第十話:嘘にするにはあまりに切実(2)



この日、望月は出張を終えて、梵天の事務所に顔を出した。
渋谷の高級エリア。高い塀に囲まれた広い敷地にある真っ黒で大きな建物は、一見シンプルで美術館のようにも見える。だが門の付近に立つスーツ姿の男達を見れば、一般人が立ち入れる場所ではないと一目で分かるだろう。
その男達に頭を下げられながら、望月を乗せた黒塗りのベンツが門をくぐり、敷地に伸びた道を進んで建物のエントランスへ横付けされた。

「お疲れ様です」
「おう。今日は誰か来てんのか」
「九井さんと蘭さんが先ほど」
「へえ。ボスは?」
「ボスはここ一週間ほど出かけておりません」
「あっそう…引きこもってんなァ、相変わらず」

望月は苦笑交じりで、部下の肩にポンっと手を乗せて中へと入って行く。
梵天のトップである佐野万次郎は、滅多なことで表には出ない。
心に闇を抱えている為、常に情緒不安定なので、殆ど幹部のメンバーが組織を回している状態だ。
後ろに二名の部下を従え、望月は長い廊下を歩いてエレベーターホールへ向かう。上から下へのルートはいくつかあれど、敵対組織の襲撃に備え、上に行けるエレベーターは奥まった場所に一つしかない。これが意外と面倒だった。

「ったく…上がる時だけ不便な造りだよなァ、ここは」

これを設計させたのは梵天のNo2である三途春千夜だ。何においてもまずはボスの安全を優先させる男で、普段の面倒さなど一切考慮してくれない。

「三途のボスファーストも困ったもんだぜ…。オマエらもそう思うだろ?」

と望月は後ろにいる部下に話しかける。しかし部下としてはNo2への愚痴に「そうですね」とも言えず、否定も肯定もしないで黙って聞き流すしかない。間違って三途の耳にでも入れば、切れ味抜群の日本刀で斬首されかねないからだ。
望月も部下からの返事は期待していないのか、そのまま別の部下が呼んでおいたエレベーターへ乗り込み、首をコキコキ鳴らしている。一カ月に及ぶ出張で疲れているのか、ついでに大欠伸を噛み殺した。

望月がエレベーターへ乗ったちょうどその頃。五階にある蘭の私室にいた九井は、げんなりした顔で部屋を出てエレベーターに乗り込んだ。そのまま二階に下りると、同時にチンという音がして、隣の扉が開く。そこから見た目が反社そのものといった懐かしい顔が降りてきた。

「おーココ!久しぶりだな」
「モッチーくん、今日戻りだったんすね」
「まーな。ってか…どうした?顔色わりいけど」

二人で連れ立ち、二階部分にある事務所へ向かう途中、腹を抑えて前かがみで歩く九井を見て、望月が苦笑した。

「何か悪いもんにでもあたったか?」
「はあ…まあ…そうとも言えるかも…」
「…マジで?」

冗談のつもりで言ったのに肯定にも似た答えが返ってきて、望月は軽く吹き出した。

「美食家気取ったオマエが何に中ったんだよ。カキか?それともカニ?」
「別に気取ってるわけじゃないっすけど。それにコレは食いもんじゃなくて蘭さんからのお仕置き喰らっただけだし」
「蘭から?珍しいな…オマエ、何やらかしたんだよ」

途端にニヤニヤしはじめた望月は、九井の細い肩に腕を回し、顏を覗き込む。視界一杯にデカい顔を近づけられ、九井の頬が若干引きつった。

「ちょっとした確認不足ってだけですよ…。まあ…蘭さんも説明不足だったってことで腹にグーパン一発で許してもらえたけど…」
「確認不足と説明不足…?何だ、そりゃ」

事情の知らない望月が頭上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げたが、これ以上、蘭の個人的なネタを誰かに洩らしたら、次はグーパン一発じゃ済まない。ここはやはり言わない方が賢明だと九井は思った。

「ちょっとした仕事のことっすよ」
「あっそ。どうせ蘭の店に質の悪い女でも紹介したんだろ。ダメだぞ、女は厳選しなきゃ」

望月は尤もらしいことを言って豪快に笑いながら事務所へ入って行く。その単純さを羨ましいと思いながら、九井は小さく溜息を吐いた。

(やっぱ…あれって結構マジだったよなァ、蘭さん…)

先ほどの蘭の不機嫌全開の顔を思い出し、九井は苦笑した。
蘭にお仕置きを受けた内容は、望月に話した通り。蘭への確認もせず、に借金のネタを話してしまったことだった。だが実はもう一つ別の理由があった。

――オマエ…アイツを飲みに誘ったって?

