第一話:独白

静かな雨の音だけが響く取調室。一人の刑事が殺人犯の男と向かい合っている。
男の名前は灰谷蘭。二十七歳。
日本最大の犯罪組織、梵天の幹部であるこの男は、一カ月前の六月十五日未明、ある半グレ集団の幹部十人を、たった一人で惨殺した罪で現行犯逮捕された。
この男の担当となった一柳公康いちりゅうきみやす警部補は、この道三十年のベテランであり、取り調べのプロでもある。だが、この一カ月。一柳を以てしても、灰谷蘭は黙秘をしたまま、事件のことについては何も語ろうとしない。一柳が何を訊いても、視線すら合わせようとはしなかった。
男のわりに、色白できめ細かい肌質は、まるで女性のように美しい。元が端正な顔立ちだからこそ、余計に人目を引くタイプに見える。淡いバイオレットカラーの髪を下ろし、その鋭い目は垂れた前髪で僅かに隠れているので、表情が分かりにくい。
この灰谷蘭が、十人もの人間を惨殺したのは現行犯逮捕されたことで分かっている。だが反社組織の、それも幹部という立場の男が、十代後半から二十代前半の若者たちを次々に殺していく理由が見当たらない。この手の組織の人間は、よく縄張り争いで衝突したりはするが、単独で十人もの人間を手にかけるほどの理由にはならない。その場合、彼らは組織として動くからだ。
では何故、この男はたった一人で半グレ集団のアジトへ乗り込み、若者たちを惨殺したのか。一柳はその犯行理由に、一つだけ心当たりがあった。
ただ、それを本人の口から語らせないことには、事件の詳しい経緯は分からないのだ。
蘭は相変わらず、何も話そうとしない。一柳の雑談にも応じず、手持無沙汰になった一柳は、手元にある資料を開きながら、もう一度、事件の概要を見直してみた。

現場近くの交番に通報が入ったのは、六月十五日の午前二時を過ぎた頃。梅雨の走りで三日ほど前から雨が続く、肌寒い夜だった。

『近所の空きビルから、銃声のような音や、男の悲鳴が聞こえる』

その電話に応対した警官は内心、またか、と溜息を吐いた。
その空きビルというのは、半グレと呼ばれる若者たちがしょっちゅう入り浸っている場所だったからだ。
これまでも何度か「若者たちが騒いでいる」と通報が入ったこともある。今回も同じように集まって酒でも飲んでいるんだろうと思った。銃声というのも、どうせ爆竹か何かを鳴らして遊んでるだけだろう、と。
だが通報を受けたからには現場まで確認しに行かなくてはならない。その日、交番につめていた警官二名が、すぐさま問題の現場へと向かった。
通報を受けてから約五分後の午前二時半、警官二名が現着。その時は空きビルのシャッターも開けっぱなしの状態だった。
一階のロビーは荒らされ。窓ガラスも割れて細かいガラスが床に散らばっている。そしてそこには数名の男達が倒れていた。

「おい、大丈夫か」

警官が声をかけると、一人が意識を取り戻す。どうやら殴られて意識を失っていたらしい。確認すると、男達の頬や額には打撲痕のようなものがある。意識を戻した男は青ざめた顔で、上に続く階段を指さした。

「アイツが…あの男が上に…」

このビルの四階部分には幹部の集まる部屋があるという。
警官はすぐに階段で上へと向かった。だが、途中の踊り場まで行くと、足元が軽く滑った。空きビルなので当然、電気は通っていない。薄闇の中、警官は懐中電灯で足元を照らした。すると赤い水たまりの中に、人が何人も折り重なるような形で倒れている。
警官が驚いて悲鳴をあげた。赤い水たまりに見えたのは血だまりであり、その中に半グレのメンバーと思わしき男達が、絶命した状態で倒れていたからだ。
暗くて分かりづらいが、一人は額を撃ち抜かれ、即死状態。もう一人は刃物で攻撃されたのか、首から胸にかけて長い切り傷があり、大量に出血をしたようだった。
これは只事じゃない。そう判断した警官は、すぐに応援要請をかけたあと、静かに階段を上がり四階へ向かう。階段に点々と血痕が続いているのを確認しながら、やっと四階へ到着した。この空きビルは各階にテナント募集をしている部屋があり、四階には三つほどオフィスで使えそうな部屋がある。警官は足元から、今度は目の前にある部屋へ懐中電灯を向けた。そして息を飲む。壁や天井、そして床。全てに血しぶきのようなものが飛んでいる。
そこはまさに血の海だった。
視界に入るだけでも、男達の遺体が数体は転がっている。どれもさっきの遺体同様、折り重なるようにして倒れており、すでに絶命しているのは確認しなくても分かった。
現場は凄惨な状況で、まさに地獄絵図。
そして奥の方から、外の雨音に交じりパンパンパンっという乾いた音が三発連続で鳴り響いた。警官二名は慌てて腰に下げている自分の拳銃を構えると「警察だ!手を上げろ!」と警告した。
すると奥の方でゆらりと揺れる影が、ゆっくりと上体を起こすのが見えた。シルエットを見る限り、長身の男だと分かる。
その姿を見て警官が息を飲んだのは、男の右手には拳銃、左手には日本刀のような長物を手にしていたからだ。

