第八話:恋とするにはすこし打算的



「…ってことで遅くなったけど、今から戻るわ。ああ」

部下にそう告げて、竜胆は通話を終わらせた。

「出して」
「はい」

運転手が返事よりも先にアクセルを踏み、車が静かに走りだす。竜胆は軽く息を吐いて、ふと窓の外へ目を向けた。そこには梵天に入って間もなく手に入れたタワーマンションが聳えている。

(マジでをここに住まわせる気か…)

は部屋の鍵やエレベーターの暗証番号なども知ってるようだった。少なくとも暫くは本当に住むことになってるんだろう。

(ったく…オレにも一言くらい教えてくれてもいいのに…)

蘭のことは何でも知っていると自負していた竜胆は、少しの寂しさを覚えながら流れる街並みを眺めていた。
その時、竜胆の視界に歩道を走って来る男が飛び込んできた。嫌でも目立つその人物は、今まさに頭の中で思い浮かべていた張本人。蘭その人だった。どこか慌てたようにマンションの方へ走って行く蘭を見た竜胆はつい「は?」という声を洩らしていた。

(あの兄貴が…走ってる…!)

店からマンションは比較的近い。それでも面倒だと言って車を呼ぶくらい、蘭は普段から車移動が多かった。その蘭が乱れた服装のまま走って帰ってきたのは、竜胆にも衝撃的過ぎた。

(さっきオレも戻るとか言っておいて遅かったのは、そのままこっちに向かってたからかよ…)

を送った後、竜胆は蘭が来るのを少しの間待っていたものの、一向に現れる様子がないので、やはり女一人の為にいちいち戻っては来ないかと妙に安堵しながら部下に連絡を入れたのだ。だが蘭は戻ってきた。しかも走って。
一瞬、車を止めて声をかけようかとも思ったが、竜胆にも仕事がある。蘭にアレコレ聞くのは時間のある時にしようと、そのまま蘭の後ろ姿を見送った。

(…こうなると…やっぱさっきの説が当たってるってことか…?)

借金のある元クラスメート。そんな簡単な説明だけでは納得いかない部分がたくさんある。

「…兄貴にも人並みなとこあったんか…」

蘭は昔から女に対してどこかドライな面があった。それが兄のデフォルトなんだろうと思っていた竜胆には、やはり今回のことは驚くべき変化に見える。

「…なーんか意外すぎてビビるけど…」

滅多に見られない蘭の焦った姿を思い出し、竜胆は笑いを噛み殺した。
飄々としてる兄もいいが、女に一喜一憂する姿も悪くない。

「何か言いましたか?」

竜胆の言葉を拾った運転手がバックミラー越しに尋ねてくる。

「いや、こっちの話~」

ニヤケながら応えた竜胆は、今後に対して蘭がどう動くのかと想像しながら、シートに凭れ掛かった。


△▼△


「やあ、また会ったね~」
「ど、どうも…」

夜、蘭に言われた通り、以前にも来た事務所へ顔を出すと、高倉健太と名乗った男に再び出迎えられた。蘭曰く、この男も梵天のメンバーであり、蘭管轄のアダルト系を仕切っている男らしい。
高倉はにソファを進めると、自分も向かい側へ座り、秘書らしい女の子にコーヒーを二人分頼んだ。

「えーと…前回は九井さんからの紹介だったけど、その後の経緯は蘭さんから聞いてる。債権者が蘭さんに代わったこともね」

書類を捲りながら、高倉はふとを見た。そして少しだけ身を乗り出すと「ところで…」と声を潜めた。

「話の前に聞いておきたいんだけど…」
「…はい」
「君、蘭さんの何?」
「え…?」
「いや、今回の件は色々と異例だから気になったんだけど…君、元々は風俗店で働くはずだったでしょ。なのに急に裏方のスタッフとして雇うって蘭さんが言い出したから」
「あ…えっと…それは…ですね…」

そんなに異例のことなのか、と少々驚きつつ、は自分と蘭の関係を簡単に説明した。

「え、クラスメートだった?蘭さんと?」
「はい…中学生の頃、ほんの一時ですけど」
「…ってか、それだけ?」
「え?」
「いや…ただのクラスメートにしちゃ…」

と言いつつ、高倉は書類とを交互に見た。それはこの会社でを雇う為の契約書らしい。

「かなり待遇いいからさ」
「え、待遇…?」
「そう。正社員で雇うにしても給料も破格だし、週休二日になってるし、最初から蘭さんの部下扱いになってる。ってことは…オレと同じような立場か、君の方がオレより上ってこと。この会社的にはね。なのに仕事内容は裏方って…どこかチグハグというか」
「…そ、そう…なんですか?」
「え、何も聞いてない?」
「はあ。今夜また事務所に来いとしか…」

