選択はご自由に
重ねる。触れ合う。啄む。食む。
柔らかい感触を楽しむようにの唇を味わっていたら、弱々しい力で胸を叩かれた。
名残惜しい気持ちを残しながら、ゆっくりと合わせていた唇を離せば、抗議したそうな潤んだ瞳と視線が合う。
「何だよ、その目」
「だ…だって…」
「だって…何?」
の腰を更に抱き寄せながら意地悪く問えば、の朱に染まった頬が僅かに膨らんでいく。
「こ、ここ事務所だし…」
「だから?」
「だ、だから…」
の力のない声は尻すぼみで何を言ってるか聞き取れないけど、言いたいことは分かっている。
ここは梵天の持つ高層ビルのひとつであり、事務所であり、にとっても仕事場だ。
そういう場所でこういうことをするのは困る…いや。恥ずかしいってことだろうな、きっと。
でも別に事務所の中で堂々としてるわけでもない。
仕事でココが事務所に来たことでが席を立って事務所内の死角スペースにあるキッチンにコーヒーを淹れに行ったから、俺の分も頼もうと後を追いかけただけだ。
けどキッチンでふたりきりって状況で何もしない手はなく、の髪からふわりと香るトリートメントの匂いだとか、髪をアップにしてることで無武備に晒されてる項を見ていたら、つい抱き寄せてしまって。抱き寄せたら今度はの体温を感じてキスをしたくなった。だから本能に従って唇を重ねた。都合のいいことに兄貴は外出中だし、ココが来てるけどアイツは自分の仕事に夢中だから気づかれることはないのに、にとっては落ち着かないみたいだ。
「…が焦らすから我慢も限界なんだけど」
「……じ、焦らしてるわけじゃ…っ」
「しー。そんなデカい声出したらあっちにまで聞こえんぞ」
唇に人差し指を当てると、は慌てて「ごめん」と呟く。
俺は別に他の誰にバレてもいいけど、は三途の手前、気まずいんだろう。
三途には俺と付き合いだしたことをまだ言えてないらしい。
「え、えっと…ココくんにコーヒー持って行かないと…っ」
「……あ」
僅かに腕の力を緩めた途端、するりとが逃げていく。
そんなに慌てて逃げなくても、と多少へこんでいると、キッチンの入り口から苦笑する声が聞こえて来た。
「…兄貴。帰ってたのかよ」
と入れ違いにキッチンへ入って来た兄貴は、スーツでバッチリと決めている。
今日はどっかのIT会社の重役と大事な商談って言ってたけど、様子を見る限りじゃ上手くいったんだろう。さっき九井が気にしてたけど、この分だとこの後に祝杯あげようぜと言い出すはずだ。
「おー。ちょうど今な?そしたら竜胆が彼女に逃げられてる光景が視界に飛び込んで来た」
「…逃げられてねぇし」
「つーか、オマエら、まーだプラトニックかよ。だせぇ」
「いや、兄貴みたいに付き合う前からやっちまうよりだいぶマシ。つか俺は遊びで付き合ってるわけじゃねぇし。マジだから」
「あ?それは俺がチャラいと言いてぇの?誕生日あんなに協力してやったのに」
兄貴の顏から笑みが消える瞬間を見てしまった。相変わらず、こわ…っ!。
「それは感謝して…る」
「だろぉ?つーか、あの夜のうちに押し倒しときゃいーのに何やってんだよ…はぁ…」
大げさにわざとらしく溜息を吐くと、兄貴は俺の分のコーヒーをサクッと盗んで飲みながら行ってしまった。仕方ないから自分で淹れなおすと、こっちまで溜息が出る。
確かに兄貴の言うように、誕生日の夜は俺だってぶっちゃけその気だった。
けど俺のことを意識すらしてなかった彼女を、いくらOKもらったからといって、すぐに押し倒すっていうのも、それこそチャラいと思われそうで出来なかった。
ついでに言えば、にもなりの事情があったようだ。
と言っても俺からしたらどうでもいい、今はメイクが崩れてるだの、髪がボサボサだのと言い訳を並べ立てられて、そんな空気になればムードも何もあったものじゃない。
