第五話:本気でするには臆病な小指


蘭の店で働くことを決めてすぐ、は引っ越しを余儀なくされた。
というのも、蘭がを家まで送った際、今のオンボロアパートを見てセキュリティの皆無に絶句したからだ。

「こんなとこに、うちの従業員を住まわせるわけにはいかねーわ」

その蘭の一言で、は数少ない荷物をまとめ、すぐにアパートを引き払うことになった。あまりに急なことで大家にはぶつくさ言われたが、蘭が「敷金は返さなくていい」と言ったことで、急に機嫌が良くなっていた。やはり金の力である程度のことは動くんだな、と改めて実感した瞬間だ。
その後、は蘭に四十八階建てのタワーマンションに連れて来られた。最上階は全室、蘭と弟の竜胆が所有してるらしく、四部屋しかない最上階フロアの一室がに与えられた。最初は店の寮か何かだと思ったが、それにしては二百平米はある部屋が四つだけというのは豪勢すぎる。
それも一部屋、ということではなく、一戸丸ごとなのだから、驚くのも当然だ。
今までの環境が劣悪だったからこそ、余計にここは天国のように感じる。
まずエアコンがある。前のアパートでは後から取り付けたものが気持ち程度に設置されていたが、古すぎてあまり冷えない上に、最近は水漏れまでしていたので使えないことの方が多かった。普通は大家が修理費を出して直してくれるのだが、あの大家はその辺のことを頼んでも「直しますよ」と口ばかりで、一向に動いてくれなかったのだ。
でもこのマンションには、エアコンの他にはも使ったことがない食器洗浄機、風呂にはテレビにジャグジーやサウナが完備されている。洗濯機があるのもありがたい。コインランドリーに行かなくて済む。行くたび毎回ひとつは下着類が減ってるので、も困っていたところだ。

「ハ?それって下着盗まれてんじゃねーか」

蘭に雑談程度で話したら、物凄い不機嫌そうな顔で「女がんなとこ行くなよ」と言われてしまった。でもとて行きたくて行ってたわけじゃない。洗濯機が壊れ、新しいものを買えないから仕方なくだ。

「でも本当にここに住んでいいの…?」

部屋には通常の鍵しか設置されていない。が逃げようと思えば逃げられる環境だ。でも逃げても行くところはないので、蘭もその辺は全く考えていないようだった。

「いいから連れて来てんだろ。どうせ余ってたし」
「誰かに貸すとかしたらいいのに…って、あ…わたし、家賃は払えないけど…」

そもそもタワーマンションの最上階の一室がどれほどの家賃になるのか、想像すら出来ない。

「オマエから家賃とろうなんてケチなこと考えると思ってんの?いらねーよ。別に給料からも引かねえから安心しろ」
「え…でも…ここ寮ってわけでもないんでしょ?いいの?わたしだけこんな…」

いくら昔の知り合いでも、今度からは蘭の店で働く一従業員だ。特別扱いのような待遇を受けてもいいのかと疑問に思う。

「オレの店の従業員をあんな家に住まわせてたら、オレが安く見られんだよ。いいから黙ってオマエはここに住め」
「……うん」

蘭の言い分も分かるが、それにしても、と疑問は残る。ただこれ以上、何を言っても、がここへ住むことは決定事項のようなので、そこは納得せざるを得ない。ただ、急にこれまでの生活が逆転したような豪華な部屋なので、少し落ち着かずナーバスになっているだけだ。

「ああ、それと…これ渡しておくから必要なもんがあれば揃えとけ」

蘭はそう言ってスーツの内ポケットから銀行の名が入った封筒と、クレジットカードをへ手渡した。つい条件反射で受け取ったが、持った瞬間、封筒の厚みにギョっとする。

「え、これ…」
「現金ねえと何かと不便だろ。クレジットカードも持ってた方が信用度も変わる。それはオマエの名義でオレが作っておいたやつな。好きに使えよ」
「え、ちょ、ちょっと待って…。これも借金に加算されるとか…」

