最終話:愛とするにはひどく無邪気



「よし!出来たぁ~~…」

具材を入れて最後にひと煮立ちさせたところで、電源を落とした。お鍋の蓋を開けると、美味しそうな匂いと湯気がふわりとキッチンに立ち込めて、ついでにのお腹が情けない音を出した。

「うーん…やっぱり魚介出汁が効いてる」

スープを軽く味見すると、キムチと具材の味が調和して旨味を引き立てていた。海老や蟹などの高価な食材のおかげかもしれない。

「しっかし灰谷くんもお鍋にお金かけすぎじゃない…?」

ただの練習なのに食材はどれも高価で本格的。これなら誰が作っても美味しいお鍋が出来上がりそうだと苦笑が漏れた。
明日、望月との食事会でこれを作れば、きっと自分の仕事は終わるはず。そう思いながらお鍋の蓋を戻しておく。いつまで続けるのかは分からないが、もうそんなに望月を含めて会うことはなさそうだ。そう思うと、何となく寂しくも感じる。何だかんだ言いながら、恋人のフリをするのは楽しかったからかもしれない。。

(でも…もしかしたら恋人のフリから本物の恋人になったり…)

ふと蘭の言葉を思い出して頬が熱くなった。突然キスをされ、意味深な言葉を言われた時の衝撃は少しずつ落ち着きつつある。なのに思い出すと再び心臓が速くなるのだから、わたしも分かりやすいな、とは自分の単純さに苦笑いを浮かべた。

(灰谷くん…戻って来たら話があるって言ってたけど…期待してもいいのかな…)

蘭への想いを自覚した途端、そんな欲が出てしまう。ただ過去に告白すら出来なかったことを思うと、宙ぶらりんのまま凍結してしまった昔の自分の想いを成就させたいと願ってしまうのだ。
それでも蘭が本当に自分のことを好きなのかはまだ分からないし、心配なことには変わりなく。更には本気という確証はない。

「あの灰谷くんだもんね…。さっきのアレもまだからかってる可能性が無きにしも非ず…キスくらいで文句を言ったから仕方なく言ったかもしれないし…」

アホな父親のせいで何度も悲惨な思いをしたせいか、どうもネガティブなことばかりが浮かんでしまう。自分が幸せになる、という未来が想像できないせいだ。今回の借金も同じで。母が亡くなり、落ち込んでいるところへ、長年働いた会社が倒産。社長は給料も支払わずに姿を消した。それだけでも十分最悪なのに、その後に多額の借金発覚。豆腐メンタルな人間ならば首をくくってもおかしくはない。だがは生きることを選んだ。

「おかげで灰谷くんと再会できたんだもんね。生きてて良かった…」

そう、悪いことばかりじゃない。借金はあるものの、思ったよりもまともな、いやまともすぎる生活を出来ているのだから。

「これも全部灰谷くんのおかげだな…」

味見用の小皿を洗いながら、ふと先ほど蘭がビールを飲んでいたグラスへ視線を向けた。

「これ洗っちゃってもいいかな…もう炭酸抜けてるだろうし」

今のところ蘭が戻ってくる様子はない。時計を見たは軽く息を吐いた。

「今夜はもう戻らなそう…」

本当は戻って来た蘭と一緒にお鍋でも、なんて期待もしていたものの、深夜を過ぎたことで諦めることにした。どっちにしろ明日の夜もこれを作らなければならない。

「しばらくはキムチ鍋かな…」

カレーじゃあるまいし、と思いながら、蘭のグラスをキッチンへ下げる。ケータイが震動と共に鳴り出したのは、が洗い物を始めてすぐの時だった。

「ん…?何か鳴ってる?」

水を出していると聞き取りにくいが、テーブルの上にあるケータイが点滅しているのを見て、は水を止めた。そこでハッキリ着信音が聞こえて、慌てて手を拭く。この時間にケータイを鳴らすのは蘭だけだ。

