M e l a n c h o l y




「もういい…」

背中を向けたオレにそう呟いた彼女の声は震えていた。
そんなの気づいてたのに、オレはいつものようにキスをすることもなく、ただ黙って部屋を後にした。
と初めてケンカをした。
そもそもの始まりはなんだった?
今、思えば超絶下らねえことだった。
多分、オレの一言から始まった気もする。



「何、それ」

呆然としたように立ち尽くして、は明らかに困惑した表情でオレを見つめてきた。
こういう時の彼女は決まって泣きそうな顔をするはずなのに、今日だけは少し違った。

「だから仕事だよ」

オレは梵天という組織の幹部であり、突然の呼び出しが来るということはオレじゃなきゃダメな案件だからだ。もそれを分かっているはずで、だからこんなことをいちいち言わなくても理解してくれてると思い込んでいた。はいつもオレの傍にいてくれたし、長く家を空けることが増えた時でも同じだと信じていた。ただ、彼女は孤独だったと思う。
オレはまだいい。周りに仲間はいるし、外に出れば昔ながらの知り合いだって大勢いる。と一緒にいられない時も仕事で寂しさも紛らわせることだって出来る。
けどにとっては孤独だったんだろう。
オレの為だけにわざわざ友達も家族もいない六本木のこのマンションに引っ越してきてくれたのに、肝心のオレはしょっちゅう仕事で外に出ている。にしたら一人で部屋にこもってるばかりで、特に楽しくはなかったかもしれない。知らない街でどこに何があるのかさえ分かっていない彼女に、何も教えてやることすらなかったから。それでも文句も言わず、オレの帰りを待っていてくれるような女だ。
ただ、オレが出かける時、彼女の目はいつも置いていかれた子猫のように潤んでいた。そんなの気づいてたはずなのに。

「でも今日は映画に連れてってくれるって言ったのに…」

確かにオレは夕べ、と約束をした。久しぶりに早く帰れたから、一緒に夕飯を食べて、その後は久しぶりに彼女を抱いた。その後の余韻が残る中で「明日はデカい仕事もねえから映画でも行く?」と言ったのは、オレもたまにはとゆっくりデートがしたいと思ったからだ。そこに嘘はない。だけど予定外の呼び出しの電話が入ってしまった。寝てる彼女を起こさないで出かけようと思ったものの、やはり約束したくせに起きたらオレがいないんじゃが泣いてしまうかと思った。だから起こして事情を話したのにこれだ。
なら分かってくれるかと思ったオレが、甘かったのかもしれない。
組織の仕事には常に突発的な事案も含まれるし、幹部にしか対応できないものが山ほどある。今日の呼び出しもそういった類のものだった。

「わりぃ。映画は明日連れてってやるから」

そう言って頭を撫でると、は驚きを隠せないような顔をしてオレを見上げた。何故か無言で責められてるように感じたのかもしれない。は何も言ってないのに、オレはつい怒ったような言い方をしてしまった。

、仕事なんだよ。今は組織をデカくする為にやることいっぱあんの。だから――」
「そう…」

は軽く目を伏せて頷いた。彼女は仕事とわたし、どっちが大事?なんて愚かなことを言うような女じゃない。でも我慢して笑顔を見せるぐらいならそう言って欲しかった。オレは自分勝手で我がままだから、にも我がままの一つくらい言って欲しかった。彼女にそう言ってやれば良かったのに、この時は時間もなくて少しイライラしてたのかもしれない。

「じゃぁ、わたしはまた家で待ってたらいいんだよね」
「…何だよ、その言い方…」
「…わたしは蘭ちゃんと暮らしたかっただけだよ」
「……」
「でも、もういい。分かった」

そう言ってはいつものように頷いた。オレには彼女が理解を示してくれたようには見えなかった。

「分かったって何だよ」
「蘭ちゃんの考えが分かったってこと」
「は?オレの何が分かったわけ」
「蘭ちゃんはわたしを一人にしても平気なんだってこと」
「…おい、…!」

背中を向けた彼女に対して大きな声で呼び止める。こんな風に怒る彼女をオレは初めて見た。だから少し動揺してたかもしれない。
オレは更に悪化させるような言葉を言ってしまった。

「何でマジ切れしてんだよ…いい加減にしろ。とにかく行ってくっから帰って来たら話そう――」

そう言って出かけようとしたオレの背中に、か細い声が届いた。

「もういい…」

はそれだけ言うと、布団をかぶってダンゴムシみたいに丸くなった。これ以上、何かを言っても無駄な気がして、だから何も声をかけることなく部屋を後にした。
彼女の気持ちを分かっていながら、それでもまだ彼女に甘えていたのかもしれない。