そんなの気にしなくてもは可愛いのに、女からするとそう言うのは凄く大事なんだそうだ。
「ああいう女だって知ってて好きになったんだから竜胆の負けだ。諦めろ」
あの夜のことを聞かれたから兄貴に軽く事情を話したら、呆れ顔でそう言われた。
まあ、確かにそうだ。でも出会った時はこんなに好きになるなんて思ってなかったし、むしろ敬遠してたはずなのに。
はまあ物に釣られてるからなのか知らないが、仕事はそれこそ一生懸命やる方だ。
マジで三途の従妹とは思えないほど素直すぎて嫌な顔を見せることもあるけど、やることはキッチリやるし凄く助かってる。だから遅くなった時は夕飯を奢ってやったり飲みに連れて行ったりしてた。
そういうプライベートな時間を共有することが増えて行って、俺はうっかりに惚れてしまったのが、そもそもの間違いかもしれない。
あの三途の従妹ってことで会った時から警戒してたのに、はぶっちゃけめちゃくちゃ可愛いしハッキリ言って俺のもろタイプなのは何の試練だと思ったほどだ。
口説きたいのに口説けない女がずーっと身近にいるのだから、あれこそ悪魔の誘惑だと思う。
まあ、結局我慢できずに自分の誕生日に告ろうと決めてしまったんだけど。
兄貴にはとっくに俺の気持ちはバレバレだったようで、協力してもらったまでは良かったが、今は事あるごとにからかってくるからタチが悪い。
「あ、あの」
「……っ?」
ボケ―っとコーヒーを飲んでいると、不意に声をかけられドキっとした。
声でだと分かったからだ。
慌てて視線を向けると、は照れ臭そうにキッチンへ入って来た。
「どうした?」
またコーヒーでも淹れに来たのかと思ったが、は何やらモジモジしている。
そういう姿も普段とのギャップでたまらなく可愛い。
わざとそんな感じで俺を誘惑してんのか?とバカなことを考えていると、が後ろに回していた手を俺の前に差し出した。
その手にはラッピングされた袋が握られている。それも俺が好んで買ってるブランドの――。
「え…俺に…?」
「…う、うん。遅くなったけど竜胆に…お誕生日のプレゼント…」
「マジ…?」
まさかプレゼントをもらえるなんて思ってなかったから、一瞬で俺の頭の中はバラ色になった。
「あー…サンキューな」
「…うん」
プレゼントを受けとると、は嬉しそうに微笑んだ。
それがめちゃくちゃ可愛いんだから俺もニヤケそうになった。
「開けてもい?」
「…ど、どうぞ」
「んじゃーお言葉に甘えて」
袋から箱を取り出しリボンをするすると解いていく。
中身はネクタイだって分かってるけど、どんなデザインのを買ってくれたんだろうとドキドキしながら開けてみた。
「おー!いいじゃん、カッコいい色。ってか…竜胆色?」
が選んでくれたネクタイは、俺の好きな色でシンプルな柄も俺好みだった。
さすが毎日一緒に仕事してただけあって俺が好んでつけてるものをは分かってたようだ。
「その色…たまたま見つけたから」
「マジ嬉しいわ。ありがとな」
普段言い慣れない言葉を口にして照れ臭いけど、そういう自分も嫌いじゃないと思った。
こんな風に思わせてくれたのもだと思う。
はご飯を奢った時も必ず「ありがとう」「ご馳走様」を言ってくれる子で、そういう当たり前のことを自然に言えるに好感を持ったのが最初のキッカケかもしれない。
あとは飯を本当に美味そうに食うとことか、酒を飲んで甘えん坊になるところとか。
これまで付き合った女でもそれ以外でも、そういう子はいることはいたけど、は他の女と違って色恋沙汰に貪欲じゃなかった。
前に付き合ってた男が最悪だったとかで、多分男にあんま期待をしてないって感じだった。
