三ツ谷隆



あれは去年。朝から晴れた日の午後。突然降り出した雨に、皆は授業どころじゃなくなった――。


「あー傘持ってきてねえよ」
「わたしもー」

そんなヒソヒソ話があちらこちらで聞こえて来た。だけどわたしは窓に打ち付ける激しい雨を眺めながら、内心ガッツポーズをしていたかもしれない。

――、今日午後から雨降るかもしれないし傘持って行きなさい。
――えー?こんなに晴れてるのに?邪魔だよ。
――濡れるよりマシでしょ?梅雨入りしてるんだから急に降るかもしれないし持って行きなさい。

朝の母との会話。何気に母のそういった勘はよく当たるから、正直邪魔だとは思いつつ、しっかり鞄には折り畳み傘を入れて来たのだ。だから嘆く皆とは違ってわたしはノンビリ黒板に書かれた問題をノートに書きこんでいた。

「ほら、みんな!よそ見してないでちゃんとノートに書いておけよー!」

突然の雨で、教室の中がざわざわし始めたことに気づいた先生が振り向いて大きな声を出す。その時、机の上にノートの切れ端がポイっと置かれて、ふと顔を上げた。それは隣の席の三ツ谷くんからだった。

"傘もってきてるよな?帰り送って"

メモにそう走り書きされている。チラっと隣を見ると、三ツ谷くんも同じようにわたしを見て、口パクで"いい?"と聞くから思わず頷いていた。心臓がドキドキした瞬間だった。中学に上がる頃、この学区に引っ越したわたしと三ツ谷くんとは家の方向が同じで、時々帰り道が一緒になることがある。その時にお母さんの勘がいいことも、しょっちゅう傘を持たされてる、なんて話をしたこともあったから、それを覚えてたんだろう。この突然の雨に関してお母さんには感謝をしたけど、もう一つ感謝をすることが出来た。
わたしは――同じクラスで"隣の席の三ツ谷くん"に、片思いしているからだ。

(授業が終わるまで残り20分……お願い。雨、止まないで…)

雨粒で濡れる窓を見ながら、こっそり祈ってみたりして。だけど――このスコールのような雨は次第に弱まって来て、授業終わりのチャイムが鳴る頃には、再び太陽が顔を出し始めた。

「雨、上がって良かったー!」
「助かったよね~」

クラスメイトのそんな声を聞きながら、わたしは一人、帰り支度をした。隣の席はすでに誰もいない。雨が止んだ時点で、三ツ谷くんは迎えに来た林くんに連れられて帰ってしまったからだ。帰り際、三ツ谷くんは何か言いたそうに振り返っていたけど、「やっぱ止んだしいーや」って言われるのが嫌で気づかないフリをしてしまった。

(雨…何で止んじゃうのよ…)

三ツ谷くんと帰る方向は同じでも、約束をして帰ったことは一度もない。だから…傘に入れてとお願いされた時、凄く嬉しかったのに――。


あのよく晴れた雨の日は、わたしにとって苦い初恋の思い出の一つになった。
そして一年後の今日、あの日と全く同じシチュエーションになった。今年はまだ梅雨入り前で、朝から晴れているとなれば誰も傘なんか持っては来ない。でもわたしは母のおかげできちんと傘を持って来ていた。

「あーあ…すげぇ雨だよな」

去年とは違い、今日は授業の終わり頃に雨が降り出して、帰り支度をしながら三ツ谷くんがふとわたしを見た。

「もし…傘持ってるなら今度こそ送って欲しいんだけど」
「え……あ、う、うん!持ってるから送る」

一瞬固まったのは、三ツ谷くんが一年前のことを覚えててくれたからだ。あんな些細なこと、とっくに忘れられてると思ってた。
この日、わたしと三ツ谷くんは初めて相合傘をしながら一緒に帰った。

「三ツ谷くん…覚えてたんだ。去年のこと」

そう言ったわたしに、三ツ谷くんは苦笑しながら、こう言った。

「そりゃ……雨止むなってずっと思ってたのに止みやがったからなー。結構へこんだし」
「え?」

あの日、わたしも授業中ずっと止まないでって祈ってた。それは三ツ谷くんとこうして相合傘で一緒に帰りたかったからだ。でも、三ツ谷くんは何で?そう思った時、三ツ谷くんがふと足を止めてわたしを見た。

