第十一話:嘘にするにはあまりに切実―(3)



そこは店全体が淡いブルーの照明で照らされたお洒落空間だった。席の周りは背の高いパーティションが置かれ、客のプライバシーを守っている。
座り心地の良さそうなソファと、席の横にはこれまた青いライトで照らされた水槽。中にはカラフルな熱帯魚が泳いでいた。
今のでは絶対に入店できない会員制高級ラウンジ。
隣でをエスコートしているのは、彼女に恋人のフリをしろと無茶ぶりをしてきた、灰谷蘭その人だ。

「ね、ねえ…場違いじゃない…?わたし…」
「あ?どっからどう見てもハイセンスな女だろ。何せオレが全て見立てたんだからな」

蘭の言う通り、今のは普段とは別人のように着飾っている。まず、最初に蘭はを美容室へと連れて行き、プロにメイクを頼んだ。濃すぎず、薄すぎず、上品なメイクに加え、そのメイクに見合った髪にセットする。それが終わると、車で移動し、次にハイブランドの店で服と靴とアクセサリーを購入。着替えから全てをプロに任せた。
上品なラインの黒いドレスはプラダで、細く色白のに良く似合っている。アクセサリーも控えめな大きさのダイヤが耳と首元を飾り、どこからどう見ても、完璧で美しい女性に仕上がっていた。

「……で、でもわたし、こんな高いヒール履いたことないし…転びそう…」
「オマエ…ここで転んだら借金額、もっと増やしてやっからな」
「……な、何それ…横暴っ」
「そりゃオレは反社の人間だから当然だろ」
「あ…そ、そっか…」
「素直かっ。冗談も通じねえのかよ」
「…む」

ここまでの会話はもちろん小声だ。ウエイターに案内されながら、男が女の耳元に口を寄せている光景は、一見すれば仲のいい本物のカップルに見える。誰もふざけた会話を交わしているとは思わないだろう。

「オーナーはこちらでお待ちになっております」

丁寧な所作のウエイターに案内されたのは、この会員制ラウンジでも本物のVIPしか入れないという個室。扉からして重厚な雰囲気が伝わってきて、はゴクリと喉を鳴らした。

「いいか…?ここからオレ達は恋人同士だ。間違ってもオレのことを苗字で呼ぶな」
「え…そんなの初めて聞いたんだけど…」
「あのなァ…設定は本気の恋人。そんな女が恋人のことを苗字で呼ぶと思ってんの?いいから名前で呼べ」
「な…名前…ら…蘭…?」
「あー…何かかてぇから蘭ちゃんって呼べ。その方が仲良さげだろ?」
「ら…蘭ちゃん…?」

ニヤリと笑う蘭に、の顏が驚愕の表情に変わる。いきなり名前呼びも不安なのに、ちゃん付けで呼べとはハードルが高すぎる。

「だ、大丈夫かな…」
「相手は超がつくほど単純な男だから、オマエが自然にしといてくれたら信じるって。ああ、その為にオレがオマエにすることは絶対に拒むな」
「…え?」
「スキンシップだよ。いちいち大げさな反応しねえで、その場の状況に応じて瞬時に合わせろ」
「そ、そんな無茶をこのギリギリの状況で言う?!」
「あ?仕方ねえだろ。打ち合わせする時間がなかったんだから」

土壇場でまたしても無茶ぶりをされ、は絶句した。失敗できないという変なプレッシャーで、一気に緊張してくる。

「あの…灰谷様?」
「ああ、悪い。こっちの話~」

ウエイターに背中を向けてコソコソ話していた蘭は、訝しげに二人を見ている男にニッコリと微笑むと、繋いでいたの手をぐいっと引っ張った。

「ほら行くぞ」
「……蘭ちゃん…蘭ちゃん…蘭ちゃん…」

は青い顔でブツブツと蘭を呼ぶ練習をしている。それを見下ろしながら蘭は大丈夫か?と心配になってきた。

――ピッタリの子、いますよ。

昼間、九井がそう言いながら提案をしてきたのはのことだった。彼女なら望月とは面識がなく、なおかつ恋人のフリをしてくれと頼んでも見返りを求めるような人間じゃないこと。ついでに知り合いなので安心して頼めることを上げ、借金があるのだから、それをチャラにしてやると言えば、蘭の狙い通り、変な仕事をさせずに彼女を納得させられるんじゃないかということだった。
最初は蘭も渋っていたが、最後の借金の話で食いついた。これでが納得してくれれば、蘭としても黙って立て替えてしまった件を知られずに済む。
そこからすぐにの元へ向かい、強引に説得して今に至る。

(まあ…かなり強引に承諾させたが…これが成功すればオレにとってもにとってもプラスにはなるしな…)

本当なら、別にここまでして望月に見栄を張らなくてもいいのだが、少なからず蘭もこの状況を楽しんでいた。

(やっぱ…こういう格好させたら、めちゃくちゃ可愛くなんだよなァ…)

