな、と苦笑しながら、窓の向こうに見えるフロアを眺めた。
元々この金融会社は他人のものだった。それを梵天が奪った形で引き継いだのが二年前。現在は九井が組織の金を増やすために、力を入れてる会社の一つだ。の父親が借金をしたのは前の経営者がいた頃のことで、それを九井が引き継いで取り立てようとしているらしい。

――会社建て直すのにバタバタしてて、古い方の客を把握出来てなかったんで、今色々と確認してるとこで。

先日、九井が話してたことを思い出した。その確認作業で母親が亡くなり、返済が止まってたのことを調べて会いに行ったというところだろう。

「他にねえだろうな…」

九井でもまだ古い契約情報を把握してないのなら、新たに借金が出てくる可能性もある。
その時、コンコン、とノックの音がして、蘭はふと顔を上げた。

「蘭さん、九井代表がお戻りになられました」

ドアから顔だけだし、事務員が言った。そのすぐ後に九井が戻ってくる。代表なのだからこの部屋で悠々と書類仕事でもしていればいいものを、昨日も言ってたように、デカい金のことは自分で歩き回らなければ気が済まないらしい。

(金が嫌いって言ってたけど、あれ嘘だろ)

内心苦笑しながら、蘭は部屋に入って来た九井に「お疲れ」と声をかけた。


「――え?知り合い?あの子が?」

九井が戻ってから早速、昨日のことを――初恋相手というのは伏せたが――簡単に説明すると、九井は驚愕の表情を浮かべて固まった。

「ああ、まあ…だからってのも変なんだけど。アイツ、オレに預けてくんねえ?金のことは説得してオレが――」
「い、いや、ちょっと待って下さい!」
「…あ?」

蘭の話を聞いていた九井が突然慌て出し、顔面蒼白になっている。その反応を見て、蘭が怪訝そうに理由を尋ねようとした時、九井は怯えたように口を開いた。

「そのちゃんですけど、朝一でここへ来て、蘭さんのとこは断られたから他を紹介してくれって言われて…今、先方に案内してきたばっかっすけど…」
「……ハァ?!」

今度は蘭の方が顔面蒼白になる番だった――。


△▼△


目の前で胡散臭い笑みを浮かべている幸田という男は、を頭の先から足の先までジロジロと品定めするように見ている。その視線が不快だったものの、九井から新たに紹介されたのだから、逃げ帰るわけにもいかない。
結局、は家に帰ってから改めて悩みに悩みぬき、蘭の店で働くのはやめようと思い立った。蘭が心配して言ってくれたのは分かっているが、初恋相手というのを抜きにしても、やはり元クラスメートの元で風俗嬢として働くのは抵抗がある。そこでは九井に、蘭には「使えないと断られた」と嘘をつき、違う会社を紹介してもらったのだ。そこは風俗店ではなく、表向きイベント会社のようだった。

――知り合いの社長が可愛い子を探してるんだけど、そこはどう?風俗よりはギャラも下がるけど、まあ仕事の内容次第では稼げると思うよ。

九井にそう言われ、はすぐに飛びついた。風俗じゃない仕事もあるのか、と内心ホっとしたのだ。
九井には自分の嘘がすぐバレると分かってはいるが、こっちの仕事を始めてしまえば蘭もきっと諦めるだろうと思った。

「いやあ、九井さんとこの書類を見せてもらったら、えらい可愛い子がいるから、うちの事務所で使わせてもらえないか聞いてたとこだったんだけどね。うちはアダルト専門だし、難しいかと諦めてたんで来てもらえて嬉しいよ」

この会社の社長だと名乗った幸田は、更に顔を綻ばせながら書類を取り出した。

「えっと…アダルト…ですか?」
「うん。あれ…九井さんから聞いてない?」
「はあ…あまり詳しくは…」

応えながらも、内心やっぱりそっち系か、とガックリする。まあ借金の額が額だけに仕方ないとは思うものの、何をやらされるのかは気になってしまう。

「あの…わたしは何をすれば…」
「まあ、最初は簡単なとこからで、水着を着て写真を撮るのはどうかな?」
「…み…水着?」
「そう。今、新人のグラビアアイドル発掘したくて、いい子探してたんだよ。まあギャラは風俗より下がるけどね」
「グラビア…」

