第七話:否定をするには曖昧な口元
が店を飛び出した頃、竜胆もちょうどビルの一階で電話をしていた。イメクラの店長、渡来と散々蘭の女関係について語り合った後、部下から電話が入ったので、今から自分の経営する店へ向かうところだ。
「おー。んじゃ十分後な」
竜胆は電話を切って、エントランス前に横付けされた車へ乗り込もうとした、その時。ビルから婦人警官の恰好をした女が飛び出してくるのを見てギョっとした竜胆は、それが先ほど会ったばかりのだと気づき、慌てて追いかけた。そんな恰好で街中を歩かせるわけにもいかない。
「おい!何してんだっ」
「…ひゃ」
高いヒールを穿いていたせいで、竜胆はすぐに追いついた。腕を掴むと、は驚いた様子で振り返る。その顏は涙で濡れていた。
「な…何で泣いてんだよ…ってか着替えは?」
「え…あ…」
竜胆に引き留められたことに驚いた顔をしていたも、指摘されたことで改めて自分の恰好に気づいたようだ。耳まで赤くして「わっ」と声を上げている。服の中は当然、下着類は身に着けていないのだ。
「どど、どうしよう…着替えるの忘れちゃって…」
「忘れたって…兄貴は?」
「……知りません」
竜胆が蘭の名前を出した途端、はプイっと顔を反らした。その様子を見れば、と兄の間に何かあったということだけは分かる。ただ着替えを忘れるくらいを動揺させたのは蘭らしくない。稼いでくれるキャストの女達には蘭も色々気遣うほどに、普段は優しいからだ。叱りつけて彼女達のモチベを下げるようなことは一切しない。どれだけ彼女達の働く意欲を上げるかどうかが大事なんだと、蘭は日頃から竜胆や各店舗の店長にも言っている。その蘭がを泣かせるというのは、竜胆もあまりピンとはこなかった。
「と、とにかく車に乗れ。そんな恰好でウロつくのはマズい」
「は、はい…すみません…」
謝りながら、は竜胆に促されるまま、車の後部座席に乗り込む。だがビルの前に長々と止めておくのも目立ちすぎるので、竜胆は運転手に「適当にその辺りを流せ」と命令した。
車が発車するのと同時に、蘭がビルから飛び出してきたことなど、竜胆には知る由もない。
「で…何があったわけ?兄貴と」
「え…?」
「何かあったんだろ。そんな恰好で飛び出してくるくらいには」
「えっと…」
は竜胆の問いかけに、気まずそうな顔で目を伏せた。確かに蘭と何かあったというならばあったのかもしれないが、それを弟に話していいものかと悩む。何せ客へのサービスの練習をして「下手くそ」と言われてしまったのだから、としては恥ずかしいことこの上ない。
「ちょっと…叱られただけです」
「…え、兄貴に?」
「はい…わたしが素人みたいなサービスをしてしまったので…」
その説明に、竜胆は何となく内容が分かった気がした。ただ、それでも蘭がを叱るというイメージが湧いてこない。彼女は「素人みたい」じゃなく、完全に素人なのだ。最初から上手く出来るはずもない。
見ればはすっかりしょげている。モチベは駄々下がりだろう。キャストをここまで追い込むような叱り方を、蘭がするとは思えなかった。
「ちゃんさ」
「はい」
「兄貴と何かあんの?」
「え…?何かって…」
「だから…ほんとに元クラスメートってだけかなと思って」
「…そう、ですけど…」
竜胆の問いに素直に応えるは、嘘を言っているようには見えない。では何故、蘭の態度が相手だと普段と違ったものになるんだ?という疑問が残る。
(まあ…いいか。それは後で兄貴に直接聞きゃいいしな。も本気で分かっていないようだし、ここは一先ず家に送るとするか…)
その前に竜胆は蘭にメッセージを送った。勝手に連れて来てしまったので、簡単に状況を説明しておく。すると意外なことに、蘭が『今からオレも行く』と連絡がきた。一人のキャストにここまでする兄を、竜胆は見たことがない。
(やっぱ…知り合いだから?でも…それにしては手をかけすぎじゃね?)