お金を返さないといけない立場の自分が、蘭からお金を渡され、はその可能性を考えた。だが蘭は思い切り顔をしかめながら、呆れたように溜息を吐く。

「ハァ?んなわけねえだろ。必要経費だよ。その金で自分を磨いて、店に貢献できる女になれってこと」
「…あ…必要…経費…」
「分かったなら、まずオマエは着替えて来い」
「え?」
「寝室のクローゼットに服が入ってっから。全部オマエのもんだ」
「……ぜん…ぶ?」

は戸惑いつつも、言われた通り寝室へと向かう。その部屋もただ寝るだけの部屋にしては広く、大きなベッドが奥にドンっと設置されている。ベッドカバーはオレンジ色のマリメッコのような大きな花があしらわれていた。

「うわ…可愛い。っていうか、これ灰谷くんの部屋のと同じキングサイズの…え、ここで寝ていいってことかな…」

木製の壁にもお洒落な照明が設置され、カーテンもベッド同様、南国のようなオレンジ色の可愛らしいカーテンが付けられている。他のインテリアはともかく、カーテンやベッドカバーなどはどう考えても蘭の趣味とは思えない。

「まさか…わたし用に替えてくれたとか…?」

は昔、オレンジ色の物を好んで、バッグや服を選んでいた。学校に持っていくトートバッグから始まり、文房具や、鞄に付けるアクセサリーまで、だいたいがオレンジだった。明るい色は気分を上げてくれるので、今も色の好みは変わっていない。ただ最近は無難に暗い色の服ばかりを選んでた気がする。原色系だと、それに合うものを別に揃えなければいけないことが多い。だからこそ、どの服にも合わせやすい黒やベージュを選びがちだった。

(まさか灰谷くん、覚えててくれたのかな…)

室内のいたるところにの好みが反映されてる気がして、は不思議に思った。

「あ、いけない…着替え…」

ボーっと部屋の中を見ていたが、思い出したようにクローゼットを探す。一見してそれらしい扉が見つからないからだ。ただ奥の方に普通のドアがあるのを見て、まさかこれ?と疑問に思いながら開けてみた。そして中を見た瞬間、またしてもはフリーズした。

「え…すご…」

そこはウォークインクローゼットと呼ばれる空間だった。普通に歩き回れるくらいの広さがあり、が以前住んでいたアパートの部屋くらいはある。

「…お、お店みたい…」

人一人住めるのでは?と思うような部屋を見て、クローゼットの域を超えていると、は呆気にとられてしまった。その中の棚には綺麗にディスプレイされたバッグや靴。その下にはカーテンのように様々な服が飾られている。春夏秋冬、それぞれ季節に合わせたものだ。

「え…この中から…選べってこと?」

一着一着、手に取ってみれば、どれも有名ブランドの物ばかり。一瞬、汚してはいけないという頭が働き、はパっと手を離した。ただ、蘭は「クローゼットの中のものは全てオマエのものだ」と言っていたことを思い出す。

「こ、これ…全部わたしの…?」

は困惑気味にきらびやかな服を眺めた。
その時、コンコンとノックの音がして、はふと我に返る。ドアを開けると、そこには蘭が「まだ着替えてねえのかよ」と言いながら、呆れ顔で立っていた。

