-16-あなたに届くものが声であればいい⑵



2017年5月。


1.


「うわー綺麗な部屋だね!眺めもいいし」

は部屋に入った途端、はしゃぎだした。でもオレはそんな気分にはなれなくて、酷く落ち着かない。

「オレ、シャワー入るわ」

と一言告げて速攻でバスルームに飛び込んだ。
稀咲の企みで勝手に部屋タイプを変更されてたことをどうするか悩んでいた時、が「わたしは別にダブルでいいよ」と言い出した。何言ってんだと思ったが「昔は千壽と三人で川の字になって寝たじゃない」と笑うは呑気だ。そんなガキの頃の話をされても「はいそうですか」という気分にはなれなかった。はもうすぐ結婚する女だ。なのに渋るオレをは無理やりエレベーターに乗せた。

「オマエ、もうすぐ人妻になる自覚あんのかよ」
「えー?何それ」

は笑うばかりで、この様子じゃオレをすでに男と意識してねえんだろうな、とやけに虚しさを覚えた。

「…クソッ。稀咲のやろー!」

バスルームに入ってからケータイを取り出し、稀咲の番号へかけると、相手は3コールほどで出た。

『もしもーし』
「もしもしじゃねえよ、テメェ、どういうつもりだっ?」

なるべく声を潜めて文句を言えば、稀咲はすぐに笑い声に変わった。背後からも騒がしい声がするから、まだマイキーやドラケン達と一緒に飲んでるんだろう。こんなことならオレもついて行けば良かったと後悔した。

『どういうつもりってオレから春千夜にプレゼントだよ』
「はあ?プレゼントって…」
『オマエさぁ。いつもどういう顔でを見てるか自分で分かってるか?』
「…あ?」

稀咲は急に声のトーンを下げて真面目な口調へと変わった。だからこそドキっとしてしまう。

『未練タラタラって顔してんぞ』
「…っるせぇ…!テメェに関係ねえだろ」
『そうだな。直接は関係ねえよ。でもオマエは東卍の仲間で、彼女はそのチームのマスコット的存在で、オマエやマイキー達の大切な幼馴染だ。オレだってそばで見て来たんだよ、オマエらの不器用な恋愛ごっこ。少しは口出させてくれよ』
「…今更…何したって変わんねーんだよ…っ」

そう、今更こんな場所で二人の時間を過ごそうと、はもう数日後には結婚する身だ。オレに何が出来るってんだ?そう思っていると、稀咲はかすかに笑ったようだった。

『そうか?オマエ、これまで何もしてこなかったじゃねーか』
「…何だと…?」
『オマエなりに考えてしてたことかもしんねえし、あの頃はガキだったかもしれねえけど、オマエは大人になってからも変わんなかったろ。がそばにいても相変わらず幼馴染って態度を崩さねえ。そりゃだってツラくなって他の男に絆されるわ』

稀咲の言葉一つ一つがオレの心臓を抉って来る。全てコイツの言う通りで、オレには返す言葉もなかった。大人になって、への愛情をハッキリ自覚した時でも、オレはその言葉を口にしてやれなかったんだから。

『もうハタチ超えた大人だろ。最後くらい彼女ときちんと向き合ってやれよ。今夜のそれはオレ達から春千夜へ、時間のプレゼントだ。分かったならオレに文句言ってねえでと話せ。じゃーな』

稀咲は言いたいことだけ言うと勝手に電話を切りやがった。でもオレもアイツに何かを言う気にはなれず、ケータイをポケットにしまう。
なるほど。今回の悪戯は稀咲だけじゃなく、マイキー達も了承済みってわけか。

「ったく…おせっかいな奴ら…」

長いことオレ達を見て来たからなのか、最後の最後にこんなサプライズを仕掛けて来るなんて、笑えねえ冗談だ。
バスルームに入ったついでに軽くシャワーを浴びると、バスローブを羽織って部屋へ戻る。稀咲のおかげで、さっきよりは気持ちも落ち着いて来た。

「あ、春千夜。ビール飲む?」

オレが顔を出すと、は窓際のベッドへ座り、夜景を見ながらビールを飲んでいた。

「オマエ、まだ飲んでんの。大丈夫かよ」
「平気だよ。あ、でもわたしもシャワー浴びちゃお」

はオレの手にビールの入ったグラスを押し付けると、フラフラしながらバスルームへ歩いて行く。「コケんなよ」と声をかけると「平気だってば」という声と共に、ドアの閉まる音が聞こえた。

