きっと単純なはずの答え
ずっと幼馴染だと思ってた蘭ちゃんと付き合いだして半年が過ぎた。
最初に想像してたよりも、蘭ちゃんはわたしを凄く大切にしてくれてる。
蘭ちゃん曰く、わたしの優先順位は弟の「竜胆より上」らしい。その言葉通り、蘭ちゃんはわたしと過ごす時間を何より優先してくれてるし、約束だって一度も破ったことはなかった。
なのに今日、初めてデートの約束が破られてしまった。
――って言っても…この雷雨じゃ仕方がない。
窓に吹きつける雨風と、時折空を青白く染める雷にビクつきながら深い溜息が漏れる。
毎年、夏になる前に訪れる憂鬱な梅雨。
梅雨前線の影響なのか、目を覚ましたら朝から激しい雷雨になっていた。
本当なら今日は蘭ちゃんと昨日公開されたばかりの大ヒットシリーズの新作映画を観に行く予定だったのに。
「…こんな天気じゃ外にも出られないよ…」
窓に張り付いて白く濁った外の景色を眺めながら、そんな愚痴が零れ落ちる。外でデート出来なくても、ワンチャンお家デートなら…と一瞬思ったわたしがバカだった。
強風の影響で横殴りの雨の上に、数秒おきに鳴り響く雷鳴。さすがにこの天候の中、蘭ちゃんの家まで出かけて行く勇気はない。
『危ねぇから今日は家で大人しくしてろ。オレもまた寝るし起きたらすぐ電話するなー?』
今朝、蘭ちゃんから電話がかかってきて苦笑交じりにそう言われてしまった。
明日は晴れるみたいだから映画は明日にしようってことにはなったけど、今日一日蘭ちゃんに会えないのはちょっと寂しい。
そう感じた時、ふと気づいた。
いつの間にか、自分が思ってた以上にわたしも蘭ちゃんを好きになってること。
蘭ちゃんから急に告白されて、追いつめられるような感覚で付き合いだしたつもりでいたけど、実はそうじゃなかったのかもしれない。
付き合う前から頻繁には会っていたけど、もちろん全く会わない時間もあった。でもそんな時でもここまで寂しいと感じたことはあったっけ?
あの頃は幼馴染なんだからいつでも会えるっていう心の余裕がどこかにあった気がしなくもない。
今だって会おうと思えば会えるのは変わらないけど、こうして不可抗力とも言える理由で会えなくなると、やけに心細いと感じてしまう。特にこんな天気なら尚更――。
「ひゃあっ」
窓の外を眺めていたら、突然近くで雷が光った。
子供の頃から雷が極端に苦手なわたしは、それだけで身がすくんでしまう。
その場にしゃがみこんで頭を抱えるのが精一杯だった。
「蘭ちゃん…助けて…」
雷が静まった頃、どうにか足を動かし、ソファの上でクッションを抱きしめながらスマホへ手を伸ばしたのは、蘭ちゃんの声だけでも聞きたいと思ったから。
でも番号を表示しようと思った指先が止まった。
――オレもまた寝るわ。
蘭ちゃんが言ってたことを思い出したからだ。
今、電話したら起こしてしまう。雷が怖いからっていう下らない理由で寝てるとこを起こすのはさすがに躊躇われた。
「ダメダメ…もう子供じゃないんだから雷くらいで蘭ちゃんに泣きついたりしたら――」
と自身を鼓舞するように言った矢先、窓の外が真っ白に光ったと思ったら再び大きな雷鳴が鳴り響いて、わたしはソファから転げ落ちそうになった。
「ひゃぁぁっ」
バリバリバリっという強烈な雷鳴は、いとも簡単にわたしの冷静な思考を削ぎ落していく。まだ午前中だというのに、室内が一気に薄暗くなったのも恐怖心を煽られた。
「もうやだぁ…っ」
あまりの怖さに子供時代と同じ感覚で泣きそうになった。震える手でうっかり落としたスマホを拾うと、先ほど開いた蘭ちゃんの番号へ再び指を伸ばす。