「ご、ごめん…え、あの服…ほんとに着ていいの…?」
「いいって言ってんだろ。サッサと選べ」
「で、ででも…どんなのがいいの?」

あんなヒラヒラした服は、大人になってから着たこともない。そもそも、何の為に着るのかも分からないのだ。

「ああ、そういや行き先、まだ言ってなかったな」

蘭は言いながらも、ずらりと並ぶ服の中から、に似合いそうな比較的明るめのトップスとパンツ、それに合うヒールやバッグなどを、慣れた感じで選んでいく。

「これから美容室とエステに行くから、これに着替えておけ」
「…び、美容室とエステ…」
「これからは一カ月に一度、通ってもらうことになるからな」

蘭の説明を受けて、は本気で驚き、しばし唖然としてしまった。


△▼△


「え、兄貴が新しい女の子を連れてきた?」
「はい。ウチの店と、ソープ店と、AVの方とで合わせて五人ほど。全員、借金返済が目的だそうですが、どの子もなかなか質の高い子らしいです。ただ、一人全くのド素人だという子がいて、その子はウチに入る予定なんですが、すぐには使えないので三か月は見習い期間みたいですよ」

竜胆に淡々と説明するのは、このイメクラの店長、渡来わたらいだ。年齢は三十五歳。この道一筋のベテランのようで、蘭がどこかの店から引き抜いてきた人物だ。様々な事情を抱えた女の子の扱いが上手く、安心して店を任せられる男だった。

「蘭さんから聞いてなかったですか」
「ああ、オレ今日、名古屋出張から戻ったばっかだし」
「あ、そうでしたね。あちらのお店の方はどうでしたか?」
「あっちは風俗盛んだから、かなり黒字経営だよ。女の子も粒ぞろいでいい感じだったし、関西弁もいいけど、名古屋弁の女の子も可愛いよなァ」

竜胆はシミジミ言いながらニヤケている。
灰谷兄弟は都内だけじゃなく、地方都市でも数店舗の風俗店をオープンさせ、様々な形態のお店を持っていた。どの店も人気店に育っているのは、二人の手腕によるものだ。

「で、その兄貴が連れてきた子って、どれくらい質が高いの?まあ兄貴が直々に選んで来たなら、相当いい女なんだろうけど」
「ああ、その素人の子なら、さっき蘭さんと出勤してきて、今は個室にいます」
「へえ、でも素人ってことは色々指導しなくちゃいけねーじゃん。いつも通り店長がやんの」
「さあ…?まだそこまでは言われてません。蘭さんは彼女を連れてきてすぐ、他の用で出かけて行ったので。でも一時間ほどで戻るそうですよ」
「あーどうせ、女だろ。兄貴は夜忙しいから昼間に連絡してくる女が多いんだよ。じゃあ、その間、オレがその子の相手しとくか」
「あ、じゃお願いできますか?店のルールや雑務なんかも教えて頂ければ。部屋は6号室です」
「りょーか~い」

竜胆は気軽に引き受け、すぐに6号室へと足を向ける。最近は人手不足で、あちこち女の子を探し回ってたとは聞いているが、いったいどんな子を連れて来たんだろうと興味があった。

「どうせ兄貴が選んだなら、美人タイプかなー。華のある女選びがちだし」

この場合、個人的なタイプを選ぶのではなく、あくまで仕事で使えるかどうかがカギなのだ。

「オレ的にはふんわり不幸を背負ってるような、どこか陰のある和服美人とかもいいと思うけど」

独り言ちながら廊下の角を曲がり、一番奥にある6号室の前に立つ。とりあえず、もう一人のオーナーということで最初が肝心だと、竜胆は軽くネクタイを直してからドアをノックした。

「は、はい…」

中からか細い声が聞こえてきた。竜胆は「入るよ」とひとこと声をかけてからドアを開ける。すると、ベッドに座っていた女が慌てたように立ち上がった。

「え、あ…あの…」

蘭じゃないことに驚いたらしい。戸惑い顔の女に、竜胆は自己紹介をした。

「どーも。オレはもう一人のオーナーで灰谷竜胆。君が新人さん?」
「り、竜胆…って、あ…はい。と言います」
ちゃん、ね。ああ、オレ、君をここに連れてきた灰谷蘭の弟。聞いてない?」
「き、聞いてるというか…はい、わかります…」

