美わしのユータナジー



昼下がり、大勢の学生が集う構内の食堂は、あちらこちらから笑い声が上がる賑やかな空間へと変わる。旅行の予定を立てる者、昨夜の合コンでの失敗話を笑いに変える者、次の講義の確認をする者など、そんな会話で若者は盛り上がる。もうすぐ訪れる長い夏休みを前に、誰もが少し浮かれ気味なのは否めない。
そんな活気溢れる空間に、一つだけ重苦しい空気を漂わせている席があった。一番人気のある窓際の席で、ジリジリと焼けつくような太陽の日を浴びながら、今にも溺れ死ぬのでは、と思わせるほどに顔色の悪い男と、そんな男から目を反らし、手にしたケータイで誰かにメッセージを送っている女。

男はそんな彼女へ何を言うでもなく。薄茶色の髪が垂れるほどに俯き、涼し気な目元を伏せながら、膝の上で硬く握りしめた手をかすかに震わせていた。
一方、目の前に座る女は男の様子に興味はないのか、メッセージを打ち終えると、テーブルの上のコーヒーカップをゆったりとした動作で口元へ運んだ。濡れ羽色を思わせる美しい黒髪と同様の、くっきりとした瞳は彼女の綺麗な顔立ちをいっそう引き立たせている。少し勝気な魅力のある彼女は、この大学でも人気が高く、常に注目の的だった。現に今も、近くに座る学生たちが今か今かとその時・・・を待ちわびていた。そんな空気を感じたのかは定かではないが、遂に男の方から口を開いた。

「もう……無理ってどういうことだよ」

意を決したように顔を上げた男もまた、女子が見惚れるくらい端正な顔立ちをしている。スラリとした長身で、モデルのバイトをしてるというのも頷けるほどに見た目は華やかだ。しかしその端正な顔立ちも、今は見る影もないほど不愉快そうに歪んでいた。

「そのままの意味だけど」

女は少し煩わしそうに長い髪を掻き上げると、「まだ続けるの?この話」と溜息を吐いた。これまでこんな扱いを受けたことのない男は、女の豹変ぶりに身を震わせ、カッとしたように立ち上がった。

「ふざけんなっ!まだ付き合って3日だろうが!オレの何が気に入らないんだよっ」
「ハァ…」

ギャンギャンと喚く男に最後の我慢も限界を超えた女は、深い深い溜息を吐くと、そのキツめの瞳を男へと向けた。

「"わたしが一週間以内にアンタを好きになれなければ別れる"。そういう約束だったでしょ。だから無理って言ってるんだけど」
「だからまだ3日だろうが…!約束は一週間――」
「3日でも何でも、これ以上付き合っても好きになれないと思ったから言ってるの。それくらい察してよ」

これ以上ないというくらいにハッキリ告げると、男の顔色が更に変わり、今にも倒れるんじゃないかと思うほどに白くなった。女はそれすら興味がないというように席を立つと、ケータイとバッグを手に食堂を颯爽と出ていく。その場に残された男は言葉を失ったようにそれを見送っていたが、ふと周りが静かになっていることに気づいて振り向いた。食堂中の学生が、興味津々の様子で二人のやり取りを見ていたことに、男はこの時初めて気づく。白かった顔が一気に赤くなった瞬間だった。

「何見てんだよ!テメェら!ぶっ殺すぞ!」

普段の爽やかなイメージから一変。その辺のチンピラのような口調で怒鳴り散らすと、男は自分の座っていた椅子を思い切り蹴り飛ばし、食堂を飛び出していく。その一部始終を見ていた学生たちは、男がいなくなった途端、騒ぎ始めた。

「賭けはオレの勝ちだな。ほら1000円よこせ」
「くっそ~。アイツなら一週間くらい持つと思ったんだけどなあ~」
「ちょっと見たぁ~?ガッカリじゃない?」
「ほーんと。磯貝くんの本性ってアレだったのかー」
「さすがに顔良くても中身があれじゃガチで無理」