――もういい…。

仕事の合間も何故かの声が耳に残っていた。途中、何度も電話して「ごめん」と不慣れなその言葉を言おうと思っても、オレはアイツみたいに素直じゃねえから、なかなかかけることも出来ず、いつも一時間おきに送ってたメッセージすら送れない。今メッセージを送って、いつもは秒で返ってくる返信がなかったら、と思うと、どうしても送ることが出来なくて、結局、一日悶々として過ごすしかなかった。


△▼△



蘭ちゃんに初めて良くない態度をしたという自覚はあった。
今までは我慢出来てたはずなのに、今日は本当に楽しみにしてたから、その反動が大きかったのかもしれない。
夕べはあんなに甘い夜を過ごしたというのに、起きた瞬間にあんなことになるなんて思わなかった。こういうのもケンカをしたってことになっちゃうのかな。だったら蘭ちゃんと初めてのケンカということになる。いや、違うかも。毎日の日課になってる"行ってきます"のキスもしてくれなかったから、わたしが一方的に蘭ちゃんを怒らせただけかもしれない。どうしよう。凄く怖い。
何でこんなことになっちゃったんだろう。目が覚めるまでは幸せだったのに。
今朝、寝ていると、ぼんやりとした意識の中で人が動く気配を感じて目が覚めた。隣を見れば、そこにいるはずの蘭ちゃんがいなくて、シーツに触れてみれば少し冷たかった。蘭ちゃんがわたしより先に早起きするなんて珍しい。その時はそう思った。もしかしたら今日はお出かけする約束だから早く起きて用意をしてるのかな。だったらわたしも早く起きて用意しないと。そう思った。でもどうやらわたしは二度寝してしまったらしい。不意に頭を撫でられた感触で、再び意識が夢の中から現実へと引き戻された。

…」

普段の蘭ちゃんの声より少し弱々しい声。こういう声の時は良くない話だと、薄々分かるようになっていた。でも起きたのだから目を開けなければいけない。

「え…」

蘭ちゃんの服装を見て思わず驚きの声を出してしまったのは、どう考えてもそれが映画に行くような恰好じゃなかったからだ。蘭ちゃんは仕事に行く時に着るような鮮やかな色のスーツを着て、わたしのことを見下ろしていた。申し訳なさそうな顔を見れば急な呼び出しが入ったことだけは分かる。きっと蘭ちゃんじゃなければ駄目な仕事。そこで全てを理解した。今日の映画や、六本木の街を案内してくれるという約束も全てキャンセルされるに違いない。
蘭ちゃんは普段から凄く忙しくて、出かけて行ったらいつも朝まで帰って来ない。だから夜ご飯は作っても、いつもわたし一人で食べている。
蘭ちゃんの仕事の中に仲間の人と飲みに行ったりも含まれてるかもしれないけど、わたしからそんな不毛な質問をしたことは一度もない。わたしが寂しいのを我慢すれば全て上手くいく。本能的にそう感じてた。でも、だからこそ余計に夕べの約束は嬉しかったのだ。

「悪い…呼び出し入ったわ」

案の定、蘭ちゃんはその言葉を口にした。いつもならここで「うん。分かった。行ってらっしゃい」と物わかりのいい素直な彼女を演じてたはずだった。なのに今日はどうしても笑顔を作ることが出来なくて、あげく口からついて出た言葉は「何それ」だった。
わたしがそんな言い方をしたのも初めてで、あんなに不機嫌そうな声を蘭ちゃんにぶつけたのも初めてだ。
少し驚いたのか、そしてわたしに責められてると感じたのか。
蘭ちゃんも少し不機嫌そうな声で「だから仕事だよ」と言った。そんな言い方をするのは珍しいからドキっとしてしまった。でもだからなのかもしれない。今日はモヤモヤしたものを我慢することが出来なかった。

「でも今日は映画に連れてってくれるって言ったのに…」
「わりぃ。映画は明日連れてってやるから」

蘭ちゃんはわたしの頭を撫でながら諭すように言った。そうすればきっとまた、わたしが我慢して頷くと思ってる。何故かそんな気がして少し驚きながら蘭ちゃんを見上げてしまった。確かにいつもなら、そこで「うん、分かった」と言ってたかもしれない。でもわたしが諦めることを前提にものを言われるのが悲しかった。
何も言えずにただ蘭ちゃんを見つめていると、それが責められてると感じたのか、蘭ちゃんも少しイラついてきたようだった。