さんと一緒に…帰りたかったから」

まさかの告白に、わたしの頭は真っ白になった。
それから一週間。付き合いだしてから、苗字で呼ばれていたわたしは、三ツ谷くんから名前で呼ばれるようになった。

、もうすぐ終わるからちょっと待ってて」
「うん」

三ツ谷くんは不良なのに手芸部の部長さんだ。だから何も部活に入っていないわたしは、いつも終わり頃手芸部の部室に彼を迎えに行くようになっていた。

「お待たせ。ごめん、遅くなって。ちょっと後輩に分かんないとこあるって言われて教えてた」
「ううん。みんな、部長を頼りにしてるし仕方ないよ。お疲れさま」

三ツ谷くんを待つことは少しも苦じゃなくて、むしろ部員に頼られてる三ツ谷くんを見ているのが好きだった。薄暗くなった道を歩きながら、そっと繋がれる手の温もりも、別れ際、名残惜しそうに見つめて来る綺麗な虹彩も、全部好きだって思う。

「あ…じゃあ…」

いつもなら、彼の家より手前にあるわたしの家の前で少し話して「また明日」って言って別れるんだけど、でも今日は少し違った。家に入りかけたわたしの手を掴んで、三ツ谷くんは軽く引き寄せると、「まだもう少し一緒にいて欲しいんだけど…ダメ?」と訊いて来た。

「え…ダメじゃないけど…」

と応えながらも少しドキドキしていた。わたしも三ツ谷くんともう少し一緒にいたいと思ったから。そう思っていると三ツ谷くんは少し照れ臭そうに頭を掻きつつ、

「実はオレ、今日誕生日でさ――」
「えっ!」

余りにビックリして、つい大きな声を出してしまった。

「た…誕生日?」
「あーうん。だから…もう少しと話してたいなーと思って。学校じゃあんま話せねえし、放課後は部活あっからさ」
「え、な、何でもっと早く言ってくれなかったの?わたし、何もプレゼントとか用意してない…」
「ああ、いらねえよ。気持ちだけで十分。それにほら、こうしてと付き合えたことじたい、オレにしたらプレゼントみてーなもんだし」
「……」

そんなことを言われたら、ますます何かあげたくなった。だって付き合いだして初めての誕生日を迎えたのに、何もお祝い出来ないのは悲しい。そう思ってるわたしの気持ちを知ってか知らずか、三ツ谷くんは近くにある公園にわたしを誘って、今日の主賓なのにジュースまで奢ってくれた。

「オレんち行ってもいいけど、前に話したように妹ふたりいっからさ」
「ううん…いいよ。三ツ谷くんと一緒ならどこでも楽しい」

二人でベンチに座りながら、こうしてジュースを飲んで他愛もない話をする。それだけでわたしは舞い上がってしまうくらい嬉しい。
わたしの言葉に三ツ谷くんは嬉しそうな笑みを浮かべて「それオレの台詞」と笑った。その笑顔を見てると、胸の奥が何度も鳴ってしまう。最初の印象は凄く怖かったのに、話すと全然怖くなくて、むしろ優しい三ツ谷くんにいつの間にか惹かれていた。

でも――三ツ谷くんはわたしのどこを好きになってくれたんだろう?

そこが気になってたから、この際思い切って聞いてみた。

「あのね」
「ん?」
「三ツ谷くんは…わたしのどこを好きになってくれたの…?」
「え…?」
「ハッキリ言って…わたしは普通だし、美人でもないし、三ツ谷くんは何でわたしをって気になっちゃって…」

自分のことは自分でよく分かっている。わたしはクラスの派手なグループの子達みたいにメイクをしてるわけでも、髪やまつ毛をくるくる巻いてるわけでもない。至って普通の女だ。なのに三ツ谷くんみたいな、どちらかと言えば派手な世界で生きてる男の子に好かれる理由が思い当たらない。だから時々、不安になってしまうことも多々あった。
三ツ谷くんは黙ってわたしの話を聞いてたけど、不意に頬を綻ばせて小さく吹き出した。

「そーいうとこ」
「え…?」
のそーいう自然体なとこが好き」
「し、自然体って…」
「あーでもしいて言うなら…」

と三ツ谷くんは優しい眼差しをわたしに向けた。

「オレ、前に見かけたことあんだよ。がこの公園で泣いてる子を慰めながら元気付けてるとこ」
「え……」

思ってもいなかった話をされて、わたしは首を傾げた。確かにそんなことがあったような…

「ちょうど一年前の雨の日だった。同じクラスで"隣の席のさん"が、公園の泥濘によろけて転んだ女の子を助けて、ハンカチで汚れた顔を拭いてあげながら必死に宥めてた。それ見て…優しいなあって思ったわけ」
「え…み、見てたの…?」