男女それぞれが、今の修羅場の話題で盛り上がりを見せ、様々な反応を見せる。

「でも、恐るべしだな。入学してからアイツで何人目だよ、男振ったの」
「よっぽど理想が高いんじゃねーの。ガチのお嬢様だし」
「あ~コーポレーションの社長令嬢だもんなあ」
「フラワービジネスと言えば。その名の通り、オレ達には高嶺の花だわ」

男たちは二人が座っていた席を眺めつつ、大きな溜息を吐いていた。




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「あれ、!もう終わっちゃった?」

食堂を出てすぐのところで、友人の佐藤すみれが慌てたように走ってくるのを見て、は足を止めた。

「おっそーい…もう終わったよ」

はうんざり顔で口を尖らせると、すみれは「ごめんごめん」と謝りながら苦笑した。先ほど、「男と別れ話をしてるからさり気なく迎えに来て」とからメッセージを受け取っていたのだ。

「でも遂に磯貝のヤツも失恋を経験したかー。ザマーミロ!あのクズがと釣り合うはずないもん」
「何でアレがモテるのかサッパリ分からなかった。デートも自慢話しかしてこないし、付き合った当日にホテル行こうとするし、本当は初日に振っても良かったんだけどね。すみれも何でアレが良かったの?」

が呆れ顔で尋ねると、すみれは「顔」と応えて笑った。
先ほどがこっぴどく振った男は、すみれが以前、憧れていた男でもある。だが告白した際、すみれを振っただけじゃなく「オレとオマエが釣り合うとでも思ってんの」という暴言まで吐いたと聞いて、は頭に来ていたのだ。その男からたまたま「オレと付き合って欲しい」と告白を受けたことで、今回の復讐を思いついた。

「でもアイツが振られるとこ見たかった~」
「見せたかったよ。顔なんか真っ青でさ。そもそもわたしの噂知ってるクセに、自分だけはフラれるはずないって自信どっから来るんだろ」
「言えてる!、ほんと彼氏できても長続きしないもんねー」
「……だって。いい男いないんだもん」
「そもそもが思ういい男ってどんな男よ。逆に気になるわ」
「…それは…まあ…ほら…顔とか…」
「うーそばっか。どんなイケメンでも振ってたじゃない。って失恋したことないでしょ」

すみれに突っ込まれ、は初めて言葉を詰まらせた。同時に思い出した、胸の軋むような痛み。

「……あるよ、それくらい」
「え!嘘?!あるの?いつ?」
「…中学の…頃かな」
「マジで?え、を振る男ってどんな奴?気になる!」
「どんなって……金髪で…」
「え、中坊で金髪ってことは…不良とか…?」
「まあ…真面目では…なかったかな」
「えーっ!意外!が不良好きだったなんて」
「不良が好きとかじゃなくて…その人が…好きだったの」
「え、凄く気になる。詳しく聞かせてよ」

すみれはの腕に自分の腕を絡めると「午後の講義ないんでしょ。今からランチ行こ」と勝手に決めて歩き出す。言い出したら聞かない性格なのは知っているので、も腕を引かれるまま、彼女について行った。

(あれは…初めての失恋…だった…)

思いがけぬところで思い出した、淡い初恋。あれはがまだ13歳の頃の話だ。同じクラスに、あまり学校へ来ない生徒がいた。
灰谷蘭――綺麗な名前をしたそのクラスメートは、金髪に三つ編みスタイルといった、一見するとかなり変わった感じの、名前同様、綺麗な顔立ちをした男の子だった。



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7年前――。

朝日を浴びながら誇らしげに咲いている朝顔を満足げに眺めていたは、毎朝恒例の水やりを終えると、学校へ行く準備をする為、一度リビングへと戻った。するとキッチンから母が顔を出す。