蘭はあの後、それだけ告げて仕事があると出かけてしまった。なので詳しい話はまだ何も聞いていない。
いきなり風俗店から、裏方の仕事へシフトチェンジされ、も戸惑っている側だ。

(しかもホッペにキスとかしちゃって…あれでてっきり冗談かと思ってたのに…正社員ってどういうこと?)

高倉の説明にますますワケが分からなくなり、溜息を吐く。そこへ「お疲れ様です!」という声が聞こえてきた。その声に高倉が反応して視線をドアの方へ向ける。

「蘭さん、来たみたいだな」

それだけ言うと、高倉はソファから立ち上がった。同時に応接室へ蘭が顔を出す。

「お疲れさまです。蘭さん」
「おー。には仕事内容、説明したか?」

蘭は昼間とは違うスーツをビシッと着こなし、乱れていた髪もきっちり整えている。高倉に釣られて立ち上がったを見て、蘭は苦笑しながら「オマエはいいって」との隣に座った。

「いえ、それは蘭さんが来てからと思ってまだです。というか…この契約書の内容、本気ですか?」
「んー?ああ、そうそう。これで頼むわ。まあ素人だから仕事一つ一つ教えなきゃなんねーけどな」

高倉から受け取った書類に蘭も目を通すと、それをの前へ置いた。ついでにペンも受け取り、書類の上へ置く。

「これをよく読んで、納得したらここにサインしろ」
「え…これは…」
「ちゃんとした契約書だよ。この前オマエが間違ってサインしたヤツとは違うから心配すんな」

幸田プロモーションでのことを言ってるんだろう。あの時、蘭は知らない素振りをしていたが、が中身も確認せずサインしてしまったことはお見通しだったようだ。大方あれも蘭の力でなかったことにしてくれたに違いない。
は言われた通り、書類に目を通すと、確かに高倉が不思議がるのも分かるほど、待遇がいい。きちんと社会保険も適用されるようで、普通の会社と何ら変わりないように見える。そして肝心の借金返済分を、毎月の給料から引き落とすとあるが、金額が思ってたよりも低かった。

「え…わたし、裏方なのにこの待遇…いいの?毎月のお給料から返済分を引き落とされるにしても少なくない?」
「あ?オーナーで、オマエの債権者がいいっつってんだから、いいに決まってんだろ。そもそもオマエの借金額、オレにははした金なんだよ。だから気にすんな」
「…む。そりゃ灰谷くんからしたらそうかもしれないけど…これじゃわたしだけ得してる気がする…」

こっちが返済を遅らせてる立場なのに、とは恐縮したように言った。それには蘭も溜息を吐き、ガシガシと頭を掻く。

「あ~…面倒くせえな、オマエ…人の好意は素直に受けろよ。頑固女」
「が、頑固で悪かったわね…っ。そりゃ助かるけど、ここまで灰谷くんにしてもらう義理はないし…」

蘭の態度と言葉にムっとして言い返す。今日まで色々と助けられた恩があるからこそ、そこまでしてもらう立場じゃないと申し訳なくなったのだ。だからこそ蘭の言いぐさには、も黙ってられなかった。

「だったら…その待遇は昔のノートのお礼。ならいいだろ」

蘭はシートに凭れていた体を乗り出し、の顔を覗き込んだ。

「…ノート?」

今日は良くその単語を聞く日だ。驚いて蘭を見上げれば、至って真面目な顔が、そこにはあった。

「昔…授業内容をまとめたノートをくれたろ」
「あ、あんなの…大したことじゃないでしょ?この契約に比べたら」
「バーカ。にはそうでも…オレには大したことなんだよ」
「…いたっ」

蘭がの額を指で弾き、ジンジンとした痛みが広がっていく。

「な、なにもデコピンしなくても…」

痛みに顔をしかめながら額を擦ると、は今の言葉を反芻した。
――オレには大したこと。
蘭はハッキリそう言った。

(でもノートを渡しても、灰谷くんはいつも面倒そうにしてたのに…)

