第十三話:嘘にするにはあまりに切実―(5)



「ハァ…退屈…」

リビングのソファに寝転がりながら、は手にしたリモコンでザッピングを繰り返し、適当にドラマを放送しているチャンネルで止めた。
時計を見れば午後九時過ぎ。本当なら今頃は事務所のあるビル内で走り回ってるはずの時間だ。しかし夕べ、蘭から仕事をするのを止められてしまった。

――モッチーも暇な時は事務所に顔出すんだよ。見つかったらバレんだろ。

オーナーからそう言われてしまえば仕方ない。は渋々仕事を休むことにした。そもそも借金返済の為に働いてただけのことで、今回の報酬が入ればあそこで働く意味はないのだ。
だが本来、真面目な性格のは、急に休んだりして店は大丈夫かなと考えてしまう。あれだけ細かな雑用があるのだから、今頃人手が足りずに店長たちは困っているのではないかと心配になった。
ただ蘭は「あんな仕事、誰か回せば済む話だ」と言っていた。なら何で人が足りないなんてわたしに言ったんだろう?と不思議に思う。

(それに夕べ…あれってキス…しようとした…?)

テレビ画面に流れる、恋人同士になった二人が初めてキスをするシーンをボーっと見ながら、ふと昨日のことを思い出す。他愛もない話をしていたはずだった。でも不意に蘭が身を屈めて、の方へ顔を寄せてきたのだ。
瞬間的にキスされる!と思ったの体は、驚きで硬直してしまった。
だが二人の唇が触れあうことはなかった。
蘭のケータイが鳴ったからだ。相手は望月だったようで、用件は『明後日なら時間が空くから、その時に鍋パやろうぜ』という話だったらしい。
まだキムチ鍋のレシピも把握していないは、その話を聞いて焦った。蘭も同様だ。予定よりも早くなったことで焦った二人に少し前の甘い空気はなくなり、結局その話をすることなく。
最後は蘭からの明日から仕事休めという話で終わってしまった。

――明日の夜、材料買ってくっから、そん時に練習なー?

蘭はそう言いながら帰って行ったものの、はそれから延々とネットでレシピを探す羽目になった。お酒も入ってたことで、その後は疲れ果てて眠ってしまい、起きたら昼近い時間。蘭が来るまではすることもないので、久しぶりに何もしない時間を貪っていた。

(望月さんから電話が来た時、灰谷くんもどことなく照れ臭そうに視線…逸らしたような…)

ドラマの中で、キスをした後の男の子が照れ臭そうに視線を逸らすシーンを見ながら、は昨夜の蘭を思い浮かべていた。あの時の蘭の表情が、今ドラマの中の男の子が見せた表情と何となく被って見えたのだ。そうなると、やはりあの瞬間の空気はそういう・・・・ことだったんだろうかとも思えてくる。

「いや…いやいやいや…ないないない…。だって、あの灰谷くんがわたしにキスしようとするはずないもんね…女に困ってなさそうだし」

あははっと自虐のように笑いながら体を起こし、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばす。少し温くなっても未だにいい香りをさせているので、気分を落ち着かせるためにそれを堪能する。この良質な豆は蘭がこの前、九井から貰ってきたと言ってくれたものだ。

(でも…何でくれたんだろ…)

以前、アレコレ服や靴を買って揃えてくれたのは先行投資だと言っていたし、美容室やエステに連れてってくれるのもそれと同じだ。でもこの豆は違う。

――オマエ、コーヒー好きなんだろ?

ぶっきらぼうに言いながら素っ気ない態度で袋を押し付けてきた時は、蘭が九井から貰った豆の余り物をくれたのだと思っていた。でも、それにしてはコーヒー豆の量が多かった気もする。まるで一袋そのままをくれたような感じだった。

「…もしかして九井さんから貰ってきてくれた…とか?」

ふとそんなことを考えたものの、再び「いや、ないか」とすぐに打ち消した。
がコーヒー好きだからと言って、わざわざ貰ってきてくれるなんて蘭らしくない。
その時、部屋のインターフォンが鳴り、ハッとしながら立ち上がった。
そろそろ蘭が来てもいい時間だ。昨日散々勝手に入って来ないでと言ったおかげで、今日はきちんとインターフォンを鳴らしてくれたらしい。

「これが普通なのよ」

とホっとしながら応答しようと思った時だった。玄関の方で解錠する音と共に「おい、」という蘭の声。はそこで深い溜息を吐いた。

「もう、だから何で鍵を開けるのっ」

大きな袋を手にリビングに入ってきた蘭を見て、がつかさず文句を言った。しかし当の本人は「重てぇ…」とブツブツ言いながら、キッチンにそれを置くと、徐にの方へ振り向く。