「おい!警察だ!武器を捨てなさい!」

声の限り叫んで警告したが、男は黙ったまま動かない。
だが次の瞬間、右手に持っていた拳銃を、自らのこめかみに押し当てるのが見えた。

「武器を捨てなさい!」

警官はもう一度叫ぶと、今にも引き金を引きそうな男の肩めがけて、自らの拳銃を発砲した――。

(弾は運よく男の肩を掠め、その際、けん銃を落とした。その直後、応援が到着した時には、男も観念したのか所持していた刀を床へ放り投げ、抵抗する素振りは見せなかったという…)

これが事件の概要だが、一柳はやはり今回の事件、あの事・・・が関係してるのでは、という気がしてならない。

「そろそろ…話す気になったかい?」

いつものように、一柳は蘭に声をかけた。
すると、これまで一柳の言葉には反応すら見せなかった蘭が、ゆっくりと顔をあげる。そしてどこか遠くを見るような目で一柳を見た。

「…アンタは…?」

一柳は目を見張った。これまで一言も話さなかった蘭が、突然話しかけてきたからだ。だが、毎日顔を合わせていたにも関わらず、蘭は一柳と初めて会うとでも言いたげに、探るような目つきで見ている。

「私は一柳だ。毎日会ってただろう?」
「……毎日…?」

蘭は僅かに視線を反らし、思案するように天井を見上げた。

「覚えてないのか?」
「……あー…オレ、捕まったんだっけ」

蘭はまるで夢でも見ていたかのようにポツリと言った。

「なあ…アイツら、死んだ?」

ふと思い出したように尋ねる蘭を見て、一柳はかすかに寒気を覚えた。人の生死を、まるで天気を尋ねるかのように訊きながら、表情一つ動かさない蘭の姿が、異様に映った。
 
「そう訊くということは、事件を起こしたことは覚えてるのかな」
「………」
「事情を聞かせてもらおうか」
「つーか…何でオレ生きてんの…」
「死なれちゃ困る。君はこれから罪を償わなければならない。十人の命を奪った大罪のな」
「……人間?オレは人間の命を奪った覚えはねえけどな…。ゴミの間違いだろ…。――でもそうか。アイツら全員、死んだんだな」

蘭が初めて、その端正な顔立ちに満足げな笑みを浮かべた。

「…嬉しいのかね。彼らが死んだことが」
「あのゴミどもは、オレの一番大切なものを奪った。だから罰を与えたまでだ。それが大罪だって言うならオレを死刑にでも何でもしろよ。この世に未練はねえ」
「被害者と君の間に何があった。彼らは君の何を奪ったんだ?」

一柳の言葉も、蘭は聞いていないように見えた。視線を窓の方へ向け、時折、何かを思い出すような眼差しで眩しそうに目を細めている。しばらくの沈黙が続いた後、不意に蘭が口を開いた。

「もう…夏なんだな…」
「ん?ああ…だいぶ暑くなってきたな」
「…アイツと…約束してたんだよ」
「…アイツ?」
「彼女が…今年こそ花火大会に連れてけってうるさくて。だから…最高に見晴らしのいい場所で見せてやろうと思ってたんだ」

一柳はそこで敢えて、その人物が誰なのか聞かなかった。蘭を逮捕した際、彼の関係者は全て調べてある。その中に、組織とは関係のない一般人が含まれていた。それが蘭の恋人である
だがその恋人は一カ月前、すでに亡くなっているらしい。何かの事件に巻き込まれたようだが、犯人はまだ捕まっていないと、担当の刑事から聞いている。その件と、今回の件。一柳にはこの二つの事件が無関係とは思えなかった。蘭の言葉を聞いて、いっそう確信にちかいものを感じた。