隣で未だに蘭の名前をブツブツ言っているを見下ろし、少しの間、見惚れていた。元が好きだった女の子であり、こうして手を繋いでいると恋人という、いつもなら面倒だと感じる関係も悪くはないと思う。いや、思うだけで他の女とでは絶対に無理だと思うのだが、相手だと色々と想像して顔がニヤケそうになった。

「…蘭ちゃん」
「……っ」

その時だった。がふと顔を上げて蘭の名前を呼んだ。自分を見上げるの瞳を見つめながら、その不意打ちに心臓が派手な音を立てた。

「……あ?」
「ちょっと…練習で呼んだだけ」

照れ臭そうに目を伏せるを見て、勝手に鼓動が速くなっていく。に初めて名前を呼ばれ、何かが蘭の胸を突き抜けていった。

「…どうしたの?」
「…いや…コホン…」

照れ臭さで顔が熱くなるのは何年ぶりか思い出せない。蘭は軽く咳払いをして平静を装うと「行くぞ」と言って、ウエイターの前へ歩いて行った。


△▼△


「は、初めまして…です」

少しだけ声が震えたのは、向かい側のソファにどっしりと座っている蘭の同僚(?)だという人の顔が、物凄く…怖かったからだ。
何故か個室に入った瞬間から、を凝視してくる。何となく驚いてる空気が伝わってきた。
蘭の話では、彼に本気の恋人などいないと思い込んでるということだったが、こんなしょぼい女が蘭の本気の恋人?という意味で驚いてるのかもしれない。父が失踪してからは低辺の生活を強いられてきたことで、もしかしたら庶民臭がするのかもしれないと思った。いくら蘭がハイセンスな物を選んでくれても、自分に似合っているとは限らないからだ。

(明らかに人選ミスだよ、灰谷くん…)

「ど、どうも…。オレは…望月だ。アンタが蘭の恋人…?」
「は…はい、まあ――」
「いい女だろー?」
「ひゃ…」

いきなり肩をグイっと抱き寄せられ、変な声が出た。一瞬ジロリと蘭に睨まれる。その時の状況を見極めて演じろなんて難しすぎると思いながら、はとりあえず笑顔を絶やさなければいけるかなと、ニッコリ微笑んでおいた。
望月は少し呆気にとられた表情で、と蘭を交互に見ている。

「チッ。オマエにしちゃまともな子を選んだなぁ?」
「何だよ、それが負け惜しみ?」
「あ?別に勝ち負けの問題じゃねえだろっ。おい、ビールもって来い!」

望月は怖い顔でウエイターに怒鳴っている。それだけで絵的に怖い。
泣く子も黙る梵天の幹部というだけで十分に怖い。
ただ、蘭をはじめとして、竜胆や九井は、一見物腰が柔らかいから、もそのイメージで考えていた。
なのに望月は見た目からして反社という看板を背負っているようで、余計にビビってしまう。

「んじゃーは?何飲む?オマエはビールじゃなくてシャンパン好きだよな?」
「へ?あ、う、うん…じゃあ…シャンパンを…飲もうかな」

こっちもこれはこれで怖い。何が怖いって蘭が優しいからだ。応えながらも、ついつい顔が引きつりそうになる。

「あとは…チーズ頼もうか?」
「そ、そうだね。お願いしようかな…」

そう応えつつも、やはり蘭相手にこの状態は恥ずかしくて顔に熱が集中していく。隣に座ってる蘭の手がずっとの髪を撫でたり、指でくるくるしてくるせいだ。美容室で綺麗にセットしてくれたおかげで、今の髪は艶サラなので、蘭の指に梳かれるとサラサラと零れ落ちて、やけにドキドキしてきた。
望月もガン見してくるので、一秒たりとも表情に気が抜けない。

ちゃん…だっけ?何か硬くねえか?さっきから」
「……っ?」

それまでジっと達の様子を伺っていた望月が、怪訝そうな顔で聞いてくるので心臓が口から飛び出るかと思った。でもさすがなのは蘭だった。表情一つ変えず、微笑まで浮かべての肩を更に抱き寄せる。

「緊張してんだよ、コイツ。オレが仲間紹介するって言ったから。なー?
「そ…そうなんです」

どうにか応えると、望月は更に身を乗り出して蘭へ問いかけた。

「…へえ。他の奴らには会わせてねえのか」
「まあね。ああ、でも竜胆には会わせたけど」
「ふーん…」

やはりまだ少し疑っているのか、望月は未だに疑いの眼差しを向けてくる。ますますヘマは出来ないというプレッシャーに襲われて、知らないうちに身体が硬くなっていたらしい。
蘭の手が肩から外され、不意に顎を持ち上げられた。

「そんな緊張すんなって。コイツ、顏はゴツいけど気のいい奴だから」
「あ?誰の顏がゴツいって?」
「オマエしかいねえだろ」

そのやり取りを聞いているとハラハラしかしない。でもこれが普段通りなのか、望月は特に怒るでもなく、苦笑を洩らしながら運ばれきたお酒をグラスに注ぎだした。

「おーまずは乾杯しようぜ」
「そうだな。はこっちなー?」
「あ…ありがと…」

ニコニコしながら手にグラスを持たせてくれる蘭にドキっとさせられる。さっきから蘭がやけに優しい。

(恋人のフリしてるからだろうけど…いちいちドキドキする…)