「オマエが出るのおせぇからだろが。鳴らしたら秒で開けろよ」
「そ、そんなの無理…って…それ、もしかして…」

キッチン台の上に置かれた大きなスーパーの袋にやっと気づいたは、ひくりと口元を引きつらせた。

「おー、これ部下に買ってこさせたキムチ鍋の材料な。ちゃんとレシピ見てベンキョーしてたかぁ?」

身を屈めて、の頭に手を置いた蘭は、ぐりぐりと頭を振ってくる。その手を振り払ったは「ベンキョーって?」と首をかしげた。
今度は蘭の口元がピクリと引きつる。

「オマエ…まさか一日遊んで過ごしてたんじゃねえだろうな…」
「…え…っと…」

これはマズいかも、と思っていると、蘭がリビングの方へ目を向けた。そこには昼から寛いでましたと言わんばかりの証拠が揃っている。
コーヒーカップの他にはチョコレートの箱、スナック菓子の袋。全てがテレビを見ながらつまんでいたものだ。

「テメェ…!仕事休んでいいっつったからって、誰もゴロゴロしてろとは言ってねえぞ」
「だ、だって昨日はそんなこと一言も…」
「言わなくても鍋パは明日なんだから、それくらい分かるだろー?」

蘭が呆れたように溜息を吐き、はしゅんと項垂れた。

「分かった…今からやる」
「当然だ。材料たっぷり買ってきたんだからな」
「……自分で買ってきたわけじゃないくせに」

理不尽な蘭の態度についボソリと本音が零れ落ちると、スーツのジャケットを脱いでいた蘭が、ぐりんと肩越しに振り返った。若干、目が細くなっているところを見れば、今のは聞こえていたようだ。

「あー?何か言ったぁ?」
「何でもないっ」

仕方なく腕まくりをしながらキッチンへ行くと、蘭もシャツの袖をまくりながら歩いてきた。

「え、灰谷くんも手伝ってくれるの…?」
「まさか。オレは常に食べる専門だし。これ飲んで待つんだよ」

蘭はを押しのけると、冷蔵庫を開けて中から缶ビールを取り出した。それを見たの口が僅かに尖る。人に練習させておいて、自分だけ飲むなんてズルいと言いたげだ。

「ほら、急がねえと朝になんぞー」

カウンターテーブルのスツールに腰をかけ、優雅にロンググラスへビールを注いでいるその姿にイラっとしつつも「分かりましたよっ」と言いながら、は鍋の材料を出していく。何でわたしが、と思わないでもない。恋人のフリをするのは蘭の都合なのに。そういう思いが顔に出ていたのか、を楽しげに観察していた蘭が軽く吹き出した。

「オマエ…怒るとタコみたいになるな」
「タコぉ?何でタコなの…っ」

はムっとしつつ、ドンとカウンターを叩く。蘭は動じることなくビールグラスを口へ運びながら、の顔を指さした。

「顔が真っ赤だし、口がすげー尖ってるし?タコだろ、間違いなく」
「…む」

をディスりながら、蘭は優雅にビールを飲んでいる。言いたいことを言ってくる蘭に怒りを覚え、は袋から出したネギを握り締めながら、手をぷるぷると震わせていた。

「…実は灰谷くんてモテないでしょ…」
「あ?」

急に低音で呟かれ、蘭が顔を上げると、の目が半分以下になっていた。何となく負のオーラを感じさせるその顏に吹きそうになりつつ「んなわけねえだろ」と澄ました顔で言い返す。

「嘘だ。こーんな意地の悪い男、モテるはずがない」
「…テメ…言うじゃねえか。つーかオレは他の女には優しいの。意地悪なんか言ったことねえわ」
「…な、何それ…いくら元クラスメートだからって差別してる」
「何、オレに優しくされてーの?ちゃんは」

小首を傾げながら魅力的な笑みを浮かべる蘭に、はドキっとしてしまった。

「ち…違うからっ別にわたしは灰谷くんなんかに――」
「うっせーなぁ。ビンボー女は黙って働け。ほら、手が止まってンぞ~」

その言い草には本気でムカっとしたものの、確実に当たっているだけにも言い返せない。
仕方なく手にしたネギを洗ってからまな板の上に置くと、切れ味のいい包丁でそれをざく切りにしていく。怒りに任せてダンダンっと切っていると、蘭の頬が微妙に引きつった。

「オマエ、乱暴じゃね?もう少し丁寧に――」
「我が家ではこうなのっ。手伝ってくれないなら放っておいて」
「……そんな怒んなよ。ジョークじゃん」
「怒ってません」

言いながらもやはり包丁を斧のように振るいながら野菜を叩き切っていく。他の女相手なら、蘭も口八丁手八丁で機嫌を取れるのだが、相手がともなるとそう簡単にはいかない。

(つい昔のノリで言いすぎたか…?)