「その子は…どんな子なんだ?」

一柳が訊ねると、蘭はまるで独り言のような口調で、淡々と恋人のことを話しだした。

「アイツは……は、地獄みたいな生活を送ってたくせに、些細なことでも良く笑う、バカみたいに明るい女だった」

ふと、窓を見上げ、打ち付ける雨を眺めると、蘭は思い返すように、穏やかな笑みを浮かべた。

と出会ったのは今から五年前の――」




△▼△


二〇一二年・二月二二日。

眠らない街、東京。この日、蘭は弟の竜胆、そして天竺というチームの元仲間、鶴蝶と、総長だった黒川イザナの墓参りに行った。その帰り道、イザナの思い出話に花が咲き、三人は真っすぐ帰る気分でもなく。このまま飲みに行こうということになり、三人でクラブやバーを梯子しては、懐かしい話題で盛り上がった。そして最後には六本木へと飲む場を変えた。
夜の帳が降りても、絶えず人々が集う場所、灰谷兄弟が支配する六本木。その中でも、一際目を引き、"六本木の顔"と言っても過言でないのが六本木ヒルズだ。最後はヒルズ内にあるバーで酒を飲み、三人が解散したのは、午前0時をだいぶ過ぎた頃だった。
ベロベロになった鶴蝶を、弟の竜胆がタクシーに乗せて送って行った。一人になった蘭は、近いこともあり、自宅マンションまで歩いて帰ることにした。冬の張りつめたような寒さも、今なら酔い覚ましにはちょうどいい。
ヒルズの敷地内をのんびり歩きながら、行きかう人とすれ違う。
この時間でも、六本木は人が絶える気配すら見せず、あちらこちらで酔っ払いの声が響いていた。
蘭が歩いていると、顔見知りの男達から「蘭さん、お疲れっす」という声がかかるのも、いつものことだ。軽く立ち話をしつつ、そろそろ眠くなってきたことで、蘭は再び家路につこうと歩き出し、ちょうどヒルズの敷地を出ようとした時だった。

「お兄さん」

背後で女の声が聞こえた。だが蘭は自分が呼ばれたとは思わない。自分のことを「お兄さん」と呼ぶような女はいないからだ。蘭はそのまま、足を止めることなく通りを歩いて行く。
少しすると、再び「お兄さんてば」と、すぐ後ろで声がした。

「そこの三つ編みのお兄さん」
「………」
「ねえってば」
「…………」
「…灰谷くん!」

ひたすら聞こえないフリをしていたものの、今度はハッキリ、蘭の外見を指す言葉と苗字を呼ばれ、蘭はそこで初めて足を止めた。

「…あ?」

聞き覚えのない声と、呼び方。蘭は少しばかり警戒しながら振り向いた。

「やーっと気づいてくれた!はぁ~疲れた…」

走って追いかけてきたのか、その女は息を切らした様子で何度か深呼吸をしている。膝に両手をつき、頭を下げているので顔は良く見えないが、足元を見ればヒールの高い靴を履いている。そんなものを履いて走れば疲れるのも当然だ。この寒さの中、膝上のミニスカートにハイヒール。この女が自分に何の用で声をかけてきたのか、蘭にはさっぱり分からない。そもそも、この六本木で蘭に声をかけてくる人間は、蘭のことを知っている人間ばかりだ。

――灰谷さん。
――蘭さん。

男も女も、誰もがそう呼んでくる。ただ灰谷さんだと、弟の竜胆なのか、蘭なのかが分からないので、殆どは名前で声をかけてくる人間が多い。だから「灰谷くん」などと馴れ馴れしく呼ばれる方が珍しい。

「…何だ、オマエ」

酔いの回った頭で考えながらも、とりあえず何の用なのか気になった。蘭が応えると、息を整えていた女がパっと顔を上げる。見た目だけで言えば大きな瞳と長いまつ毛が印象的な、可愛らしい顔立ちの女だということは分かった。年齢はハタチそこそこ。自分と同じくらいの年代に見える。メイクはしているものの、どこか表情があどけない印象だ。しかしこの女、蘭には見覚えがない。六本木の、それも繁華街で遊んでいる女達は、だいたいが顔見知りである蘭が知らないのだから、この辺の女じゃないのかもしれないと思った。
女は蘭を見上げるなり、その大きな瞳をまん丸にして「うわ、相変わらず、美人!」と甲高い声を上げた。
外見を誉められるのはいつものことでも、美人と言われたことはない蘭は、いきなりキラキラした瞳を向けてくる女に対して、何だコイツ、という印象を持った。いや、過去にそんな誉め言葉を言ってきた女がいた気もするが、それも随分と前の話だ。