、仕事なんだよ。今は組織をデカくする為にやることいっぱあんの。だから――」
「そう…」

そんな言い方をしてしまったのは初めてのことで、イラつかれればイラつかれるほど、わたしの心は沈んでいく。
わたしがここにいるのは蘭ちゃんと暮らす為だ。ひたすら待つためじゃない。

「じゃぁ、わたしはまた家で待ってたらいいんだよね」
「…何だよ、その言い方…」
「…わたしは蘭ちゃんと暮らしたかっただけだよ」
「……」
「でも、もういい。分かった」

これまで我慢して飲み込んでた言葉が、この日に限ってスラスラ出てきた。蘭ちゃんも少し驚いてるのが気配で分かる。そこに気づいた時、わたしがこれまで何も言わなかったから、蘭ちゃんにはそれが当たり前になってたのかなと思ってしまった。

「分かったって何だよ」
「蘭ちゃんの考えが分かったってこと」
「は?オレの何が分かったわけ」
「蘭ちゃんはわたしを一人にしても平気なんでしょ…?」
「…おい、…!」

つい泣きそうになって蘭ちゃんに背中を向けた。

「何でマジ切れしてんだよ…いい加減にしろ。とにかく行ってくっから帰って来たら話そう――」

違う。キレたわけじゃない。ただ、悲しくなっただけだ。

「…もういい」

何か全て空しくなって、そんな言葉が零れ落ちた。もう一度布団をかぶって膝を抱えるように丸くなる。今のが全て夢ならいいと思った。
少しして蘭ちゃんが出かけて行く音が聞こえてきた。
ドアを閉める音、鍵を閉める音、そして遠ざかっていく革靴の音。
それが聞こえなくなった時、初めて声を出して泣いた。
我がままを言うつもりはなかったのに、いつもの物わかりのいい彼女でいればよかったのに。色んな後悔が押し寄せてきた。
どれくらい、そうしてたのか。気づけば二度寝をしていたようで、目が覚めた時、今朝のことは夢だったのかなとすら思いそうになったけど、そうじゃないことはケータイを見てすぐに分かった。
いつもなら一時間おきにメッセージをくれる蘭ちゃんが、今日は一度も送ってきてない。まだ怒ってる証拠のような気がして、また泣きそうになる。
ごめんねってメッセージを送ろうかとも思ったけど、返信がこなかったら…と思うと怖くて送れなかった。

「お腹空いたな…」

人はどんなに悲しい時でもお腹は空くんだな、という当たり前のことを思いながら、ベッドを抜け出した。そのままキッチンに行くと、かすかにコーヒーの香ばしい香りが残っている。朝、蘭ちゃんが仕事に行く準備をしながら飲んでたんだろう。コーヒーメーカーに一杯分だけ残ってたから、それを温めて飲んだ。ついでに冷蔵庫を開けてみると、中は酒類やチーズといったものしかない。当然だ。今日ほんとは映画を観た帰り、蘭ちゃんと近所のスーパーで買い物に行く予定だったから。そもそも最初は買い物に行こうという話の流れから、映画を観ようということになったのだ。ついでに六本木の地理に詳しくないわたしの為に、蘭ちゃんが近所を案内してくれるはずでもあった。それが全てダメになってしまった。

(楽しみにしてたのにな…)

本当はわたしだって蘭ちゃんの立場は理解してる。組織の幹部ということは大きな役割を担っているのも分かる。ただちょっと今までの鬱憤が爆発してしまっただけで。

「蘭ちゃんいつ帰ってくるんだろ…」

ふと傾きかけた太陽を眺めながら呟く。さっきのような憤りが消えると、後悔という文字だけが心を支配していた。
映画も買い物も、絶対に今日じゃなきゃダメなんてことはないのに。我がまま言ってごめんねと、今すぐ謝りたくなった。蘭ちゃんに怒られるのはツラくて悲しい。
わたしは寝室に戻ると、すぐに服を着替えた。
蘭ちゃんが傍にいなくても、きちんと一人で何かを出来るようにならなきゃダメだ。知らない街を怖がって何もしようとしなかったわたしも悪い。一人での時間の潰し方を覚えれば、蘭ちゃんに心配かけることもなくなる。
ケータイと鍵、財布を持って部屋を出ると、しっかり鍵をかけてからエレベーターへ向かう。蘭ちゃんが帰宅後、いつも飲むビールを切らしていたから、コンビニで買ってこようと思った。それくらいなら今のわたしでも出来る。
この街に住むようになってから、一人で出歩くのは初めてのことだった。
外に出るとすっかり夕日が傾いていて、一日が終わろうとしている。でもこの街はこれからが本番なんだろう。少し歩くだけで人が多くなってきた。人の多さに少し圧倒されながら、記憶にあるコンビニまでの道のりを歩く。いつもは隣でわたしの手を引いてくれる蘭ちゃんがいない。それだけでこの大都会が怖いなんて、わたしはいつの間にこんなに弱くなってたんだろう。蘭ちゃんがそばにいる時は怖いなんて思わなかったのに。
ふと足を止めて零れ落ちた涙を拭う。その時、蘭ちゃんの香水の香りがふわりと鼻腔を刺激した。わたしの服に移るくらい、いつも傍にいたんだなと思うと、途端に蘭ちゃんが恋しくなった。
早く帰ってきて――。
そう願いながら一人、竦みそうになる足をどうにか動かした。