言われて思い出した。確かに一年前くらいに、学校帰りこの公園で可愛らしい女の子が突然降り出した雨に驚いたのか、急に走り出して転んでしまったのを目撃した。可愛らしい服は泥で汚れて、その女の子が大泣きしだしたのを見て、慌てて助け起こすと、顔や手についた泥を拭いてあげたのだ。でも逆にわたしにも泥が着いちゃって制服をクリーニングに出したというオチまでついたっけ。でもそれを三ツ谷くんに見られてたとは思わなかった。

「見てたっつーか…実はあの女の子、オレの下の妹でさ」
「えっ?」

妹と聞いてギョっとした。

「ずっとお礼を言わなきゃ…って思ってた。だから去年のあの雨の日…思い切って声かけたんだ」
「……そ、そうだったんだ…びっくりした」

じゃああの日、帰りがけ何かを言いたそうにしてたのは、そのことだったのかもしれないと気づいた。なのにわたしは気づかないふりをしてしまった。

「でもさ…雨が止んだ時、意外とガッカリしてるオレがいて。その辺りからのこと好きだって自覚したら、急に意識しちゃって、その後はあんま声かけにくくなったっていう情けないオチがついたんだけど…でもこの前、同じ状況になったの見て、今なら言えるかなって思ってさ」

三ツ谷くんはやっぱり少し照れ臭そうに笑った。でもまさか、あの時からわたしのことを意識してくれてたなんて思わなかった。嬉しくて泣きそうだ。

「遅くなったけど…あの時は妹を助けてくれてありがとう」
「…そ、そんなの…当たり前だよ…」
「だから…そーいうを好きになった」

三ツ谷くんはふっと笑みを浮かべると、少しだけ身を乗り出してわたしの顔を覗き込んだ。こんな至近距離で見つめ合ったのは初めてで、心臓がピンポン玉みたいに跳ねた気がする。

「さっき…プレゼントはいらねえつったけど…ひとつだけ欲しいものあったわ」
「え…な、何…?」

ドキドキしながら訪ねると、三ツ谷くんの指先がわたしのくちびるに触れた。

「これ」
「……っ」
「もらってい?」

その言葉の意味を理解した瞬間、一気に顔が熱くなった。でも迷うことなく頷いてしまったのは、やっぱり初めてのキスは三ツ谷くんがいいって思ったからだ。
頷いた瞬間、ゆっくりと三ツ谷くんの綺麗な顔が近づいて来た。恥ずかしさで強く目を瞑った瞬間、柔らかいものがくちびるに押し付けられて、更に心臓が跳ねる。最初はちゅっと軽めに啄まれ、次に塞がれた時は少し深めに互いのくちびるが交じり合う。柔らかさを確かめ合うように触れ合っていると自然と体に力が入って、思わず三ツ谷くんの制服をぎゅっと掴んでしまった。

「ん…」
「…苦しかった?」

くちびるが解放された瞬間、止めていた呼吸が復活する。三ツ谷くんの問いかけに頷くだけで精一杯だ。

「ごめん…飛ばしすぎたよな、オレ」
「う…ううん…」

軽く頭を撫でられると、かぁぁっと頬に熱が集中して赤くなったのが分かった。でも三ツ谷くんはかすかに笑みを浮かべると、もう一度、優しくくちびるを重ねて来る。縫うみたいに重なる熱が交じり合うだけで、"好き"の質量が上がっていく。

「今まで生きて来て、一番嬉しい誕生日プレゼントかも」

キスの後で三ツ谷くん小さく呟いた。これから先も、こんな風に三ツ谷くんの誕生日のお祝いをして、彼の"一番嬉しい"を聞かせて欲しい。心からそう願った梅雨の晴れ間だった。


***


「なーんか三ツ谷、機嫌悪くね?」
「いや……この雨が止みやがるからさー」
「…良かったじゃん。晴れて」
「良くねーよ…はあ…さんと相合傘が…」
「あ?何か言ったか?三ツ谷」
「うるせーぞ、ぺー!」
「何で?オレ、そんな怒らせるようなこと言った?!」