むしろ怒りの本命はそっちだったんじゃないのかと思うほど、殺気の籠った目で睨まれた時、九井は自分が蘭の"地雷"を踏んでしまったことに気づいた。
という女は、灰谷蘭にとっては他人が踏み入れてはいけない領域だったようだ。
思えば債権を売ってくれと言ってきた辺りから、少しおかしいなとは感じていたが、昔の知り合いだと聞かされたことで、あまり深い意味はないのだと思い込んでしまった。
だが、よくよく考えれば、あの面倒くさがりの蘭がたかが中学生の頃のクラスメートという理由で、わざわざ自分から債権を買い取るなんて面倒なことをするはずがない。

(あレはどう見ても…ヤキモチ…だよな…)

オレの店の従業員を勝手に飲みに誘うなとか、バレなきゃオレに内緒にしとくつもりだったのか等々、ブツブツと言われたことを思い出すと、九井も苦笑が漏れた。
別にそんなつもりはなく、何なら蘭を入れて飲みに行っても良かった。ただ、中学生の頃の蘭の話を聞きたかったのと、後はやはり何故蘭がそこまで彼女を気にかけるのかを知りたかった。を飲みに誘った理由があるとすれば、そんな些細なものだ。

(まあ…ちゃん、健気で可愛いし結構タイプではあるけど、蘭さんの知り合いってだけでブレーキかかるしな…ってか…マジで手を出さなくて良かった…)

自分でコーヒーを淹れつつ、未だに鈍痛の残る腹部を擦りながら、シミジミと思う。

「つーか…蘭さんも案外カワイイ一面あったんだな…。ヤキモチ妬くとか…」
「あ?何か言ったか?」
「……っ」

気づけば望月が背後に立っている。九井はギョっとしたものの、平静を装い笑顔を向けた。これがバレれば望月は確実に蘭をからかいにいくはずだ。そうすれば怒りの矛先は再び九井に向けられてしまう。

「な…何でもないっス」
「そうか?ああ、ココ、オレにもコーヒーな」
「はいはい…」

お茶くみじゃねえんだけど、と思いながらも、もう一つカップを出し、コーヒーを注ぐ。望月は基本、コーヒーはブラックでしか飲まないので楽でいい。

「おー、そうだ!じゃがポックル買ってきたから食おうぜ」
「え…そこは白い恋人じゃないんスか」

ガサゴソと出張土産の入った袋を漁る望月を見て、九井が驚愕した顔で振り向いた。

「定番過ぎて飽きてんだろーと思って違うの買ってきたんじゃねーか」
「いや、全然飽きないっすけど。だいたいコーヒーには白い恋人でしょ」
「何だ、その理屈。じゃあ…ほらよ」

と望月が投げて寄こしたのは、定番過ぎると称された菓子の箱だった。

「え…あるんスか」
「一応、そっちも買っておいたんだよ。どうせマイキーや灰谷兄弟はそっちの方がいいとか言いそうだしなー。オレは甘いもんより、しょっぱいのがいいが」

なかなか望月にしては 気が利くと思いつつ、九井は早速お菓子の包みを解いていく。だが中身を見た瞬間、九井の眉間がぐぐっと真ん中へ寄った。

「何でチョコの方、買ってくるんスかっ!普通、ホワイトチョコの方でしょ」
「あぁ?同じチョコだし問題ねーだろがっ」
「いや、大問題っす!全然違うし、あのホワイトチョコだから美味いんスよ?チョコ挟んだクッキーなら東京にもあるんで」
「うっせーなー。だったらテメェで買ってくりゃいいだろ」
「わざわざ飛行機乗って白い恋人を買いに行くやついないっスよ。今は通販でも買えるし――」

九井がムキになって言い返すと、望月のテンションが一気に急降下した。

「…土産買ってきた相手に、よくそんな身も蓋もないこと言えんな…だったらネット注文して買えよ」
「す…すみません」

先輩に対して言い過ぎたと思ったのか、九井の顏が引きつっていく。そこへ「たかが土産のお菓子くらいで、ガタガタうっせぇよ…」と、これまた不機嫌そうな蘭が顔を出した。

「おー蘭。オマエも食うか?」
「……あーうん。オレ、黒い・・恋人な」
「む…」

蘭の嫌味に望月の目が更に細まり、九井の額に変な汗が浮かぶ。普段は気さくな二人だが、元々は"S62世代"と呼ばれたツワモノ達だけに、本気でキレられると後が恐ろしい。自分の発言がキッカケでケンカをされるのも困ってしまう。
だが、九井の心配は杞憂で終わった。蘭は寝不足なのか、欠伸をしつつ「ココ~オレにもコーヒー」と言いながら、ソファに寝転がった。どうやら竜胆と朝まで飲んでたことで二日酔いらしい。先ほどお仕置きを受けた時はまだ酔ってる最中だったが、そろそろ睡魔の方が強くなってくる頃だ。
それを見た望月も萎えたのか、小さな苛立ちも納まったようで、向かい側のソファに腰を下ろし、蘭にちょっかいをかけ始めた。