、終わった?」
「うん。ちゃんと皆にお水あげた」
「ありがとう。じゃあ、今夜も遅くなると思うから夕飯はこれで出前でもとって食べてね」

そう言いながら母が二万円ほどテーブルに置くのを見て、は「うん…」とだけ応えた。本当は前のように母の料理が食べたいと言いたいけど言えない。忙しいのは分かっているから。

元々花好きだった両親は、が生まれる前に脱サラをして花屋を始めた。最初は小さな店だったが、花の知識も豊富な二人は、来る客一人一人のニーズに合わせ、プレゼント用、家用、業務用など、それぞれのシーンに合わせた花を造り、当時はまだ殆ど展開されていなかった個人への"花の配達"を始めたことで人気店となった。そこから少しずつ従業員も増やしていき、インターネットが主流になり始めた頃には店のホームページを作って、そこからも注文を取れるように展開していった。
その甲斐あって、フラワービジネス賞"流通・販売部門"で大賞を受け、店舗展開により、更に利便性のよい駅前店舗を展開した点と、ミニブーケ等の商品開発を通じて若年消費者を取り込んだ貢献を認められた。が生まれる頃には会社としても大きく成長し、父だけじゃなく、母も社の重役というポストに就きながら、日々忙しく走り回っている。それこそ、一人娘の世話にまで、手が行き届かないほどに。

「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」

声だけが背中を追いかけてくるのを聞いて、は溜息を一つ吐きながら家を出た。その瞬間、ふわりと甘い花の香りが漂ってくる。花屋を営む前から、両親は家の周りに植物を植えて育てていたらしいが、今ではがそれの世話をする係だ。親の影響でも花が好きなのもあり、枯らさないよう毎朝水やりをしている。

(今夜も一人で夕飯か…)

ちょっとの憂鬱を感じながら、は学校へ向かってあるいて行く。

さん、おはよう」
「おはよう、木原くん」

校門近くで声をかけられ振り向くと、後ろからクラスメートの木原が笑顔で駆け寄ってきた。

「今日、一時間目から小テストあるよね。勉強してきた?」
「…してないかな。夕べはドラマ観て寝ちゃったし」
「え、さん、何観てるの?僕は月9にハマってんだよね」

勝手に隣へ並んで歩き出す木原に、の頬がかすかに引きつる。いちいち話を広げないで欲しい、と思ってしまうのは、木原が自分に気があると分かっているからだ。席が隣というだけで特に親しくしてる覚えもないのに、木原は最初から慣れ慣れしかった。学校の制服を少しだけ着崩し、サラサラの黒髪を垂らしている木原は、いかにも女子ウケを狙っているような男子だ。まあ顔立ちもそれなりに整ってはいるからか、クラスの女子からも人気があるのは知っている。でもは、自分がモテていると自覚して、それをアピールしてくる木原のそういうところが苦手だった。

「そう言えば昨日の帰り、下駄箱に手紙が入っててさー」
「………」

また始まった、と内心ウンザリしたは、少し歩く速度を速めた。しかし空気の読めない木原はきちんと速度を上げてついてくるのが、はウザいと思ってしまう。

「今時、下駄箱に手紙って古いよなあ。そう思わない?さん」
「そうかな。手紙って直筆?」
「え?あ、ああ…そうだったかな」
「じゃあ相手も真剣に書いたんだろうし、自分の為に時間を割いて直筆の手紙をくれるなんて、わたしなら嬉しいしかないけど。手紙が書ける人って素敵だと思うし」

一息に話すと、木原は少し呆気にとられたような顔をしたものの、責められたと感じたのか「そ、そうだよね。だから僕もちゃんと読ませてもらったよ、もちろん」と早口で言いだした。その変わり身の早さに吹き出しそうになりつつ、内心ではホントかよ、と突っ込んでしまう。どうせ読まずに捨てたか、友達にも読ませて笑いものにしたかのどちらかだろうとは思った。