「じゃあ、カンパーイ」

蘭が音頭を取って、三人のグラスが軽く触れあう。は緊張もピークで、注いで貰ったシャンパンをぐいっと一気に飲んでしまった。

「へえ、ちゃん、結構いけるクチか?」
「え?あ…お酒は…好きな方です」
「いいじゃねえか。じゃあもっと飲めよ」
「あ…ありがとう御座います」

望月がシャンパンを注いでくれてお礼を言う。見た目よりは確かに気のいい人みたいだ。

「おい、モッチー。あんまに気安く話しかけんなよ」
「はあ?何だそれ。オマエでもヤキモチ妬くんだな、ウケる」
「あ?うっせーよ、ゴリラ」
「誰がゴリラだ、コラァ!」

またしても言い合いになっているが、気心の知れた関係みたいで意外と見ていて楽しい。ただ蘭に名前を呼ばれるたび、気恥ずかしくてどんな顔をしていいのか分からなくなってしまうのが困る。
名前を呼ばれて、こんな風にくっつきながらお酒を飲んでいると、本当に蘭の恋人になったみたいで照れ臭いのだ。

、腹減ってねえ?何か食べる?」
「え…?あ…そ、そうだね。灰…」
「ん?」
「ら、蘭ちゃんは何食べる?」

思わず苗字を言いそうになった瞬間、蘭の眉がピクリと動いたのを見逃さなかった。すぐに練習した呼び方で言えば、蘭はメニューを広げてみせてくれた。

「ここはモッチーの店だから何でもタダだし好きなもん食えよ」
「え…」
「いや、何でタダだと思うんだよ。金は払え」
「んなケチくせぇこと言うなよ」
「ケチで言ってねえ」
「仲いいんですね、二人」
「「あ?良くねえよ」」

がつい口を挟むと、見事にハモったから笑ってしまった。
の知ってる蘭は、学校にいる間、女子には囲まれてはいたが、男子からは怖がられて誰とも親しくしてなかった気がする。だからこそ、こんな風に何でも言い合える仲間に囲まれてる彼を見て、少しだけホっとしてしまった。

「何笑ってんのー?」
「だ、だって…二人のやり取り面白いから」
「つーか、やっと笑ったなぁ?ちゃん。まあ、好きなもん食えよ、蘭には奢らねえけど、ちゃんの分はタダだ」
「は?何その差別。つーかオレのを餌付けすんなよ」
「オレは可愛い子しかサービスしねーんだよ。ってかさり気なく惚気てんじゃねえぞ、蘭っ」
「妬くな妬くな」

が笑っただけで、また二人がモメだしたけど、それもおかしくて笑ってしまう。シャンパン効果もあって、だいぶ緊張も解れてきたかもしれない。

「まあ、でも…オマエもこんないい子捕まえたんだし、大事にしてやれよ」
「言われなくても大事にするわ」
「ケッ。灰谷蘭も遂に一人の女に決めたってわけかよ。らしくねえなァ」
「オマエ、それの前で言う?」
「おっと…悪い悪い。まあ昔のことだから気にすんなよ、ちゃん」
「は、はい…」
「つーか、そう言えば…」

と望月はビールを煽りながら、ふとを見た。

「オマエら、どこで知り合ったんだよ」
「え…?」

その問いにドキっとして、思わず蘭を見上げてしまった。というのも、その件については打ち合わせすらしていない。
蘭も同じことを思ったのか、チラっとに視線を送って「あー」と苦笑いを浮かべた。

「中学の同級生なんだわ」
「……は?」
「ちょ…」

蘭がそこだけ本当のことを言うとは思わなかった。が驚いて顔を上げると、蘭は軽くくちびるに弧を描いている。これはオレに任せろと言ってるのかもしれない。

「まあ、最近再会して…付き合うことにしたんだよなー?」
「う、うん…そうだったね」

最近再会したのは間違ってないから、そこはすんなり頷けた。望月も「へえ…すげーな、それ」とすっかり信じてるようだ。

「中学の頃の蘭はどんな感じだったんだよ」
「え…っと…不良…でした」
「ぶははっそりゃそーだろうなぁ」

の返答に爆笑した望月は「その頃は狂獄とやりあってたんだっけか?」と蘭を見た。だが蘭は「思い出したくもねえわ」と顔をしかめている。
そこで思い出した。あの頃の蘭はそのチームと抗争になり、そして――。

「あん時は…大事なもん諦めて自暴自棄になってたからな」
「…え?」

不意に真顔で呟く蘭を見てドキっとした。望んでそうなったから後悔してないと言ってたはずなのに、何でそんな寂しそうな顔をするんだろう。
あの頃の蘭は、いつも自由に見えて、は凄く羨ましかったのだ。

「灰谷く――」

つい、普段のように呼んでしまいそうになった時だった。
コンコンとノックをされ、ふと望月が顔を上げる。

「誰だ?」
「オレ~竜胆~」
「あ?竜胆?」
「……っ?」

その時、蘭の顏が、僅かに引きつったのが分かった。


BACK | MDS | CLAP