隣で項垂れているに視線を向けつつ、竜胆は首を傾げた。
思うことは色々あれど、とにかくをこの恰好のままにしておくわけにもいかない。まずは家に送っていこうと、竜胆はなるべく優しく声をかけた。
「とりあえず送るから、ちゃんの家はどこ?」
「あ…家は…」
と何故か逡巡しながら、は「竜胆さんや蘭さんと同じマンションです」と答えた。それにはさすがに竜胆も「は?」と乾いた声が出る。
同じマンション、とはどういうことだ?と思ったが、は困った様子で溜息を吐いた。
「やっぱり蘭さんに何も聞いてなかったんですね…」
「え、ちょっと待って。どういう…」
「えっと…実は…」
は何も知らない様子の竜胆に、自分が何故、そのマンションに住むことになったのか、経緯を説明していった。
「…は?じゃあ…あの空き部屋に引っ越したってことかよ」
竜胆にとってはまさに寝耳に水状態だった。確かに空き部屋はあったし放置しておくのもな、とは思っていたが、まさか蘭が勝手にを住まわせたことは、驚きを通り越して唖然としてしまう。
しかもには「先行投資だ」と言ったようだが、他の店舗にも沢山いるキャストに、これまでそんな投資をしたことは一切なかったはずだ。なのに蘭はに特別な待遇をしている。これは少しおかしいという問題じゃない。
かなりおかしい部類に入る。
「えーっと…何度も聞くようで悪いんだけどさ…」
「…はい」
「マジで兄貴とは何もない?実は元カノだけど…言いにくいから隠してるとか…」
「い、いえ!ないです…本当にただのクラスメートだったし…」
「あ…そう…」
慌てたように言い切るは、どう見ても嘘をついているようには見えない。彼女は本当に蘭のクラスメート、という立場だと思っている。ということは、やはり蘭の方に聞かなければ、この特別待遇の理由は分からなさそうだ。
とりあえず、今はをマンションまで送って行って、蘭に直接聞くしかない。
「じゃあ…マンションまで送るよ」
「…はあ。すみません」
顔を引きつらせつつ声をかけると、は申し訳なさそうに頭を下げる。
もう涙は止まったようで、竜胆も内心ホっとしていた。
(それにしても、やっぱ可愛いよな…少し憂い顔なのがまた服装とミスマッチでそそるし…)
未だに婦人警官の恰好というのもあり、つい竜胆の視線は剥き出しの太腿へ向いてしまう。中は何も着ていないと思うと、さっき感じた欲が生まれそうになるのを必死でこらえた。
は自分の服とバッグを両腕に抱きしめたまま、黙って窓の外を眺めている。頬に残る涙の痕が痛々しい。
(ったく…兄貴も昔の知り合いだからって泣かすほど叱らなくても…。だいたい特別扱いしてんなら、いつもみたいに優しくしてやりゃいいのに)
いつになく、竜胆もそんなガラにもないことを思いつつ、ふと先ほど渡来に話したことを思い出した。
「あ、そーだ。なあ、ちゃんって兄貴のクラスメートだろ?なら知ってる?」
「え…何を、ですか?」
「授業の内容をまとめたノートを兄貴にあげてた子」
「…え、ノート?」
少しでも空気を明るくしたくて、何かにも分かるような話題を、と考えてみた結果、それを思い出して訊いてみた。竜胆自身、ノートのことが気になっていたのもある。それとと蘭の様子を見ている限り、それなりに親しかったようにも見えたので、もしかしたらと思ったのだ。
「そう。何か普通の地味なノートじゃなくて、色つきの可愛い感じのノートなんだけどさ。ちゃん、知らない?」
竜胆の問いに、は少し戸惑ったような顔をしながらも「えっと…」と視線を泳がせた。
「そのノートは多分…わたしが灰谷くんに渡したものです…」
は少し恥ずかしそうに答えた。
「…は?マジで?」
「灰谷くん、よく休みがちだったから…でも…どうして竜胆さんがそれを知ってるんですか?」