「もしかして今から戻るって電話かな…」

すぐにキッチンを飛び出し、ケータイを手に取ると、表示されているのはやはり蘭の名前。思わず笑みが零れて画面をスライドさせた。

「もしも――」
ちゃんかっ?』
「……え?」

てっきり蘭かと思えば、聞こえてきたのは違う声。それは望月だった。

「も…望月さん…?」

相手が蘭じゃなかったことと酷く慌てた声に驚き、は一旦ケータイを離して画面を確認してみる。しかし何度確認したところで蘭のケータイで間違いない。そもそも番号を交換していないのだから、望月が自分のケータイからのケータイに電話をかけてくるはずもない。
何故、望月が蘭のケータイから自分へ電話をしてきたのか、と一瞬、驚いていると、望月は更に『落ち着いて聞けよ?』と念を押すように言った。その一言に悪い予感が走る。

『蘭が撃たれた…っ』
「―――」

望月の一言は、の浮かれた気分を奈落の底へ突き落とすには、十分すぎた。これ以上の最悪はないと思っていたところへ、これまで以上の最悪が突きつけられる。

『いいか?今から竜胆がそっちに――』

その後の会話は後に考えると殆ど覚えていなかった。
気づけば竜胆がを迎えに来て、言われるがままに連れ出され、車へと乗せられた。
何故そんなことになったのか、竜胆から説明は受けたものの、の頭には殆ど内容が入ってこなかった。ただ蘭が撃たれて梵天所有の病院へ運ばれたということだけは、かろうじて耳が拾っていた。

「竜胆!ちゃん!こっちだっ」

病院に到着すると、ロビー付近にいた九井が慌てたように走ってくる。

「ココ!兄貴はっ?」
「まだ分かりません…!オレも今到着したばかりで…とにかく蘭さんのとこに…こっちです」

九井はと竜胆の二人を、通路奥へと促した。竜胆がその後に続く。だがだけはその場に立ち尽くしていた。足が固まったように動かない。蘭の元へ行くのが怖いのだ。そもそも自分が行っていいんだろうかとも思う。と蘭は望月が信じているような関係ではないのだから、さすがに幹部と一緒に行くのは躊躇われた。

「…ちゃん?どうした?」

がついて来ていないことに気づいた竜胆と九井が、ふと立ち止まった。

「わたしが…行っていいの…?」
「あ?んなの当たり前じゃねぇか」

の問いかけに、竜胆は怪訝そうな顔をすると、未だに躊躇した様子のの手を取って歩き出す。

ちゃんが傍にいれば兄貴も安心するって」

蘭の容態はまだ何も聞かされていない。なのに竜胆は蘭が無事だと信じているような口ぶりだった。

「行こう」

竜胆に言われて、は小さく頷いた。ここまで来たら自分の目で確かめるしかない。どうせこのまま帰ったところで心配で何も手につかないだろうし、結果は同じなのだ。先延ばしにしたところで何も変わらない。
竜胆の後を歩きながら、は覚悟を決めた。

「ここらしいです」

九井がある部屋の前で立ち止まった。そこは手術を終えた患者が収容される一室のようだ。と竜胆はドアを見上げながら、軽く深呼吸を繰り返した。

ちゃん…大丈夫?」
「……はい」

竜胆が訊ねると、は気丈な態度でしっかりと頷く。さっきよりは落ち着いてきたらしい。しかし握り締めている手は、かすかに震えているのが分かった。
竜胆はの肩に手を回してポンと軽く叩くと、静かにドアを開けた。
先ず見えたのが、医療機器の類と、真っ白なカーテン。その手前に二つほどベッドが並べられている。そして奥側に設置されたベッドの前に望月の背中が見えた。望月はベッドの方へ向いて立っており、頭を項垂れ、かすかに肩を震わせている。その姿を見たは心臓が一気に速くなっていくのを感じた。

「モッチーくん…」

竜胆がフラリと部屋の中へ入って行くのを見て、と九井も後から続く。望月の様子から、蘭の容体が良くないのは薄々気づいていた。いや、良くないどころかすでに――?
大きな不安が足元から這い上がってくる。

