酩酊を殺す毒



あの頃、芽吹いた想いは真っすぐ蘭へと伸びて、鮮やかな花を咲かせるはずだった。咲いた花に水をやり、慈しみ、愛でれば、また色をつける。

――あー…悪い。無理。

なのにあの一言は、咲きかけた淡い花びらを一瞬でもぎ取り、踏みつける行為に等しい。
の初めての恋が、無惨にも散った瞬間。
あの日の屈辱にも似た悲しみは、今も心の奥に沁みついたまま。そもそもが今、上手に人を好きになれないのはこの男のせいなのだ。
今、目の前で魅惑的な笑みを浮かべている、この灰谷蘭の。

「ちょっと仕事してくっから待っててくれる?」

の腰に手を回し、エスコートしていた蘭がふと立ち止まる。しかしは目の前のド派手な光景に絶句して、返事をすることは出来なかった。
脳天にまで響くほどの大音量で流れる音楽。大きな声で騒ぐパリピな男女。暗いフロアを色とりどりで照らす、無数の小さなミラーボール。蘭とのデートに来たはずが、何故か待ち合わせに指定されたのがここだった。

「…?聞いてんの?」
「え?あ…」

ポカンとした顔で突っ立っていたの顔を、蘭がひょいっと覗く。そこで我に返り、は怪訝そうな顔で蘭を見上げた。

「ここは…?っていうか…今、仕事…して来るって言った?」
「ああ、ここもオレと弟の店だから」
「……ここ…って?」
「だからこのクラブ。、来たことねーの?大学生なのに」
「……」

もちろんクラブは知っている。ついでに言えば、大学の友達とこの店に来たことも、回数は多くないがあるにはある。けれども、デートで来るような場所には思えない。だから唖然としていたのだが、更に驚いたのは、この店が灰谷兄弟のものだということだ。

「それくらいあるけど…ここは蘭の店ってこと?」
「そう。つーか、あのバーよりも先にオープンしたのがここ。もう二年になるかな…。――ああ、今行く!」

蘭はに説明しながらも、誰かに呼ばれて軽く手を上げている。その姿をマジマジと見ながら、はやっぱり驚いていた。只者じゃないとは思っていたが、まさか自分と同じ歳で複数もの店を経営してるとはさすがとしか言いようがない。しかもこの一帯は相当値が張る場所だ。

「おいで」

蘭は未だ驚きから抜け出せていないの手を引いて、バーカウンターに連れて行った。

「ちゃっちゃと用事終わらせてくるから、はここで酒でも飲んで待っててくれる?」
「い、いいけど…」
「悪いな。すぐ終わるから。明日だと思ってた打ち合わせが今日だったのさっき気づいてさ」

蘭は苦笑しながら説明すると、バーにいる従業員に「この子に好きなもの作ってやって」と声をかけている。

「あれ、蘭さん、ナンパしたんスか?珍しい」
「バーカ、ちげーよ。この子はオレの彼女」

バーテンダーの男と親しげに話す蘭は、言いながらの肩をぐいっと抱き寄せた。内心ビックリしたものの「オレの彼女」と紹介されると、やけに照れくさいが悪い気はしない。も愛想のいい笑顔を向けた。しかしバーテンダーの男は蘭とを交互に見ると、酷く驚いた顔で「彼女?!」と甲高い声を上げた。

「え、蘭さん、彼女…作ったんスか?」
「そー。いい女だろ?手ぇ出すなよ、タクヤ」

蘭は軽く笑うと、に向かって「好きなの飲んでて」と頭にそっと手を置いて微笑む。その動作にドキっとしつつも、は「分かった、待ってる」とニッコリ微笑み返した。

「じゃあタクヤ、頼むぞ」

蘭はもう一度バーテンダーに声をかけ、そのままstaff onlyと書かれたドアの向こうへ消えていく。それを見送っていると、頬に痛いくらいの視線を感じて、はカウンター内へ視線を向けた。するとタクヤと呼ばれた男が、不思議そうな顔でマジマジとを見ている。