「蘭がそこまで飲むとか珍しいじゃねえか。女にでもフラれたか?」

望月としてはいつものように、軽い冗談として何の気なしに言った一言だった。だが今の蘭には通じなかったらしい。ムっとしたように目を細めて上半身を起こした。

「……んなわけねえじゃん。つーかオレ、フラれたことねえし」
「ぬ…自惚れやがって」
「自惚れじゃなく事実だから」

更にシレっと言いのけた蘭は、九井が出してくれた土産のクッキーを口へ放り込んだ。寝不足の時は甘い物が食べたくなるらしい。
呑気に土産を食べだした蘭を見て、望月は面白くなさげに舌打ちをした。自分はそこまでモテないので、蘭の態度にイライラしているのだ。

「好きでもねえ女にモテても仕方ねえだろ」
「モテねえよかマシじゃね?なあ?ココ」
「えっあ、いや…まあ…そう…なのかな…?」

いきなり蘭に話を振られた九井が言葉を濁す。あまり二人の会話に加わりたくない。この二人は幹部一、仲のいい飲み仲間だが、ケンカになると少々厄介だからだ。
そんな九井の心情を知る由もなく、望月は鼻で笑って身を乗り出した。

「フラれたことねえって言っても、オマエがフラれねえのは誰にも本気にならねえからだろが」
「………」
「な…何だよ」

いつもなら、ここで蘭も何かしら言い返すまでがデフォルトなのだが、急に黙り込んだことで望月も調子が狂ったようだ。戸惑い顔で九井の方を見た。
この場合、どうしたんだ?コイツ、と言いたいらしい。
それを察知した九井は軽く首を振って知らないフリをしておいた。
一方、蘭は誰にも本気にならないからだと指摘され、一瞬言葉に詰まったのは、脳裏にある人物の顔が過ぎったからだった。
だからじゃないが、つい「本気になったことくらいあるわ、オレだって」と口にしてしまった。言ってから九井の淹れたコーヒーを口に運ぶ。だが妙な空気を感じて視線を上げると、驚愕した望月と目が合った。

「…は?マジか、それ」
「あ?」
「本気になった女…いるのかよ、オマエに?」

よほど驚いたらしい。望月は蘭の一言に食いつき、訝しそうに眉間を寄せた。

「…いちゃ悪ぃかよ…」

ここまで食いつかれると思っていなかった蘭は、どこか気まずそうに視線を反らす。望月は望月で、これまでの蘭の素行を知っているだけに、未だに疑いの目で見ていた。

「四股五股とか平気でかけてるオマエに本気の女ァ?どうせ嘘だろ?」
「嘘じゃねえよ。ってか、遊びの女はこの前全員切ったっつーの」
「え」
「は?マジか」

今度は九井も驚きの声を上げて蘭を見た。てっきり過去の話をしているのかと思えば、数いた女達を最近切ったというのだから当然だ。
そして言った本人も内心ではマズいと思っていた。過去の初恋の話のつもりが、ついつい現在進行形のように話してしまったからだ。
そして、望月と付き合いの長い蘭だからこそ、次に言われる言葉が想像できてしまった。
望月はジっと蘭を見ていたが、手にしていたカップを静かに置いた。

「へえ…じゃあ…その女、オレに紹介しろよ」
「……(ほらきた)」

案の定な言葉が返ってきたことで、蘭は小さく溜息を吐いた。九井に至っては何となく蘭の言っている相手のことが想像できたものの、関わりたくないので敢えて口にしはしない。

「紹介?何で」
「そりゃオレが知る限り、特定の女をつくった蘭を見たことねえからな。興味あんだよ。その話が本当なら紹介くらいできるだろ?」

望月はニヤニヤしながら蘭を見ている。話半分も信じていないようだ。それに気づいた蘭も、いよいよ引っ込みがつかなくなった。

「……当たり前だろ」

と言いつつ、何言ってんだ、オレは…と蘭の笑顔が少しずつ引きつっていく。紹介も何も、今の蘭には本気で付き合っている恋人はいない。傍で聞いていた九井は、蘭がどうする気なのかと固唾をのんで見守っていた。

「よし決まりだ。んじゃあ今夜、オレの店に連れて来い」
「は?何勝手に決めてんだよ」
「いいだろ?こういう話は早い方が。ああ、言っとくけど、ちゃんと・・・・恋人の女を連れて来いよ?」

