番外編:灰谷蘭は心配性


の甲斐甲斐しい看病もあってか、入院から二カ月後、蘭が無事に退院して、自宅マンションへと戻って来た。

「あ~我が家はいいなー。何するにも不自由な病院はウンザリだわ」

座り慣れたカッシーナのソファにその身を沈め、脱患者の幸せを噛みしめている蘭を見ながら、と竜胆は苦笑交じりで顔を見合わせた。

「病院でもあれだけ自由にしてたくせに」
「ほんとに」
「あ?何か言ったー?オマエら」

蘭は背もたれに頭を乗せて、二人の方へ顔を向けた。その途端、竜胆は「あ、オレちょっと部屋で休んで来るわ。徹夜明けだし」と言いながら、そそくさと自室へ戻っていく。兄に絡まれたくないというのが見え見えだ。一人残されたが顔を引きつらせていると「」と呼ばれ、蘭は自分の隣をポンっと叩いた。それはここに来いよという合図なので、は着替えの入ったバッグを置くと、蘭の方へ恐る恐る歩いて行く。だがソファに座る前に腕を引かれ、は何故か蘭の膝の上に座らされていた。

「ちょ、ちょっと…」
「何だよ。ここはもう病院じゃねえだろ」

蘭がニヤリと笑い、の頬が引きつる。これまでも散々こうしたスキンシップを取られるたび、言い訳のように使ってきたフレーズだ。だが別にもくっつきたくないわけじゃなく。いつ誰が来てもおかしくない病室、という状況が落ち着かなかっただけだ。自宅に戻ってしまえば、そこはさほど気にならない。だからこそ、蘭が顔を近づけて来た時、素直にキスを受け入れることが出来た。

「ん…」

軽く唇を甘咬みされ、ぴくりと肩が跳ねる。その瞬間、の腰を支えていた手がするすると薄手のセーターの中へ吸い込まれていった。キャミソールの上から背中を撫でられ、は驚いたように唇を離す。

「…何だよ」
「何って…ここリビング…」
「別にここで抱こうなんて思ってねえし」

真っ赤になって目を伏せるを見て、蘭は小さく吹き出すと、もう一度唇を寄せて彼女の唇を軽く啄んだ。

に触ってるともっと触れたくなんだよ。ダメ?」
「…ダ、ダメっていうか…」

恥ずかしそうに言いながら視線を左右に忙しなく動かしている。ただ蘭もが本気で嫌がってるとは思っていない。

「分かったよ…ったく、そーいうとこ成長しねえまま止まってんな、オマエ」
「…む。何よ、その言い方…自分だってあの頃と変わらないじゃない」

苦笑する蘭を見て、もつい言い返す。蘭もまた若干ムッとしたように目を細めたものの、すぐに軽く吹き出した。こうした言い合いをしてるのもまた、昔と変わらねえなと気づいたせいだ。でも昔と違うのは二人の距離。あの頃は触れたくても、手を伸ばすことさえ叶わなかった。

「な、何で笑うの…?」

てっきり「うるせえな」くらいは返ってくるかと思っていたは、肩をゆすって笑う蘭を見て、不思議そうに首を傾げた。

「いや…幸せ~って思っただけ」
「……え?」
「今はこうしてオマエを抱きしめられるし、キスだって出来る」

蘭は優しい眼差しでを見つめると、もう一度その唇を塞いだ。瞬時に甘い空気へと戻ったことで戸惑ったものの、蘭からのキスを素直に受ける。幸せ、というならも同じだ。自分と触れあうことを幸せだと言ってくれる蘭の気持ちが嬉しくて、もまた幸せだった。そしてふと思う。この空気の中ならわたしのお願いを聞いてくれるかも、と。
ちゅっと最後に軽く音を立てて唇が離れ、互いに見つめ合う。

「ん?何か言いたそう」
「え…えっと…」

小首を傾げながら笑みを浮かべる蘭を見て、は内心するどい、と驚く。自分で思っている以上に顔に出やすい性格なのを、はあまり気づいていない。
機嫌も良さそうだし今なら…と思い切って切り出した。