そういう姿を見ていたら、どうにかして振り向かせてみたくなったのは男の本能かもしれない。
寄ってくる女を適当に受け入れるだけの恋愛に飽き飽きしていたから、つい真剣に追いかけたくなったってのもある。
「あ、じゃあ…仕事戻るね」
そう言って出て行こうとするの腕を強引に引き戻せば、驚いて大きくなった瞳が俺を見上げる。
「り…竜胆…?」
「コレ、付けてよ」
「え…?」
「ネクタイ」
そう言って付けていたネクタイを解いて外すと、の顏がますます驚愕といった色に染まって行く。あげく小動物みたいにワタワタと慌て出す姿は、控えめに言ってむちゃくちゃ可愛い。
「えっと、私、ネクタイ結んだことないし…!」
「…マジ?」
「マ、マジ…」
ということはの過去の男がネクタイをしないやつばっかだったのか。
それか自分でサッサと付けちまうような男だったのかもしれない。
まあ過去の男のことなんて考えるのも胸くそ悪いし、とにかくが初めてネクタイを結んだ男になりたいという欲求が強くなった。
「じゃあ俺が教えてあげるから結んで」
「え…」
そう言ってネクタイを首に回すと、丁度いい長さにして「こんな感じからスタートね」との手を取った。たったそれだけでドキっとしたように俺を見上げるから、俺の頭の中は可愛いが大渋滞を起こしてる。
「これを…こうひねってこうして…」
の手を握りながらネクタイを締めていくと、こっちまで変にドキドキして来る。
これまで女の手なんか飽きるほど握って来た俺が、こんなことでドキドキ出来る男だったのかよってマジでビビった。
「んで、最後にこう…分かった?」
「……んー何となく…」
「もっかいやる?」
「え…」
が目の前で俺を見上げながらネクタイを締めてくれるこの感じがたまらなくて言ってみる。
でもは恥ずかしそうに俯いてしまった。
上から見るの長くてバサバサのまつ毛は、やっぱり三途と似ている。
あんま思い出したくねぇけど。
でも童顔で細身なのに出るとこは出てて、やたらとエッチな体つきだ。
それは以前、酔っ払って寝てしまったをおぶって帰った時に気づいた。
(やべえ…何かエロい気分になってきた)
の全てを意識しすぎたせいで男の本能がジワジワ溢れて来る。
「?やってくれねえの?」
「あ…で、でも蘭さんに仕事頼まれてて…」
「いーよ、そんなの後で。今は俺優先ね」
そう言っての手にネクタイを持たせると、薄っすら頬が赤くなったのが分かる。
そんな顔されると今すぐ押し倒したくなるっつーの。ここキッチンなのに。
その時、事務所の方から「!ちょっと来てー」と兄貴の呼ぶ声が聞こえて来た。
はあからさまにホっとしたような顔をするから、ちょっとだけ意地悪をしたくなる。
「あ、あの行かなきゃ」
「まあ兄貴が呼んでんなら仕方ねーなあ」
「あ、じゃあ…」
「あーでも」
「…でも?」
「ネクタイ締めるか…俺にキスしてから行くか、どっちか選んで」
「えっ!」
ニヤリと笑いながら無茶ぶりをすると、はギョっとしたように俺を見上げた。
「さあ、どーする?」
「で、でもネクタイ、まだ覚えきれてないし、すぐには…」
「って、ことは俺にキスするしかねぇな?」
「…う…竜胆の意地悪…」
心底困ったという顔で口を尖らせるは、すでに可愛いが大渋滞してる俺の頭の中で衝突事故を起こす勢いだ。
けど、俺はどっちかっていうとSだから、好きな子が困ってる顔を見てるのは本当に楽しい。
「さあ、どーすんの?ちゃん」
彼女の腰を抱き寄せ、背中を指でなぞれば、ビクっと肩を揺らす。
どんどん真っ赤になっていく俺の可愛い彼女を、どうにかして欲しい。
「俺はいつでもいいけど?」
挑発するように言って目を瞑る。
彼女がもしキスをしてくれるなら、今夜こそベッドまでさらってしまおうかな。