まさかの提案には驚いた。水着なんて学生の頃以来、着てないかもしれない。ただ、風俗に比べると水着は断然ハードルが低いと感じてしまうのは、昨日、とんでもないことが起きたせいかもしれない。ギャラが低いのは痛いが、まずは水着からというのが、気分的にもやりやすいように思えた。

「えっと…そのグラビアというのはお給料だと…」
「ああ、給料は一回写真撮るごとに一万くらいかなぁ」
「一回一万…」
「水着だとそれ以上はちょっと厳しいかな。交通費も千円までがギリギリ」

その説明と金額なら、とんでもない要求もされなさそうだ、とはホっとした。

「分かりました。お受けします」
「本当に?いや、良かった!じゃあ、早速、契約書出して、それにサインしてもらったら、すぐこの上のスタジオで宣材写真を撮ろうか」
「…せん、ざい?」
「ああ、宣伝用の写真だよ。契約書にサインしたら、君はこの幸田プロモーション所属になる。ウチが取ってきた仕事先に派遣されるから、その為の資料にもなるんだよ」
「はあ…」

がぼんやりと理解しながら頷くと、幸田が早速契約書の束を運んできた。

「じゃあ、ここにサインしてくれる?」
「はい。えっと…ここですか?」

分厚い書類と書かれている細かな契約内容を見て、は頭が痛くなった。元々こういう書類は苦手で、あまり目を通したことはない。
幸田は契約書の最後のページを指していた。は慌てて内容を確認しようとしたが、聞きなれない言葉ばかりが並んでいる為、読むのに時間がかかってしまう。

ちゃん~。スタジオも次の撮影の予定が詰まってるから急いでくれる?」
「は、はいっ。すみません…」

急かすように言われ、は慌ててボールペンを握ると、名前と日付の箇所にサインをした。つかさず幸田がその書類をすぐに取り上げると「じゃあすぐスタジオで撮影しようか」とソファから立ち上がった。
幸田に連れられ、はエレベーターで上の階に連れて行かれたが、その階にテナントは一つしか入っていないようだ。エレベーターを降りて細い通路を歩いて行くと、Aスタジオと書かれたドアがある。幸田はそのドアを開けてを中へ促した。余計な光を通さない為か、窓には黒い布がかけられ、太陽光を遮断している。全体的に薄暗い部屋にはカメラなどが置かれ、その後ろには背景を後から入れる為か、無地の白い布を張った壁がある。その前に椅子が一つ置かれていて、はそこへ座らされた。

「じゃあ、飯島ちゃん、お願いね」
「ういーす」

その声と共に、隣の部屋からキャップを逆に被った三十代くらいの緩そうな男が現れた。Tシャツにジーンズといったラフな格好だが、どうやらカメラマンらしい。飯島と呼ばれた男は欠伸をしながらカメラを覗くと、に向かって「笑顔ね」とひとこと言った。

「は、はい…」

とてもグラビアを撮る環境には見えず、は戸惑いつつ、カメラに向かって笑みを向ける。本音を言えば写真は苦手だったが、何でも嫌だと言っていたら借金は返せない。ここは言われた通りの仕事をこなすしかない。
飯島は座っているの写真を何枚か撮影すると「君、可愛いねー。二十六だっけ?もっと若く見えるよ」と、急に誉め言葉をかけだした。

「は、はあ…ありがとう…御座います」

カメラマンは被写体を誉めて、いい表情を見せた一瞬をカメラに収めると聞くが、これもその一環なんだろうか、と思いながら、は言われるがままに笑顔を作った。

「髪も染めてないの?綺麗な髪だよねー。サラサラだし、ウケも良さそう」
「…染めたことはありません。最近は美容室もサボり気味だし…」

以前はマメに毛先のカットを行っていたが、ここ数年は美容室代を浮かせるため、亡くなるまでは母にカットしてもらっていた。それでも染めたこともないおかげで、髪質はきちんと保てている。

ちゃん、だっけ。ビッチ臭もないし、いいよ。目も大きくて少し垂れ目気味なのが今はウケるんだよねー。ほら、いつの時代も癒し系は最強なんだよ。下手に美人でツンツンしてる女の子より断然ね」
「そう…ですか」
「髪はもう少し伸ばしてもいいかな。黒髪ロングって未だに人気でさー。その辺はヘアメイクさんと相談しながら決めようか」
「…はい」

ヘアメイク、と聞いて本格的な響きがした。少しホっとして緊張も和らいでくる。正直、ここへ連れて来られた時は「やっぱりやめます」と言いたくなったのだ。

(でもサインしちゃったんだよね…)