「竜胆…ちゃん…すまねえ…蘭がオレを庇ったばかりに…」
「…兄貴…?」

望月が肩を震わせながら呟き、竜胆が驚いた様子でベッドの方へ歩いていく。もフラフラとその後に続くと、ベッドの上に横たわっている人物が見えた。その瞬間、息を飲み、ひゅっと喉の奥が鳴る。
その人物の顔には白い布がかけられていた。

「嘘…灰谷…くん…?」
「クソ…っ」

竜胆がベッドから顔を背け、ドンっと壁を叩く。の顏から血の気が失せて、代わりに瞳の奥が熱くなった。考えるより先に涙が溢れてくる。

「嘘…だよね…だ、だって…まだ何も…伝えてない…」

フラつく足でベッドの傍へ歩み寄り、はそっと横たわる蘭の手に触れた。まだ暖かいのに、握り締めても力なくグッタリとしている。

「やだ…灰谷くん…わた…わたし、まだ何も…返せてないのに…お礼だって…っ…好きだって…言えて…ないのに…っ…死んじゃやだぁ…っ…」

涙で頬を濡らし、声を震わせながら蘭の手を握り締めてがその場で泣き崩れる。竜胆と望月、九井は黙ったまま、項垂れていた。

「……るせぇ…」

その時だった。の泣き声とは別に、低音の声がかすかに聞こえた。その瞬間、の泣き声がピタリと止まる。握り締めていた蘭の手が、の手を握り返してきたからだ。やんわりと握られた感触に気づいたが、涙でグチャグチャの顔をゆっくり上げると、頭まで被っていた白い布を払う、もう片方の手が見えた。

「…え…」

涙で滲んだの視界に映ったのは、今まさに目が覚めたと言わんばかりの、不機嫌そうな蘭の顏だった。

「は…灰谷く…」
「…あ?…か?」

蘭は眩しそうに目を細めながら、部屋の電気を遮るよう目元に手をかざしてベッド脇にいるへ視線を向けた。まさかの事態にも唖然として言葉も出ない。
望月の様子を見て、てっきり蘭が死んでしまったのだと思い込んでいたのだから当然だ。だがそんな疑問よりも何よりも、は蘭が生きているという事実が嬉しくて、また涙が溢れてきた。

「灰谷くん…!」
「…いっってえっ!」

がガバっと覆いかぶさって来た瞬間、蘭が大げさなほどに声を上げた。先ほど手術で塞いでもらった腹の傷口に、の体重が乗ったせいで激痛が走ったようだ。
それを見た瞬間、我慢も限界と言った様子で、後ろに立っていた望月と九井が吹き出した。

「ぶぁっはっはっは…やべぇ…腹いてえ…っ」
「…ったく…こんなことだろうと思ったわ」

呆れたように竜胆が苦笑する。

「あ…?オマエら…何笑ってんだよ…ってか、何でコイツこんなに号泣してんの…?」

未だ自分にしがみついて、おいおい泣いているを指さし、蘭が二人を睨みつける。蘭からすれば、目を覚ました瞬間、泣きじゃくると、後ろで爆笑している望月と九井、呆れたように苦笑いを浮かべている弟がいるのだから何事かと思う。
だがその時、両手で頬を包まれた。ギョっとした瞬間、の涙で濡れた顔が蘭の顔を覗き込んでくる。

「ど、どこも痛くない…?大丈夫なの…?」
「あ…?つーか…オマエの体重がかかって痛ぇわ…痛み止め打った意味がねえ」
「えっ?あ、ご、ごめん!」

半分ベッドに乗り上げるようにして蘭にしがみついていたが慌てて避ける。それを見て望月が再び吹き出した。

「まあ、ちょっとした悪戯のつもりだったんだけどなぁ」
「あ?つーか、テメェ…まさかオレが死んだとか嘘ついたんじゃねえよな…」

場の空気的に、蘭が何かを察したらしい。ついでに自分が顔まで被っていたシーツを摘まむ。それを聞いていたも「え」と驚いた声を上げて、望月達の方へ振り返った。

「…ま、まさか…わざと…?」
「いや…オレは単に蘭が術後に痛み止め打ったら眠いって言いだして、あげく眩しいっつーからその辺のシーツを持ってきてかけてやっただけなんだが…その姿がまるで死んだみたいに見えたから、このまま皆と会わせたらどうなるかなーと」
「オレはやめた方がいいって言ったんスよ」