「あの…」
「えっ?あ、すみません。何をお飲みになりますか?」

さっきのフレンドリーな雰囲気から一転、急に仕事モードに入ったらしいタクヤは、ニコニコしながら訪ねてきた。メニューを見ればドリンクの種類はかなり豊富だ。だが蘭がどれくらいで戻ってくるのか分からないので、は無難に「じゃあグラスビールを」と注文した。タクヤは「グラスビールですね」と慣れた手つきで、手早く冷えたビールをの前に置く。

「どうぞ」
「ありがとう」

お礼を言いつつ、はもう一度フロアを見渡した。クラブ内は人で溢れ、席でお酒と会話楽しむ大人や、フロアで踊る若者たちで溢れかえっている。一見しても大盛況なのはにも分かった。

(灰谷くんって…意外と商売上手…?このクラブ、うちの学生の間でも人気だし、その上六本木でこの規模の店を成功させてるなんて、相当やり手ってことだ。お父さんもこの一帯は難しい場所だって言ってたし…)

当然、この六本木にもフラワーの支店がある。ヒルサイドにあるその店では、フラワーキャンドルやアレンジメント教室なども開催していて、かなり好評らしい。は大学を卒業したら、その支店で働くことになっていた。もちろん娘だからと良い待遇を約束されているわけでもなく。一従業員からの出発だ。花の知識はあるので、両親もゆくゆくはに会社を継いでほしいと願っている。今はその為に勉強中の身だ。

(でも灰谷くんは親の会社を継がずに、兄弟二人で店を立ち上げたってこと?それとも…これも親の力なのかな)

店内を観察しながらあれこれ考えていると、不意にバーテンのタクヤが「これ、どうぞ」と、お洒落に盛り付けたナッツ類を小皿で出してきた。

「あ…ありがとう」

言いながらは腕時計を確認した。蘭が離れてからそろそろ10分になろうとしている。

(忙しいなら何も今日じゃなくたって良かったのに…)

条件付きで付き合うことを承諾した後、蘭はますますマメに連絡してくるようになった。

――いつ会える?

そんなデートの催促が連日のように入り、最初はわざと焦らしていたものの、あまり日を空けて飽きられても困る。なので「いつがいいの?」とさりげなく聞いたところ、今夜を指定されたのだ。なのに待ち合わせ場所へ来た途端、放置されている現状に、は多少ムっとしつつ、ナッツをつまんで口へ放り込んだ。ついでにビールを飲むことも忘れない。お酒は嫌いな方ではないので、スイスイ入っていく。結果、グラスはすぐに空いてしまった。

(もー…ほんと遅いんだけど…)

もう一度腕時計を確認しようとした時、「次は何にしましょうか」と、タクヤが声をかけてきた。

「あ…じゃあ…グラスビールをもう一杯だけ…」
「分かりました。ああ、もうすぐオーナーも戻って来ると思うので」

気を利かせたのか、タクヤが一言付け加える。でもは"オーナー"と言われてもピンとはこない。

(そっか…灰谷くん、ここのオーナーなのよね…)

ぼんやり思っていると、再びグラスビールが目の前に置かれる。その際、タクヤはまたしてもを観察するようにチラチラと視線を送ってきた。蘭がを紹介した時から、何度となくタクヤはを気にするような素振りを見せている。そんなにオーナーが女を連れてきたことが珍しいんだろうか。ちらりとそんな思いが頭を掠めたものの、すぐにまさかね、と打ち消す。蘭なら当然モテるだろうし、女に不自由はしていないはずだ。と付き合いだしたこの瞬間でも、他に女がいるかもしれない。
そう考えると、あまり時間をかけるのも得策じゃないかも、とは思った。余裕のある男は、焦らしすぎると他に目を向ける可能性の方が高い。といって、あまり簡単に心を開くようじゃ、あっさり終わりを迎えそうだ。蘭のような男はそのバランスが難しい気がした。