少し動揺しながらも頷くに、竜胆は「座っていいかな」と隣を指さした。

「ど、どうぞ…」

やけに緊張した様子で応えると、も元の場所に座り直している。竜胆は中へ入り、ドアを閉めるとの隣へ腰を下ろした。ついでに改めて隣のを見る。想像してたタイプとは違ったことで、竜胆も少し驚いていた。

(何か…兄貴っぽくねえチョイスだな…。ほんわか不幸顔のような、でも童顔で可愛らしいタイプだし…。ま、でもスタイルはいいな。細身のわりに出るとこ出てるし…素人っぽさが人気でそう)

一瞬の間にを見定めると、まずは雑談で相手の緊張を解そうと「何か飲む?」と言いながら、冷蔵庫を開けた。そこには客用にちょっとした酒類などが入れられている。

「あ…じゃあ…頂きます」
「ビールでいい?」
「え、あ…はい」

竜胆はと自分の分の缶ビールを出すと、そのまま彼女に渡した。

「じゃあ、まずは乾杯」
「は、はい」

互いに缶を軽く合わせると、それを一口飲む。はゆっくり飲みながら、軽く息を吐き出した。やはり緊張が強いのか、少し顔は青ざめているものの、竜胆からすると、そこがまた地味にそそるものがある。

「兄貴から色々と店の説明は受けた?」
「はい…だいたいのことは」
「この手の仕事、初めてなんだって?大丈夫そう?」
「…えっと…分かりません。でもご指導いただければ…」

そう言って顔を上げたと目が合う。その恥ずかしそうに頬を赤らめる従順そうな様子に、竜胆の中で心臓がきゅっと音を立てた。

(この子…可愛いな…)

素人っぽさといい、風俗のことを何も知らない無垢な感じがたまらない。自分が何とかしてやりたいと思わせる雰囲気もいい。そこが客受けしそうだ。

(ご指導…したいかも)

と、竜胆の頭に邪な考えがチラっと過ぎる。

「あー…三か月は見習いなんだっけ」
「…はい。灰谷…オーナーがその間に色々覚えろって…具体的にはその…何をすれば…」
「…具体的…」

それを聞かれて、竜胆の脳内に再びエッチな光景が浮かぶ。
そもそも本番なしのこういう店は、相手の要望を聞きながら手や口でサービスをし、客も女の子の体を好きに触ることが出来る。要は本番さえさせなければいいのだ。

「えっと…だっけ」
「はい」
「いくつ?」
「…二十六です」
「え、オレの一つ上なんだ。見えねー」
「そ、そうです、か…?」
「うん。てっきり下かと思ったわ。兄貴と同じ歳なんだな」
「…はあ」
「ああ、でも二十六なら…それなりに経験はあるよな?」
「え…?」
「だから…エロいこと全般というか、性的な行為のこと」
「……はぃ」

が竜胆の問いに耳まで赤く染め、恥ずかしそうに頷く。その顏がやたらと竜胆の色んなところを刺激してくる。ただ会話しているだけなのに、こうもムラムラさせられるのはかなり久しぶりだった。これまでの子達は、やはり借金を返すという目的の為、と割り切った子の方が多かった。あからさまに恥ずかしがるような子は、そもそもこういった店には来ないかもしれない。

(兄貴のヤツ…いくら借金があったとはいえ、こんな子をどうやって口説いたんだ?)