あまり契約内容を確認できなかったので、少し不安だったのだ。でも仕事内容は最初に説明された通りのようだ。

「はい、オーケーだよ。じゃあ次はその壁の前に立ってみて」
「はい」

言われた通り、壁の前に立つと、正面や横からのアングルなどを撮影し、そろそろ終わりかな?と思っていた時、その質問が飛んで来た。

「ところでちゃんのスリーサイズは?まだ聞かれてないよね」
「え…サイズ…ですか…」

いきなり男性からスリーサイズを訊かれた経験などないは、一瞬だけ言葉に詰まった。でもよく考えれば水着を着ると言っていた。そうなると当たり前だがサイズは測らなくてはならない。

「えっと…最近は測ってないので、よく分からなくて…」
「だいたいでいいよ。まあ、ちゃん、かなりウエストも細身だけど、胸はあるし…ああ、カップのサイズは?」
「え…」
「何カップ?」

飯島は普通の会話をするように尋ねてくる。特に他意は感じられず、は仕方ないとばかりに「E…です」と答えた。
元々はそれほどなかったカップのサイズが、高校を出る頃にはどんどんアップしてしまったことで、それまでの下着を捨てたことを思い出す。

「うん、いいね、大きすぎず小さすぎず理想の大きさ」

飯島はそう言いながら「じゃあ次は水着で撮ろうか」と言ってきた。は「え?」と瞠目して、いきなり水着?と少しだけ不安になってくる。薄暗いこのスタジオには、このカメラマン、そして後ろでは幸田が見学している。男だけの空間で水着になると考えると、急に抵抗を感じた。

「幸田社長、水着は?」
「ああ、そうだっけって、あー!急な話だったし水着、用意してないかもしれないな」
「え、マジで?」

そんなやり取りを聞きながら、は内心ホっと安堵の息を洩らした。覚悟は決めてきたものの、女性スタッフもいない場所での水着撮影は少し怖いものがある。

(って…昨日はイメクラで働こうとしてたのに、今更水着くらいでビビってたらダメだよね…)

ふと蘭のことを思い出し、心臓が大きな音を立てる。なるべく昨日のことは考えないようにしていたものの、思い出すと恥ずかしさがこみ上げてきてしまう。

(今夜来いって言ってたけど…すっぽかしたら怒るかな…灰谷くん…)

少しボーっとしていたらしい。不意に飯島が歩いて来ると、の肩へポンと手を乗せた。

「あのさ」
「は、はい」

ハッと我に返り、慌てて笑顔を取り繕うと、飯島はあっさり「今日は水着ないから下着姿になって」と、とんでもない要求をしてきた。

「え…?」
「同じでしょ、水着姿も下着姿も。だいたいの感じを撮りたいから、服は脱いでくれる?それでちゃんの価値が決まるから」
「……で、でも…ここで…ですか?」

当たり前のように言われて、戸惑いつつも尋ねると「オレ達だけだし気にしないで」と言われてしまった。いや、会ったばかりの、それも男二人の前でいきなり下着姿になれるほど、も図太くは出来ていない。
その時、蘭に言われた言葉が頭を過ぎる。

――知らないオッサンにされる覚悟あんの?

別にここで性的サービスを求められたわけじゃない。でも、実際知らない男の前で服を脱ぐことが、こんなにも抵抗あることなのかと、は心底実感していた。

(灰谷くんの言う通りだ…わたしは何も覚悟なんか出来てない…)

自分が情けなくなり、は拳を強く握りしめた。こうなることが分かっていたからこそ、蘭はやめろと言ってくれてたのだ。その気持ちを無下にしてしまったことを早くも後悔していた時、飯島がイライラしたように「どうした?早く脱いで」と急かしてきた。

「スタジオも時間制限あるんだ。ちゃっちゃと撮らないと」
「す、すみません…ここで脱ぐのは…」

どこか着替える場所を用意してくれていたなら、も諦めて水着に着替えるくらいは出来たかもしれない。だが男二人が見ているこの場で服を脱いで下着姿を見せるのは、やっぱり恥ずかしいという気持ちが先にくる。
が拒否をすると、飯島と幸田は互いに顔を見合わせた。

「いや、君お金欲しいんでしょ?日給一万。でも君ならもっと稼げると思うし、こっちは親切で言ってるんだけどなあ」
「す、すみません。でも――」
「現場じゃモデルさんは誰がいても平気で着替えるけどね」