そもそも、あのノートが蘭の役に立つことはなかった。テストが始まる前に、蘭は傷害事件を起こして学校へ来なくなったからだ。なのに――。

「おら、分かったなら早くサインしろ。終わったらすぐ仕事の説明すっから」
「う…うん…」

とにかく今は蘭の言う通りにするしかない。何と言っても債権者なのだ。お金を返すには仕事をしなくちゃいけないし、こうして真っ当、かどうかは定かじゃないものの、体を売る以外の仕事を貰えるのは、正直有り難かった。
は言われた通り、署名をしてから判子を押すと、その書類は蘭の手から高倉の手へと渡った。

「これでオマエは晴れてオレの部下だ。良かったなー?」
「…部下」

何が良かったのかは分からないが、蘭はさっきよりも機嫌が良さそうに笑った。そこでやっと運ばれてきたコーヒーに手を付ける。

「そ、それでわたしはまず何をすればいいの…?」
「あ?せっかちだな、オマエ…まずはコーヒー飲んで再就職できたことを喜べよ」
「……まあ、正社員は凄く助かるけど…」

反社のフロント企業という最大のネックはあれど、これまでバイトで食いつないできたからすると、確かに正社員というのは嬉しい。
蘭の話を聞くまでは、と飲むのを我慢していたコーヒーの香りにホっとしながら、それを一口飲んだ。多少温くは感じたが、豆がいいので凄く美味しい。

「高倉、制服持ってきて」
「ああ、はい。分かりました」

高倉はすぐに立ちあがってどこかへ歩いて行く。は大好きなコーヒーを味わいながら「制服って?」と蘭へ尋ねた。

「ああ、アイツも着てたろ?裏方にも制服はあんだよ。まあOLの制服みたいに地味じゃねえけど…」

と説明している間に高倉が戻ってきた。

「蘭さん、これ」
「おう。じゃあ、は早速これに着替えろ。健太、をロッカールームに案内…あ、やっぱいーわ。オレが行く」
「えっ?蘭さん直々っすか」

ソファから立ち上がった蘭に、高倉が驚愕する。あの面倒くさがりのオーナーが?と言いたいらしい。

「健太はそろそろ撮影のチェックに行く時間だろ」
「え?あ、いけね!ほんとだ」

蘭の指摘に時計を確認した高倉は、慌てたように「じゃあ今から行ってきますよ」と言って応接室を出て行く。それを見送ってから蘭はに「こっち」と言って廊下へと出た。

「撮影って…アダルト動画系の?」
「あ?あー…まあな。そっちは健太が責任者だから、撮影ある日はチェックしに行くんだよ。出来が悪いのは売れねえからな」

蘭は当たり前のように話しているが、にとっては未知の世界だ。しかも一度は返済の為にそっちの道しかないのか、と悩んでいただけに、今は動画に出ろと言われなかったことを心底ホっとしていた。

「ここがロッカー。事務所の職員と同じ扱いだから、ここに出勤して着替えろ。タイムカードはそれ。オマエのも用意させてある」
「あ、これ…」
「そう。着替えてから、それ押すの忘れんなよ」
「…へえ。反社の会社でもこういうちゃんとしたものはあるんだ…」

と、つい自然に思ったことを口にしてからハッとした。蘭がジトっとした目でを見下ろしてきたからだ。

「堂々反社ですって看板出してるわけじゃねえからな。フロント企業とはいえ、この会社は至極真っ当なんだよ」

と言いつつ、法に触れる店を別に持っていることは、にも内緒だ。

「じゃあサッサと着替えろ。オレは部屋で待ってっから」
「う、うん…あ、あの…灰谷くん」
「あ?」

出て行きかけた蘭を呼び止めると、は「ありがとう…色々と考えてくれて…」と素直な気持ちを口にした。にしたら莫大な借金があると分かった日から気が気じゃなかった。でもこうして蘭が手を貸してくれたことには、も感謝をしている。もし相手が蘭じゃなければ、はとっくに風俗嬢として働かされていただろう。
蘭は一瞬、驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。

「お礼は借金返せた時でいいわ」
「…そ、そっか…そう、だよね」
「すげーの期待しとく」

意味ありげに微笑む蘭に、の頬がかすかに引きつる。

(何か凄く高いもの要求されそう…)

の脳内に宝石や腕時計、ハイブランドのスーツや靴がポンポンと浮かぶ。
でも借金を全額返済出来たなら、それくらい安いものかもしれない。

「ありがとう…灰谷くん…」

現状、少し気が楽になったのは、まぎれもなく蘭のおかげだ。
閉まったドアに向かって、は小さく呟いた。


△▼△


ちゃん!これ3階の店に持っていって。足りなくなったらしいから」
「は、はい!」

イメクラの店長、渡来におしぼりが大量に入った袋を渡され、は戻った足で再びエレベーターに乗り込んだ。

(き、気持ちは楽になったけど…この仕事…キツいかも…!)