(それにしても…このバーテンの子、さっきから何でジロジロみてくるんだろ…)

いい加減気になってきたは、ふと顔を上げてタクヤと目を合わせると「わたしの顔に何かついてる?」と苦笑してみせた。するとタクヤはハッとしたように慌て出し「い、いえ、すみません」と頭を掻いている。その思わず漏れた苦笑いを見れば、悪気はなかったようだ。

「オーナー…蘭さんの彼女って本当なのかなーと…」
「え?」
「あ、いや…すみません。失礼なこと言って」
「それはいいけど…本当なのかって…どういう意味?」
「え…っと…ですね。それは…」

と口ごもり、タクヤはスタッフ用のドアへ視線を向けた。余計なことを話したら蘭に叱られると気にしているのかもしれない。
は少しだけ身を乗り出すと、「彼には言わないから」と魅力たっぷりの笑みを浮かべた。タクヤは一瞬ドキリとしたようにニヤけると、「じゃあ…蘭さんには内緒で一つ」と、の方へ顔を近づけた。

「蘭さんは今まで彼女と呼ぶような存在、いたことないんで冗談かなと思って」
「…え?嘘でしょ?あの人、モテそうなのに」

驚いたことで、つい素が出てしまった。他人行儀に感じたのか、タクヤが「あの人…ってことは…やっぱ彼女さんではない…とか?」と興味津々で訊いてくる。それには慌てて「まさか」と微笑んだ。

「先週から付き合ってるのは本当」
「へえ…マジっスか…。じゃあ、よほど蘭さん、アナタに惚れこんだってことっスねー」
「…それは…どうか知らないけど」

正直、蘭が自分のどこを気に入って、あんなことを言ってきたのかにも分からない。最初に再会した夜、マンションまで送ってもらった時に「何で泣いたんだよ」とは訊かれたが、あの蘭が女の、それも会ったばかりの女の涙に絆されたというわけじゃないだろう。

(どうせ一回寝て終わり、くらい思ってそうだし…)

と思いつつ、蘭の入って行ったドアへ視線を向ける。そこでまだ戻りそうにないと思ったは、もう一度「彼…ほんとに今まで彼女作らなかったの?」と訊いてみた。タクヤは腕を組みつつ、首を傾げながら考えている。

「まあ…オレが知る限り…いたことないっスね。あ、ここオープンした頃からいるんで、かれこれ…二年?くらいの話っスけど」
「へえ…それはまた…どうして」
「さあ?詳しいことは…彼女とか面倒だとは言ってましたけど…あんなにモテてたら選びたい放題だと思うんスけどねー。あ…すみません。オレ、また余計なこと…」

彼女に言うことじゃないと気づいたのか、タクヤが慌てて口を閉じる。だがはそのことよりも、"彼女は面倒"と言うなら、何故蘭は自分に「オレの女になって」と言って来たのかが気になった。それだけわたしのことを気に入ったから…と自惚れるほど、は自分に自信を持っていない。大学でモテてはいるが、それは誰にも本気にならない女を、自分が落としてみたいという男の狩猟本能も多分に含まれたものだと理解している。
「オレの女になって」と蘭が言って来たのも、それかと思っていた。ただ、彼女を作らない主義ならば、わざわざ交際を匂わさなくても、女を口説く方法なら、蘭はいくらでも知ってそうなのに。

「――悪い、遅くなって」

タクヤの背後にあるドアが開き、蘭が姿を見せた。はハッと我に返ると、すぐに笑顔を浮かべる。その笑顔の裏では内心、蘭が何故あんなことを言ってきたのかが気になっていた。