どこか責められてる気分になり、すっかりの気持ちも落ちてしまった。これなら蘭の店で働かせてもらった方が、まだ良かったかもしれない。

「あ、あの…すみません。やっぱり、わたし…」
「契約したよね。サインしたでしょ、さっき。やめようなんて無理だから」

幸田に詰めよられ、は言葉に詰まった。確かに契約書にはサインをしている。

「きゃ」

その時、幸田がの体を背後から拘束してきた。

「飯島ちゃん、早く脱がして写真撮って」
「ちょ、ちょっと…幸田さん?!」

驚いて声を上げたものの、カメラマンの飯島は「はいはい」と苦笑しながら、の服に手をかける。それにはさすがに驚いてしまった。
無理やり脱がして写真を撮ろうとしている。

「や、やめて下さい!」
「あー動かないで。すぐ済むんだから」
「…いやっ」

幸田に羽交い絞めにされながら、飯島にトップスを捲られ、淡い色のブラジャーに包まれた胸元が露わになる。素肌に外気と、飯島の視線を感じて、は顔を思い切り背けた。

(誰か…助けて――)

写真を撮るだけ、と安易にサインしてしまった自分の愚かさを呪いながら、強引なことをしてくる男二人に恐怖を感じる。飯島がカメラを構えるのを感じて、は強く目を瞑った。
その時、スタジオのドアのところで突然、ガチャガチャとノブを回す音、その後にガンガンっとドアを蹴るような大きな音が聞こえてきた。驚いたのはだけじゃない。幸田と飯島もギョっとしたようにドアの方へ視線を向けた。

「な、なんだ…?」

と幸田が呟いた時だった。ドゴンっという音と共に、スタジオのドアがゆっくりと手前に倒れてくる。そして最後はドォォンっと派手な音を立てた。
どうやらに逃げられないよう、ドアには鍵をかけていたらしい。だが古いドアだったせいか、誰かが外から蹴り破ったようだ。当然驚いた幸田と飯島は、から手を離して身構えたものの。壊れたドアからゆっくりと中へ入って来た男の姿を見て、二人の顏が一気に青ざめた。

「ちょ…蘭さん…ビビらせないで下さいよー」

気の抜けた声を上げたのは幸田社長だった。カメラマンの飯島も「ちーっす!」と頭を九十度下げて挨拶をしている。その光景を見て、は唖然としていた。

「…灰谷くん…」

怖い形相でスタジオへ入って来た蘭を見て、の口からその男の名前が零れ落ちた。


△▼△


「テメェは何やってんだァ…?」

開口一番、蘭が不機嫌そうにを睨んだ。その迫力に「う」と言葉が詰まる。だがビビっているのはだけじゃなかった。

「おい、幸田と飯島ァ」
「「は、はいぃぃ!」」

さっきまでの緩い雰囲気など消し飛んだかのように、二人は顏を引きつらせながら直立不動で返事をしている。それを絶句しながら見ていたは、幹部としての蘭の立場が、相当上なのだと理解した。

「ソイツ、オレんとこの従業員なんだわ」
「……へ?」

蘭の一言で、幸田がまず先に間抜けた声を上げた。

「勝手に逃げ出してさあ。あれ…でも撮影してるってことは…もしかして無理やり契約書にサインさせちゃったー?」
「…っ!い、いえ、まだです!」

蘭の問いに、幸田が間髪入れず応えると、蘭はわざとらしいくらいの笑みを、その端正な顔に浮かべた。

「そ?んじゃあ…オレが連れ帰っても問題はねーな」
「全然!全く!問題ありませんっ」
「だってよ」

と言いながら、今度はへ微笑む。呆気にとられていたは、そこでハッと我に返った。慌てて乱れた服を直していると、蘭はの手首をがっしりと掴む。

「おら、行くぞ」
「え、あ、で、でも――」

と言いながら幸田の方を振り返った。さっき「契約はまだ」と蘭に言っていたが、はすでにサインをしてしまっている。このまま帰ってもいいのか、と少し心配になったのだ。ただ幸田の方はと目が合うと、思いきり首を振り、人差し指を口へ当てている。これは黙っててくれということだろう。
は小さく頷いてから、蘭に手を引かれてスタジオを出た。