たった今もイメクラに面接に来た女の子の履歴書や、必要書類を事務所に届けたばかり。その前は女の子の使う色々なアメニティグッズ、お客用の飲み物の補充、クリーニングに出す衣装の回収、クリーニング業者への手配などを済ませたばかりだ。働き出してから何回このエレベーターでビル内を駆けずり回ったか分からない。

「裏方がすぐ辞めちゃうって…こういうことか…」

重たいおしぼり入りの袋を引きずりながら、三階にあるヘルス店へ向かう。
すでに足が棒のように固まって重たい気がする。
人気店ばかり、と前に蘭が話していたが、それはあながち嘘ではなかったようだ。どの店舗も満員御礼で待合室にまで客が溢れていた。それも高級店と謡っているだけあり、身分の高そうな中年男性が多い。こんな時間からエロいことをしにくる人もいるのか、とにしてみれば、かなり刺激的な職場だった。

「お、おしぼりお持ちしました…」
「あーそこ置いといて!」

受付から顔を出したのは、ヘルス店の店長、石田保いしだたもつ(27歳)だ。
先ほどドリンクなどを運んだ際に初めて顔を合わせたものの、互いにゆっくり自己紹介する時間もない。
は言われた通り、受付の入り口横におしぼりの袋を置き、そのままイメクラの店へ戻ろうとした。そこでも別の仕事を頼まれていたからだ。

(客が帰った後の個室の掃除まであるなんて…地獄…)

この仕事で一番が苦手だと思ったのは、やはり個室の掃除だった。客とキャストが使った個室は、やはりそれなりに性的な空気が充満している。大量に捨てられているティッシュや、避妊具類、ローションでべとべとのタオルや床、シャワーを浴びた際に使用したバスタオルなどなど、それら全てを綺麗にしなければならず、見ず知らずの人間が使用した物に触れるというのが、どうにも不快だった。そして思う。キャストになっていた場合、自分もああいった客達の相手をしなければいけなかったんだと。

(それを思えば…掃除くらいどうってことないか…)

自分にそう言い聞かせながら、が店を出ようとした時、先に扉が開き、客らしき男性が入って来た。

――客と鉢合わせしたら、きちんといらっしゃいませと声をかけろよ。

ふと蘭に言われたことを思い出し、は引きつりながらも笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけた。そして店長の石田に「お客様です」と報告する。

「ああ、ごめん。オレ、今手が離せないから、ちゃん…だっけ?そこの待合室に案内してさしあげて。あと指名があるかないか聞いて、いないようならこれ見て待つよう言って」

石田が差し出したのは店のシステムを書いたメニュー表みたいなもので、中には店にいる女の子の情報がスラリと載っている。は「分かりました」と受け取り、入口で待っている中年男性に「こちらへどうぞ」と声をかけた。
の仕事は何でもやること。これに尽きる。裏方の仕事内容は、殆どが周りへのフォローや雑用が多かった。

「あの…ご指名はいらっしゃいますか?」

中年男性を待合室に案内したは、愛想のいい笑顔で尋ねてみた。だが、その男性は初見客らしく「いや、ここには紹介で初めて来たんだ。どんな子がいるの?」と逆に訊かれた。そこで石田に渡されたメニューを広げて「当店のシステムと、女の子の情報が載っております」と説明した。
その男性はそれを手にして目を通している。それを見て「ただいま、店長を呼んでまいりますので少々お待ち下さい」と丁寧に言ってから、はその場を離れようとした。
その時、不意に手首をガシっと掴まれた。

「あ、あの」

驚いて振り向くと、中年男性はを上から下まで舐めるような目で見てくる。その視線に性的なものを感じて、少しだけ鳥肌が立った。

「君は?」
「え?」
「君もこの店の子?」
「は、はあ…」

正確にはこの店というより、これらの店を経営している会社の社員だ。しかし客からすれば、どっちでも同じなので詳しい説明は省いてしまった。
中年男性は頷いたを見て口元を緩めると「君は店に出ることはないの?」と訊いてきた。これは明らかにサービスする側として、という質問だと分かる。中年男性はさり気なく掴んだの手を、もう片方の手で撫でてくる。ぞわっとしたものの、客相手に掴まれた手を振りほどくわけにもいかず、は更に笑顔を引きつらせた。