「仕事の…ことなんだけど」
「…仕事」

これまで何度となくお願いしていたが、却下され続けていたことを口にする。だが優しい表情から一転、かすかに眉間を寄せた蘭を見て、はそこで話を切り上げてしまいたくなった。ただどうも仕事もせず、プラプラしているのは性に合わない。だから前のように会社勤めとはいかなくても、バイトくらいはしたいと言いたかったのだ。

「仕事なんかしなくていい。金なら前に渡したのまだあんだろ。足りないならオレに言えよ」

案の定、蘭はあっさり反対した。確かに以前、蘭には必要経費と称した現金やカードを渡されている。でもそれは借金を返す為、蘭の店で風俗嬢として働くのを前提に渡されたものだとは認識していたので、風俗嬢にならないのだから使うわけにはいかないと、一切手をつけていなかった。そう説明すると、蘭は「あー…」とどこか気まずそうな顔で視線を反らした。

「あの経費っての…ただの建前っつーか…」
「え…?」
「ああでも言わねえとオマエ、受け取らなかったろ」
「……え、じゃあ…あのお金は…」
「普通にが必要な時に使って欲しくて渡しただけー」
「…嘘、あんな大金…?」

蘭の説明には普通に驚いた。現金だけでも相当な金額があった気がする。怖くて中身は数えていないが。

「そんだけオマエを手元に置いておきてえんだよ。だから仕事なんかしないで、オレの世話だけしてて」
「…な…世話ってわたし家政婦じゃないし…」

傍に置いておきたい、と言われたことで一気に顔が熱くなったものの、どこか所有物扱いされてる気がしてしまう。しかし蘭は徐に顔をしかめた。

「家政婦なんて思ってねえよ…オレはただ…」

と言葉を切った。自分の言い方がまずかったと自覚したようだ。

「そばにいて欲しいだけだし」
「…灰谷くん…?」

頬を赤らめるをもう一度抱きせると、艶のある髪に頬を寄せた。束縛したいと思っているわけじゃない。束縛するという考えすら今まではなかった。ただ、やっと手に入れたら入れたで余計な心配をしてしまうのだ。外に出せば何があるか分からないし、また変な虫が寄ってこないとも限らない。

(オレってこんな嫉妬深かったんだな…自分で引くわ)

を抱きしめながら、かすかに苦笑が洩れた。これまで一切、女というものに対して誠実に向き合ってこなかった自分が、たった一人にだけは、これほどまでに独占欲が強くなるとは思いもしなかった。
出来ることなら家に閉じ込めて一生、傍に置いておきたいと思うのだから、オレもかなりヤベえ奴じゃん、と呆れてしまった。
ただ現実問題、そんな凶行に及べるはずもない。一方で彼女の好きなことを思い切りさせてやりたいという矛盾した思いもある。
親の借金のせいで色んなことを諦めてきたであろうの望みなら何でもきいてやりたい。

「ちなみにオマエ…どんな仕事したいんだよ」

そう思ったら、ついそんなことを訊いていた。


△▼△


「んで…結局、バイトだったらしてもいいと言ったわけだ…。だからそんな不機嫌なわけ?」

竜胆が部屋から出て来た時、蘭はソファに寝転がりながらテレビの情報番組を見ていた。いや、見ていたというより、ただ流してるといった方が正しい。そしての姿がなかった。最近は病院にいる間中、常に一緒にいたはずが、どうしたんだと尋ねると、蘭が不貞腐れたように事の顛末を話しだした。

「べっつに借金なくなったんだし働かなくて良くねぇ?って思うんだけど、アイツは何か働きたいみたいでさぁ…ったく」

聞けば、は早速求人雑誌を近くのコンビニに買いに行ったらしい。蘭が不貞腐れている理由が分かって、竜胆もついつい苦笑を洩らしてしまった。

「まあ…これまでずっと働き通しだったみたいだし仕事させたくねえっていう兄貴の気持ちも分かるけど…ちゃんからすると結婚もしてねえのに兄貴に養われるのは気が引けるんじゃねえの。対等じゃねえっつーかさ」
「………」