望月は遠回しに身代わりはダメだぞ、と言っているようなもので、さすがの蘭もムッとしたように目を細めた。

「分かったよ…今夜な」

ここで引けば後々しつこいくらいに嫌味を言われるだろう。それだけはムカつくので避けたい。そう思った蘭は仕方なく頷いてしまった。

「じゃあオレはボスに土産でも渡してくっかなー」

望月は楽しげに言うと、土産袋を持って事務所を出て行ってしまった。
その瞬間、深い溜息が漏れる。たった一言から始まった売り言葉に買い言葉。二日酔いでイライラしてたのもあり、途中から引っ込みがつかなくなってしまった。

「どーすんですか、蘭さん…」
「あ?」

全てを聞いていた九井が苦笑交じりで訊いてくる。

「本気の恋人…いるんでしたっけ」
「……チッ。知ってて聞くな」
「すんません…でもモッチーくんも気づいてますよ、あれ」
「だろうなァ…ムカつく。適当な女を連れてったところで、アイツも知り合いの女は多いし、だいたい共通してんのがめんどくせえ」
「ああ…それはだってモッチーくんと竜胆くんの三人でよく合コンしてたからじゃないっスか?」
「……まあな」

耳が痛いというように蘭は溜息を吐いて、再びソファに寝転がった。

「あ~…どうすっかなー」
「その切ったっていう女の誰かに頼むとか…」
「無理。全員、モッチー知ってるし。と言ってアイツも知らない女を召喚したとこで、いきなり恋人のフリなんか頼んでみろ。その後が更に面倒くせえことになる」
「ああ…でしょうね」

なまじモテるだけに、蘭が女に借りでも作ろうものなら、何を要求されるか分からない。それに本気の女として紹介するのだから、その場限りでもダメだと思った。その辺を考えると、九井でも後々まで大変なことになるのが想像出来る。

「ココの知り合いでいねえの?適当に可愛くて面倒じゃなくて口の堅い女」
「いや…いても即席で蘭さんの恋人のフリが出来るような子は…」

と言いかけた時、九井の脳裏にの顏が過ぎった。

「いますよ、一人」
「マジ?」

九井の一言で蘭がガバリと体を起こした。

「今の条件にピッタリな子」
「誰だよ。今すぐ会わせろ」

蘭が食いつくのを見て、九井はニヤリと笑った。



△▼△



「え…恋人のフリ?」

が驚いて顔を上げると、目の前の蘭が真剣な顔で「そう。それがオマエの今夜の仕事」と言いながら微笑んだ。その訳の分からない頼みごとを聞いて、は深い溜息を吐いた。
夕べの疲れのせいでグッスリ眠っているところへ、勝手に合鍵を使って入って来た蘭に起こされた。死ぬほど驚いたというのに、そこまでされて告げられたのが恋人のフリ。何を言ってるんだと思うのは仕方のないことだ。

「それが仕事って…何で?」
「理由はどうでもいいだろ。必要だからだよ、の力が」
「え…必要…?」

内容はふざけてると思ったものの、蘭は真剣な顔で話している。しかもオマエが必要だと言われたのは初めてで、は少しだけドキっとしてしまった。

「やってくれる?」
「え…で、でも…店の仕事は?」
「あー…あんなの別に仮りの仕事だし――」
「え?何?」
「い、いや…何でもねえ」

危うくネタバレしそうになり、蘭は慌てて笑顔で取り繕った。そもそも裏方の人間は誰でもできる仕事であり、他の店から補充することは簡単にできる。それをの為に用意しただけなのだから、実際はが行こうが休もうが、店がそこまで困ることはない。

「オレの言う通りにすりゃ、ちゃんとギャラも払う」
「え…ほんとに仕事なの?恋人のフリって…」

お金をくれると言われ、ちょっと驚いたものの、蘭の次の言葉では更に驚く羽目になった。

「当たり前だろ。オレのプライドがかかってんだよ(!)ちゃんと演じてくれたらオマエの借金、全額チャラにしてやる」
「えっ?全額って…。恋人のフリを一回するだけでチャラって、それはいくら何でも…」
「あ?誰が一回だけっつったよ」
「…え?」

鼻で笑われ、はキョトンとした。

「だ、だってさっき今夜、恋人のフリをしてくれって…」
「あー…今夜のは手始めな」
「手始め…?」

それを聞いた時、少し嫌な予感がした。蘭はの隣に移動して座ると、身を乗り出して微笑んだ。

「とりあえず、オレがいいっつーまで恋人を演じてくれたら…の借金分のギャラを払うってことだよ」
「……灰谷くんがいいって言うまで…?」

その申し出にはさすがに驚き、は唖然とした。


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