「も、申し訳ありません。わたしはキャストではなく裏方でして…」
「そうなのかい?でも私は君がいいんだけどなぁ」
「…ひゃ」

中年男性が言いながらのお尻へと手を伸ばし、するりと撫でてくる。あまりに堂々としたセクハラで、はびっくりした。前に働いていた会社でもこんなことをされたことがない。

「あ、あの…本当にわたしはキャストではないので無理なんです。今、店長を呼んで来るので――」
「いいじゃないか。この店で働いてるなら同じだろう?」

同じなわけあるか、と怒鳴りたくなったのを必死にこらえる。腕を軽く引っ張ってみても全く離す気がないようだ。

(どうしよう…石田さん、何してるの…?)

先ほどまで満室だった待合室は、すでに個室へ通されたようで、今はちょうどと客の二人きり。そのせいで多少、客の方も大胆になってるようだ。

「こ、困ります。本当にわたしには出来かねますので――わ…っ」

ここはハッキリ断ろうと、少し強めに言いかけた時、掴まれていた腕を引かれ、は中年男性の方へ倒れ込みそうになった。だがそのまま強引に膝の上へと座らされ、腰に腕が回される。その感触に再び鳥肌が立つ。

「やめて下さい…っ」
「いいだろ。どうせ風俗店で働いてるんだし少しくらい触っても。私の番が来るまで相手をしてくれないか?」
「な、困ります…っ」

どういう理屈だと頭に来たが、ここで客を怒らせるのも良くないという頭が働く。本当なら引っぱたいてやりたいくらいの気持ちだが、蘭に迷惑をかけることになると思うと、それも出来なかった。
が我慢してるのをいいことに、その客は腰から背中のラインを厭らしく撫でていく。

「こ、困ります。お客様…!」
「いいじゃないか。君、こんなにスタイルいいなら裏方じゃなく店に出たらどうだい?そしたら私が指名してあげてもいいよ」
「ちょ、やめて…っ」

中年男性は背中に回した手を前に伸ばすと、の胸の膨らみを揉んでくる。その遠慮のないセクハラ行為には慌てて身を捩ろうとした、その時だった。突然、横から伸びてきた手に腕を掴まれ、は客の膝の上から誰かの腕の中へと収められた。

「お客様…困りますね。うちの従業員にこういうことをされては…」
「…は…灰谷くん…?」

頭上から聞き覚えのある低音の声が降ってきて、が驚いて仰ぎ見れば。
そこには酷く冷めた表情の蘭が、客を見下ろしながら立っていた。

「な、なんだ…君は。ここの店長か?私は榊原会長から紹介されて――」
「榊原、ねえ」

蘭は鼻で笑うと、を自分の後ろへ追いやった。

「あの会長はとっくに出禁になってんだよ。アイツがその後にどうなったか知らねえみたいだな…」
「な、何…?」
「おい!石田!」

蘭が呼ぶと、受付で電話をしていたらしい石田が飛び出してくる。

「は、はいぃ!」
「お客様のお帰りだ。外までお見送りなー?」
「了解っす!」
「は?」

蘭の対応に客が唖然とした顔で二人を見上げている。石田は構うことなく、すぐに中年男性の腕を掴むと「おら、立て、オッサン」と乱暴に引っ張った。

「な、何をする!私を誰だと思ってるんだ!LCホームの社長だぞっ」
「はいはい。オマエがどこの誰でもいいよ。余計なことしてくれちゃって」
「は、放せ!おいこら!…」

石田はまさに首根っこを掴むように男を店の外へ連れて行く。は唖然としながら、

「え…い、いいの?お客様なのに――」

と振り返る。だがそこで言葉を切った。蘭の顏がかなり不機嫌だったせいだ。

「オマエ、何やってんだよ…」
「な、何って…仕事…だけど…」

開口一番、呆れたように言われ、ムッとして言い返す。
そもそも今のはにとっても不可抗力であり、怒りたいのはこっちだと言いたい。だが蘭は深い溜息と共にを見下ろした。

「ああいう客は客と思うな」
「え…?」
「いくら風俗店で働いてようとセクハラは許すなっつってんの。ああいう時は振り払って逃げるか、店長を呼ぶとかしろ。黙って触られてんじゃねえ」
「…そ…そんなの言ってくれなきゃ分かんないじゃない…っ」