「はあ…と向き合えって…今更どう向き合えってんだよ…」

さっきのと同じようにベッドへ腰をかけ、手にしたビールを一口飲む。そしてすぐに中身を見つめた。

「冷たい…」

が飲んでたっていうから多少は温くなってると思えば、グラスの中のビールはやけに冷えていて。よく考えればグラスを持った際も冷たいと感じたことを思い出す。

「アイツ…」

思わず苦笑が洩れた。きっとオレが出てくる気配を感じてからビールを出したんだろう。そういう細かな気遣いは昔からだ。

「…いい…奥さんになんだろうな」

そんな言葉が零れ落ちて、また胸の奥が焼け付く。このままが灰谷と結婚するのを見ていることしか出来ないなんて歯がゆくて仕方ない。

――最後くらい彼女ときちんと向き合ってやれよ。

稀咲に言われた言葉が何度も脳内で再生されて、オレは頭を掻きむしるとビールを一気に飲み干した。とこうして二人きりになれることなんて、この先もうないかもしれない。今はオレも千壽も武臣と住んでた家を出て互いに一人暮らしをしている。でもは灰谷と婚約して以降、その部屋には来なくなった。当然だ。幼馴染の飯を作るより大事な恋人に飯を作ってやりたいだろうし、あの灰谷がオレの部屋にが出入りするのを許可するはずがない。だから最近に会うのは殆どが外だった。こうして室内で二人きりになるのは久しぶりで、その時間がどれだけ貴重なものだったのか、今更ながらに思い知らされていた。
その時、バスルームの方でガタンっという音と何かが落ちる音が聞こえて来て、ハッと我に返った。

「…?どうした?」

言いながらもの足がふらついていたことを思い出し、オレはすぐにバスルームへ向かった。気にすることなくドアを開けると、は「きゃっ」という声と共に、着ていたバスローブの前を合わせて腰ひもを結び始めた。

「わ、わりぃ。物音したからコケたのかと思って」

慌てて後ろを向くと、は「…う、ううん」と応えながら「もう着たよ」とひとこと言った。

「ごめんね。お風呂から出たらフラついて棚に寄り掛かっちゃったの。そしたらアメニティグッズ落としちゃって」
「どっかぶつけたか?」
「ううん、大丈夫」

はそう言ってオレの背中を押すと、「わたしもビール飲んじゃお」と冷蔵庫の方へ歩いて行く。その腕を思わず掴んでいた。

「…春千夜?」
「…フラついてるし飲まない方がいいんじゃねえの」
「大丈夫だよ。もう寝るだけだし…明日のチェックアウトはお昼でしょ」
「まあ…そうだけど」

言いながら手を放すと、は「春千夜の心配性」と笑いながら冷蔵庫を開けた。

「はい、春千夜の分」
「おー」

は新しいビールを出すとオレのグラスに注いでくれる。でも自分はいつものようにそのまま缶ビールへ口をつけた。それを見ていて、やっぱり最初のビールはオレの為かと確信した。潔癖気味のオレがそのまま口をつけないことをはよく知っている。缶ビールをいつもグラスに注いでから飲んでることも。

は…オレのこと何でも知ってんだよな…」
「…え?」

二人で並んでベッドへ腰をかけながら名古屋の夜景を見ていると、ふとそんな思いが過ぎる。これまで色んな女と適当につき合って来たが、オレの全てを理解してくれるような女は誰一人いなくて。それが出来るのはしかいないことを、オレは忘れていた。

「…オマエ、マジで結婚すんの」
「え、どうしたの?急に」

オレの問いにが驚いたように顔を上げた。ふと視線を向ければ、戸惑い顔の彼女と目が合う。
灰谷との結婚話を聞いてもなお、オレがに自分の気持ちを伝えられなかったのは、今更だと思ったからだ。婚約したという彼女に今、自分の本心をぶちまけたところで結果は何も変わらない。その上を悩ませてしまうんじゃないかと思ってた。でも、そんなものは綺麗ごとだ。オレは、婚約が決まったに想いを告げて拒否されるのが怖かっただけだ。そんなオレの弱さを、きっとマイキーや場地達は痛いほど理解してくれてたんだろう。アイツらがを諦めたのは、の気持ちがオレにあると十分に分かっていたからだ。結局、オレも、アイツらもから拒否されんのが怖くて本心を伝えることが出来なかった情けない男だったってわけだ。