首を傾げつつ、今度はが質問した。だが竜胆は「やっぱそうか…」と独り言ちながら、何となく今回のに対する異例な待遇の理由が見えてきた気がした。ただやはり"まさか、兄貴に限って"という思考が働く。
「あの…竜胆さん…?」
「ん?ああ…ごめん。えっと…何だっけ」
急に竜胆が黙ったのを見たが、少し不安そうに「ノートの話です」と答えた。
「ああ…」
「何でノートのこと…」
「そりゃ…兄貴の部屋で見たから――」
と、そこまで言ってから竜胆は口を閉じた。これは何となく言ってはいけない話だった気がしたのだ。でもにはしっかり聞こえていたらしい。「え…」と酷く驚いた顔で竜胆を見上げた。
「じゃあ灰谷くん、あのノート持って帰ってくれてたんだ…」
もまた独り言のように呟き、顔に笑みを浮かべた。それは自然に零れ落ちたもので、どこか嬉しそうにも見える。
「てっきり捨てられてると思ってた」
「……」
ふふっと笑うを見て、竜胆は何も言えなかった。確かにあの頃、蘭は色んな物を貰って来ていたが、大半はの言う通り捨てていたはずだ。でもあのノートだけは大事そうに棚の奥へとしまっていた。
(やっぱ…兄貴はこの子に特別な感情があったってことか…?そして多分…ちゃんも…)
の様子を見て、竜胆はありえないと思いながらも、そんな答えを出した。あの蘭が、クラスメートの女の子のことを少なからず好意的に思っていたという事実に驚く。
そしてこの後、慌てた様子でマンションに戻ってきた蘭を見て、竜胆は確信することになった。
△▼△
キュっという音と共にシャワーの水栓を止めると、はホっと息を吐き出した。竜胆に送ってもらい、部屋に戻ったはすぐにコスプレ用の衣装を脱ぎ、バスルームに飛び込んだ。涙で濡れた顔を丸ごと洗い流してしまいたかった。
「ハァ…スッキリした」
バスタオルで髪を吹きながら、ホっと息を吐くと、脱衣所のクローゼットにかけられてるバスローブを身に纏う。肌触りが最高で、そのふわふわした感触を堪能しながら、大きなキッチンへ向かった。そこに設置されている業務用かと思うほどの冷蔵庫から冷やしたグラスを取り出すと、ウォーターサーバーから水を注ぎ、それを一気に飲み干した。ただの水なのに美味しくて、はもう一杯グラスに注ぐと、そのままソファに腰をかける。広いリビングには傾いた太陽光が差し込み、まるでドラマの中で描かれる空間が仕上がっていた。
「…ここも出て行かないとなあ」
ふと現実に戻り、そんな言葉が零れ落ちる。蘭のおかげで住む家を提供してもらったものの、先ほどの自分の失態はさすがにアウトだろうと思った。
きちんとサービスも出来なかったうえに、蘭に「下手だ」と言われただけで怒鳴ってしまったのだから、さすがにクビかもしれないなと思った。
いや、向こうも借金を返してもらわなければいけないのだから、クビじゃないにしても、もうイメクラでの仕事は無理だろうと呆れられているかもしれないし、最悪、AV動画に出ろと言われかねない。
「…さすがに動画は嫌だな…」
と言って、風俗でのサービスが向いていないのならば、他はそれくらいしか多額の借金を返す方法が分からない。
はバッグの中から、先日貰った名刺を取り出した。そこには"幸田プロモーション"と書かれている。蘭が乗りこんできた例の下っ端がやっているという事務所だ。それともう一枚、高倉健太と書かれた名刺もある。こちらもアダルト系の動画を扱っていると話していた。
「うーん…確か…契約するなら三百は出すって言ってたっけ…」
それでも借金全額には届かない。ただ多少は減らせると考えれば、つい連絡してみようかという気になる。問題は、どちらも蘭の部下だということだ。
「やっぱり…灰谷くんに聞いてみないとダメか…」
上司を無視して下っ端の彼らがを雇うとも思えない。ここは気まずいが蘭に謝罪して仕事の相談をするしかない。
そう考えていた時、部屋のインターフォンが鳴り響いて、の肩がビクリと跳ねた。
(誰…?まさか…灰谷くん?)