「泣きながら歩くなよ」

その低音にドクンと心臓が跳ねて立ち止まる。顔を上げるとそこには蘭ちゃんが苦笑交じりで立っていた。凄く驚いて一瞬だけ思考が止まる。蘭ちゃんは半べそのわたしの頭を撫でて、それからぎゅっと抱きしめてくれた。

「速攻で終わらせて帰って来たら、闇を背負って歩いてる女が見えたからビビったわ」
「ら…蘭ちゃ~~ん…おかえりぃぃっ」

蘭ちゃんが優しく微笑むから、涙腺が結界した。いや涙腺だけじゃなく、鼻も緩くなった。それくらい本気で泣いて、ぎゅうっと蘭ちゃんにしがみつく。こんな道の往来で恥ずかしげもなく、迷子の子供みたいに泣きじゃくるわたしを、蘭ちゃんはいつものように優しく抱きしめてくれた。

「あ~あ…子供かよ」
「…ご、ごめんね…蘭ちゃん…我がまま言って」
「いや…オマエのせいじゃねえだろ。急に仕事振って来た三途がわりい」
「……春千夜くんのせい…?」
「そー。オレだって今日はオマエとデートすんの楽しみにしてたのに」
「…ほんど?」
「ほんとー。つーか、オマエ、オレのスーツに鼻水つけてんじゃん」
「う…ご、ごめ…」
「あーもう泣くなって。ってか今から映画行こうと思ってたのに、この顔じゃ一回帰んねーと無理だな、こりゃ」

蘭ちゃんは呆れたように笑いながら、必死にわたしの濡れた頬を拭ってくれる。でもわたしは映画と聞いて何度か瞬きを繰り返した。そのせいで溢れてた涙がポロポロ落ちていく。

「…え…行くの?映画」
「何だよ。行かねえの?」
「…行く!」
「そ?じゃあ帰って顔洗って、うんとお洒落しろ。映画の後はオレのよく行くバーに連れてってやるから」
「ほんとに?じゃあ、この前蘭ちゃんが買ってくれたワンピース着てもいい?」
「おー、あれまだ着てなかったな。まあ着てくようなとこ連れてってやれてねーか…今日見せてくれんの?」
「うん」
「それは楽しみ~♡ んじゃあ急いで帰ろうなー?」

蘭ちゃんはいつもの優しい笑顔でわたしの手を繋ぐと、ポケットからわたしが前にあげたハンカチを取り出してダメ押しとばかりに顔を拭いてくれた。ハンカチなんかいらねえって言われたけど、結局わたしが使う羽目になってるのがちょっとおかしい。

「あのさー
「…え?」
「…オレはオマエを一人にして平気なんて思ってねーから」
「…蘭ちゃん…?」
「でもまあ…オマエの気持ちに甘えてたのは自覚してるし…ごめんな…寂しい思いさせて」

蘭ちゃんはそう言って、赤くなったわたしの鼻を軽くつまんだ。慌てて首を振ると、ホっとしたような笑顔が返ってくる。そんな蘭ちゃんを見てたら、やっぱりわたしもシッカリしなきゃと改めて思う。これから先絶対にケンカをしないとは限らないだろうけど、なるべく蘭ちゃんのことを困らせないようにしたいと思った。
でも…やっぱり二度とケンカはしたくない。

「で、映画は何観る?」
「えっと…」
「ま、ゆっくり用意しながら考えとけよ」

蘭ちゃんはそう言いながらわたしの指に自分の指を絡めて微笑んだ。人混みを抜けてマンションまでの道のりを二人で歩く。その時、初めて六本木の街並みが綺麗だと気づいた。


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