第九話:嘘にするにはあまりに切実



間近で見るバイオレットの輝きは想像以上に綺麗で、こんな時なのに一瞬だけ見惚れていた――。

――お礼ならこっちがいい。

何が?と問う暇もない。端正な顔を近づけてきた蘭に見惚れていたは、数秒遅れで我に返った。

「何だよ…」
「だ、だって…」

互いの唇が触れそうな距離にまで近づいた瞬間、咄嗟に出たのは両手。
身を屈めた蘭の胸に手を置き、両手で突っぱねるように押し戻したのは本能的なものだったかもしれない。再会直後に体を半分許してしまったとはいえ、今は状況が違う。そんな何かの代償のように触れて欲しくなかった。
が拒絶の意を見せると、蘭は僅かに目を細めて彼女の頬をむぎゅっとつねった。

「いたっ」
「嘘に決まってんだろ?バーカ」
「…な…」

ジンジンする頬を手で抑えたは、鼻で笑う蘭の言い草にむっとしたように眉間を寄せた。

「オマエを相手にしなくても女に困ってねえから」
「そ…っそーですか!それは良かったですね!っていうか、どいて!わたし、仕事あるんだからっ」
「…いてっ」

真っ赤になって怒り出したは、蘭の足をヒールで思い切り踏みつけ、サッサとエレベーターへ歩いて行く。それには蘭の口元が盛大に引きつった。

「てめ…仮にも上司の足を踏みつけるか?つーか、この靴いくらすると思ってんだっ」
「灰谷くんならそんな靴、ポケットマネーでいくらでも買えるでしょっ!」
「そういう問題じゃなくね?オマエ、部下。オレ上司な?」
「それはどうも失礼いたしました。灰谷オーナー!」

それだけ叫ぶと、は「べー」と舌を出して到着したエレベーターに乗り込もうとした。だがすでに扉は開いていて、中には人が数人乗っている。

「…うわ…い、石田さん…」
「な…何してんすか、二人して…」

エレベーター内にはさっきの客を追い返してきたヘルス店の店長、石田も乗っていたようだ。二人の子供なみの言い合いを見ていたようで、唖然とした顔で立っていた。

「べ、別に何でもありません。あの…次の仕事があるんで失礼します…」

ポカンとした石田を見て、急に恥ずかしくなったは、早口で言いながらエレベーターに乗り込んだ。石田は「お、お疲れさま」と声をかけつつ、と入れ替わるように廊下へと出る。それを見たは速攻で開閉ボタンを押した。

「ふう…」

思わず息を吐いたものの、周りには店にやって来たであろう客もいる。ジロジロと見られ、は引きつりながらも笑顔を見せると「いらっしゃいませ…」と言っておいた。

(もう…恥ずかしい…これも全部灰谷くんのせいだ…)

イメクラに戻って来たは個室の掃除を無心でしながら、先ほどの蘭の態度を思い出して苦笑を洩らした。
昔はあんな風に言い合いすることも多々あった気がする。主にがお節介をしたことで、それをウザがる蘭の態度が原因だ。でも別に本気でケンカをしてるわけじゃなく、当時はも蘭とのそんなやり取りを楽しんでいた。
でもまさか大人になってからもやってしまうとは思わない。

(あんな嘘、つかないでよね…)

もう少しで唇が触れてしまいそうだった光景を思い出し、頬が熱くなる。男に免疫がないとは言わないが、やはり相手が蘭だと平静でいられないのだ。

(あんな…真剣な顔しちゃって…)

迫ってきた時の蘭を思い出すと、とても冗談や嘘には見えなかった。だからこそ本気で焦ったというのに。

(女に困ってない…か…。そりゃそうだよね。灰谷くんならモテるだろうし…)

蘭は昔から女子に囲まれるような存在だった。不良だけど、そこがまたいいという女の子は意外にも大勢いて、蘭がたまに登校するといつも何かしらプレゼントをもらっていた気がする。
どこかの店で買ったアクセサリーや、香水。はたまた調理実習で作った物から、買ってきたチョコレート等々、蘭は常にもらう側の人間だった。
でも一度、そのプレゼントを蘭が捨てようとするところを目撃し、が注意したことがある。

――貰ったものを捨てるなんて最低だよ。
――あ?邪魔なんだよ…頼んでもねえのに。
――じゃあその場で断ればいいじゃない。学校に捨ててもしあげた本人が見たらどう思うか考えてよ。
――…チッうっせぇな…人のことは放っておけよ。

そんなやり取りをしたものの、その時は蘭もプレゼントを持ち帰った気がする。それ以降、蘭が何かを捨てるところはも見ていない。
だからこそ、文句は言っていたものの、蘭がの言ったことを理解してくれたのだと思った。

(あ…だからわたしのノートも捨てずに持っててくれたとか…?)