「あ、それよりさー。今度の日曜日――」

と木原が急に話を変えるのを見て、まだ何か話すわけ?と、がウンザリした時だった。後ろから来た人物の肩が、追い越しざまに木原の肩へドンっと当たったことで話が中断した。

「いってぇ…なっ――」
「あ?」
「……っ」

一瞬、文句を言いかけた木原が黙る。振り向いたのは、陽の光を浴びてキラキラ光る金髪の三つ編みを垂らした、目つきの悪い男だったからだ。その人物を見て、は心臓が跳ねる音を確かに聞いた。

「チッ…オマエが邪魔なのがわりーんだろが」

金髪の男はぼそりと悪態をついて、真っすぐ校門の向こうへ消えていく。それを見送っていたは、やっと学校に来てくれた、と嬉しくなった。

「ったく…。何だよアイツ…。同じクラスの灰谷…だっけ。たまに学校に顔出したと思えば偉そうに…」
「ああ、ごめん。わたし、先に行くね」
「え?あ、さん?!」

女々しい愚痴を聞いてやる義理はない。は振り切るように走りだすと、校舎へ入ってすぐに金髪の三つ編み姿を探した。すると気怠そうに階段を上がっていくのが見えて、自分もすぐに靴を履き替え、急いでその後を追う。
階段を一段飛ばしで上がっていくと、金髪の三つ編み男子は教室のある階ではなく、更に階段を上がっていく。それを見て目的地が屋上だと気づいた。が彼と初めて言葉を交わした場所だ。

「…灰谷くん!」
「あ?」

屋上へ出る扉を開けて名前を呼ぶと、金髪の三つ編み男子――灰谷蘭は驚いた顔で振り向いた。

「オマエ、確か…」
…同じクラスの…」

息切れしている呼吸を整えつつ、もう一度名乗ると、蘭は「ああ、そうそう。だ」と苦笑いを浮かべた。

「何か用なわけ。ああ、それともまた、ここで男と待ち合わせ?」
「え…ち、違うよ」

蘭の言葉に頬が赤くなったものの、覚えててくれたんだとホっと胸を撫でおろした。
蘭とが初めて言葉を交わしたのは先月のことだ。一つ上の先輩に屋上へ呼び出されたは、その男から「オレと付き合ってくんねえ?」と告白された。しかし、よく知らない上に、男はちょっと素行の悪いタイプ。あっさり「ごめんなさい」をしてしまった。すると、考える素振りも見せずに断ったことでプライドが傷ついたのか、相手の男はしつこく「オレのこと知らないのに断るとかなくねえ?デートくらいしようぜ」と言い出し、に迫った。それが更に嫌われる行為だとも知らずに、嫌がるに「なあ、一回くらいいいだろ」と詰め寄ってくる。それに恐怖を感じてきた時だった。

――しつこい男は嫌われんぞー。
――ああぁ?

弾かれたように振り返ると、そこには見覚えのある金髪の男の子が立っていた。

――誰だ、テメェ…
――ソイツのクラスメート。
――ハァ?だったら引っ込んでろ!
――なあ、アンタ。コイツとデートしてぇの?

男に詰め寄られても平然とした顔で、金髪のクラスメートはに質問してきた。そこで思い切り首を振ると、だってさ、と肩を竦めて笑い出す。それにキレた男が金髪の男の子に殴りかかろうとしたのを、は信じられない思いで見ていた。
けれども、先に床へふっ飛ばされたのは、に迫っていた男の方で、金髪の男の子は平然とした様子で男を見下ろしている。は何が起きたのか、さっぱり分からなかった。

――あ、あの…ありがとう…。
――別に。昼寝しに来たのにうるさかっただけだし。
――灰谷くん…だよね。
――あ?オレのこと知ってんの。
――そりゃ…あまり不登校の子は多くないし…目立つ髪型だから。
――あっそ。
――あ、わたしはっていうの。
――ふーん…つか、もういい?オレ、昼寝してーんだよ。
――あ、そ、そうだよね。ごめんね…
――ふは…っ何謝ってんだよ。普通、授業受けないのかって説教するとこじゃねーの。
――え?あ…じゃ、じゃあ…授業…受けないの?
――じゃあって何だよ。素直か。