がここにいることを知ってるのは蘭と竜胆しかいない。それもエントランスではなく、部屋の前からインターフォンが鳴ったということは蘭以外にいなかった。
はすぐに玄関まで行くと、ドアスコープを覗こうとした。だが同時にドアが開き、置こうとした手が空を切る。当然、体が前のめりに倒れそうになった。
「わ…っ」
「…っぶね」
ぽふっという音と共に体が受け止められ、は慌てて顔を上げた。
「何やってんだ、オマエは」
「は…灰谷くん…」
思った通り、尋ねて来たのは蘭だった。
「ご、ごめん…」
蘭に抱き着く格好になったことで、はすぐに体を離した。さっきの今ではかなり気まずい。だが蘭の方はしかめっ面で玄関にを押しやると「そんな恰好で出てくんじゃねえ」と言いながら後ろ手にドアを閉めた。
自分の恰好を見下ろしてみれば、未だバスローブ姿。は慌てて前を掻き合わせた。
「シャ、シャワーに入ってて…」
「…竜胆は?」
「え?」
「竜胆に送ってもらったんだろ。アイツはどうした」
蘭は竜胆もいると思っていたらしい。リビングを見渡している。
「竜胆さんならわたしを送った後で仕事に行った…」
「…そうか」
弟がいないと分かると、かすかに息を吐いた蘭はキッチンに足を向けた。そして先ほどの同様、冷蔵庫からグラスを取り出し、勝手に水を飲んでいる。
「あー…疲れた…」
言いながらソファに腰を下ろした蘭は、膝に腕を起きながら項垂れている。
どうやら店からマンションまで急いで駆けつけたらしい。珍しく襟元を崩して、ネクタイも邪魔そうに指で引き抜いている。しかしはそんな様子には気づかず、てっきり蘭が怒って追いかけて来たのだと思っていた。
「あ、あの…灰谷くん…」
「…あ?」
蘭が項垂れていた顔を上げると、は隣に座って「さっきはごめんね」と謝った。理由がどうであれ、オーナーに対して酷い態度をとってしまったことは間違いない。
だが蘭はキョトンとした顔でを見ると「何でオマエが謝んだよ」と苦笑した。
「だ、だって…わたしが上手く出来なかっただけなのに言い返しちゃったし…」
「あー…」
蘭は天井を仰ぎながら笑うと、軽くの頭へ手を置いた。
「別に…オレが言いすぎただけだし…つーか…あんなことくらいで動揺して焦った自分に焦っただけっつーか…」
「…え?」
一人納得して苦笑している蘭は「悪かったよ、下手くそとか言って」とへ視線を向けた。それには恥ずかしさで頬が熱くなる。練習の為とはいえ、初恋相手に性的な行為をしたという事実が、の羞恥心を呼び起こさせた。
「別に本気で言ったわけじゃねえから」
「い、いいよ、そんな…慰められるのも恥ずかしい」
「…まあ…そうだな…」
「それより…やっぱりわたし、クビだよね」
「…あ?」
「その…風俗じゃ使えないでしょ、わたし…」
「…いや、別にオマエは…」
店に出す気はない、と言おうとした。だがが蘭の腕をガシっと掴み「やっぱり動画とか出た方がいい?」と蘭の顔を覗き込む。それにはちょうど水を飲もうとした蘭も吹きそうになった。
「ゴホッ…な、何言ってんだ、オマエ…」
「え、だって…お店がダメなら…もうそれしか借金を返す方法ないし…」
「ダメとか言ってねえだろ…ったく…」
シュンと項垂れているを見て、蘭は深い溜息を吐いた。
風俗で働かせる気もないのに、動画になど出すはずもない。でもは上手く出来なかったせいで、それしかないと勘違いしたようだ。
「え…じゃあまだクビじゃないってこと…?」
「あー…まあ…」
涙で潤んだ瞳を向けてくるに、蘭の言葉が詰まる。
の方からアダルト系は無理だと諦めて欲しかったが、本人はすっかりその仕事で金を返す気でいる。
「オマエ…別の仕事はする気ねえの」
「…別の仕事?」
蘭が思い切って聞いてみれば、はキョトンとした顔をした。そしてすぐ頬を赤らめる。
「や、やっぱり…動画?」
「違う!つーか一旦アダルト系から離れろ」
「え…で、でも借金返済にはそっち系の仕事じゃないとダメでしょ…?」
