縹渺たる独善的レクイエム



細く、綺麗な指先が繊細に動いて、葵色をしたカクテルグラスを彼女の前に置いた。

「これ、サービス。ウチのオリジナルカクテル"立葵たちあおい"」

説明しながらさり気なく隣へ腰をかけた男は、長い三つ編みを揺らしながら魅惑的な笑みをへ向けた。

「大丈夫?顏色悪いけど」
「…だ…大丈夫よ」

どうにか応えて笑みを返すことは出来たが、は内心かなり動揺していた。
先ほど、元カレとも言えない男、磯貝が未練たらしく追いかけてきたあげく、乱暴な行動に出た。それを突然この店のオーナーだという男が止めたばかりか、磯貝をあっさり追い返したのだ。だが、この男こそ、過去にを振った唯一の人物、灰谷蘭。
まさかの再会に、動揺するなという方が無理な話だ。

(間違いない…この人は……あの灰谷くんだ…)

隣で「マスター。オレにも同じのちょーだい」などと呑気に注文している男を横目で確認しながら、の心臓は静まるどころか、さっき以上に早鐘を打ち出した。
磯貝を追い返した後、蘭は唖然として固まっているをカウンターへ連れて行くと、元の席へと座らせ、自らカクテルを作って差し出してきた。男に乱暴な仕打ちをされて動揺してると思ったようだ。
蘭は自分のカクテルをマスターから受け取ると、彼女の前のグラスを指して「飲まねえの?」と訊いてきた。

「い、いただきます…」
「それ新作なんだけどさー。感想教えてもらえると助かる」

蘭は人当たりのいい笑みを浮かべながら、自分も同じカクテルを一口飲むと「女性ウケすると思うんだけどなぁ」と独り言ちている。その様子を見て、は怪訝そうに眉を寄せた。

(…灰谷くん…わたしに気づいてない…?)

一向に「久しぶり」などのワードが飛び出さない今の状況に、は少し戸惑ってきた。そして、その疑問の答えを差し出すかのように、蘭がの顔を覗き込む。

「オレは灰谷蘭。君は?」
「………っ」

予感がしていたからこそ、心の動揺を隠すことが出来たのかもしれない。は蘭の問いかけに普段の倍、愛想のいい笑みを浮かべることが出来たのだから。

「わたしは…
…」

敢えて名前のみを告げて様子を伺う。もし、蘭がを覚えているなら気づくかもしれない。少しの期待を持って、は蘭の表情をジっと観察した。だが蘭はその名を口にしながら一瞬、考える素振りを見せたものの「へえ、いい名前」と呟く。そしての小さな期待を打ち砕くよう、あっさり「初めまして」と言いのけた。

(名前を言っても思い出さない…)

確かに、あの頃なら苗字の方が印象に残っているだろう。当時、の親の会社も知っていたくらいだ。それにしても、顏を見て名前も名乗ったのだから、もしかしたら思い出してくれるかも、と愚かな期待をした。でも、その小さな願いすら叶わないようだ。

――初めまして。

その残酷な一言に、どうにか笑みを返すことは出来たも、内心は酷くショックを受けていた。蘭にとって、自分はそれくらいの存在できしかなかったのか、と改めて痛感する。

(いいわ…こうなったら…とことん初対面を演じてやる!)

友人のすみれに七年前の失恋話をしたことで、多少のベースは出来ていた。その怒りに、新たな火種を投入された気がしたは、過去の関係を一旦忘れ、いつもの自分を演じることにした。
小さく深呼吸をしてから、目の前に置かれたカクテルを手にすると、それをゆっくりとした動作で口元へ運ぶ。

「ん、美味しい…。これパルフェタムールと…ドライジン、ウォッカ…あとミントチェリーかな」
「へえ、よく分かるな」

蘭は少し驚いたように笑うと「気に入った?」といたずらっ子のような笑みを浮かべている。その表情を見る限り、この人は本当に灰谷くんなんだろうか、と首をかしげたくなった。中学の頃はここまで愛想も良くなかった気がするからだ。