「待ちくたびれたろ」
「ううん。彼が話し相手になってくれたから」

そう言ってタクヤの方へ視線を向けると、蘭も同じように視線を向ける。見られた本人は頬が軽く引きつっていた。

「タクヤ、口説いてねーだろうな」
「ま、まさか…!そこまで命知らずじゃないっス」

わたわたと両手を振るタクヤを見て、蘭も軽く吹き出すと「冗談だよ、バカ」と笑っている。オーナーと従業員のわりに、随分と近い関係のようだ。
その時、スタッフ用のドアが再び開き、そこから派手な男が顔を出した。金髪に水色のメッシュという奇抜なヘアスタイルの男は、蘭を見つけてかけていたメガネをくいっと指で上げた。

「あれ、兄貴、まだいたんだ」
「おー竜胆。ちょうど良かったわ」

蘭は隣にいるの肩を抱き寄せると「この子がこの前話した彼女の」と、いきなり紹介をした。その行動に驚いたものの、竜胆という名前を聞き、はすぐにこの金髪メッシュが、蘭の弟だと気づいた。中学の頃、二度ほど見かけたことがあるものの、今の竜胆は当時と比べて完全にビジュアルが異なっている。少し吊り上がった眉と伏せがちの鋭い瞳は変わらないが、外見は蘭よりも勝気な印象が強い。

「え…あれマジだったんだ。どーも」
「初めまして。…です」

普通に挨拶をされ、もすぐに自己紹介をする。だが竜胆はふと「…苗字は?」と訊いてきた。その予想外の質問に、の鼓動が軽く跳ねる。蘭には訊かれたことがなかっただけに、すっかり苗字のことなど、頭から抜けていたのだ。でも付き合うならば、苗字を教えないのもおかしな話だ。

「え、えと…さ、佐藤…です」

正直に答えるか迷ったものの、ここで中学の同級生だとバレれば、今回の作戦がダメになるかもしれない、と、咄嗟に友達であるすみれの苗字を借りてしまった。その瞬間、蘭が少し驚いたような顔でを見下ろす。

「……え、オマエ、佐藤っつーんだっけ」
「う…うん、まあ」
「は?知らなかったのかよ。兄貴」

蘭とのやり取りを見ていた竜胆が、飽きれたように笑っている。

「苗字も知らねーのに付き合ってんの」
「うるせーな。呼ばねえだろ?普通、女の苗字なんて。学生じゃあるまいし」
「……っ」

学生、というワードを聞いて、更に心臓がドクンと音を立てた。もし本名を名乗っていたら、彼は気づいたんだろうか、とふと思う。
作戦のためには気づいて欲しくない。過去に自分が振った女だと分かれば、蘭は確実にから手を引くだろう。でも逆に、本名を名乗れば気づいてくれるんだろうか、という淡い期待を持ってしまう。

(って…何期待してんの…灰谷くんはわたしの存在自体、とっくに忘れてる…)

そう思えば思うほど、惨めな気持ちになっていく。

「じゃあ行くか、
「え…?」

兄妹のやり取りを眺めながらボーっと考えこんでいると、不意に蘭がの頭へポンと手を置き、ハッと息を飲んだ。

「もう酔ったのか?」
「ま、まさか。早く行こ」

蘭に笑われ、は慌てて先を歩き出す。その後ろ姿を見て、蘭はふっと笑みを浮かべると、外に出てからの手を自然な動作で繋いだ。

「え…」

いきなり手を繋がれ、あげく指を絡められた瞬間、は驚いて顔を上げた。それに反応した蘭が「ん?」と小首をかしげる。

「な、何でもない。えっと…どこに行くの?」

こんなことくらいで動揺されてると思われたくないは、なるべく普通に笑みを浮かべて尋ねた。

「ん~腹減ったし、まずは飯食いに行こ。何か食いたいもん、ある?」
「…特には。蘭に合わせる」
「そ?んじゃーオレがよく行く店でもいい?」
「うん」

笑顔で頷きながらも、は何となく虚しさを覚えた。蘭がこの前知り合ったと思っている女には、こんなに優しい顔を見せるんだ、と思うと、今の自分にさえ嫉妬をしてしまう。繋がれてる手は暖かいのに、心だけが冷え切っていくようだ。