店長の言う通り、はこういう仕事が全くのド素人らしい。蘭が三か月は見習いだと決めたのも頷ける気がした。

「じゃあ、これから客に対して、どういう行為をするのか教えるけど、いい?」
「え…」
「オレを客に見立ててサービスしてくれる?」

半分は仕事。残りの半分は竜胆のスケベ心が多少…いや、かなり入っている。
けれども、指導をしなければいけないのは、オーナーとして当然の権利だ。
竜胆の言葉に、は半分覚悟はしていたんだろう。小さな声で「分かり…ました」と素直に頷いた。

「じゃあ、そこのコスプレから…そうだな。婦人警官の制服着てくれる?」
「え、あ…これ、ですか」

が立ち上がり、衣装を手にする。何故婦人警官かというと、のイメージに最も遠いからだ。こんな可愛らしい警官なら捕まってもいいくらいのギャップが生まれそうだと思った。

「うん、それ」
「分かり…ました」

露出が少なくてホっとしたのか、がその衣装を手にカーテンで仕切られただけの試着室へ入った。そこら辺は蘭から教えてもらったのかスムーズだ。
いつになく落ち着かない様子で竜胆が待っていると、少ししてが試着室から出てきた。そして彼女のコスプレ姿を見た竜胆は、飲みかけのビールを吹きそうになった。

(か…可愛いじゃん。めちゃくちゃドストライク…!)

婦人警官の衣装とは言っても、そこはやはりスカートも短めで、上の制服は少し小さめとなっている。なので体のラインはしっかり出ていて、かつキッチリとした雰囲気もあるため、そのギャップもの雰囲気と相まって、かなり可愛く仕上がっていた。

「へ…変でしょうか」
「……え?あ、いや…」

竜胆が何も言わないことで不安に思ったらしい。がおずおずと訊いてきた。

「変どころか、すげー可愛いし似合ってる」
「え…そ、そう…ですか?」
ちゃん、可愛いタイプだから、そういうキッチリしたのが逆にそそるわ」
「……は、はあ。ありがとう…御座います」

はどこか複雑そうな顔ながら、お礼を言った。

「それで…この後は何を…」
「え?あ、あー…じゃあ…オレの前に座って」
「え、座る…」
「うん。それで…まずは服を脱がす練習」
「ぬ、脱がす…?」
「そう。まあ自分で脱ぐ客もいるけど、脱がして欲しいって客もいるから、その時の対応もキッチリして欲しいし。まあ、聞くより実際にやった方が分かりやすいだろ」
「…はい」

竜胆の説明に納得しつつ、は言われた通り、ベッドに腰を掛けている竜胆の前に、膝をついた。それだけで少し厭らしい体勢だ。

「じゃあ…ベルト外すとこから始めて」

個人的に少し楽しんでいる自分を感じながら、竜胆が下半身の方を指さすと、さすがにも恥ずかしそうに視線を泳がせている。それがむしろ可愛くて、竜胆のツボにガンガン入ってきた。

「え、えっと…じゃあ失礼します…」

は覚悟を決めたのか、軽く深呼吸をすると、竜胆のベルトへ手をかけた。


△▼△


「やーべ…遅くなった…」

最後の女のマンションを出た蘭は、スマホの時計を確認してから軽く舌打ちをした。
予定では、あと三十分は早く戻るはずだったのだ。

(ったく、あんなにゴネるとか予想外だったわ…)

先ほど「絶対に別れない」と言い張っていた女達を思い出し、蘭はげんなりしながら溜息を吐いた。別れるも何も、その女達とは付き合っていたわけじゃない。割り切った大人の関係だと思っていた。だが今回、蘭はそういった遊びの女達と手を切ろうと思い立ち、今日は一人ひとりと会って話をつけてきたのだ。どの女も梵天の仕事がらみで知り合ったが、全員恋人がいる女達だった。彼女達からすれば、蘭は浮気相手であり、火遊びのはずだ。なのに、いざ「もう会うのやめるわ」と言った途端、物凄い執着を見せられ、蘭の方が驚いた。

(恋人いた方がこういう時に楽かと思ったが…結局同じかよ…)

女心はよく分からないと思いつつ、蘭はすぐに車で自分の店へと戻った。一応、店で働く流れになったを指導するという名目で、美容室とエステの後に店へ連れて行き、個室で待たせてある。

(さて…どうすっかな…。どうにか折れさせないといけねえけど…アイツ頑固だし…やっぱアレでいくしかねーか…)