(すっかりチャラくなったってわけね…)

ある意味、予想通り。そう思いながらカクテルを飲む。蘭の出した新作と言う立葵は確かに美味しかった。ただ、アルコール度数は高めで、あまり飲みすぎると泥酔コースになるのは間違いない。

(まさか…酔わせてホテルにでも連れ込もうって魂胆かな…)

ちょっとの邪推をしつつ、はさっき思ったことを聞いてみた。

「これもお花の名前がついてるんですね」
「ん?ああ、そうそう。ウチの店のカクテルは全て花の名前に由来してんの。ちゃんは花、好きなの?」
「………」

――オマエ、花好きなんだろ。

過去に言われた言葉がリフレインする。
ああ、この人は本当にわたしのことを忘れてしまったんだ――。

「花は…好きかな」
「じゃあ、次は何か別の飲む?今日は怖い思いをさせたお詫びに奢るよ」
「別に…灰谷さんがあの男を呼んだわけじゃないでしょ?」

都合のいい理由を言い出した蘭に内心ムッとしながらも、笑顔で交わす。しかし蘭は「ウチの店内で起きたことだから、こっちの責任でもあるんだよ」と笑った。

「で、どんなカクテルがいい?」

蘭の差し出したカクテルメニューを眺めながら、は「パルフェタムール系のものなら何でも」と微笑んだ。こうなれば、とことん飲んで、蘭のことを探ってみようと思った。忘れられた怒りプラス、単なる好奇心だ。

「ふーん、あれ好きなんだ」
「うん、まあ。美味しいものが多いし、色も綺麗だから」
「パルフェタムールはバイオレットリキュールの中じゃダントツ人気あるしな。知ってる?パルフェタムールはバイオレットリキュールの元祖とも言われててさ。18世紀にフランスで生まれたんだって」
「…そうなの?知らなかった」
「パルフェタムールはの意味は"完全な愛"。ロマンティックだろ?ニオイスミレの他に、薔薇やアーモンドを用いて香りづけされてっから、"異性を惑わせる媚薬"と言われた歴史まであるらしい」
「へえ、詳しいのね、灰谷さん」
「そりゃ、こういう店をやってるんだから少しはな。つーか、蘭でいいよ」
「え…?」
「苗字で呼ばれ慣れてねーの。女の子には、特に」
「……」

蠱惑的な笑みを浮かべて、シレっと言いのけた蘭を見て、の作り笑いがかすかに引きつる。

(チャラくなったとは思ってたけど、やっぱり…チャラい!こんなの…わたしの知ってる灰谷くんじゃない…)

蘭は完全にと初対面と思っているようだ。カクテルの他にも軽いフードなども出して、他愛もない話題を振ってくる。

ちゃんは…大学生?」
「…そう見える?」

そこは敢えて質問形式で応えると、蘭は笑いながら「質問に質問で返すなよ」と、どこか楽しそうな表情でカクテルを飲んでいる。酒は当然強いようで、何杯か飲んでいるにも関わらず、顔色一つ変わらない。

(相変わらず色白で綺麗な肌…)

その横顔を見つめながら、ふと昔も思った感想が浮かぶ。中学の頃の蘭は線が細く、色白で綺麗な顔立ちをしていたので、どこか中世的な印象があった。今も細いのは変わらないが、やはり中学生の頃と比べれば身長も伸びて骨格がガッシリした印象がある。シャツの袖から覗く手首や、骨ばっているのに綺麗な線を描く長い指先は、男の色気を存分に漂わせていた。

「そう言えば…」

一瞬、話が途切れた頃、蘭が思い出したようにを見た。

「さっきの男はちゃんの彼氏?」
「…3日間だけね」
「何だ、それ、ウケる。じゃあ、もう別れたってこと?」
「さっき別れを告げたら、ああなったの」
「へえ。じゃあフリーってことか」

蘭は意味深に呟くと、再びカクテルを飲みだした。しかしの心臓が再び早くなっていく。この空気は今まで何度も経験したことがあるせいだ。

(まさか…口説こうとしてる…?)