頭の隅で反省しつつ、ムキになって食材を切っていくを眺めた。昔から単純素直な性格で、蘭がからかうと毎回食ってかかってくるが、蘭は何気に好きだった。他の女なら蘭を気遣い、何も言い返そうはしない女が多い中、だけはすぐムキになっては真っ赤になって怒り出す。それが面白くて、またからかってしまうのが、あの頃はデフォルトだった気がする。

(そこだけはオレもコイツも成長してねぇな…)

そんなことを考えていたら、思わず苦笑が漏れてしまった。がふと顔を上げて「何笑ってんの…?」とまだ口を尖らせている。

「いや…お互い変わってねぇなーと思ってただけ」
「……?」

言った意味が分からないのか、が首を傾げた時だった、またしても部屋のインターフォンが鳴り、と蘭は同時に玄関の方へ顔を向けた。この部屋は表向き空き家となっている為、外部の人間が訊ねてくることはない。蘭は「オレが出る」と言ってインターフォンのモニターを確認した。
そこには思った通り、弟の竜胆が立っている。

「開いてっから入って来いよ」
『あ、やっぱここにいた』

竜胆は笑った後ですぐに中へ入ってきた。仕事帰りなのか、スーツ姿で、手にはケーキの箱を持っている。それを見た蘭は怪訝そうに眉をひそめた。

「何しに来たんだよ」
「今夜、が練習するって言ってたし兄貴ここかと思ってさー。あ、これお土産~」

竜胆は手に持っていたケーキの箱をへ手渡した。その瞬間、の瞳が嬉しそうに輝きだす。

「いいんですか?ありがとう御座いますっ」
「兄貴の我がままに付き合わせてっから、そのお詫び」
「オイ、誰が我がままだって?」

が嬉しそうにしているのが何となく気に入らない蘭が、ジト目で弟を睨みつけている。その殺気だった視線を感じながらも、竜胆は気づかないフリをしてキッチンに並べられた材料を見た。

「何かやることある?オレも手伝うわ」
「え?でも…」
「いいからいいから。オレ、こういうの得意」

竜胆はスーツのジャケットを脱ぐと、それをスツールに引っ掛け、袖口のボタンを外しながら、キッチンへと立つ。蘭は蘭でそれを面白くなさげに眺めていた。

「練習なのに手伝ったら意味ねえだろ、竜胆」
「野菜切るだけだよ」
「ありがとう、竜胆さん。優しいんですねー」
「いや、これくらい」
「………」

がわざとらしい様子で竜胆を誉めだし、そのたび蘭の耳がピクリと動く。二人は楽しそうに会話しながら、それぞれ食材を分けて切り始めた。その光景はどことなくカップルに見えるのも、蘭には面白くない。が自分には見せないような明るい笑顔を竜胆に向けていることも気に入らなかった。

のヤツ…これ見よがしに竜胆に愛想振りまきやがって…ムカつく)

その時、が「竜胆くんってモテるでしょ」などと、さっき蘭に言ったことと真逆のことを言っているのが聞こえて、蘭のイライラ度数が徐々に上がっていった。同時に、何故こんなにもイライラするのか、と自問自答する。
でも蘭はすでにそれがどういう意味を持つのか、ハッキリと分かっていた。
夕べ、の笑顔を見た瞬間、昔のように胸が疼いて無意識に唇を寄せてしまった。望月から電話がなければ間違いなく、蘭はにキスをしていたはずだ。慌ただしく家に帰った後、自分が今も現在進行形で初恋の最中なんだと自覚するのにそれほど時間はかからず。自分の鈍さに苦笑してしまった。
会えなかった長い期間の間、ずっと覚えていたわけじゃない。でもことあるごとに淡い過去の初恋相手が脳裏を過ぎっていた。これまで蘭が他のどの女に対しても本気になれなかった理由。
それは全て、に関係していたのかもしれない。
そこまで気づいた時、蘭はグラスの中のビールをぐいっと煽ると、目の前で仲良さげに話す二人へ視線を向けた。