ふと蘭がから貰ったノートを部屋に置いていたという竜胆の話を思い出し、妙に納得してしまった。

――オレには大したことなんだよ。

あんな言い方をするから、少しだけ勘違いしそうになった自分が恥ずかしい。何も自分だけが特別なわけじゃなく。昔、ちょっとだけ他の人よりは親しくなれた気がしてただけだ。

「今更…か…」

掃除を終えて、一階裏口にあるごみ捨て場にゴミを捨てながら、は軽く息を吐いた。あらかた雑用は終えたので、深夜0時になればは上がれる。

「何が今更?」
「…わっ」

不意に背後から声をかけられ、はビクリと肩を揺らした。

「あ…九井…さん?」

裏口から顔を出していたのは、最初に母の借金のことでを尋ねてきた九井だった。

「ちょうどビルに来たらちゃんが裏口から出てくの見えたから」
「あ…そ、そうですか。えっと…お疲れ様です」

九井はこのビルにある会社の経営には加わっていないが、元締めとも言える組織の一員だ。が挨拶をすると、九井は苦笑交じりに「堅苦しいのはいいって」と肩を竦めた。相変わらず派手な銀髪を垂らし、お洒落なスーツで決めている。今時の反社の人間は皆がこんなに華やかなんだろうか、と思いながら「このビルに用事ですか?」とは訊ねた。

「ああ、女の子を一人紹介しに来ただけ」
「あー…そう、ですか」

それを聞いて、自分と似たような境遇の子かもしれないと察したは、当たり障りなく笑顔で頷いた。どの店も人手不足だとは蘭からも聞いている。が結局使えなかったのだから、人手不足は解消されていないんだろう。
そう考えると申し訳なく思ってしまう。

ちゃん、結局裏方で働くことになったんだ」
「はい…灰谷く…オーナーが色々と手配してくれて…」
「あーそうみたいだな。わざわざちゃんの為にオレから債権買い取ったわけだし?」
「え…わたしの為…?」
「違うの?」

逆に訊き返され、は言葉に詰まった。蘭からは人手不足解消の為だと聞いている。どうせ自分の店で雇うなら、借金返す相手も自分にしておいた方がややこしくなくていい。確かそうも言っていたはずだ。

「それは多分…お店の為とか、そういったもので、わたしの為とかでは…」
「フーン…蘭さん、まだそんな感じなんだ」
「え…?」
「いや。こっちの話ね。ああ、ちゃん、もうすぐ上がりだろ?」
「あ、はい。0時には」

腕時計を確認しながら応えると、九井は意味ありげな笑みを浮かべながらの顔を覗き込んだ。

「じゃあ、仕事終わったら…オレと飲みに行かない?」
「…えっ?」

突然の誘いに驚いて顔を上げると、九井は「そんな驚く?」と笑っている。

「ああ、何か不安なら蘭さんも一緒に」
「え?い、いえ…不安なんてそんな…」

内心ドキっとしたものの、そこは笑って誤魔化した。九井は一見人当たりがよく見えるが、梵天の幹部だということはも忘れていない。いくら元クラスメートの同僚(?)だとしても、決して気を緩めてはいけない相手だと思っている。その空気を九井も感じ取ったのか「まあ警戒するのも分かるけど」と苦笑した。

「別に君をどうこうしようってんじゃなく、単にその後のこととか聞きたいだけ。何なら帰りも家までちゃんと送るけど。もちろん建物の前でちゃんを下ろすよ。オレは車から降りない」
「はあ…」

もそこまで警戒してるわけじゃなかった。
それにニコニコとしている九井からは特に怪しいものは感じない。ちょっと飲みに行くくらいならいいかなとも思う。それにも九井には聞きたいことがあった。

「じゃあ少しだけなら…」
「いいよ。どうせ明日も仕事だろ」

九井はそう言うと「じゃあビルの前で待ってる」と言った。

「分かりました。着替えたらすぐ行きます」

はそう言ってすぐに最上階の事務所まで戻った。そこには本部長の高倉はいない。まだ撮影の仕事が終わらないんだろう。
は他のスタッフに声をかけてから、ロッカーで私服に着替えてすぐに一階へと下りた。