尤もらしいことを言う弟を前に蘭は急に黙り込むと、不意に視線をテレビ画面に戻す。釣られて竜胆もテレビを見ると、そこには最近、どこぞの富豪の息子と婚約を発表したという女優が映っていた。婚約会見なのか、やたらと幸せそうな笑みを振りまき、その左手薬指には大きな輝きを放つ某ハイブランドの婚約指輪が飾られていた。特に蘭が興味を引くものは映っていないはずなのに、ジっと食い入るように画面を見つめている兄に、竜胆は軽く首を傾げた。蘭がこの女優のファンとは聞いたこともない。
その時、蘭が「やっぱこれか…」とひとこと呟いた。

「あ?何が」
「…の誕生日プレゼントだよ」
「は?誕生日…ああ、確かもうすぐだっつってたな」
「オレ、ちょっと出かけてくるわ」
「え?どこに」

突然、ソファから立ち上がった蘭を見て、竜胆の理解が追いつかない。退院後、今日は一日家でのんびりしたいと言ってたはずだ。
竜胆が首を傾げつつ「なあ、兄貴」と部屋に向かった兄の後を追いかけると、蘭はすでにクローゼットから服を出し、着替えていた。しかも外出用のスーツだ。

「出かけるってどこに」
「買い物~。ああ、竜胆、暇なら車出して」
「そりゃいいけど…体の方は大丈夫か?」
「あ?んなもん痛くねえよ、もう。それよりオマエも着替えろ。ちゃんとした服装な?」
「え…何で?」
「いいから早くしろ」

急かすように言われ、竜胆はそれ以上、質問するのをやめた。どうせ一緒に行けば理由は分かる。着替える為、自分の部屋へ向かいながら、竜胆はふと付けっぱなしのテレビへ視線を向けた。

「…これかって…何だ?」

テレビでは相変わらず幸せそうな笑顔を振りまいて、お約束の左手を記者に向けている女優が映っているだけだった。



△▼△



「ハァ…なかなか世知辛い…」

は溜息交じりで求人広告を見ながら、疲れたようにソファへ寝転がった。
蘭から「バイトならいい。ただし昼間だけな」という条件付きで働くことを承諾してもらってから一週間。未だいいバイトは見つからない。せっかく働く許可を得たのに――それもおかしな話だが――働き先が見つからないなんて完全に誤算だった。

(自分はサッサと仕事に行っちゃうんだから…)

蘭もやっと体力が戻り、通常通りの生活になったおかげで今日から仕事に復帰したようだ。これで多少、世話係からは解放されるものの、時間が出来たところで肝心の仕事が見つからないのだから困ってしまう。

「あ…今日のご飯どうしよ…」

ボヤきながら時計を見れば、すでに夕方近い。蘭が家にいた昨日までは、が蘭のリクエストを聞いて何かしら作っていたが、仕事に復帰したとなると、その辺が分からなかった。

「って、すっかり主婦脳になってるな…」

ソファから体を起こし、苦笑いを零す。でもそれはそれで幸せな気もする。家にいて蘭の為にあれこれするのは嫌いじゃない。むしろ楽しかった。我がままを言われることもあるが、文句を言いながらも実は幸せを感じていた。元々、何かになりたいという夢もなく、父が失踪した後は夢すら見ている余裕はなかった。ただ生活する為だけに仕事をしていたようなもので、例のアパレル会社も面接に受かったから入社しただけだ。あの時は少しでも家計のたしになればいいと思っていたし、仕事にやりがいがあったわけでもない。
けど今こうして何もかも蘭の世話になっているのも何か違うと思ってしまう。

(これじゃわたしがヒモみたいな気分になるしな…)

こんな歳から楽を覚えてしまっては、この先ちょっと不安だとも思う。出来れば働けるうちにシッカリ働いて、生活にメリハリをつけたいところだ。
その時、のケータイがぴろんと小さな音を鳴らした。電話ではなく、メッセージが届いたようだ。このケータイにメッセージを送ってくるのは一人だけで、の顔に笑みが浮かぶ。

「何だろ…もしかして遅くなるのかな…」

一瞬喜んだものの、帰りは遅いとかそういった類のものかもしれないと思うと、少しの寂しさを感じる。小さく息を吐きながらケータイを手にすると、はメッセージ画面を開いた。