あれこれ考えながら店に入り、受付にいた店長の渡来へ「戻ったぞ」と声をかけた。

「お帰りなさい、蘭さん」
「ああ、は?ちゃんと待ってる?」
「はい。ああ、でもさっき竜胆さんが来て、新人が来てると話したら、会いに行きましたよ」
「…は?竜胆が?」
「蘭さんが戻るまでオレが相手をしておくと…」
「…げ」
「あ、蘭さんっ?」

一気に走って行く蘭を見て渡来は呆気にとられたように見送っていた。


△▼△


(ど、どうしよう…これ…本当にいいの…?)

震える手で竜胆のスラックスのジッパーを下ろしながら、は心の中で自問自答していた。竜胆が蘭の弟だというのは、もちろん知っていたが、こうして顔を合わせるのは初めてだ。最初、竜胆が入って来た時は凄く驚いたし、緊張もした。蘭と同じような若紫色に黒のメッシュ、マッシュウルフという可愛らしい髪型の竜胆は、蘭よりも気さくな感じで話しやすい雰囲気がある。ただ、まさか竜胆にこの手の指導をされるとは思っていなかったので、はかなり動揺していた。いくら何でも、初恋相手の弟に、性的サービスの練習台になってもらうことになるなんて、恥ずかし過ぎる。

「あ…す、すみません…っ」

ファスナーを下げる際、微妙な部分に手が触れてしまった。の顏が一気に熱を持ち、何なら耳まで熱い。だが竜胆は怒るでもなく「いや…別に…」とモゴモゴ言いながら、最後に「…やべ…」と呟いた。

「え…?あ、痛かったですか?」
「…あ?いや、痛いわけじゃなく…」

と竜胆が視線を下げる。も釣られて視線を下げると、下ろしたファスナーの辺りが、さっきよりも膨らんでいるように見えた。

「え…」

まだ何もしていないのに、竜胆の体が反応していることに驚く。竜胆は「いや、がそういう顔すっから」と苦笑交じりで言った。

「か、顏…?」
「そー。真っ赤だし、そんな恥ずかしそうな顔で、しかも震える手でファスナー下ろされたら、男はそれだけでムラムラしてくんの」
「ご、ごめんなさい…」
「いや、謝るとこじゃねえから」

素直なに苦笑しながらも、竜胆は彼女の両肩を掴んだ。

「つーことで…これ静めてもらってい?」
「…えっあ…」
「それがの仕事」
「そ…そ、そうです…ね…」

竜胆に言われ、本来の仕事を思い出す。やはり、そこは避けて通れないようだ。今ここで出来ないのなら、当然この店では働けない。

(灰谷くんがせっかくわたしに投資してくれたんだもん…頑張らないと…)

マンションや、服、美容室にエステ。全てが先行投資だと蘭に言われたことを思い出す。綺麗な服を着て、綺麗な部屋に住めば、気持ち的にも明るくなるし、美容室やエステで自分を磨けば更に前向きになれる。そういう気持ちを持て、と蘭は言ってくれてるのだ。

(それに弟さんだって、こうして協力してくれてるわけだし…わたしは早くプロになってお金を稼いで借金を返さなくちゃ…)

は恥ずかしいのを堪えて、覚悟を決めると、恐る恐る竜胆の下半身へと手を伸ばす。
その時だった。個室のドアが勢いよく開き、「!」と大きな声と共に蘭が飛び込んできた。

「あ…兄貴…?」
「灰谷くん…」
「…あ?灰谷…くん?」

竜胆はの言葉にギョっとした。オーナーのことをくん付けで呼ぶ従業員はいない。まさか、という思いが過ぎり、竜胆が蘭の方へ視線を向ける。そして血の気が引いた。

「何やってんだ、テメェら…」

そこには死ぬほど不機嫌そうな蘭が、息を切らせて立っていた。


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