起こしたら申し訳ないと思う気持ちよりも、恐怖が勝ってしまったせいだ。
でも――その瞬間、室内にインターフォンの音が響き渡って心臓がドクンと大きな音を立てた。
「え…誰…?」
こんな時に!と思ったものの、今は新聞の勧誘でもセールスマンでもいい。とにかく誰かと話したかった。
よくよく考えたらこんな天候の中、そんな人達が来るはずもなかったのに。
『!大丈夫かよ?』
「…ら、蘭ちゃん?!」
モニターを見るのも忘れて応答した瞬間、今一番聞きたかった人の声が耳に飛び込んできて絶句した。慌ててモニターを確認すれば、そこには確かに蘭ちゃんが映っている。
「え…何で――ま、待ってね!今開ける!」
何で蘭ちゃんが?と驚いたけど、すぐにオートロックを解除する。その後にモニターを見たら蘭ちゃんはすでにいなかった。あまりの早さに今のは幻?と思ったけど、一分もしないうちに今度は部屋のインターフォンが鳴った。
「蘭ちゃん…やっぱり本物…?」
迷うことなく玄関に走ってドアを開けると、雨に濡れた蘭ちゃんが中へ飛び込んできた。普段は隙がないほどキッチリしてる蘭ちゃんが、傘も持たずにこんな豪雨の中、外に出るなんて異常事態だ。
「大丈夫か?」
「え…?」
すぐにわたしの頭へ手を置いた蘭ちゃんは心配そうな顔で訊いてきた。何のことかと瞬きを繰り返す。
わたしの方が質問したいくらいなのに。
蘭ちゃんはわたしの様子を見て、少し呆れたように苦笑いを零した。
「オマエ、昔から雷大嫌いだったろ。電話切った後からだんだん酷くなってきたからさー」
「え…それで来てくれたの…?この雨の中…?」
驚いて尋ねると蘭ちゃんは気まずそうな顔で視線を反らした。
「今頃泣いてんじゃねえかと思ったんだよ…」
「蘭ちゃん…」
「は昔っから雷鳴るたびにギャン泣きしてたしな」
そう言ってわたしの頬に触れる蘭ちゃんの手は冷たい。
雨に濡れてるせいだ。見れば蘭ちゃんの三つ編みからは水滴が滴っていて、着てるハイブランドのトップスもびっしょり濡れている。
自宅マンションからタクシーを呼んで乗っては来たみたいだけど、車から降りてこのマンションのエントランスに着くまでの間に濡れたらしい。
「あんな短い距離でここまで濡れるとはオレも思わなかったわ」
「そんな…この豪雨じゃさすがに濡れちゃうよ…。あ、待ってて」
濡れてるからといって一向に上がろうとしない蘭ちゃんに声をかけて、すぐにタオルを取りにいく。ついでに今朝沸かしたばかりのお風呂を追い炊きにすると、蘭ちゃんは濡れた髪を拭きながら、すぐにバスルームへ直行した。六月とはいえ、あんなに濡れてたら風邪を引いてしまう。
幸いうちにも蘭ちゃんの着替えは置いてある。それを出して脱衣所に置いておくと、20分後、蘭ちゃんがラフな格好になってリビングへやってきた。
「あったまったわ、サンキュー」
「うん。あ、これ飲んで」
隣に座った蘭ちゃんの前に淹れたてのコーヒーを置く。
普段は風呂上りのビールが好きな蘭ちゃんも、今は温かいコーヒーを飲んでホっとしたようだった。
その姿を見てわたしまで何故か安堵の息が漏れた。
「蘭ちゃん…ありがとね」
「何だよ、改まって」
さっきまで濡れてるからといって、わたしに触れようとしなかった蘭ちゃんも、今度こそいつものように抱き寄せてくれた。蘭ちゃんからはかすかにシャンプーの香りがする。わたしの匂いと同じだから、ちょっとだけ照れ臭い。
「だって…こんな雨の中、来てくれたから嬉しかったし…」
「お、今日は素直じゃん」
なんて蘭ちゃんは笑ってるけど、あの唯我独尊男の蘭ちゃんが、わたしの為だけにこんな豪雨の中を駆けつけてくれるなんて誰が信じられる?