「はあ…足がダルい…明日ガチガチになってそう…」

エレベーターを降りてすぐ、はふくらはぎを擦りながら溜息を吐いた。仕事用のヒールは三センチほどの高さしかないが、動き回るには適していない。しかも出勤時に穿いて来た靴はそれより高めのヒールにしてしまったせいで、履き替えた方が脚に負担がきた。

(灰谷くんが用意してくれた靴、だいたいヒール高いからなぁ…。あれ絶対自分の趣味だよね。今度フラットシューズ買いに行こうかな…)

ぼんやり、どこに買いに行こうかと考えながらビルを出れば「ちゃん、こっち」と九井が車の窓を開けて顔を出した。車は大きなキャデラックで、前と後ろがやけに長い昔ながらのデザインだ。

「お、お待たせしました」
「お疲れさん。じゃあ乗って」

ドアが開き、九井に促されるまま後部座席へ乗り込むと、車はすぐに走りだした。

「あの…どこへ行くんですか?」
「ん?ああ、すぐ近くのバーなんだけどさ。なるべく徒歩では出歩かないようにしてんの」
「はあ」

それって誰かに襲撃されるからですか?とは聞けず、は曖昧に聞き流しながら、広い車内を見渡した。

「変わった形の車ですね」
「ん?あー…いわゆるアメ車ってやつだよ。蘭さんが幹部ならこれくらいの車に乗れって言うんで買っただけ。燃費悪いし目立つしで見た目だけカッコいいってやつ?」
「そ、そうなんですね」
「まあ襲撃に備えて改良してるし――って、ああ、ちゃんはもうオレらが何してる人か知ってるんだよな」
「…ま、まあ…灰谷くんから聞きました」

襲撃という言葉に内心ギョっとしつつも頷くと、九井もホっとしたように笑った。

「だよな。まあ、そういうことだから車もイメージで選んでんだよね、あの人」

九井は苦笑しながらシートを軽くパンと叩く。自分達のイメージに合う車を勧める辺り、蘭らしいなともおかしくなった。

「それより…蘭さんとは中学の同級生だったんだってね」
「あ…はい…まあ…」
「じゃあ驚いたんじゃねーの?最初に会った時」

九井は気軽に訊いてきたが、最初に蘭だと気づいた時は驚いたなんてものじゃなかった。何せ風俗店のオーナーだと思っていたし、何なら性的な指導を途中までとはいえ、受けてしまったのだから当然だ。

「悪い夢かと思いました…あの時は」

正直な気持ちを言葉にすると、九井は「だよな…」と苦笑する。この様子だと、どういった状況だったということは聞いてなさそうだ。

「でもまあ…蘭さんが代わりに借金立て替えてくれて、仕事も紹介してもらったんだから、ちゃんも助かったんじゃねえの?色々と」
「…え?」

不意に言われた言葉に違和感を覚えて、は隣の九井を見た。でも九井はの様子に気づかず、話を続けている。

「借金なくなったんだし、ちゃんもこれからは自分の為に働けばいいよ」
「…なくなった…?」

そう言われて更に驚きながらは首を傾げた。父や母の借金の債権を蘭が九井から買い取ったとは聞いているが、それで借金がなくなったわけじゃない。何か九井が勘違いしてるのだと思った。

「いえ、まだ…借金はあります。それを返すのに灰谷くんのところで雇ってもらったので」
「…え?そーなの?でもオレには君から徴収する気はないって…」
「え…?」
「…え?」

が驚きで目を見開くと、九井もヤバいといった様子で口元を手で覆う。それに気づいたは戸惑い顔で「どういう…ことですか?」と尋ねた。

「灰谷くん、わたしには九井さんから債権を買い取ったと話してたんですけど…。会社で雇ってくれたのも借金返済の助けになるからって…」
「いや…悪い。オレの勘違いかも。蘭さんがそう言ったなら、きっとそうなんだと思うよ」

どこか慌てたように早口で話す九井を見て、はやっぱりおかしいと感じた。ハッキリとは言えないが、こういうものは女の勘としか言いようがない。

「あの…すみません。わたし、やっぱり帰ります」
「あ…そう?じゃあ…このまま送るよ」
「…すみません」
「いや、仕事で疲れてるよな。また今度、蘭さんも誘って行こうか」
「…はい」

さっきとは違い、九井はやけにアッサリ引き下がった。それも少し違和感を覚えてはさっきの話を思い返してみた。
蘭が九井から債権を買い取り、自分が債権者になることでからの返済を給料から差し引くことになっている。でも九井の話では、債権を買い取ったまでは本当らしいが、から返済を受ける気がないような話をしていたらしい。

