夜を超えた朝に



触れるたびに柔らかい感触がオレの手のひらを包んで、そこに生まれる熱が好きだった。彼女の中へ入った瞬間の蕩けるような熱も。

「ん…、ココ……」
「…ん?」
「…何でも…ない…もっと…」

艶のある嬌声の合間に呟かれた言葉は、オレの鼓膜を震わせて、次に胸の奥を疼かせた。その疼きの真ん中にこみ上げた想いのまま、彼女を揺さぶりながら二人の熱で溶けてしまえばいいのにと願った。





薄暗い室内に、一筋の光が差し込むのは目を瞑っていても分かった。酷く気怠い身体は思うように動かずに寝返りを打つだけに留まる。なのに心の中はやけにスッキリしていて、久しぶりに清々しい気分だ。そこで隣にいるはずの体温を求めるように腕を伸ばした。こんなに気怠いのは、昨夜散々彼女を求めてしまったせいなのは分かり切っていて。ガキじゃあるまいしと思いながらも、彼女の温もりを思い出してそこにいるはずの存在を探した。なのに触れられるはずの温もりが一向に感じられない。目を開けて、ハッキリと確かめるのが怖いと思うほど、オレは狼狽したかもしれない。でも確認せずにはいられなくて、重たい瞼を押し上げる。

「…?」

薄暗い室内に目が慣れてくると、ベッドのシーツに皺が出来ているのが見える。そこへ無意識に手を置けば、まだかすかに暖かった。

「…クソッ」

ベッドから飛び起きて床に散らばっているはずの服や下着を探す。でも見当たらなくて室内を見渡すと、ソファの上にきちんと畳んで置いてあった。きっとがしてくれたに違いない。彼女はそういう些細なことまで気を配ってくれる女だ。それを手に取り急いで身に着けると、忘れ物はないかと最後にもう一度部屋の中を確認した。夕べは彼女に夢中でよく見ていなかったが、こうして冷静になってみれば、やけにぎらついた部屋に見える。全くと言っていいほど余裕がなくて、パっと目についたラブホに入ったのは失敗だったかもしれない。好きな女と初めて抱き合うなら、もっときちんとした場所を選ぶべきだった。

建物の外に飛び出すと、朝日が眩しくて思わず目を細めた。繁華街の中にある裏通り。その一画にあるホテル街は、こんな時間ともなると誰一人歩いていない。そうだ。とは夕べ、この近くのバーで一緒に飲んでいたんだっけ。

「クソ、どっちだ?」

駅前通りに出る二つの道を交互に見ながら、オレは近道になる小道の方へ走りだした。まだシーツに触れた時、温もりが残っていた。ならはこの近くにいるかもしれない。どっちにしろ家に帰るなら駅まで出る気がした。

(何で…ひとりで帰るんだよ…)

夕べは確かに珍しく酔っ払ったし、何ならホテルに入ったのも勢いだったかもしれない。けれど長い間、友人として接してきたのだから、てっきりオレの気持ちの変化に気づいてると思っていた。そして彼女もそんなオレを受け入れてくれたものだと思ったのに。

とは元々中学の同級生だった。その頃のオレは黒龍を復活させる為に動いていて、あまり学校には行かなくなっていたけど、隣の席だったはいつも授業内容をまとめたノートを家まで持って来てくれるような子で。クラスの中では唯一印象に残っていた女の子だった。結局中学を卒業後は疎遠になり、オレも黒龍をでかくするのに忙しくしてたせいで、彼女の存在は忘れていたけど、数年前、ふらりと立ち寄った映画館。

――九井、くん?

時間を潰すのが目的だったけど、同じようにひとりで来てたにロビーで声をかけられ、オレ達は何年かぶりの再会を果たした。

――また会える?

ひとしきり思い出話に花が咲いて、結局オレ達は映画を見ずに映画館を出た。その時に彼女の方から言ってくれた言葉だ。懐かしさもあり、オレも気軽にOKして、それからは月1程度で食事をしたり飲みに行くようになった。は相変わらず気の利く優しい女の子で、学生の頃よりも親しくなっていくうちに、自然と彼女のことが好きになっていった。でも素直に伝えられなかったのは、長年忘れられずにいた赤音さんのことがあったからだ。彼女と再会した頃は、まだ赤音さんのことを引きずっていて、酔った時に赤音さんのことをにもチラっと話したかもしれない。でもと過ごしていくうちに、少しずつ浄化されていって、目の前にいる彼女のことを大事にしたいと思うようになっていた。だから夕べ、初めてそんな空気になった時、彼女にきちんと自分の気持ちを言おうと思ってたのに。まさか起きたらいなくなってるとは思わない。

必死で走っていると、自分の息がやけに耳に響く。心臓がざわざわと騒いで、今見つけなければ何故か二度とに会えない気がしてた。薄っすらと雲の合間から青い空が顔を出し、夏の朝らしく強い日差しが降り注ぐ頃、辿り着いた駅は人がまばらだった。そこで今はちょうどお盆時期だというのを思い出した。

――明後日から実家に帰るの。だからその前にココと飲みたくて。

そんな電話がかかってきて、昨夜の流れになったんだった。開いたばかりの駅の中へ飛び込んで、の姿を探す。彼女の家方面に向かう電車のホームへ走って行くと、案の定はそこに立っていた。