九井が申し訳なさそうに頭を掻いている。その二人を交互に見ていたは、驚きと騙されたという事実にショックを受けた。

「な…酷い…っ」
「ま、オレは分かってたけどなー。そもそも腹に一発喰らっただけで運よく内臓は損傷してねえって聞いた時点で死ぬわけねえと思ったし」

竜胆はそう言って笑うと肩を竦めてみせた。それにはも絶句した。話を総合すると自分だけがまんまと望月の悪戯に引っかかったことになる。

「ったくオマエも何、簡単に騙されてんだよ…オレが死ぬとか思ったわけ」
「だ、だって…まさか顔までシーツ被って寝てるなんて思わないでしょっ?」

真相が分かった瞬間、あれほど止まらなかった涙はピタリと止まり、次に沸々とした怒りが湧いてくる。蘭が無事でホっとした分、今度は呆れたように自分を見ている蘭にその矛先が向かった。

「オレは眩しいと寝れねーんだよ…」
「何それ、子供みたい」
「あぁ?誰が子供だ、テメェ」

さっきまでのしんみりした空気から一転、二人の言い合いが始まったのを見て、竜胆と九井が「あ~あ」と苦笑している。そんな中、望月だけは「仲良くケンカしてるとこわりーんだけど…」と言いながら、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。

「あ?何だよ、モッチー。だいたいテメェが下らねえ悪戯すっから――」
「へえ。でもお互い様だよなぁ?」
「は?何が」

ベッドの方へ歩いてくる望月を見上げながら、蘭が怪訝そうに眉間を寄せた。望月は蘭とを交互に見ると――。

「オマエと彼女が付き合ってるって先に嘘ついたのはオマエだろ、蘭」
「……あ」

ニヤニヤしながら見下ろしてくる望月の様子を見た蘭は、すっかりそのことを忘れていた。もまたそれに気づき、サッと顔が青ざめる。蘭が死んだかもしれないと動揺したせいで、自分が先ほど口走ってしまった言葉を思い出したのだ。

「やーっぱ嘘だったか…おかしいと思ったんだ。ちゃんがさっき、まだ好きだと伝えてないって言いだしたのを聞いた時に」
「…は?」
「ちょ…も、望月さんっ」

出来れば忘れていて欲しかったことをアッサリ暴露され、の顏が一気に赤くなる。それを見た望月は色々と察したようだ。
「ま、オレ達は退散するし、ここはちゃんに任せるわ」と言って、竜胆や九井を促し、後は宜しくと笑いながら部屋を出て行く。
一瞬のうちに蘭と二人きりにされてしまったことで、はその場で固まってしまった。さっきは動揺と混乱でつい告白めいたことを言ってしまったものの、こうなっては心の準備が出来ていない。

「おい…。こっち向け」

一方、望月の言葉を聞いて驚いた蘭はゆっくり体を起こすとの方へ手を伸ばした。
不意に腕を掴まれたはビクリと肩を揺らしたものの、恐る恐る蘭の方へ振り返る。蘭はいつもの皮肉めいた笑みを浮かべるでもなく、真剣な顔でを見つめていた。

「…オマエ…オレのこと好きなのかよ」
「そ…そんなハッキリ聞く…?」

かぁぁっという効果音が付きそうなほど、の顔が一気に赤くなった。
先ほど望月の言ってたことは嘘じゃないと、その顔を見れば分かる。そこに気づいた時、蘭はの腕を引き寄せ、強く抱きしめていた。

「は…灰谷く――」
「オレも」
「…っ?」
「オレもオマエのことが――好きだ…」

これまでの想いを全て乗せてその言葉を告げると、の肩がビクリと跳ねる。蘭は僅かに体を離すと、の顔を覗き込んだ。

「やっと言えたわ」
「…え?」
「あの頃…ずっと言えなかったことが心残りのまま会えなくなったからな…」
「あの…頃…?」

その言葉にドキリとして、は何度か瞬きを繰り返した。二人に共通する"あの頃"とは中学時代しかない。そこに気づいた時、の瞳が大きく見開かれた。の中にもまた"あの頃、伝えたくても伝えられなかった"という同じ想いがあるからだ。