「おーい、竜胆」
「ん?」
「ハウス」
「……っ!」

たった一言、兄からの言葉に、竜胆の顏からサっと血の気が引く。そして切り終わった野菜をボールへ移すと、軽く手を洗いながら「ごめん」とに謝った。

「オレ、仕事残ってたの忘れてたわ。戻らねえと」

唐突に作業を切り上げた竜胆を見て、が驚いたように顔を上げた。

「え?あ…そうなの?」
「ごめんなー。途中までしか手伝えなくて」
「全然です。助かりました」

蘭も竜胆も忙しいのは承知している。も特に何を思うでもなく、笑顔でお礼を伝えた。竜胆は曖昧な笑みを浮かべてタオルで手を拭くと、急いでスーツのジャケットを羽織る。そして未だ無言でビールを飲んでいる蘭に「じゃあ兄貴、あとはよろしく~」と声をかけて、そそくさと部屋を出て行ってしまった。その素早さに少々呆気にとられつつ、は「ほんと忙しいんだね」と笑っている。蘭が竜胆にかけた圧など、手を動かすのに忙しかったせいか全く気づいてない。

「まーなー。梵天は年中無休だし」

竜胆がいなくなった途端、機嫌のいい表情を見せながら、蘭はに微笑んだ。しかし年中無休と聞いて首を捻る。そんなに忙しいというなら、何故蘭はこんな鍋を作る練習をのんびり見学してるんだろう、と。

「灰谷くんは…いいの?仕事に行かなくて」
「オレは朝から動いてぜーんぶ終わらせてきたからいーの」

と蘭は言い切ったが、これも半分本当で、半分は嘘だ。もちろん自分じゃなければいけない仕事は終わらせたものの、自分以外でもいい部分は全て部下に丸投げしてある。何かあれば蘭のケータイに連絡してくるはずだ。何のことはない。自分の気持ちをハッキリ自覚したら、との時間を優先したくなっただけだ。ただ意識してしまうせいで普段よりも少し口が悪くなってしまい、不本意ながらの機嫌を損ねてしまった感はあるものの、竜胆のおかげで少しはも機嫌が戻ったらしい。

(竜胆のヤツ…絶対わざと来たよな…)

弟の思惑に気づいていた蘭は、軽く苦笑いを浮かべた。わざとらしくに優しくしたのも、あの時の場の空気を呼んだに違いない。でも帰るタイミングを逃し、蘭が不機嫌そうにしているのを内心ビビってたはずだ。そこで蘭がちょうど戻れと言ったことで、いつにも増して素早い対応をしてたのは、それだけ蘭の怒りを意識してたということだろう。
その辺は長い付き合いなので、竜胆の考えてることが手に取るように分かる。きっと蘭のに対する態度を見ていて何かを察したんだろうということも。

(今度、アイツの欲しがってた車でも買ってやるか…)

兄貴らしい太っ腹なことを考えながら、ビールのお代わりを取りに行こうとスツールから下りた時だった。キッチンの方から「いた…っ」というの声が聞こえてきた。

「どうした?」

蘭がすぐにキッチンへ回り込むと、が指を咥えて泣きそうな顔をしている。見ればまな板の上にはニラが乗っており、のもう片方の手には包丁。どうやら指を切ったらしい。まな板の上にも血が滲んでいた。

「切ったのかよ?」
「う…ご、ごめん…食材に血が…」
「んなもん洗えばいいだろ。それよりちょっと見せろ」

蘭はが咥えている方の手をグイっと引き寄せた。すると左手人差し指がさっくり切れて今も血が溢れてきている。

「あ~…結構深く切ったな、これ」
「…ニラだしサクサクいけるかと思って…ごめん」
「バーカ。包丁使う時は手元に集中しろよ。あぶねえな…」
「き、気をつける――」

蘭に注意され、素直に頷こうとした時だった。掴まれていた手が更に持ち上げられ、あ、と思った時には指先が蘭の口の中へと吸い込まれていく。傷口をぬるりと舐められた感触がハッキリと脳まで伝わり、の顏が一瞬で赤く染まった。

「ほら、水でも洗って…」

垂れそうだった血を舐めとった蘭は、その手を水道の下へと持っていこうとした。だがふと恥ずかしそうに潤んだ瞳と至近距離で目が合う。
赤く染まった頬と潤んだ瞳。その恥じらいながらも誘うような表情に、蘭の喉が小さく鳴った。そして昨夜と同じように身を屈めて、今度こそ赤い唇に自分のを重ねる。
頭で考えるよりも先に、体が動いてしまった瞬間だった。


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