「…!」

ほんの一瞬、名前を呼ぶのを躊躇った。オレの顔を見れば逃げ出すんじゃないかと不安になったからだ。だけど彼女は弾かれたように振り向き、酷く驚いた顔をしていた。

「コ、ココ…?何で…」
「何でって……こっちの台詞だろ…」

必死に走ったせいで息が整うのに時間がかかった。ついでに朝とは言え気温の高い中、全速力で走ってきたせいか、立ち止まった途端、一気に汗が噴き出してくる。それを見たは自分のバッグの中から可愛らしいミニタオルを出して、オレの額の汗を拭いてくれた。

「何で…ひとりで帰った…?」
「…ココ、ぐっすり寝てたから起こすのかわいそうで…」
「いや、そこは起こせよ。起きて隣にがいないと分かった時のオレの気持ち考えて?」
「……ご、ごめん。帰ってからメッセージ送ろうと思ってたの」

オレの汗を拭く為に腕を伸ばしていた彼女は、しゅんとしたようにその手を引っ込めた。

「ほんとは…他に理由あんじゃねーの…」
「………」

オレの問いには答えなかった。しばし沈黙しているとアナウンスが流れ、誰もいなかったホームに少しずつ人が増えてきた頃、始発らしき電車が滑り込んで来る。でも彼女もオレも動けないまま、人々が電車に乗り込んでいくのを黙って見ていた。再び誰もいなくなったホームは一瞬静寂が戻り、かすかに蝉の鳴き声が響きだす。鳴き声のする方を見上げれば、ホームの柱に一匹迷い込んだ蝉が張りついてるのが見えた。も気づいたのか、ふと顔を上げて眺めている。その表情はどこか寂しげで、彼女が何故そんな顔をするのか気になった。

「…なあ。オレも夕べ酔ってたけど、別に軽い気持ちでオマエを抱いたわけじゃねえよ」
「…ココ…」
「それとも…の方が遊びだったわけ」
「ち、違う…!わたしはただ…っ」

今度は泣きそうな顔でオレを見上げるが言葉を詰まらせる。オレはその続きを聞きたくて「ただ…なに?」と問いかけた。夕べ抱いた時、は何かを言いたそうにしてたのを思いだす。何でもないと誤魔化してたけど、もしかしたらあれは――。

「ココには…忘れられない人がいると思って…だから…」
「…だから?」
「……ココの負担にはなりたくない」

最後は消え入りそうな声で呟いて、やっぱり最後は涙を零した。

「負担なんかじゃねーよ。それにオマエ、何か誤解してねぇ?」
「……誤解…?」
「確かにオレには忘れられない人がいたし、長いこと引きずってた。でもそんなのとっくに吹っ切れてんだよ。何でか分かる?」

オレが訊ねると、は涙で濡れた瞳を揺らして顔を上げた。

と会えたから。ゆっくり少しずつ、彼女のことを思い出に変えていくことが出来たんだよ。それくらい気づけよ」

苦笑交じりで言って、の頭へ手を乗せると、また彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

「ココは…好きになっちゃいけない人だと思ってた…でも…好きになっちゃって苦しくて、抱かれたらもっとつらくなった…」

ぽつりぽつりと紡がれるの言葉に、軽い眩暈がした。オレが何気なく話した過去のせいで、にそんな思いをさせていたなんて思わなくて。

「もう、ツラいとか思わせねーし…どこにも行くなよ」

再びアナウンスが流れだし、客が一人、また一人とホームにやってくる。でもオレは構わずの腕を引き寄せて思い切り抱きしめた。手で顔を仰ぎながら目の前のベンチに腰を下ろしたオッサンがギョっとした顔をしたのが見えたけど、どうでも良かった。

「今のオレは…が好きなんだよ。それじゃダメか?」

これまで言えなかった言葉をやっと口にすることが出来た。腕の中でが首を振るのが分かって、そっと頭に頬を寄せる。

「わたしも…ココが好き…ずっと…好きだったの」

夕べ、抱かれてる時に本当は言いたかった。最後にはそう付け加えると、やっと本来の可愛い笑顔を見せてくれた。夕べ抱き合ったことで、オレはこれが始まりだと思い、彼女はこれで終わりだと思った。小さな心のすれ違いで危うく大事なものを失うところだった。
そこへ再び電車が滑り込んで来て、ベンチにいたオッサンが興味津々と言った顔でオレ達を眺めながら電車に乗り込んだ。「若いってのはいいねえ」とブツブツ言ってるのが聞こえてきて、抱きしめていた腕を解くと、ふたりで顔を合わせて吹き出した。そこで発車のベルが鳴り響き、扉が閉まる。

「もう電車は乗らねえよな?」
「……うん」

今度こそシッカリ頷くのを見て、オレは身を屈めるとの唇へ自分の唇を重ねた。その時、チューは好きな人とだよ、という赤音さんの声が聞こえた気がして――。

「やっと好きな子にキス出来たかも」

手を繋いで二人でホームを後にする時、ジリジリと鳴いていた蝉が、朝焼けに飛び立つのが見えた。