(そう言えば、アイツもこの女みたいな、やかましいタイプだったっけ…)

ふと思い出した面影を、目の前の女に重ねる。
騒々しい。馴れ馴れしい。
どちらも蘭の苦手なタイプだ。

「だから誰だよ、オマエ。オレに何の用」
「あ…やっぱり覚えてない感じだ」
「あ?」

本音を言えば、蘭は女を無視して早く帰りたかった。ただ、相変わらず、という言葉が気になった。そんな言葉を言うくらいなのだから、知り合いの可能性もある。見覚えはないが、忘れてしまってるだけか?と蘭は内心、首を傾げた。
まさか前にヤった女だったり?と少し焦りながらも女を見下ろすと、彼女はニッコリ微笑んで、自分の腕を蘭の腕に絡めてきた。

「ねえ、わたしとホテルに行かない?」
「………は」

あまりに驚いたせいか、蘭の口から乾いた音が零れ落ちた。ただの逆ナン女…いや、それ以上のパワーワード。まさかいきなりホテルに誘われるとは思わない。

「何言ってんの、オマエ」

「あ?」
。わたしの名前」
「……あのな…どうでもいいわ、今、オマエの名前なんて」

蘭はと名乗った女の腕を振り払うと「女は間に合ってんだわ」とだけ吐き捨て、マンションに向かって歩き出す。せっかくいい気分で酔っていたのに台なしだと言わんばかりに、蘭は歩く速度を速めた。でも背後からカツカツカツとヒールの音が近づいてきて、蘭は深い溜息を吐いた。

「着いてくんじゃ――」
「灰谷くん、わたしのこと忘れちゃった?」
「……何だって?」

またしても驚いて振り返ると、は少し悲しそうな笑顔を向ける。

「やっぱり覚えてないか」

の思いもよらぬ言葉に、蘭の思考が一瞬止まった。やっぱり知り合いだったのか?どこで会ったっけ。そもそもホテルへ行こうと言うくらいだから、前に手をつけた女かもしれない。一瞬のうちに色々な思いが過ぎっていく。
だが蘭が答えを導き出す前に、の方からそれを差し出した。

「わたしは。同じ中学校の同じクラスだったよね」
「……中学?……」
「まあ、わたしは途中で地方に転校しちゃったけど」

転校――と聞いて、蘭の記憶の中で何かが弾けた。

――灰谷くん、まーたサボって帰るの?
――あ?うっせぇな…放っとけよ。
――灰谷くん、せっかく美人なんだから、怖い顔しない方がいいのに。
――あぁ?美人だァ?オレは男だっつーの。

そんな他愛もないやり取りを、蘭は突然思い出した。いや、今ではそのクラスメートの顏すら思い出せないくらい、遠い昔の記憶。

――わたし、灰谷くんのこと、好きだったんだよ。でも遠距離恋愛は出来ないもんね。
――あ?つーか、何、勝手に付き合う前提で話してんだよ。
――あ、やっぱり?

一つ思い出せば、次々に記憶が蘇っていく。

「オマエ…か…?」
「え、思い出してくれたの?」

嬉しそうなのその笑顔が、過去のクラスメートの顔と一致した瞬間だった――。




▼△▼



取調室の窓にはいっそう強く雨が打ち付け始め、蘭は言葉を切った。
一柳は何も言わず、蘭が話し始めるのを静かに待つ。
今回の蘭が起こした事件と関係のありそうな話かもしれないので、いつもより慎重になっていた。

は…久しぶりに会っても昔と変わらず、やかましいくらい元気だった。だから、まさか…あんな仕事をさせられてたなんて思いもしなかった」
「…あんな仕事…?」

そこで一柳が訊ねると、蘭はふと目を伏せた。

「…売春だよ」
「…なるほど。で、させられてた、とは――」
はある男に飼われてた」
「…飼われてた?」
「矢谷ケンイチ。アイツだけは…殺しても殺したりねえ」

矢谷――その名を聞いて、一柳は息を飲んだ。
矢谷ケンイチ。それは今回、蘭が殺した被害者のうちの一人だったからだ。

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