女を口説こうとしている男の、特有の質問や間の空気。それらを感じて、何故かの頬がかすかに熱を持つ。嬉しかったから、ではなく。もしそうなら、今度こそこっちから振ってやる、という復讐にも似た思いが過ぎったからだ。だが蘭はそれ以上、踏み込んだ話はしてこなかった。

「へえ、ちゃんはオレと同い年なんだ」
「そうね。はいた…じゃなくて、えっと…蘭…くんでいい?」
「別にくん付けじゃなくて蘭でいい」

いきなり呼び捨て?と思ったものの、昔の自分は捨てると決心した以上、現在の自分で接することにした。

「じゃあ…蘭」
「うん、いい感じ」

名前を呼ぶと、蘭がふっと笑みを浮かべた。不覚にもの心臓がきゅっと音を立て、慌ててカクテルを飲み干す。やはり過去のこととは言え、一度は本気で好きだった相手だけに、まともに顔を見ていると勝手にドキドキしてしまうのだ。それが何とも屈辱的だった。

「蘭…は…何でこのお店を?」
「…何でって…まあ、自分の店を持ちたいってのが弟とオレの共通の夢だったからなー」
「弟さん、いるんだ」
「ああ、一つ下のな。竜胆っていうんだけど――」
「弟さんも花の名前なのね」
「…そうそう。マジで詳しいなー?ちゃん」
「その…ちゃん付けやめて。子供じゃないんだし」

蘭からそう呼ばれるのが何ともむず痒くなり、つい言ってしまった。だが蘭は気分を害した様子もなく「じゃあ、」と呼んでくる。その名前呼びは少しだけ破壊力が高かった。一瞬で心臓が音を立て、の顔に熱が集中していく。過去に一度も呼ばれたことのなかった名前を、今更呼ばれるとは皮肉な気もしたが、妙な照れ臭さを感じてしまった。

「酔っ払った?」
「…え?な、何…?」

隣からひょいっと顔を覗き込まれ、至近距離で目が合う。まともに目が合うのは久しぶりだ。薄紫色の虹彩は昔と変わらず魅力的で、は驚いた拍子に少しだけ体を後退させた。

「いや、顏が赤いから――ってか危ねえって」
「……っ」

後ろに身体を倒したことで、蘭が慌てたようにの背中へ腕を回して支える。その感触にカッと顔全体が熱くなった。

「あ、ありがとう…でも大丈夫だから…」
「気をつけろよ?先週も酔っ払いが後ろにひっくり返って救急車呼ぶ羽目になったし」
「…うん。ごめん」

(…って、何謝ってんの、わたし!いちいちドキドキしなくていいから…っ)

たかが背中に腕を回されたくらいで動揺するなんて自分らしくない、とは気づかれないよう小さく息を吐き出した。これまでも肩を抱かれたり、腰を抱かれたりと、他愛もないスキンシップをされたことなど何度もあるのに、今みたいにドキドキしたことは皆無だった。

(何か…悔しい)

今も昔も、自分の感情をこれほど揺さぶってくるのが、この灰谷蘭ただ一人というのが癪に障って仕方ない。

(ダメだ…何か情緒がダメージ受けすぎて不安定すぎる…)

怒りのボルテージが最高潮の時にカクテルを飲み過ぎたせいで、一気に酔いが回ってきた気もする。

(どうせこのまま話してても灰谷くんはわたしを思い出さない。だったら…その気にさせて焦らしまくって、その後にこっぴどく振ってやろうか…)

ふと仄暗い感情が沸いて、は蘭へ視線を向けた。この余裕面を思い切り歪ませてやりたいという復讐心が、再び頭を擡げる。
もし、覚えていてくれたなら、きっとも普通に接することが出来たのかもしれない。あの時、どうしてあんな言い方をしたのか、その後、何故退学扱いになっていたのか。聞きたいことはたくさんある。あの告白をするまでは、それなりに親しくできていたという思いがあるからだ。時々しか学校に来なかったのだから、時間にすれば短いかもしれない。でも少なくとも、真剣に告白をして「無理」の一言で片づけられるほど、希薄な関係でもなかった気がする。