呆れ顔で言う蘭に、もつい口を尖らせた。一千万以上もの借金では普通の仕事じゃ何年かかるか分からない。債権者になった蘭にも迷惑が掛かるのは嫌で、としては早く返してしまいたかった。
しかし蘭は「ダメってことはねえだろ」と笑う。
「とりあえず家賃と光熱費はここに住んでりゃかからねえし、まあ…普通の仕事でもいいんじゃねえの?」
「あ…」
「人が生活するに当たって一番金額のデカいのが家賃だ。でもそこがクリアなら、そんなに生活費かかんねーだろが」
「そ、そうだけど…じゃあ…どんな仕事すればいいの…?」
「あ?どんなって、だから…」
と言いつつ、蘭も首を傾げる。が納得してくれそうな働き口を思い浮かべてみたものの、自分が任されている仕事の殆どがアダルト系なので、脳内が女の裸で埋まっていく。
「あー…じゃあ…オマエはあれだ。オレの…店の裏方やれ」
結局思い浮かばず、蘭はキャスト以外の仕事を提案してみた。そっちも人手不足だと部下からせっつかれていたのを思い出したのだ。
裏方でも風俗店なのでキツイ仕事ばかりだが、実際にサービスするわけじゃないので、蘭としても安心だ。
「え、裏方って…」
「だから…客が来たら案内したり、注文が入ればそれを運んだり、個室を片付けたりする仕事だよ」
「え…で、でもそれじゃ給料も低いでしょ?それで借金返すのは…」
「バーカ。言ったろ?家賃も光熱費もかからねえし、生活費だけでパンパンだった前の状態とは違う。それにうちの店は裏方でもその辺のリーマンより給料は高ぇよ。人気店だからな」
「裏方…」
にとっては願ってもない仕事だ。給料もそこそこ高くて、性的サービスをしないでいいなら、それに越したことはない。
「それとも…オマエはあれか。風俗店やAV動画でデカく稼ぎたいのかよ」
蘭の意地悪な質問に、は大きく首を振った。好きでやろうとしてた仕事じゃない。
「…風俗は…向いてないし」
「向いてたら怖いわ」
苦笑交じりで言ったものの、内心は安堵の息を洩らした。やっとの方から断ってくれたのは大きい。
「じゃあ…今度は裏方の仕事を教えるから、夜はまた事務所に来い」
「え、事務所?店じゃなく…」
「あのビル全てオレの店だけど、それらをまとめてんのが最上階にある事務所の連中だ。だから仕事はあのビル全体の店の裏方になんだろうな」
「ぜ、全部…?」
「何だよ、嫌か?」
またしても意地悪な笑みを浮かべる蘭に、唖然としていたもハッと我に返る。大変だろうと風俗よりは役に立てるかもしれない。
「い、嫌じゃない」
一度は覚悟を決めて風俗嬢になろうと思ったものの、別の仕事で補えるならそっちがいいに決まっている。今度こそ、はやる気が出てきた。
だが、そこでふと思い出した。
「あ…で、でも…」
「ん?」
「灰谷くんがせっかく投資してくれたのに…いいの…?」
「あ?あー…投資ね…」
このマンションの部屋とエステや美容室、クローゼットにある服やバッグのことを言ってるんだろう。蘭はそれを思い出して苦笑した。そもそもアレも蘭が考えた言い訳にすぎず、他のキャストにそんな先行投資をしたこともない。
「いいんだって。クローゼットの中のもんは引き続きオマエが好きに使えよ」
「えぇ?で、でもあんな高価なもの…」
「オレがいいっつってんだから素直に使え。あと――」
蘭はの頭をぐりぐり撫でながら、ふと視線を下げた。
「サッサと着替えろ。そんな恰好してたらオレに襲われるかもしんねえぞー」
「え?あ…っそ、そうだった…っ」
今更ながらに自分のバスローブ姿を思い出し、は慌てて立ち上がろうとした。だがすぐに腕を引き寄せられ、再びソファに腰を下ろす羽目になった。が驚いて顔を上げると、蘭の顏が近づいて頬に柔らかいものが触れる。
「は、灰谷くん…?」
「正式な契約は今夜だけど…これから宜しくなー?」
の頬に軽くキスを落とした蘭は、そう言いながら意味深な笑みを浮かべた。