『今夜19時。この場所に来い。綺麗に着飾ってなー♡』

たったそれだけのメッセージに、は首を傾げた。この場所、として書かれていたのは、このマンションから徒歩圏内にある高級ホテルだ。

「え、ホテルでディナーってことかな」

てっきり帰りが遅くなるという連絡かと思えば、まさかのお誘いにのテンションが上がった。蘭と恋人同士になった時は入院中で、当然デートというものをしていない。今夜このホテルで初デートになるかもしれないと思うと、自然と心が躍る。

「"分かった"…っと」

すぐに短い文を返しながら寝室へと向かう。出かけるとなれば先に着ていく服を選んでおきたい。綺麗に着飾ってというのも場所が高級ホテルだからに違いない。

「…灰谷くんと初デート…何か嘘みたい」

ウォークインクローゼットで服を選びながら、つい頬が緩んでしまうのは、叶わなかった学生の頃の夢が叶かったからなのかもしれない。

「…ほんとに付き合ってるんだ」

じわじわと実感してきて胸が熱くなる。ただ今は学生じゃなく、お互いに大人だ。もし今夜、ディナーの後に誘われたなら、蘭に初めて抱かれることになるかもしれない。それを考えただけで、今度は淡いときめきが吹っ飛び、心臓が一気に早鐘を打ちだした。

「そうだった…その問題があった…」

とりあえず大人っぽいデザインの黒いノースリーブワンピースを手に取り、体に当てる。昔も今も蘭は目立つし、人目を引くのだから、下手な恰好は出来ないとばかりにコーディネートしていく。アクセサリーも全て用意されてるので、本当に店で選ぶみたいにアレコレと合わせながら、最終的に大人の女風セットが出来上がった。靴やバッグも決めると、まずはホっと息をつく。
残すはメイクやヘアセットだが、こういう時、髪は下ろしていった方がいいかなと考えた。もし泊まるなんてことになれば、明日の朝の髪型が困ってしまうからだ。

「なんて…気が早いか…ほんとに泊まるかも分かんないのに」

すっかり舞い上がっている自分に失笑しながらも、早く夜になって欲しいと、この後は時計と睨めっこしながら過ごす羽目になった。



△▼△



そのホテルがあることだけは知っていたが、実際来たことはなく、もちろん足を踏み入れるのもは初めてだった。それも――。

「え…」

蘭との約束の時間に約束の場所へとやって来たは、ロビーで待っていた蘭に有無も言わさず部屋へと連れて行かれた。てっきりホテルのレストランで食事をすると思い込んでいたは、強引な蘭の行動に驚いたものの、ついた先が超ド級のインペリアルスイートだったことで、今度こそ言葉を失った。

「何だよ。リアクション薄いな。嬉しくねーの」

あまりに無言で突っ立っているを見て、蘭は内心外したか?と心配になった。その問いに対し、はふと我に返る。

「……へ?あ…まさか…!ビックリしすぎて脳が理解するのに時間かかっただけ…っていうか…え?何で?」

今頃になって瞳を輝かせだしたは興味津々で室内をキョロキョロ見渡している。普通のデートかと思っていただけに、いきなりお城へ連れて来られたシンデレラの如く、頬を紅潮させた。生まれて初めての高級ホテルのスイートルーム。その豪奢な造りに圧倒されてしまう。
蘭はその様子を見て「やっぱりな」と呆れたように苦笑いを浮かべた。

「オマエ、今日誕生日だろ」
「……え?誕生日?」

何のこと?と言わんばかりに顔を上げたを、蘭は溜息交じりで見下ろした。は蘭を見上げながら何度か瞬きを繰り返したものの、徐々にその表情が驚愕したものへと変わっていく。