「次は何飲む?」

ボーっと目の前の空いたグラスを見つめていると、蘭が再び訊いてきた。がふと視線を向ける。でもその時、不意に涙が零れ落ちて、頬を濡らしていった。

「……?どうした?」

急に涙を見せたを見て、蘭が少し驚いた様子で顔を覗きこんできた。

「あ…ご、ごめん。何でもないの」

ハッとしたように慌てて頬を指で拭いながら、は笑みを浮かべた。そして自分のバッグを掴むと、「飲み過ぎたみたいだから…もう帰るね」と慌ただしくスツールを下りる。

「えっと…お金――」

と言いつつ、バッグを開けて財布を取り出す。その瞬間、蘭がの手首をそっと掴んだ。

「オレの奢りっつったろ」
「でもそんなわけには…助けてもらったのに」
「マジいらねえから。ああ、それと…酔ってるから送ってく」
「え…?」

驚く間もなく蘭もスツールから下りると、「マスター。後は頼むわ」と声をかけている。

「ほら、行くぞ」
「え、で、でも…お店は?」
「別に普段から店に出てるわけじゃねえよ。今日はたまたま用事があって顔出しただけ」

それを聞いてはそうだったのか、と納得した。
この店は今年に入ってから通いだした。六本木に新しいカフェバーが出来たと大学で話題になり、新しい店は必ず一度は行ってみたくなるは、最初にすみれを誘って飲みに来た。どこかの画廊を思わせるようなアートが飾られ、センスのいいオブジェと広い店内、そして極めつけはカクテルに全て花の名前がつけられていたことで、はすっかり気に入ってしまったのだ。それ以来、何度も通うようになっていたものの、その間、一度も蘭とは遭遇しなかった。最初にオーナーだと聞いて酷く驚いたのは、そういった経緯があったからだ。

(いつも来るわけじゃない…。なら今日ここへ来たのはラッキーだったな)

自分の手を引いて店を出ていく蘭の背中を見ながら、の口元がかすかに弧を描く。
さっきの涙も、そしてその後の行動も、全てはの計算だ。といって、嘘泣きをしたのとも違う。過去を思い出していたら、自然と溢れてきたのだ。あんな姿を見せるはずじゃなかったのに、酔いも手伝い、感情に直結して涙が零れ落ちた。でもそれを見た時の蘭の驚いた顔を見て、その涙を利用しようと思った。泣いて、その後に慌てて帰ると言えば、蘭が必ず「送る」というか、言わないまでも連絡先くらいは聞いてくるだろうと睨んだ。そして案の定、蘭はを送ると言い出したのだから、まさに狙い通り。
と言って、が普段からこんな演技をしてるのかと言えば、そうではなく。も男の気をわざと引くのは初めてだった。これまでの経験上、こうしたら相手が気になるというのを本能的に学んで知っていただけに過ぎない。

(意外と…あの手のヤツって効果あるんだ…)

やった張本人でさえ、ちょっと驚きつつ、蘭の後ろを歩いて行く。

(でも…本当に…灰谷くんなんだ…)

蘭の手に引かれながら、三つ編みの揺れる背中を見上げて、今更ながらに実感が湧いてきた。蘭に触れられたのも、手を繋いだのも、この時が初めてで。指先から伝わる蘭の体温に、心臓が少しずつ速くなっていくのを、は気づかないふりをした。



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少し切ないメロディが好きだった。心の中の、伝えられない想いを叫んだ歌詞も。
中学生の頃に良く聞いていた音楽を流しながら、はジっと目を瞑っていた。人の記憶を呼び起こすのに一番有効なのは嗅覚らしいが、聴覚もなかなか効果はあるようだ。こうして当時好きだった曲を聴いているだけで、あの頃の記憶が鮮明に蘇る。未だに胸の奥を焦げ付かせる、苦い思い出まで。

蘭と再会してから二週間が過ぎていた。

――連絡先、聞いていい?