蘭に叱られたことに驚き、ついも言い返してしまった。としては蘭に迷惑をかけたくなかったから我慢したのだ。なのに一方的に怒られたことで頭にきた。

「んなことも分かんねえのかよ?自分で不快かそうじゃねえかで判断――」
「だから…わたしは灰谷くんに迷惑かけたくなかったの…!」
「……っあ?」

キッと睨みつけてくるを見て、蘭が小さく息を飲む。見れば握りしめた手が、かすかに震えているのが分かった。強気に見える瞳にも、薄っすら涙が浮かんでいる。きっとも突然のことで怖かったに違いない。でも蘭の為に我慢をしてた。そこに気づいた時、蘭の中で昔の想いがふと過ぎった。
授業中、居眠りしていた蘭を起こそうと、斜め後ろの席だったがこっそり蘭にノートの切れ端などをぶつけてきたことがあった。それで蘭は起きたものの、は教師に見つかり「何を遊んでるんだ」と叱られるはめになった。でもは蘭のことを教師には言わず、黙って説教を受けていたのだ。
あの時もお人よしかよ、と苦笑が漏れたことまで、蘭は思い出した。

「ハァ…オマエ…そんなんでよく風俗嬢になろうと思ったな…」
「え…?」

客にちょっと触られただけで震えている姿を見て、蘭は呆れ顔で溜息を吐き、の着ている制服を見下ろす。

「…やっぱこれはマズいか」
「な、何が…て、ちょっとっ」

指でピラっとスカートを捲られ、慌ててスカートを抑える。人が怒ってるというのに、何をするんだと言いたげに蘭を睨みつけた。

「スカート短すぎだ」
「な…だってこれ着ろって言ったの灰谷くんじゃない」
「あー悪かったよ。オマエの年齢、忘れてたわ」
「…む。あのね…人をおばさん扱いしてるけど、灰谷くんだって同い年なんだからね?」
「仕方ねえから、事務員の制服でいっか」
「ちょっと!聞いてる?」

指で顎を触りながら独り言ちる蘭を見て、は更にムっとした。蘭は昔から自分勝手で、人の話を聞かないところがある。それを思い出して頭にきたものの、蘭はお構いなしにの手を引いて「戻るぞ」と言った。

「え、ちょ…ここに用があって来たんじゃ――」
「別に~。オマエの働きっぷりを見に来ただけ」
「……梵天の幹部って意外と暇なの?」
「あ?忙しいに決まってんだろ」

蘭は笑いながらの腕を引いて歩いて行く。その笑顔を見ていたら、怒っているのがあほらしくなってきた。結果的に助けてもらったのは間違いない。

「忙しい時にお手数おかけしました」

本来なら上司である蘭に、こんな態度をしてはいけないという思いもある。だが二人きりの時になると、どうしても昔のノリになってしまう。

「嫌味かよ」

蘭も蘭で、そんなの態度に苦笑い浮かべるだけで、怒った様子もない。
自分だけ子供みたく思えて、は軽く息を吐くと「嘘…ごめん」とひとこと言った。

「今度から気を付ける」
「あ?何だよ…急に素直になって気持ちわりい」
「な…人がせっかく謝ってるのに…っ」
「別にオマエは仕事してただけで謝るようなことしてねーじゃん」

その言葉に驚いて顔を上げたを見ると、蘭はふっと笑みを浮かべた。

「ま…オレも怒ったりして悪かったよ」
「灰谷くん…?」
「まあ、うちにはああいう客も来るから…オマエも今度から何かされそうになったら逃げていい。その為に店長がいるんだから、奴らに任せろ。分かったー?」

最後はおどけたように言いながら、の頭をぐりぐりと撫でる。意外にもその手に優しさを感じて、もそこは素直に頷いた。

「ていうか…さっきはありがとう…」

今度こそ、その言葉を口にすると、もう一度蘭を見上げる。蘭もまたを見下ろすと、互いの目が合った。一瞬、沈黙が走り、の心臓が小さく音を立てた。昔から端正な顔立ちだったが、今の蘭は男性特有の色気があり、見つめられただけで勝手に頬が熱くなっていく。
その時――僅かに目を細めた蘭が、小さく息を吐いた。

「…お礼なら…こっちのがいい」
「え?」

くいっと指で顎を持ち上げられ、蘭の顏が近づいてくるのを見て、の思考がフリーズした。


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