蘭は笑いながら突っ込むと「受けねーよ」と言って、本当に昼寝をし始めたのを、はただ唖然として見ていた。

わざわざ学校に昼寝をしに来る変な人――。
の中で蘭はそんな印象だった。でもそれ以来、は蘭が学校に来るのを、何となく心待ちするようになっていた。確実に苦手な類の不良のはずなのに、あの日、一瞬だけ見せてくれた笑顔が、の心にこびりついて離れてくれないのだ。

「灰谷くんは…今日も昼寝をしに来たの?」
「…いや、担任から呼び出しくらっただけ。後は久しぶりに朝、目が覚めたから暇だったし」
「え…久しぶりって…灰谷くん、いつ起きてるの?」
「…あ~夕方?」
「え…」
「朝に寝るからな、だいたい」
「そ…そうなんだ」

やっぱり不良なんだ、と思いつつも、何故か怖いとは思わなかった。

「じゃあ、今日も授業は受けないの?」
「…受けても仕方ねえし」
「え…仕方ないって…」
「オレ、こう見えても家庭教師ついてんの。家できっちりやってっから学校の授業は意味ねえんだよ。進むのおせーし」
「……家庭…教師…?」
「何だよ。意外~?」
「ううん…そんなこと…」

この時は意味が良く分からなかった。しかし、後で蘭と同じ小学校だった生徒に聞いたところによれば、灰谷蘭の親はいくつも事業を展開している成功者ということで、息子二人には会社を継がせる為の英才教育を今から施してるらしい、との話だった。ただ本人たちはそれに反発し、グレ始めてからは人目を気にした親に学校に行くなと言われてるようだ。そんな親もいるのか、とは驚いてしまった。こうして時々学校に顔を見せるのも、そういった親に嫌がらせしたいからかもしれない。

は?やっぱ花屋継ぐわけ」
「え…どうしてウチが花屋だって…」
「オマエんとこの花はオレの親父の会社に飾られてっから」
「え?そうなの?」

それを聞いた時は驚いた。その時は蘭の父親はどんな会社に勤めてるんだろうとしか考えていなかったが、後々大会社を経営していると知って納得したものだった。

「オマエ、花が好きなんだろ」
「うん…て、それまたどうして…」
「オレが学校来るたび、オマエがこの下の花壇に水やってんの見かけるし、いつもからは花の匂いがするから」
「え、嘘…」

匂い、と言われて慌てて自分の腕を嗅いでみたものの、よく分からない。そんなを見て、蘭はただ笑うだけだった。

それからも時々、蘭が学校に来るたび、屋上で会うようになり、三か月も過ぎる頃には、も蘭のことが好きなのだと自覚し始めた。色々と知りたくなるのは、蘭のことが好きだからだ。
だからこそ――。

「――え、それで告白しようって思ったの?」

カラカラとアイスコーヒーをストローでかき回していたすみれがぐっと身を乗り出してくる。それを見たは苦笑いを零した。

「そう。時々学校で会って話すだけじゃ満足しなくなって無謀にもね」
「え、それで?それで?」

グイグイと迫ってくるすみれに、は笑いながら肩を竦めてみせた。

「だからフラれたって言ったでしょー?それきりだよ」
「え…でも何で?何か聞いてるといい感じだし、さり気なくのことも知ってたし、向こうも意識してたとか、に気があったんじゃないの?」
「それはないな…たまたま知ってただけって感じだと思うし」
「そーなんだー。え、で…向こうは何て言って断ってきたわけ?」
「…それ聞いちゃう?」