ついそう言ったら、蘭ちゃんは「ハァ?オマエ、オレのことそんな薄情な奴だと思ってたのかよ」とデコピンされてしまった。
「それに前も来てやったことあったろ」
「え…いつ?」
「がまだ実家にいた頃だから…中学ん時じゃね?」
「中学…」
そう言われてふと思い出した。
あれは夏休みのある日。両親が結婚記念日で旅行へ出かけて、わたしが一週間ほど一人になった時のことだ。
中学生とはいっても、まだまだ家に一人でいるのは心細かった。特に夜は自由に夜更かし出来る、なんて浮かれてた気持ちが萎んでしまうほど怖くて、家の中で小さな物音がするだけでビクビクしてたっけ。
それでも3日は我慢できた。
けど4日目の夜。お風呂から上がった時、庭先のセンサーライトが急に付いたことに驚いて、わたしはプチパニックになった。てっきり泥棒が侵入したと思ったのだ。
そこでわたしが真っ先に助けを求めたのは近所の人でも警察でもなく、幼馴染の蘭ちゃんだった。
あの時、何故か蘭ちゃんの顔がパっと浮かんだから。
当時の蘭ちゃんといえば、世間で言う不良まっしぐらのような生活をしてたし、夜なんて当然のように遊び歩いてたはずだ。なのにわたしからの電話にワンコールで出てくれた。あげくパニックになりながら事情を説明したら『泣くなって。すぐ行ってやるから』と言ってくれた。
あの一言がどんなに心強かったか。
本当に10分しないくらいで駆けつけてくれた蘭ちゃんが、あの時のわたしには王子様に――ベタだけど――見えたんだ。
もちろん白馬じゃなく、蘭ちゃんは改造バイクに乗ってきたんだけど。
「は?じゃあ何でそれをオレに言わねえの。ってか普通の女ならそこで惚れんだろ」
「そ、そうかも…」
「しかもさー。オマエ、あの時オレになんて言ったか覚えてるー?」
「え…」
「蘭ちゃん、遅い!っつって大泣きしながらオレのことポカスカ殴ってきたろ」
「そ、そうだっけ…」
ジトっとした目で睨んでくる蘭ちゃんから思わず目を反らして誤魔化すように笑った。
あの時は本当に怖かったから、その辺の細かいところまでは覚えてない。
きっと嬉しかったけど、その感情を上手く表現できなかったんだと思う。
そう考えると、わたしは随分と蘭ちゃんに甘えてたんだなと気づいた。
「あげく泥棒じゃなくて野良猫だったしなー」
「う…そ、そうでした…」
そうだ、思い出した。結局、庭先のセンサーライトが光ったのは庭に住み着いてた野良猫に反応してただけだったことを。
あの時の蘭ちゃんの顔は今も覚えてる。
どこかホっとしたような、それでいて呆れてるような、そんな顔だった。
「あの時、マジでビビったんだよなーオレも」
「え、蘭ちゃんでもビビることあるの?」
「…そりゃ…オマエが泥棒に何かされたらって思ったら怖くなんだろ、フツー」
「…蘭ちゃん…」
「って、今、泣くとこ?」
今になって色々分かってきたら自然と涙が溢れてしまった。それを見た蘭ちゃんは苦笑交じりで濡れた頬を指で拭ってくれる。こういう優しいとこは今も変わらない。
「…そう考えるとわたしは昔から蘭ちゃんに助けられてたんだね…」
「今頃気づいたのかよ」
「ごめん…」
シュンとして謝ると、蘭ちゃんは笑いながらわたしを抱きしめてくれた。この腕の中がこんなにも安心するなんて、あの頃のわたしは知らなかった。
でも、そうか。きっと蘭ちゃんはあの頃からわたしのことを好きでいてくれたのかもしれない。
当時は何で来てくれたんだろう、と不思議には思っても、本当の理由なんて考えたこともなかった。
「ごめんより、オレはからの大好きが欲しいわ」
わたしのホッペにちゅっとしながら、いつもの意地悪な笑みを浮かべる蘭ちゃんは、わたしが思うよりもずっと素直な男なのかもしれない。
きっとあの頃から真っすぐな想いをわたしに向けてくれてた。今ならそう信じられる。
「…蘭ちゃん…」
「ん-?」
「…大好き」
照れ臭いのを我慢してその言葉を口にすると、蘭ちゃんが破顔してもう一度、今度は唇に触れるだけの優しいキスをくれた。
「その言葉を何年待ったことか」
蘭ちゃんがわたしに特別な優しさを向けてくれてた答えは、きっとわたしが考えるよりもずっと単純だったんだろう。
再び重なった蘭ちゃんの唇を受け止めながら、今度は心の中で大好き、と呟く。
蘭ちゃんと一緒なら、苦手な雷雨でも怖くない。
助けを求めたら、蘭ちゃんはいつだって駆けつけてくれると思うから。
「オレがどんだけを好きか分かったー?」
長い長いキスの後、雨音に交じってそんな言葉が耳を掠めていった。