第十四話:嘘にするにはあまりに切実ー(6)


軽く衝撃を受けた。怪我をした指を舐められたことも衝撃ではあったが、更にその後、唇を奪われたこともの頭を混乱させるには十分すぎた。触れるだけじゃ飽き足らず、何度も角度を変えて唇を吸われている。その事実に戸惑い、同時に蘭のキスに酔わされ、動くことが出来ない。これまで彼氏にされたどのキスよりも、蘭から受けるキスは甘かった。
しばしフリーズしたものの、最後、柔らかい唇に啄まれる感触でハッと我に返ったは、理性をフル回転させて、蘭の胸を軽く突き飛ばした。

「な…何…で」
「…あ?何でって…」

に胸を押され、蘭もまた我に返った後、内心自分の行動に驚く。別に狙ってしたわけでもなく、またやましい気持ちがあったわけでもない。ただ自然と気持ちのまま行動してしまった。
しかしそれを言えば告白するようなものだ。

(いや…いっそ好きだって言うか…?)

今の自分の行動を説明しなくてはいけないのなら、その方が手っ取り早いと蘭は考えた。しかし一つ問題なのは――。

(って…女に告白したことねえんだけど…どんな顔で言えばいいのか分かんねえ…)

これまで女を口説くにしても、相手もその気だったので簡単だった。別に好きだと嘘をつく必要もなく、まして「付き合ってくれ」とは言ったこともない。これまでの女は皆が遊びなのだから当然だ。
は真っ赤な顔のまま蘭を見上げて「また…からかってるの…?」と、かすかに表情を歪めた。

「…からかってねえ」

思いがけない一言をぶつけられ、蘭はすぐに否定した。しかしは納得していないようだ。更にムッとした顔で蘭を睨みつけている。

「…じゃあ、どういうつもり?さ、最初に再会した時は仕事の一環だと思って従ったけど…今はそうじゃないでしょ…?なのに簡単にキスとかして…わたしを遊び相手の一人にするつもりなら――」
「あ?そんなんじゃねえよ」

さすがに最悪な勘違いをされそうになり、蘭は更に強く否定する。変に誤解をされるくらいなら、過去に伝えられなかった気持ちを口にした方がマシ。そう結論づけた蘭は、を真っすぐに見つめ返した。

「オレはオマエが――」

好きだ、と言葉を続けようとした時だった。カウンターテーブルの上に置いたままのケータイが鳴り出し、互いにビクリと肩を跳ねさせた。

「で…電話…鳴ってるよ…」
「あ、ああ…」

が赤い顔のまま視線を反らす。それを見た蘭も急に恥ずかしさがこみ上げて、すぐにキッチンを出てケータイを手に取った。表示を見れば、この状況の元凶ともいえる男、望月の名前。蘭は軽く舌打ちをしながら電話に出た。

「もしもしー。おう…――は?マジで?」

蘭が驚きの声を上げ、チラっとの方へ視線を送る。だがはそれに気づかず、未だにドキドキしている胸を押さえ、小さく深呼吸を繰り返していた。

――オレはオマエが…

突然、蘭にキスをされて戸惑っている真っ最中に、告白めいた空気と言葉。それはを更に動揺させるに十分なものだった。
いくら男経験が少ないとはいえ、昔とは違う。もう何も知らない女子中学生ではないのだ。あの手の空気の意味くらいは察することができる。

(灰谷くん…何を言いかけたんだろう…まさか、わたしが好き…とか?)

頭の中ではありえないと思うが、さっきの言葉の続きからはそれ以外の言葉が思い浮かばない。話の流れからしても、蘭がに対して告白しようとしてたのではないかと考えてしまう。


「……っ」

そこへ電話を終えたらしい蘭がキッチンへ戻って来た。の心臓がいっそう速くなっていく。さっきの言葉の続きを聞くのが怖いような、でも聞きたいような複雑な思いがこみ上げる。だが続きを聞くことは叶わなかった。蘭は困ったように頭を掻くと「わりぃ。仕事で行かなきゃなんなくなったわ」と言い出したからだ。

「え…仕事ってお店で何か――」
「あ~いや。そっちの仕事じゃねえ。本業の方」
「え…」

本業、と聞いてドキリとした。フロント企業で色々な業種を扱っているものの、本来、蘭は梵天という反社組織の幹部だ。公には出来ないことをやっているのは聞かなくても想像くらいは出来る。

「そ、そっか…分かった」
「あ~…鍋の方は任せてもいいか?」
「う、うん。ちゃんと練習しておくから心配しないで…」

さっきの話の続きをするような空気でもなくなり、は頼まれたことだけはきちんとしておこうと思った。

「悪いな…」

珍しく気遣うような言葉を吐き、蘭はの頭へポンと手を乗せる。その仕草が普段よりも優しい気がして、ふと顔を上げた。蘭もさっきと同じようにを見下ろし、再び似たような空気が流れる。しかし今度は蘭もすぐに視線を反らすと、軽く咳払いをした。

「まあ…もう気づいてっかもしんねえけど…」
「…え…?」
「戻って来たら…オマエに話あっから…」

そう言って蘭はもう一度へ視線を戻すと、軽く身を屈めて頬にキスを落とす。その一瞬の出来事に、がパクパクと口を魚のように開閉したまま固まった。その様子を見て苦笑を浮かべた蘭は、軽く彼女の頭を撫でたあと「指、絆創膏貼っとけよ」と声をかけて静かに玄関へと歩いて行った。

「……」

ドアの閉まる音と共に、その場にへにょりと蹲ったの顏は、さっき以上に真っ赤になっている。心臓もバクバクと激しく動き、緊張が一気に解けたせいで、体に力が入らない。

「な…何…今の…」

混乱した頭が更に混乱しはじめて、蘭の言葉を整理できない。ただ、つい数十分前の二人とは明らかに違う空気だった。

(まさか…ほ、ほんとに告白…するつもりだった…?)