「あ、あの…灰谷くん…?」

無言のままの手を引いて歩く蘭を見上げ、声をかけた。何となく背中が怒っているように感じたからだ。だが蘭は応えない。そのまま、エレベーターへ乗り込むと、ぐいっとの腕を引き寄せ、壁に押し付けた。

「テメェは何してんだよっ?」
「……う…(やっぱり怒ってた)」

怖い顔で見下ろしてくる蘭を見て、もしゅんと項垂れる。同時に、何故蘭がここへ来たのかと不思議に思った。十中八九、九井に聞いたのだろうが、わざわざ乗り込んでくるとは思わない。

「ごめん…」
「ココに嘘までつきやがって…オレの店が気まずいからって、あんな奴らのとこにのこのこ行くとかバカじゃねえのか」
「…あ、あんな奴らって…」
「さっきの奴らはオレんとこのアダルト部門の一部を任せてる下っ端だ。グラビアの写真撮るとか言って、最初はハードル低めに設定してっけど、最終的にはAV動画に出演させて稼いでんだよ。契約書にもそのことは書いてあるが、パっと見は分かりにくいよう功名に作ってある」
「え…AV…」
「しかも本番ありの裏動画な?」
「…っ?」
「ったく…だから言ったんだよ…ハァ…」

蘭は疲れた、と言って溜息を吐くと、壁に凭れかかった。走って来たのか、少し髪が乱れている。窮屈そうにネクタイを指で緩める蘭を見上げて、はもう一度「ごめんね…」と謝った。何故かは分からないが、蘭が自分の為にここまで来てくれたことだけは分かる。
蘭はふと視線をに向けると、かすかに目を細めて「これで懲りたろ」と言ってきた。

「世の中、美味い話なんかねーんだよ」
「うん…ほんとだね」
「分かったなら一人で勝手に動くな」
「…でも…仕事しなくちゃいけないし…」

そう言いながらも、は軽い眩暈を感じて、壁に手をついた。ここ最近はよく眠れず、常に借金のことを考えている。食事も二日ほどまともにとっていないせいか、軽い貧血のような症状だ。さっきの緊張状態から解放された途端、頭がクラクラしてきた。

「おい…?」
「ご…ごめ…ちょっと…」

と答えた途端、の意識は途絶えた。すーっと目の前が暗くなり、手足の力が抜けていく。緊張と恐怖、慢性的な寝不足が、限界を超えた瞬間だった。
床に倒れ込む前に、誰かの腕が優しく抱きとめてくれたのを、薄れていく意識の中で感じていた。
でもこれは夢だと思った。
この世で自分を受け止めてくれる人など、もはや誰もいないのだから。


△▼△


懐かしい夢を見ていた。
まだ父も母も家にいて、仲良く三人で食卓を囲んでいる頃の幸せな風景。
あの頃は笑顔が絶えず、常に明るい笑い声がリビングには響いていた。
あの頃はよくが父と母の分もコーヒーを淹れていて、美味い美味いと言ってくれて、良くおかわりを強請られたものだ。

――本当に美味いぞ、。将来バリスタになれ。

父に言われ、一時も真剣にバリスタを目指そうかと思ったこともある。でも好きなことだからこそ、仕事となると気が進まなくなり、そうそうに諦めた。

(あの頃は良かったな…家族皆が笑顔で暮らせてた…)

はこれが夢だと、どこかで分かっていた。あんな幸せな時間は、もう二度と訪れないことも。

閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。目を開けても、まだ夢の中にいるんだと思ってしまったのは、視界に入った光景が、あまりに現実的じゃないからだ。
真っ白く高い天井。そこからお洒落な照明器具がぶら下がっている。しかし室内を淡く照らしていたのは、木製の壁に埋め込まれたライトで、優しい暖色系の明かりは、どこか気持ちをホっとさせるものがあった。
昔、家族で住んでいた家のものと、どこか似てるからかもしれない。

(…これも夢…?それとも…わたしも死んでて、ここ天国なのかな…)

それならそれで悪くない、と思う。死んだなら、もう何も思い悩む必要も、孤独を感じることもない。お金のことも考えなくて済む。
でも次の瞬間、艶のある低音の声が聞こえて、を現実へと引き戻した。