(でも、なら何でわたしに給料から引き落とされるとか、そんな話をしたんだろう…)

疑問に思った時、は最初に蘭が借金を立て替えようかと持ち掛けてきたことを思い出した。

(まさか…灰谷くんは借金をただ返済してくれただけじゃ…)

――オマエの借金額、オレにははした金なんだよ。

ふと蘭に言われた言葉が脳裏を過ぎり、そこではハッキリと確信した。
蘭は返済してもらう為に債権者になったのではなく、を助ける為に九井からそれを買い取ったのだと。

「……嘘つき」

思わず、そんな言葉が零れ落ちる。それに反応した九井が「何か言った?」と訊いてきた。だがはすぐに首を振ると「何でもないです」と笑顔で応えた。


△▼△


「え、じゃあ…彼女の借金は兄貴が全額立て替えたってことかよ」
「まーなー」

驚く竜胆を見て、蘭は苦笑交じりに応えると、バーボンのロックを飲み干した。
仕事を終えた後、蘭は竜胆に呼び出されるまま、マンション近くにある行きつけのバーへ顔を出した。そこで待ち構えていた竜胆に、とのことを根掘り葉掘り聞かれ、仕方なくと再会した後のことを簡単に説明していたところだ。

「何でそこまでしてやるわけ」
「あ?」
「あの子、別に兄貴の元カノでも何でもねえんだろ?」
「ああ」
「じゃあ何で?一千三百万は今のオレらにしたら大した額じゃねえけどさ。元クラスメートを助けるにしちゃデカい金額だと思うけど」

もっともなことを言う弟を横目で見た蘭は、面倒そうに溜息を吐く。

「何が言いてーの?」
「だから…何で彼女にそこまですんのかなーと素朴な疑問っつーか…」
「…へえ?そんなに気になるー?」

ニヤリとする蘭を見て、竜胆は素直に頷く。兄のことを何でも知ってると思っていただけに、知らないことがあるなら当然だ。それ以前に蘭との関係には興味もあった。

「気になるから聞いてんだって。ってか兄貴、まさか…好きだったってわけじゃねえよな、ちゃんのこと」
「………」

竜胆がジっと見つめると、蘭は前を向いたまま黙って酒を飲んでいる。否定も肯定もしないその態度に、竜胆は自分の勘が当たっていることを確信した。

「やっぱ好きだったんだ」
「…昔の話だよ」

蘭がふっと笑って「初恋ってやつー?」と竜胆を見る。蘭の口からそんな言葉が飛び出すことじたい、竜胆は驚愕した。

「いや、初恋って…遅くね?」
「あー…竜胆の初恋は小4の時だったもんなァ?隣の席の…オネエ言葉みたいな名前の子~」
「小田真理ちゃんね…つーか、よくそんなことまで覚えてんな…」
「そりゃー散々からかったからな。だからのことは言わなかったんだよ。オマエ、報復でしつこくからかってきそうだし」
「…何だよ、それ…。まあ…当時、もし知ってたらからかったと思うけど」
「ほらみろ。言わなくて正解だったわ」

蘭は苦笑気味に言うと、バーボンを一気に飲み干した。それと同時に蘭のケータイが鳴り出す。画面を見れば、そこには"頑固女"の文字。かすかながら、蘭の顏に笑みが浮かぶ。
それを隣から覗き見た竜胆が、怪訝そうに首を傾げた。

「頑固女…?誰?」
だよ」
「何でこんな時間に…って、あ…やっぱ今は付き合ってんの?」
「付き合ってねー。どうせ仕事終わったっつー報告だろ」
「…ってか付き合ってもねえのにマンションまで住まわせるんだ」
「もしもーし」
「あ…逃げた…」

竜胆の問いに答えることなく、蘭はスツールを下りると、電話をしたままバーの外へ出て行く。どこか楽しげな蘭の背中を見送りながら、竜胆も酒を煽ると「やっぱ今も好きなんじゃねえの…?」と独り言ちた。