「あ…そうだったっ!」
「今頃…?」

溜息交じりで蘭が笑うと、は「え、でも何で灰谷くんが知ってるの?」と、そこから驚いているようだ。その辺の事情も簡単に説明すると、は更に驚いたようだった。

「え…あの頃から…知ってたってこと…?」
「まぁな」

少し照れ臭そうに視線を逸らす蘭を見上げながら、は不思議な気持ちになった。あの頃、お互いに同じ想いだったのは告白された時に聞いていたものの、自分の知らないところで、蘭が自分のことを意識して見ていてくれたことが、嬉しくもあり、切なくもなる。
もしあの頃、自分や蘭に少しの勇気があれば、また違った形になっていたかもしれない。今、こうして一緒にいるのも幸せではあるが、出来れば二度と戻れないあの時間を、蘭と過ごしてみたかった気もする。制服のまま、学校帰りに手を繋いで歩きたかった。そんな些細な夢は二度と叶うことはないからこそ、喜びの中に切なさも混じるのだ。
何となくそんな思いを蘭に吐露すると「制服~?」と顔をしかめて苦笑している。

「女って変な願望があんだな。第二ボタンとか、どうでもいいもん欲しがるし」
「な…どうでもいいって何よ…」
「じゃあ何。オマエはオレの第二ボタンとか欲しかったわけ?」
「…う」
「ぶは…っ図星かよ。かわいー」

予期せぬ質問をされ、素直に反応すると、蘭は頬を緩めながら笑っている。確かに大人になって何を言ってるんだと思われるだろうが、はあの頃、卒業式の時はそれが欲しいと思っていた一人だった。
ただ蘭はその前に事件を起こして学校をドロップアウトしていたことで、結局は叶わない夢になってしまった。

「い、いいでしょ…そういうのも青春の思い出だし」
「まあ…そうかもな。でも…今から取り戻しゃいーんじゃねーの。オレとオマエで」

ぐいっと腕を引き寄せられ、額に軽くキスをされると、一気に現実へと引き戻されていく。

「取り戻す…?」
「そー。この歳で青春すんのもいーだろ、別に。まあさすがに制服デートは叶えてやれねえけど…ベッドの上なら着れんじゃねーの?オマエも。店に衣装だけは腐るほどあるし」
「…な…あ、あれはコスプレのやつじゃない」
「まあ、そうだけど。たまにはそういうプレイもいいかなーと…いてっ」

真っ赤になって蘭の腕をバシっとはたくとは逆に、蘭は楽しそうに笑っている。こういうところはあまり変化のない二人だ。

「いちいち叩くなよ…オマエ、ビンボーになってから野蛮になってね?」
「すみませんね。お金がないと心もやせ細ってくもので」
「フーン。じゃあ、それ以上痩せられても困るし、そろそろディナーでも頼む?」
「…え…ここで?」
「当たり前だろ」

蘭は得意げに口端を上げると、部屋の電話から「そろそろ持ってきてー」と何かを頼んでいる。すると二分後、部屋のチャイムが鳴り、ホテルのボーイが大きなワゴンを押して入ってきた。
ダイニングテーブルではなく、応接セットのテーブルにセットされた豪華な料理の数々を見て、は本日二度目の絶句をした。
最後にテーブルの真ん中へ置かれたのは、お洒落なデザインのバースデーケーキだ。

「凄い…何これ…」

ボーイが一礼して部屋を出て行くと、はやっとの思いで息を吐き出すように呟く。実際には見たこともないような料理が並び、いい匂いを漂わせていた。

「じゃあ乾杯する?」
「え…それ…シャンパン…?高そうなボトル…」

蘭の手にしたシャンパンのラベルを見て、思わず素直な感想が口から洩れてしまった。それには蘭も呆れ顔で溜息を吐いている。

「オマエはまたすぐ金を気にする…」
「し、仕方ないでしょ…長らくお金のことばかり考えて生きてきたんだから…」

毎日毎日365日。一円単位でお金を気にして、細かいところまで切り詰めてきた日々を思うと、今のこの瞬間が夢のようだとは思った。

「もう心配することねえだろ。オマエの好きなことしろよ」
「…うん。ありがとう…全部、灰谷くんのおかげ…」

そう言って見上げると、蘭が大げさ、と笑いながらの頭を撫でる。そのまま手を引いてソファに座らせると、シャンパンを慣れた手つきで抜いた。

「誕生日おめでとう」
「…あ…ありがとう。凄く嬉しい」

カチンとグラスを合わせて、高級シャンパンを口に運ぶ。これまで付き合った彼氏にすら、こんな豪勢に祝ってもらったことはない。

「は…?何で泣くんだよ…」
「だ、だって…」

乾杯してシャンパンを飲んだ瞬間、涙が零れ落ちるのを見て、蘭がギョっとしたようにの顔を覗き込む。まさかシャンパンを飲んだだけで泣かれるとは思わない。
は慌てて涙を拭うと「幸せだなあと思ったら泣けてきたのっ」と恥ずかしそうに顔を背けた。