にとってはあまり、いや、かなり良い思い出ではない。出来れば忘れてしまいたいくらい、唯一の汚点と言ってもいいくらいの出来事だ。

「だって気になるじゃん。あ、彼女いたとか?」
「それは分かんないけど…まあ、もしかしたらいたのかも。そんな話はしたことなかったし、わたしも初めて人を好きになった時だったから、そこまで考える余裕なかったし」
「ふーん…じゃあますます気になる」
「あ、笑おうと思ってるでしょ。人の傷口に塩塗る気?」
「とっくに時効じゃん。中坊の時の初恋なんて」
「…まあ…そう、だけど」

と、は曖昧に応えつつ、笑って誤魔化した。七年という月日があるのだから、普通ならきっとそうなんだろう。なのにはそれ以来、上手に人を好きになれなくなってしまった。

(今思えば…わたしの恋愛が上手くいかないのは灰谷くんのせいかもしれない。まさか、あんな言葉で振られるとは思ってもいなかったんだから…)

いくら中学生とはいえ、人を好きになる時は誰だって真剣だ。純粋な分、大人よりも更に想いの熱が加速していく。
あの時のもまさにそうだった。真剣に想いを打ち明け、蘭からの返事を待つつもりだった。

(なのに…あの男はたった一言でわたしの想いを打ち砕いた…)

――灰谷くんが好き…なの。良かったらわたしと――。
――あー…悪い。無理。
――……え?
――無理っつったの。オレさぁ…――

その後の蘭の言葉は聞けなかった。無理、と一言で片づけられたショックで、が蘭の頬を思い切りビンタしたからだ。

――…っいて…
――もっと…他に言い方あると思う!

そう叫んで屋上を後にしたは、その日から一週間も学校を休むほどに打ちのめされた。初めて人を好きになり、初めての告白。どれだけドキドキして緊張したかしれない。なのに返ってきた言葉が「無理」の一言。軽くトラウマになるほどに傷が深かった。そして蘭はというと、が学校に行った時にはすでに退学扱いになっていた。理由は誰も知らない。何か事件を起こしたんじゃないかと噂は立ったものの、誰も真相は分からずじまい。そのうちも卒業して、蘭がどうしたのかなど考えなくなっていた。ただ、蘭が消えたことで、二度と顔を見なくて済むとホっとしたのは確かだ。
あの時の自分を思い出すと、は今でも穴があったら入りたいと思ってしまうほど、恥ずかしくなると同時に、何とも言えない悔しさがこみ上げてくる。純粋だったからこそ、傷が深いのかもしれない。

("ごめん。オマエのことそういう風に見れない"とか、"他に好きな子がいるんだ"とかなら、ここまで打ちのめされなかったかもしれないのに…"無理"って…!)

好きという想いだけじゃなく、自分の全てを全否定された気分だった。
あれ以来、は男の人ときちんと向き合えなくなっていた。それでもモテてしまうだけに、真剣に告白されると、この人となら上手くいくかも…という期待を持ち、ちょっと付き合っては別れるを繰り返してしまうのだ。

――難攻不落の女。
――男を転がしてる女。

陰であれこれ言われてるのも知ってる。だけど、そんな自分に一番嫌気がさしてるのは、自身だ。

(ハァ…イヤなこと思い出しちゃったな…)

すみれと別れ、家路を急ぎながらは溜息を吐いた。あれから七年も経ってるというのに、未だに思い出すと胸が軋むように痛みだす。
たかが初恋を失っただけなのに、何をそんなに引きずってるんだと自分でも笑ってしまう。ただ、それでも。純粋に人を好きになれてた、あの頃の自分を思うと悲しくなるのだ。

(アイツ…今頃父親の会社にでも入って、のうのうと暮らしてんだろうな…そう言えば一つ下の弟もいたんだっけ?一度見かけたことあるけど兄弟してイケメンだったな。…でもわたしのこと、あんなに傷つけておいて、それも忘れて絶対あちこちで女転がしてるんだよ、きっと…!)