「灰谷くん…まさか…――」
「あ?」
「中学の頃…わたしのこと…?」
「…チッ。やっぱ気づいてねえじゃん」

蘭は少し照れ臭そうに視線を反らして「まあ…そういうこと」と素直に認めた。それを聞いたの瞳から、また涙が溢れてくる。先ほど散々泣いたにも関わらず、次から次に涙が零れ落ちて頬を濡らしていった。

「な、何で泣くんだよ」
「だ…って…」
「泣くなって…」

蘭は困ったように言いながら、の頬を指で拭っていく。その優しい仕草に胸がぎゅっと音を立てるのを聞きながら、の中にも素直な思いが溢れてくる。全身で蘭が好きだと言ってる気がした。

「わたしも…」
「あ?」
「わたしもあの頃…灰谷くんが好きだった…」
「………マジで?」

涙を拭っていた手がピタリと止まり、今度は蘭が驚いたように瞳を見開く。まさか両想いだったとは思わない。それを見たがかすかに笑みを漏らした。

「そっちこそ…気づいてないじゃない」
「は…だってオマエ、そんな素振り一度も…」
「わ、わたしは…灰谷くんの周りに寄ってきてた子達みたいに素直じゃなかったから…」

あの頃は蘭と親しくなった分、逆に他の子達みたいにアピールは出来なかった。それでも何か接点が持ちたくて、休みがちだった蘭の為に授業内容をノートにまとめることにしたのだ。随分と可愛い時代だったと自分でも苦笑してしまう。
そんなの告白を聞いて、蘭は唖然としたものの、不意に苦笑を洩らした。

「素直じゃねえのは今もだけどな…」
「そ、そうかもしれないけど…」
「ついでに頑固」
「…む」

蘭のツッコミにが口を尖らせた。そこへ素早くキスを落とす。ちゅっという音と共にの顏が更に赤みを増していく。

「でもそういうオマエが好きだから仕方ないか」
「な…何、その言い方…――」

と文句を言いかけたの唇へ、蘭がそっと唇を寄せた。その瞬間、の胸がきゅっと苦しくなって、昔の甘酸っぱい感情までが蘇ってくる。
灰谷くん…そう言葉にする前に、蘭はちゅっと可愛らしいリップ音を立ててから少し離れる。お互いに目が合って、しばらく見つめ合ったあと、もう一度触れあった。キスを交わすたび、好きだという想いが大きくなっていく。
キスしかしていないのに、悶えるような熱が体の芯から湧き上がってきた。切なくなり、もっと触れたい、触れて欲しいと訴えるように、は蘭にしがみつく。それが伝わったのか、蘭はの唇を軽く吸って舌を差し込んできた。

「ん…ん…っ」

口内の隅々まで舐め上げる濃厚なキスを仕掛けられ、の息も乱れていく。背中に回された蘭の手が、体のラインをなぞるように動き、それだけで全身がゾクゾクして肌が粟立つのを感じた。男に触れられて、体がこんな反応をするのは初めてのことで、は少しばかり戸惑いを覚えた。

「ん…ダ、ダメ…」

手のひらが胸の膨らみまで上がってきたのを感じて、は蘭の体を少しだけ押し戻した。

「何もしねえよ。こんなとこで。ただ触りたいだけ」
「さ、触らないで…恥ずかしい…」

の唇に自分の唇を寄せながら甘えた声を出す蘭に、の羞恥心が煽られる。ドア一枚を隔てた場所には望月達がいて、いつ戻ってくるかと思うとヒヤヒヤしてしまう。
だが恥ずかしそうに拒む姿を見て、蘭は僅かに目を細めた。