「幸せって…まだ料理もケーキも食ってねえじゃん」
「そ、そういうことじゃなくて…!この時間というか…灰谷くんに祝ってもらえて何か…胸がいっぱいになっちゃって…」

目を赤らめながら鼻をすすると、はシャンパンを口にしながら「美味しい…」と呟いた。

「今まで飲んだお酒の中で一番美味しい…」
「だーから大げさー」

シミジミ言うのを聞いて笑ったものの、素直に感動している姿が可愛くて、そのまま肩を抱き寄せた。こめかみに口付けると、それだけでの頬が赤くなっている。

は昔から素直で、そーいうとこ可愛いわ」
「よ、酔ってる…?」
「シャンパン一杯で酔うわけねえだろ。素直な感想だよ」

蘭は澄ました顔で言いのけ、はぐっと言葉に詰まる。ストレートに褒められると、どういう顔をしていいのか分からない。
その時、蘭が「あ、そーだ」と言いながら、ソファのクッションと並んで置いてあった紫のリボンでラッピングされた黒い袋を差し出した。

「これ、竜胆から。オマエに誕生日プレゼント」
「…え?り、竜胆くんからって…」

ちょっと驚きつつも受け取ると、手の中で柔らかい感触がある。

「あー…オレが強制したわけじゃねえから。アイツが自発的に買ってきたんだよ」
「い、いいのかな…もらっちゃって…」
「当たり前だろ。開けてみ」
「う、うん…じゃあ…」

その袋は巾着のような形で、生地はシルクなのか手触りがいい。
大きさにすると、の両手に乗るくらいの大きさだ。触った感じはやけに柔らかく、いったい何だろう?と思いながら、は丁寧にリボンを解いていった。そして入口を左右に広げて中身を取り出す。その瞬間、の顏が固まった。つまんで広げてみると、それはどう見てもブラジャーだったからだ。

「げ、下着じゃねーか」

蘭も知らなかったのか、の中にあるプレゼントを見て顔をしかめている。ご丁寧にブラジャーとセットのショーツまでが入っており、黒い生地にレースの部分が淡い紫色という大人っぽいデザインだ。しかも大事な部分を隠す場所の生地が薄く、ライトに翳してみれば薄っすら向こうが透けて見える、それにはの頬もじわりと赤くなった。

「え…こ、これ…」
「アイツ…そういやプレゼントに下着がいいんじゃねーかっつってたわ…」
「そ…そうなんだ。でもこれ…凄くいいやつよね」

触っただけで高級なのが分かるほどに手触りがいい。しかもサイズがのとピッタリで、そこも少々驚いた。

「何でサイズ知ってるの…?」
「あ?あー。履歴書見たんだろ、きっと。オマエ、面接の時に書かされたろ」
「あ…そ、そう言えば…」

ふと事務所の高倉に一応スリーサイズも書いておいてと言われたのを思い出した。あの時は風俗で働くものだと思っていたので、仕方なく書いたのだが、それを竜胆は参考にしたらしい。とりあえず、いつまでも手にしてるのは恥ずかしく、はすぐに巾着へ戻そうとした。

「あ、ちょい待て」
「…え?」

蘭に手を掴まれ、ドキリとした。

「これ、後でつけてオレに見せて」
「…は?」
「何だよ、その顏。まさかスイートルームでディナーだけして帰るとか思ってんの?」
「…う…」

ニヤリと笑う蘭を見て、は言葉に詰まってしまった。確かに来る前、そんな想像をしたことにはしたが、いざ現実になると怯んでしまう。蘭はの様子に苦笑しながらも、軽く肩を抱き寄せた。

「約束したろ?を抱く時は高級ベッドの上だって」

耳元で囁きながら、蘭は扇情的な笑みを浮かべての頬に唇を押し付けた。


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