あの夜、自宅マンション前までタクシーで送ってもらった際、降りようとしたに蘭がそう尋ねてきた。内心ではしてやったり。でも表向き、ほんの僅かながら逡巡してみせて、は頷いた。
蘭はのことが気に入ったようだ。それ以来、一日と欠かさず蘭から連絡がくる。時にはメッセージ、時には電話。そのたび、は一度で反応はせず、メッセージなら数時間後、電話なら少し後にこちらから折り返す。あくまで待っていたことを悟られないようにしながら、少しずつ男特有の狩猟本能を刺激するようにしていた。
あれから蘭と会ったのは三回。一度は飲みに誘われて、蘭の店で酒を飲んだ。その時に映画の話題で盛り上がり、二度目に会った時は二人で映画を観に行った。その後に飲みに行き、三度目は食事に誘われて、二人でイタリアンレストランへ。そのレストランにはの親の会社の花が飾られていた。それを見た瞬間、ドキっとしたものの、蘭が気づく様子はなく、やはり自分の存在は蘭の中から消えている。そう思い知らされただけだった。
ただ、その帰り際、蘭が遂に今の関係よりも、先へ進もうとしてきた。

――なあ、…オレの女にならねえ?

いつものようにマンション前まで送ってもらったは、その言葉を受けて心の中でガッツポーズをした。昔、振った女だと蘭は気づいていない。だからこそ余計に、自分を口説こうとしてくる蘭を見て、やっと対等の立場になったような気がしたのだ。

――その言い方、やだな。蘭がわたしの男になるっていうならいいけど。

そんな台詞言ったこともない。でもは敢えて生意気な態度で蘭の反応を伺ったのだ。蘭は少し呆気にとられた顔をしていたが、突然吹き出して楽しげに笑いだした。

――意外というじゃん。ますます気に入った。じゃあ…オレをの男にして。

てっきりムっとくらいされると思ったのに、本人はやけに楽しそうだった。でも蘭が余裕の顔を見せていたのはこの時まで。の次の言葉を聞いて、蘭の顏から笑みが消えた。

――いいわ。ただし一カ月。
――あ?一カ月?
――そう。一カ月付き合って、もしわたしが蘭のことを好きになれなければ…別れるってのはどう?

は魅惑的な笑みを浮かべながら、蘭にそう提案した。でもそれはただの口約束であり、の方は守る気などさらさらない。が蘭を好きになる為じゃなく、蘭を夢中にさせてから捨てる為の約束だ。磯貝のような単純な男は、一週間でもプライドをへし折るのは簡単だった。でも蘭と三回デートをして、最低でも一カ月はかかると感じた。
そもそも蘭は女に不自由していない。その辺は磯貝と同じ条件ではあるものの、蘭は磯貝のような器の小さい男じゃないと思ったのだ。それなりに経験値も高く、金もあり、が見ている限り、六本木界隈では有名人のようだった。なぜ親の会社で働いていないのか気にはなったが、会社を継がなくても、蘭は六本木で十分に稼いでる類の人間で、一筋縄じゃいかない雰囲気があった。

(昔もちょっと謎の部分が多かったけど、大人になったら更に謎めいた男になってたし…本気にさせるのは難しそう)

一瞬、躊躇したものの、言ってしまったものは取り消せない。は応えを促すように「それともやめとく?」と、あくまで強気の姿勢を崩さない。蘭の顏から笑みが消えているのに気づいたが、もし今の条件で蘭が怒って「じゃあやめるわ」と言ってきたとしても、の方は痛くもかゆくもないのだ。惚れさせる自信もないのか、と吐き捨てるだけでいい。

――面白そう。いいよ、それで。

答えを待つこと数十秒。蘭はの条件を承諾した。
そして今日、付き合ってからの初めてのデートをする約束をしている。

「よし、準備しよ…」

ふと時計を見れば、蘭との約束の時間まで残り二時間。はベッドから起き上がると、ゆったりとした動作でバスルームへと向かう。不思議なことに迷いはなかった。