「その店、フードも酒も美味くて、女性客からも人気あんだよ」

蘭は楽しそうに話しながら歩いている。その横顔を見つめているの顏からは逆に少しずつ、笑顔が削ぎ落されていった。




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蘭の連れて来てくれた店は確かに素敵なレストランだった。六本木の繁華街から少し離れた閑静な場所に、ロッジのような木製の建物がある。近所に大きな公園があり、青々とした木々に囲まれたその場所はまるで隠れ家のようだった。店内は淡い青紫色の証明が施され、席を囲むよう、大きな長い水槽が設置されている。その中を色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいた。料理も様々な国のものをアレンジしているのか、他のレストランにはないメニューが多く、ドリンク類も多種多様で、目移りの多い女性から人気があるというのも納得だ。
蘭とが案内された席は、大きな窓に面した場所で、ゆったり座れるソファは二人掛けのカップルシートのようだった。背後には大きな水槽がある為、他の席からの目隠し代わりになっている。そして目の前には色づいた花たちが咲き誇る庭。それを眺めながら食事が出来る贅沢な造りになっていた。

(こういうお店で他の子も口説いたりしてるのかな…)

料理も酒も美味しく、は満足しながらも、心のどこかでそんな思いが過ぎる。目の前の蘭が楽しそうにすればするほど、胸の奥に焼け付くような痛みが襲った。

「まだ飲める?頬が赤いけど」
「…平気。このワイン美味しくて結構飲めちゃう」
「なら、もう一本頼むか」

蘭はスマートな動作で店員を呼ぶと、同じ銘柄のワインを注文している。こうして見ていると、昔の面影は一切ない。
少し、不愛想で不器用そうに見える蘭が、は好きだった。勝気な瞳を向けながらも、他愛もない話で頬を綻ばせる瞬間が好きだった。
屋上に繋がる階段を、ドキドキしながら駆け上がった。そこに蘭がいなければ、にとって一日がつまらないものに変わる。いればその日は最高にハッピーな気分になって、そんな風に想いを積み重ねていった。蘭と同じ名前の花を部屋に飾り、大事に育てた日々がふと浮かんで、やけに切なくなった。

「おい、大丈夫か?そんなに飲んで」
「平気だってば。いつもこれくらい飲んでるもん」

ペースの早いを気にして、蘭が苦笑交じりで手を伸ばすと、彼女の持つグラスを奪った。

「何するの」
「飲んでもいいけど、もっとゆっくり味わって飲めよ」
「味わってるから飲んでるのー。返して」
「ダーメ」
「もう…大丈夫だってば――」

とテーブルの上のグラスへ手を伸ばす。その手を、蘭が制止するように掴んだ。いきなり触れられ、肩が跳ねる。

「せっかくチェイサーあるんだから、交互に飲めな?」
「……偉そうに」

が不満そうに口を尖らせ、蘭の手を振りほどく。蘭の行動に反応した心臓がやけにうるさい。

「ぷ…オレにそんな口利くのオマエくらいだわ」

蘭は楽しそうに笑いながら、自分もワインを口へ運ぶ。この店に来てから散々飲んだわりに、蘭の方はまだ余裕そうだ。その余裕がには癪に障った。

(…なーんかムカつくなぁ…少しは酔えば可愛いのに)

蘭が言ったように、は最初から飛ばして飲んでいた為、自分で思っているよりは酔っていた。とろんとした目を隣の蘭に向けて、どうしたらこの男は動揺してくれるんだろう、と考える。

(あまり自信はないけど…こうなったらボディタッチ作戦してみようかな…)

合コンなどで、男が特定の女の子を意識した最も多いキッカケに、ボディタッチが挙げられる。それも露骨なものじゃなく、さり気なく肩や手、脚などに触れられると、男も相手の子を意識する割合が多くなるそうだ。は何度か合コンに駆り出された時、女の子たちのそういったネタを耳にしていた。だからむしろ、は合コンの場で敢えて男たちから距離を取り、意識されないようにしていた。そんな理由で選ばれても意味がないと思っていたからだ。でも今、蘭の動揺を誘えるなら、その技(?)を使ってみようと思い立つ。