「答えろよ。マジで灰谷のこと…好きなのか」
「…春千夜?」

は驚いたようにオレを見つめて、やっぱり戸惑いながら瞳を揺らした。オレがこうしての気持ちを確認するのは初めてだったからかもしれない。
彼女は困ったように視線を反らして、また目の前の夜景を見つめた。

「好きだって…言ったら?」
「あ?」
「好きだって言ったら……春千夜はどうするの?」

オレの方を見ないまま、がポツリと呟く。その横顔がやっぱりどこか寂しげで、結婚前の幸せいっぱいな様子には見えなかった。

「…どうする気もねえよ。ただ…」
「…ただ?」
「このままが結婚して、でもオレは何も変わらず平然としてんのは不公平だと思うから言うわ」
「…え?」

ふと隣のを見下ろせば、彼女もオレを仰ぎ見る。初めて会った日から今日までの思い出が、一瞬で脳裏を駆け巡った。
不良から助けたこと、毎日の食事と弁当を作ってもらったこと、キスをされたこと、泣かせたこと、怒らせたこと、いっぱいの大好きをもらったこと――

「…オマエが好きだ」

――その全てがオレの中で、今も色褪せない大切な思い出だ。

「昔も今もずっと、オレにはだけが大切だった。それはオマエが結婚してからも変わらねえし、変える必要もねえって思ってる」
「…春…千夜…?」
にばかり言わせて来たけど…最後くらいオレも本心を言わなくちゃ不公平だろ。だから…あの頃言えなかった気持ちを伝えたかった。でもオマエを悩ませたいわけじゃねえ――」

と言いかけた時、が思い切り抱き着いて来た。その重みで自然と体が傾いて、ベッドの上に倒れ込む。空になっていたグラスが手から離れて、床に落ちる音が聞こえた。

「おい――」
「ズルいよ、春千夜…」

オレの胸元に顔を埋めたの声は、かすかに震えていた。

「……ああ」

ズルい、か。確かにそう言われても仕方のないことをした。でも最後くらい、オレも自分の心に素直になりたかった。

「…今更そんなこと言われても…」
「分かってる。言ったろ?オレはオマエを悩ませたいわけじゃねえって。は…今まで通りでいろ。オレもそうする。結婚したってオレ達は変わらない。そうだろ?」

震えている細い体にそっと腕を回して抱きしめると、そのまま上半身を起こした。ベッドの上で重なっていればどうしたって変な気分になってくる。結婚前の花嫁を襲うなんて洒落にもならない。そう思って体を離そうとした時、の手がオレの胸元をぎゅっと掴んだ。

…?」
「あのね。春千夜…わたし――」

がふと顔を上げて、至近距離で目が合う。その瞬間、の瞳が大きく見開かれて、オレの鼓動が大きく跳ねた。一時の気の迷いとかそういうものじゃなく。本当に自然に、オレは自分の唇を寄せていた。

「ん…」

重ねるだけの口付けに一瞬で全身が熱を持つ。やめろと頭では思うのに、止められなかった。

「ん…、春…千夜…」

触れあうだけのキスが、少しずつ深いものへ変わって、角度を変えながら何度もの唇を啄む。だけど、胸元を掴む彼女の手に力が入って名前を呼ばれた時、ふと我に返った。

「…悪い」

思わず口をついて出た言葉に、はドキっとしたように首を振った。泣きそうなその顏を見て、一気に後悔という思いがこみ上げて来る。自分の気持ちを告げたのはと過ちを犯すためじゃない。

「……オマエは何も悪くねえから…灰谷には何も言うな」
「春千夜…」

それだけ言うと、オレはベッドの端へ移動して布団の中に潜り込んだ。これ以上と顔を突き合わせてたら理性が持たない気がした。
少しするとが反対側に寝た気配がして「お休み…」という小さな声が聞こえた。オレもお休み、と返してに背中を向ける。長年の秘めた想いを告げたことは間違いだったのか、それとも正しかったのか。今はもうよく分からなくなった。でも一つ言えるのは、を傷つけたかったわけじゃない。灰谷を、裏切らせたいわけでも――。