――まあ、もう気づいてっかもしんねえけど…

蘭はハッキリとそう言っていた。それは「オレはオマエが――」の後の言葉が、の想像通りのものだったことを裏付けているようにも聞こえる。

「灰谷くんが…わたしを好き?まさか…!」

顔を赤らめて即座に否定するものの、それ以外に答えは出ない。

――戻って来たらオマエに話あっから。

最後のその言葉を思い出し、はよろよろと立ち上がると、意味もなく冷蔵庫を開ける。流れてくる冷気が火照った頬を冷やして気持ちが良かった。

「お鍋…作らなきゃ…」

混乱と動揺。それらを沈める為、は冷蔵庫を静かに閉じると――謎の行動だ――切る途中だった野菜へ視線を向ける。そこで血のついたまな板に気づいた。

「あ…絆創膏…」

指先の痛みすら忘れていたは、蘭に言われた通り、すぐに止血してから救急箱を取りに行く。それはリビングの棚の上に置いてあった。がここへ引っ越してきた後、これも蘭が用意しておいてくれたもので、中には消毒液や風邪薬、胃薬、解熱剤等々、様々な医薬品が入っている。正直、は蘭がここまで自分を気遣ってくれるとは思ってもいなかったし、今日までのことを思い返すと、こういった小さな気配りが多々あったなと思う。
元々そこまで蘭のことを知っていたわけでもないは、蘭が粗暴に見えて、実はそういう性格なのかと思っていた。だが実際に再会して接していくうち、普段の蘭はそこまでマメじゃないと感じた。
面倒くさがりな一面があり、そういう雑用は部下に任せているのを何度か見ていたからだ。そのくせのことは人任せにしない。
何でそこまで?と思ったこともあったが、もし蘭にとって自分は特別な存在なのだとしたら、これまでの行動にも納得できてしまう。

「まさか…ほんとに灰谷くんは…」

救急箱を元の場所へ戻しながら、ふと呟く。普段、口は悪くてもの為にならないような無理難題は決して言わなかったし、またさせようともしなかった。
それが蘭の優しさだったんだと、今なら分かる。
母を失くした後、多額の借金の存在に気づき、絶望を味わった。あのままじゃ確実に風俗行きだっただろう。でも蘭のおかげで今も自分を売らずに済んでいる。それが紛れもない事実だ。

「…やだな。反社のくせにいい男になってるなんて反則」

苦笑交じりで呟きながら、何故か泣けてきた。
昔も、が困っている時に手を差し伸べてくれたのは蘭であり、そしてはそんな蘭のことを好きになった。当時の淡い想いは叶うことなく、宙ぶらりんのまま忘れ去っていたはずだったのに。

「わたしって案外一途だったんだ…」

自分の本音に気づき、ふと苦笑を洩らすと、は絆創膏を巻いた指先に軽く口付けた。


△▼△


「ったく…面倒くせえな」

望月に呼び出されて出向いた先の寂れた一画にある飲み屋街。蘭は溜息交じりで呟いた。
望月の話では、前から梵天の縄張りで隠れて武器の取り引きを行っていた半グレの男を見つけたということだった。確かにその男を探し出して殺せと、組織の首領であるマイキーに言われてはいたが、何も幹部の自分がわざわざ出向かなくても、という思いはある。

「まあ、そう言うなって。アイツ、なかなか用心深くて姿を見せなかったが、やっとアジトを見つけたんだから」
「んなもん下っ端に向かわせりゃいいじゃん」
「下っ端じゃ示しつかねえだろ?」

望月はそう言ってやる気満々だった。確かに普段の蘭なら獲物を追い詰めていく過程を楽しんでいられたのかもしれないが、今回ばかりはせっかく告白をしようとしたのを邪魔されたという不満の方が強い。しかしすでにと付き合っていると思っている望月にそんなことは言えない為、フラストレーションだけが溜まっていく。

「チッ。たかが半グレだろ。ちゃっちゃと捕まえようぜ」
「何だよ。機嫌わりーな。ちゃんとケンカでもしたか?」
「……」

何も知らない望月が茶化すように言いながら、薄暗いビルの中を入って行く。人の気も知らねえで、と思いながら蘭もその後に続いた。
ビル内に人気はなく、どの店も看板の灯りはついていない。

「何だよ、ここ。ホントにいんのか?こんな場所に」
「間違いねえ。オレの部下が尾行してここへ入って行くのを見たらしい。その後にすぐこの周りは部下が包囲してるからヤツも逃げてねえはずだ」
「あっそ。んじゃーサッサと探すぞ」

スーツの内側へ入れてる銃を確認しながら、蘭が薄暗い通路を歩いて行く。だがその時だった。前方からライトのような明かりに照らされ、蘭と望月はその強烈な眩しさで一瞬だけ目を細めた。
同時に、ライトを照らしている人物の手に拳銃が握られているのを見た蘭は、自分よりも前を歩いていた望月の方へ手を伸ばす。

「あぶねえ!」

そう叫んだ瞬間、ガァァンっという派手な銃声が、静かなビル内に響き渡った。

「……っ」
「おい、蘭!」

咄嗟に望月を庇うように腕を掴んで引き寄せた蘭は、自身の体に燃えるような痛みを感じながらその場に崩れ落ちた。

「…いっ…てぇ…」
「おい!しっかりしろ、蘭!」

遠のく意識の中、蘭の脳裏にの笑顔だけがかすかに過ぎっていった。


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