「何だよ。やっぱ酔っぱらっちゃった?」

少しだけ体を蘭の方へ寄せると、意地悪そうな笑みを向けられる。は内心ムっとしつつ、「少しだけだもん…」とわざとらしいくらいのフリ・・をした。やはり、これくらいの密着では、動揺すらしてくれないらしい。そう思いながら、は蘭の腕に自分の腕を絡めた。男に対し、自分からこんな風に擦り寄ったのは初めてだ。羞恥心が芽生えたものの、ほろ酔いに任せて甘えるように体を寄せた。ふわりと蘭の付けている上品な香水が鼻腔を掠め、何故かの方がドキドキしてしまう。

「何、マジで酔ったのかよ」

蘭は苦笑いを浮かべたものの、まんざらでもなさそうにの髪を優しく撫でた。その感触に、の心臓がさっき以上に素直な反応をしてしまう。

(だから…わたしがドキドキしてどーすんの!)

いくら蘭が昔と変わったとはいえ、見た目は弟の竜胆ほど変わってはいない。目を合わせるだけで、中学の頃の面影がチラついて一瞬で当時の気持ちが蘇ってくるのだ。

って意外と甘えん坊…?かわい」
「……っ」

目が合い、蘭が不意打ちのように微笑む。その破壊力といったら、の想像以上だった。ただでさえドキドキしているのに、余計に心臓への負担が重く圧し掛かる。

(ダ、ダメだ…アルコール以外で顔が熱くなってきた…)

転がすつもりが、完全に転がされてるような気がしてならない。でも、ここで引いたら負けだ、と心を奮い立たせる。

「一人っ子は甘えん坊って言うでしょ」
「へえ、は一人っ子なんだ」
「何、一人っ子は我がままだとか思ってる?」

含み笑いを浮かべる蘭を見て、がスネたように見上げた。一人っ子だと言うと、だいたいの人間が「我がまま」「マイペース」といった指摘をしてくるからだ。だがは確かにマイペースではあるものの、幼い頃から忙しい両親の代わりに家のことをしてきたので、我がままを言えるような環境でもなかった。逆に多くのことを我慢してきたは、一人っ子=我がままという見方をされると、ちょっと反論したくなってしまう。
だが蘭はそんなの思いに反し、「いや」と苦笑した。

「通りでしっかりしてるなと思って」
「え…?」
「つーか…何でも一人で抱えて、虚勢張ってるようにも見えたから」
「……何、それ」

の笑みがかすかに引きつる。まさか自分が、蘭の目にはそんな風に映ってたのかと、はちょっと驚いた。
確かに、幼い頃から頼りたい両親は家にいないことが多かった。小学生の頃から、はいわゆる「かぎっ子」と呼ばれるような子供で、家に帰っても一人。母親が家にいる同級生のように「おかえり」と言ってもらえるわけでもない。その頃は母も夕飯の支度をしておいてくれたが、中学に上がる頃には仕事も更に忙しくなり、家に帰ってもお金が置いてあるだけになっていた。
だからこそ、は自分で何でもしなければならず、周りから「一人で大丈夫?」と訊かれても「大丈夫です」と虚勢を張るしかなかった。自分は別に片親でもない。むしろ家のことを任せてもらえてることは、にとっても嬉しかった。

(おかげで甘え下手の女になっちゃったけど…)