「気づいたかよ」
「え……はい…っ?」

聞き覚えのあるその声に、は飛び起きた。そこで自分が見慣れない部屋の巨大なベッドに寝かされていたのだと気づく。三人で寝てもゆったり出来そうなフカフカのベッドだった。こんないいベッドで寝たのは久しぶりだ。体を包み込むような柔らかさが心地いい。
少し現実離れしている部屋のベッドの上で、が言葉を失っていると、そこへ蘭が近づいてきた。

「灰谷くん…?」
「ほら」

蘭はベッドの端に腰を掛けると、へコーヒーカップを手渡した。コーヒー豆の独特の香ばしさが鼻腔を刺激し、は思わずそのカップを手で包む。

「わたし…どうしたの?ここは…」
「オマエ、さっきエレベーター乗った瞬間、倒れたんだよ。さっき知り合いの医者に頼んで診てもらったら極度の貧血だと。ああ、んで、ここはオレんち」
「…え…灰谷くんち…?」

ギョっとして改めて室内を見渡す。センスのいい家具や照明は、言われてみると確かに蘭ぽい気がする。自宅と聞いて、の心臓が一気に動き始めた。
それに言われて気づいたが、確かに蘭の香水の香りがする。
勝手にドキドキしながら室内を見ているとは裏腹に、蘭は少し心配そうな顔でを見ていた。

「オマエは意識ねえし、とりあえず家が一番近かったから運んだんだよ。それより…」

と言葉を切り、蘭は呆れたように溜息を吐いた。

「オマエちゃんと食ってんのかよ。血糖値が異常なくらい低いっつってたぞ」
「あ…ここ二日、食欲なくて…」
「んなことだろうと思った…。そんなんだから貧血で倒れんだよ。今、食いもん頼んだから、届いたらそれ食え」
「え、で、でもこれ以上、灰谷くんに迷惑は――」
「もう遅いっつの。それにオマエはウチの商品になる。また倒れられる方が迷惑なんだよ」

商品、と言われて納得した。やはり現実なのだ。これからは多額の借金を返すために、蘭の店で働かなければならないのだと。

(こうなったら…もうどうにでもなれだ。灰谷くんのとこから逃げ出したところで、わたしにはどうすることも出来ないんだし…)

さっき騙されかけたことでも懲りた。知らない人間はやっぱり怖い。
ならば、恥を捨てて蘭のところで働いた方が、安心できるし生活も安定しそうだ。

「んで…本題だけど」
「…う、うん…」
「オマエの債権はオレがココから買い取った」
「え…?」
「一千三百万・年利15パーセントで間違いねえな?」
「う、ん…多分」

九井から貰った書類に確かそんな内容が書かれていたのを思い出す。だが問題はそこじゃなく。蘭がの債権を買ったということは、お金を返す相手は九井から蘭に移ったということだ。

「で、でも何で…そこまでしてくれるの…?」
「言ったろ。うちの店も人手不足なんだよ。ド素人のオマエの手も借りたいくらいな」
「…わ、悪かったわね。ド素人で…」

別にこの手のことはド素人でもいいはずなのに、どこかバカにされたような気分で、は口を尖らせた。それには蘭も軽く吹き出して笑っている。その無防備な笑顔を見て、の心臓が思わぬ音を立てた。

(その笑顔はズルい…)

今の蘭に昔の面影はあまりない。トレードマークだった三つ編みもガッツリ切られ、髪も短くなっている上に、色も金髪ではなく綺麗な若紫色に黒のメッシュ、首元には花札のようなタトゥーが入っている。
だけど、時折見せる無防備な笑顔は、昔の面影を色濃く残していて、当時の蘭への想いすら呼び起こしてしまいそうなほどの威力を持っていた。

「まあ…実際そういう素人っぽさは客に受けるからいい。でも内容まで素人じゃ困る。これは分かるよな」
「うん…まあ…」
「客も高い金払ってウチの店に来るんだから、それ相応のサービスはしてもらわないといけねーんだけど…」

と、そこで蘭は言葉を切った。そして手をの頬へと伸ばし、そっと触れる。その感触にドキリと鼓動が跳ねて、触れられた場所から一気に熱を帯びていく。蘭のを見つめる眼差しが、どこまでも優しいからだ。つい勘違いしてしまいそうになる。
だが、次の言葉に、は違う意味で顔が熱くなった。

「ってことで…明日から3か月、みっちりオマエを鍛えることにしたから。覚悟しろよ?」
「…き、鍛えるって……」

意味深に笑う蘭を見て、やっぱり水着を着てた方がマシだったかも、とは後悔していた。


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