「つーか…オマエがそんな顔すっから余計にムラムラすんだけど…」
「な…」
「だいたいオマエ、感度良すぎんだよ。最初に会った時だって――」
「わーっ!や、やめてよ、そういうこと言うの!あ、あれは忘れてっ」

再会した時の状況を思い出したは耳まで赤くしながら蘭の胸に顔を埋めた。今思えば耐えがたいほどに恥ずかしい。

「忘れられねえだろ。今となっちゃ…」

を抱きしめながら蘭が苦笑気味に返すと、軽く横腹を殴られ、「いってえってっ」と情けない声を上げた。

「テメェ、よく怪我人の腹、殴れるな…」
「だ、だってそっちが変なことばかり言うから…」

蘭の引きつった顔を見上げながら、の顔も引きつっていく。せっかく互いの想いを確認しあったというのに、やはり普段のノリになってしまうのだから、蘭としても困ってしまう。

「ハァ…ったく…といると飽きねえわ…」
「…ど、どういう意味よ」
「んー?好きだって言ってんの」
「…っ」

またしても不意打ちのように微笑まれ、の頬がほんのりと熱くなる。おかしな再会ではあったものの、それでもまた蘭と会えて良かったと心の底から思う。

「あー…そうだ。言ってなかったけど、オマエの借金オレが立て替えたし、オマエは自由だから。もう店でも働かなくていい」
「…は?立て替えたって、だってそれは…」
「あ?いいっつってんだろ。オマエはもうオレの恋人なんだから素直に甘えとけ、そこは」
「こっ…恋…人…?」

借金の話に驚いて抗議をしようと思ったも、その響きにドキっとしてしまった。

「何だよ…この期に及んで付き合いたくねえとか言う気か?」
「ち、違う…」

ムッとしたように目を細める蘭を見て、は慌てて首を振った。それを見た蘭がニヤリと笑う。

「ふーん。じゃあ借金の話はこれで終わりな?」
「え…」
「オレは自分の女にそんなもん背負わせたくねえんだよ。それが嫌ならオマエが借金返し終わるまで付き合えねえけど、それでもいいの?」
「な…ズルい!そんな脅迫まがいなこと言って…っ」
「まあ、オレは反社だしなー。脅迫くらいすんだろ」
「う…」

確かに、と納得してしまう自分が嫌だと思ったものの、あんな大金いつになれば返し終わるのか分からない。やっと想いを告げられたのに、これ以上友達のような関係を続けるのは、も嫌だった。

「わ…分かった…」
「お、珍しいな。頑固女のくせに。そんなにオレと付き合いたいー?」
「………」

からかうように顔を覗き込んでくる蘭に、ムカッとしたものの、心とは裏腹に「…うん」と頷いてしまったのは、怒りよりも蘭のことが好きだという想いが上回ったせいかもしれない。いつになく素直になれた気がした。
そして蘭はそんなを見て、ドキっとしたように身を引いた。

「…何だよ。マジで素直…」
「だって…」

恥ずかしそうに俯くに、蘭は一瞬言葉を失ったものの、困ったように息を吐き出した。

「ハァ…オマエ、だからマジでそういう顔すんなって…今すぐ押し倒したくなんだろ…」
「……っ」

蘭の爆弾発言に、がガバっと顔を上げて首を振る。それには蘭も笑いながら「冗談だよ」ともう一度を抱きしめた。

「オマエを初めて抱く時は高級ベッドの上な?」




△▼△OMAKE△▼△


その頃、廊下にはけた男達は、ドアに耳をつけながら中の様子を伺っていた。

「おい…何も聞こえなくなったぞ」
「ってかモッチーくん、盗み聞きバレたら、また兄貴キレるって」
「オマエだって聞いてんじゃねえか」
「いや、だって兄貴の初恋っつーなら行く末気になるし」
「あ、何かキスしてねえ?」
「マジっすか?」
「まさか蘭のヤツ、病院のベッドでヤる気じゃねえだろうな」
「いくら何でもそれはないって……あっ何か今エロい声が――」

(梵天がこんな緩い組織でいいんだろうか…)

再びドアに耳をくっつけだした二人を見ながら、九井だけは溜息交じりで項垂れていた。


完。

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