△▼△


マンションのエントランス前でボーっと車通りを眺めていると、カツンと靴音がして、はハッと振り返った。

「何で外にいんだよ。危ねーだろ、女一人で」
「…灰谷くん」

ポケットに手を突っ込みながら歩いてくる長身の男を見て、は軽く目を反らした。

「部屋にいても落ち着かないから…」
「ハァ?あんな快適な部屋にしてやったのに?」

呆れたように笑う蘭を見て、はドキッとした。やっぱりあの部屋もそうなんだ、と思うと、ますます混乱してくる。

「どうした?オレに話って何」
「うん…」

小首をかしげる蘭を見上げて、はどう切り出そうか迷った。でも九井から聞いた話が本当なのかどうか。それが知りたい。

「灰谷くん…」
「…ん?」
「どうして…嘘、ついたの?」
「………」

は真っすぐな瞳で見つめてる。蘭は表情一つ崩さず、その視線を受け止めていた。の質問の意味を聞き返すこともしない。それは質問に対しての肯定とも取れる。

「わたしの借金…ほんとは灰谷くんが払ったんじゃない?」
「そりゃ九井から債権買い取ったんだからそうだろ」

そこで初めて蘭が口を開いた。でもどこまで本心を言ってるかは分からない。

「そうじゃなくて…だから…」
「オマエは何を疑ってるわけ?」

ん?と首を傾げながら微笑むクセは昔からだ。それを見た瞬間、蘭のそんな仕草にすらときめいていた頃の自分を思い出した。今でもの中では大切な思い出の一つだ。だからこそ、その相手に負担をかけるのは嫌だった。

「灰谷くんが…わたしの借金を肩代わりしたんじゃないの…?」

そうハッキリ言葉にしても、蘭の表情は変わらなかった。

「それはオマエが嫌だっつったじゃん…だからこんなまどろっこしい方法で返済してもらおうとしてんだよ」
「…ほんとに?」
「あ?」
「ほんとに…ちゃんと給料から引いてくれる?」
「んなの当たり前だろ。オレだって慈善事業してるわけじゃねーよ」

蘭のその言葉を聞いて、は少しホっとした。

「なら…いいんだけど」
「ハァ?何だよ、オマエ…人が飲んでる時に呼び出しておいて…」
「あ、ごめん…もしかしてデート中だったとか…」
「……デートじゃねえよ。竜胆と飲んでた」
「あ…竜胆さん…」

弟と聞いて、何故かホっとしたは、すぐさまその思いを打ち消した。
昔はクラスメートでも、今は債権者と債務者。そしてオーナーと従業員という立場であることを忘れてはいけない。

「えっと…じゃあ…わたし帰るね」
「ああ…つーかさー。オマエ、何でそんなこと聞いてきたんだよ」
「え…?」
「オレがオマエの借金肩代わりしたとか、誰かに吹き込まれたわけ?」
「ち、違うよ…ただ…気になっただけで…」
「だから何で気になったのか聞いてんの」
「う…」

まさかそこを突っ込まれるとは思わず、言葉に詰まる。この場で九井の名前を出していいものか考えたものの、聞いた話が違うのなら問題ないかと判断した。

「えっと…さっき九井さんに会って…」
「…は?ココ?」
「女の子を紹介するって言ってビルに来てたの」
「あー…何か連絡来てたな、そう言えば…。で?」
「あ…それで…その時に飲みに行こうって誘われて――」
「ハァ?で?飲みに行ったのかよ」
「え…」

いきなり食いついてきた蘭にギョっとして後ずさる。何か悪いことでも言ったのかと思いつつ「い、行ってない…けど…」と引き気味に応えた。
借金を蘭が肩代わりしたという話を聞いて、直接本人に確かめたくなったことで、結局九井の誘いは断ってしまったのだ。そのことを説明すると蘭はどことなく不機嫌になった。

「フーン…じゃあ、その話を聞かなけりゃ飲みに行ってたと」
「べ、別に変なあれじゃないって言うし…」
「あっそ。まあ別に…オマエが誰と飲みに行こうと関係ねえけど」

プイっと顔を反らす蘭を見て、は少しだけムっとしてしまった。

「なら今度から好きにさせてもらいますー」
「あ?」
「おやすみ!」
「あ、おい――」

一方的に話を切り上げて、がエントランスロビーに走って行く。
それを見て蘭は軽く舌打ちをした。

「ココのヤツ…半スクラップの刑だな…」

から大事な話があると呼び出され、飲みを中断してきてみれば、まさかの借金の話で、蘭としては少しだけイラっときていた。

「ったく…何が嘘ついてない?だ…。嘘くらいつくっつーの。反社だぞ、こっちは」

訳の分からない文句を言いつつ、元来た道を戻っていく。
この後、テンションが急降下した状態で戻って来た蘭に、竜胆が泣かされたのは言うまでもない。


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