精神的な自立が早かったせいもあるな、と自己分析しながら、は苦笑いを零した。でもそれを蘭に見抜かれてたとは思わない。

――虚勢張ってるように見えたから。

そう言われて、蘭がそこまで自分のことを見ていてくれたことが、かなり意外だった。

「まあ、でもこうして甘えてくれるとこもあるんだと安心したわ」
「…安心?」

その言葉にふと顔を上げる。髪を撫でる蘭の手が、心地いい。

「人は虚勢だけじゃ生きてけねーじゃん。たまには誰かに甘えてガス抜きしねーと、後々きつくなんだろ?」

蘭は当然といった顔で言いながら、の視線に気づくと「何だよ、その意外って顔は」と軽く吹き出した。その顏が、中学の頃の面影と重なって、の胸の奥がぎゅっと苦しくなる。

「…だって…経験者みたいなこと言うから」

中学の頃の蘭は、とても自由な人に見えた。気が向けば学校へ来て、向かなければ来ない。時々教師に呼び出されたとは言っていたものの、それすら平気ですっぽかして屋上で昼寝をする。そんな自由気ままな蘭が、当時、寂しい思いを抱えていたの目には眩しく映った。でも実際のところはも知らない。あの頃の蘭が何を考え、何に虚勢を張っていたのか。
そう思っていると、蘭がふと笑みを漏らした。

「オレもガキの頃、そういうとこあったから」
「…蘭も?」
「そう。ウチは両親が常に忙しい人らでさ。滅多なことでは家に帰って来なかったわけ。オレらの飯とか掃除とかは家政婦にまかせっきりで、オレは物心ついた時から弟の面倒を見てた。ガキなりに、兄貴のオレがしっかりしなきゃいけないって思ってたんだろうな。頼れる大人もいねえし、オレが竜胆を守るとか思って、実際そうしてきた。だから…未だに人に甘えられねえとこあんだよなぁ。つい虚勢張って、強い兄貴でいようとしちまう。まあ…を見てたらオレと似てるとこあんなーと思って。だから…惹かれたのかもな」

蘭は淡々と話しながらも、最後は苦笑交じりでワインを煽った。だが、黙ったままのが気になったのか、「どうした?」と顔を覗き込む。そして…呆気にとられたように目を見開いた。

「って…オマエ、何泣いてんだよ…」
「……な、泣いてないし…っ」

蘭の指摘でハッと我に返ったは、いつの間にか零れ落ちた涙に自分で驚いた。蘭の境遇を初めて聞かされ、あまりに自分の環境と酷似していたことに言葉を失う。同時に、痛いほど蘭の気持ちが理解できてしまった。
お互い、人より恵まれた環境ではあるものの、それと引き換えに、家族との時間を失った。そこで形成されたのが今の自分だ。
蘭の言うように、人に頼ったり甘えたりできないのは、意外とキツい。

――って強いし一人でも生きていけそうだよな。

以前、付き合った男、数人にそう言われた時、本当は違うと言いたかった。でもそう思われるような言動をしてしまったのは自分で、今更それを変える術も知らない。

(灰谷くんも…そうだったのかな…)

そう思えば思うほど、涙が溢れてくる。

「いや、思い切り泣いてんじゃん…。オレ、そんな泣かすようなこと言ったか?」
「…こ、これは別に…」
「あー擦んなって。メイクはげんぞー」

蘭は笑いながら、テーブルの上にあったナプキンでの濡れた目尻を軽く叩いて拭いていく。その優しい動作に、またの鼓動がうるさくなった。
その時、ジっとしているを見て、蘭はふと手を止めた。

「…やっぱり可愛いな、オマエは」
「…え…――?」

その一言にドキリとして視線を上げた瞬間、蘭が顔を傾けると、そっと唇を重ねてきた。あまりに突然の口付けに、の脳内がフリーズする。ちゅ…っと音を立てて離れたと思えば、視線を合わせられ、頬が燃えるように熱くなった。抗議をする間もない。蘭はを見つめながら目を伏せると、角度を変えて再び唇を塞いだ。その予定外の行動に、は思考もままならない。けれど、幸せを感じるくらいに、蘭からのキスはの心を満たしていく。それは傷ついた過去の想いを浄化させるような、そんな甘い毒のようだった。




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朝、二日酔いとはまた別の倦怠感を覚えながら目が覚めた。心なしか頭も重い。これは間違いなく二日酔いの方だろう。けれど、しっかり記憶は残っている。
はゆっくり瞼を押し上げると、隣にいる存在をすぐに感じた。暖かいものが体に巻きついているせいだ。