すみれに過去の傷を話したせいか、再び怒りが再燃してしまったようだ。考えれば考えるほどカッカしてくる。
は腕時計を確認すると、歩く方向を変えた。このまま帰宅してもイライラが治まりそうにないので、飲みに行こうと思ったのだ。ハタチになって飲み会なども誘われるようになり、行きつけの店もだいぶ増えてきたは、ケータイを出すと最近見つけたカフェ&バーに電話をしてカウンター席を予約しておいた。日中から営業してるので、こういう時は有り難い。早速途中でタクシーを拾うと、六本木へ向かった。

「いらっしゃいませー」

店内に入ると、まだカフェタイムらしく、昼間の客がまばらに入っている。バーとしての営業は午後5時からだが、は構わず予約したカウンターへ歩いて行った。

「こんばんは。マスター」
「いらっしゃい、ちゃん。今日は随分早いんだね」

すでに顔見知りとなったマスターが笑顔で出迎えて、何も言わずとも冷えたグラスビールを出してくれた。

「ありがと~!外が暑くて喉乾いてたの」
「今日は一人?この前の彼氏と待ち合わせかな?」
「ああ、彼ならさっきお別れしてきたとこ」

磯貝とは一度このバーに来たことがある。苦笑気味に話すと、マスターは「え、この前来た日に付き合ったとか話してなかった?」と驚いている。だが、再び客が入ってきたのを見て、マスターが視線をそちらへ向けた。

「何だ、冗談か。ほら、彼が来たよ」
「…え?」

マスターの言葉に、今度はが驚く番だった。慌てて振り返ると、確かに磯貝がカウンターの方へ歩いてくる。それを見たはウンザリした様子で溜息を吐いた。


「…何でここに?」
「今、入ってくのが見えた」
「あっそう…。それで…何の用?」

磯貝はその問いに答えず、勝手に隣のスツールへ腰を掛けた。

「マスター。オレにもビール」
「はい」

微妙な空気に気づいたのか、マスターは余計なことは言わず、磯貝にもグラスビールを出すと、奥へと引っ込んでしまった。

「何なの…?わたし、一人で飲みたいんだけど」
「他の男と、の間違いじゃねえの」
「ハァ?何それ。もしかして自分が振られたの、他の男のせいだと思ってる?」
「違うのかよ」
「違います。言ったでしょう?無理だって。どれだけ付き合っても磯貝くんのこと好きにならないと思ったから――」
「ふざけんなっ」
「……っ」

磯貝はカッときたのか、カウンターテーブルへドンっと拳を振り下ろすと、出されたグラスビールを一気に煽った。それを見て驚いているの腕をつかみ、無理やりスツールから引きずり下ろす。その乱暴な行動には本気で驚いた。

「ちょっと!何するのっ」
「いいから来いって!このまま何もしないで別れるとでも思ったのかよ」
「…は?」
「どうせオマエも色々やってんだろ?男転がしてんだから」
「そんなわけないでしょっ!放してよっ」

がどれだけ足を踏ん張っても、男の力にはかなわない。店内にいる客も驚いて見ているものの、ただの痴話げんかと思われているのか、誰も助けようとする素振りはなかった。こうなったら大きな声でマスターに助けを求めるしかない。そう考えていたら、ちょうどマスターが奥から戻ってくるのが見えてホっと息を吐く。

「マスター…!」

助けて、と声に出そうとしたその時だった。マスターに続いて後ろから高身長の男性が歩いて来るのが見えた。思わず息を飲んだのは、その人物に見覚えがあったからだ。

「ウチの店の客に乱暴しないでもらえるかなー。お兄さん」

人を煽るような余裕の笑み、見惚れるほどに綺麗な色の鋭い瞳と、形の整った薄い唇。そして――今では黒金に染められた、特徴的な三つ編みの男――。
どこをどう見ても、それは遠い過去、を唯一振った、灰谷蘭その人だった。