(…いてくれたんだ…意外)

隣で自分を抱きしめるように眠っている蘭を見て、は苦笑した。抱いた後はサッサと帰るタイプだと思っていただけに、まさか朝まで傍にいてくれるとは、これまた予想外だ。
昨夜、食事の後、店を出た蘭は「送る」と言ってくれた。これもまた、ある意味の予想を軽く裏切る一言だった。てっきりホテルにでも誘ってくるかと思っていたのだ。それくらい、あの突然のキスは情熱的だったように思う。でも蘭はそんな素振りも見せず、を送ろうとした。そんな蘭を見て、少しの寂しさを覚えたのはの方で。その後に「帰りたくない」と我がままを言ったのもの方だ。
本当なら、蘭が誘ってきても絶対に体は許さないつもりだった。なのに、あんなキスをしておいて、蘭は誘ってくる気配すらない。それならそれでは次のデートに繋げればいい。そう思っていたのに、つい出た言葉が「帰りたくない」だった。

――そういうこと言われるとオレ、勘違いするけど。
――勘違いじゃないよ。

ハッキリ言い切ったを見て、蘭は少し驚いた様子だったが、その後に「分かった…」と言って、軽く息を吐くと、

――オレの家とホテル。どっちがいい?

と蘭は訊いてきた。その問いには内心驚いたものの、「ホテルがいい…」と応えたのは、これ以上、蘭との間に思い出を作りたくないからだ。プライベートが垣間見えてしまう家に行くのは、どうしても抵抗があった。裏腹に、家に連れて行く気持ちがあったのかと、嬉しくも思った。だからこそ、敢えてホテルを選んだ。

(…バカだよね、ほんと)

蘭の寝顔を見ながら、は小さく失笑した。
本当なら体を許すつもりはなく、散々焦らしてから振ってやろうと思っていた。でも、それが出来なくなるくらい、は今の蘭に惹かれてしまっていた。

(だから…これでわたしのささやかな復讐は終わり…)

抱き合った相手が目を覚ましたらいないなんて経験、蘭はしたこともないはずだ。少しはプライドが傷つくかもしれない。そう思いながら、は蘭を起こさないよう、静かにベッドを抜け出し、床に散らばった服や下着を身に着けた。本当はシャワーくらい入りたかったが、蘭が起きてしまっても困る。

(家に帰ってから入ろう…)

最後にノースリーブワンピの横のファスナーをキッチリ上げると、ホっと息を吐く。夕べ、これを脱がされた時は、恥ずかしくて死にそうだったことを思い出した。
こじらせた初恋を引きずっていたは、これまで付き合った男はいたものの、唇以外、許した相手はいなかった。だから夕べ、蘭に抱かれたのが、彼女の初体験でもある。
そのことを蘭には言わなかった。蘭が優しく、まるで大切な恋人にするような愛撫を施してくれたおかげで、想像していた痛みも殆どなく。初めて肌に触れられる羞恥心も必死に耐えた。だからどうにか誤魔化すことが――出来たと思う。

(やっぱり…灰谷くんは素敵な人だった…わたしの見る目は間違ってない。今なら…そう言える)

過去、何故蘭があんな言葉を吐いたのかは分からない。けれど、何か自分が蘭にそう言わせるようなことを、何度か接するうちにしてたのかもしれない。楽しかった思い出ばかりがの中にあったとしても、蘭から見れば、馴れ馴れしい女に映っていたかもしれないのだ。

(もう、あの頃のことを考えるのはよそう。真実は人の数だけあるものだ)

自分には自分の、蘭には蘭の。
あの頃、抱えていた感情がある。
そう思えば、もう辛くはなかった。

「ばいばい…灰谷くん」

ベッドの脇に短いメモを残し、静かに蘭の眠る部屋を出る。
朝の静かな廊下を歩きながら、は二度と振り返らなかった。