-18-全ては君の為に



2007年5月――。



名古屋から東京に戻って来たのは午後3時を少し過ぎた頃だった。夕べの気まずさから、移動中の新幹線でも特にと会話をすることなく。ただボーっとした時間だけが過ぎていった。東京駅は相変わらず人でごった返していて、ウンザリしつつも、がちゃんとついてきてるか時々後ろを確認する。いつもなら余計なことまで話しては一人で笑ったりする彼女も今は終始無言だ。

(やっぱ…今更感満載だったよな…夕べのアレは)

ほぼ自己満足みたいになった告白を、がどう受け止めたのかは分からない。でもコイツを動揺させてしまったことだけは確かだ。狙ったわけじゃないけど、キスをしてしまったのは間違いだった。
オレの中で灰谷からを奪うなんて選択肢はない。それは婚約者である灰谷に気を遣ってるわけではなく、に婚約した相手を裏切らせたくないからだ。を悪者にしてまで自分のものにしたいとは、どうしても思えない。だからこれまで通り、オレは彼女と幼馴染という関係のままいようと決めていた。

「…じゃあ。ここで」
「うん」

何となく疲れたこともあり、東京駅からタクシーに乗ってを家まで送り届けた。彼女が大学を卒業後に住み始めたマンションは、ごくありふれた4階建ての建物で、オートロックなんて機能も、エレベーターもない。だから3階にあるの部屋までは階段で上がっていかなければならず、引っ越し当初はオレが面倒くせえと文句を言うたび、「運動になるからいいの」と強がっていたことを思い出す。でも結婚したら、は灰谷の持つセキュリティのしっかりしたタワーマンションで暮らすことになるんだろう。

「じゃあ…次はオマエの結婚式の日だな」
「…そ…そうだね」
「はっ、緊張してんの」
「そ、そりゃあ……人生初めての経験だし…」
「まあ、そんなに何度もあっちゃありがたみもねえしな」

ヴァージンロードとはよく言ったもので、はもうすぐ灰谷の為にそれを歩くんだなと思うと、胸の奥がざわついた。でも今更どうしようもない。オレがすべきことは終わったんだ。

「じゃーな。当日寝坊すんなよ?」
「わ、分かってるよ…」

は拗ねたように頬を膨らませ、そっぽを向いた。こんなやり取りも昔のままだけど、もうすぐ出来なくなるのかなと思うと、不意に寂しさが過ぎる。でも誰のせいでもない。を永遠に失うのは愚かだった自分のせいだ。

「じゃ…結婚式場で」
「う、うん…じゃあ…ね」

名残惜しい気持ちを隠しつつ、オレが再びタクシーに乗り込むと、は軽く手を振って自分のマンションへと入っていく。次に見るのは、三ツ谷の作ったウェディングドレスを着た彼女だ。

「出して下さい」

運転手に告げてシートに凭れ掛かると、一気に疲れが押し寄せて来た。結婚式でオレはにきちんと「おめでとう」と言ってやれるんだろうか。そんなことを考えているとポケットの中のケータイが震動した。表示を見ればそこには千壽の名前。溜息一つ零してから電話に出ると『今日、配信の日だけどネタ考えてある?』と開口一番、訊いて来た。

「あー…いや」
『ハァ?ないのー?マイキーのレース観に行ったんでしょ?何か面白ネタとかなかったのー?』
「うるせぇな…テキトーに喋ってりゃいーだろ、あんなもん」
『もー。じゃあ早くウチ来てよ。ジブンが考えるからー』

そこで唐突に電話が切られ、思わず舌打ちが出る。年々アイツもクソ生意気になってきた上に、配信でちょっと「可愛い」ともてはやされてから調子に乗ってるんだからウゼェ。あのバカを調子づかせた視聴者をちょっとだけ恨めしく思う。

(はー…配信って気分じゃねえんだけど…)

ウンザリしながら溜息を吐くと、行き先を変更して千壽の家に向かった。千壽のマンションはオレのマンションからも歩いて数分のところにある。配信のおかげで収入が上がったからからか、1LDKのマンションから今の3LDKマンション、オートロック付きに引っ越して来たのが一年前。生意気にもオレんとこより家賃が高い。あんないつ廃れていくかも分からない職業で食ってく気なのかと驚いたものの、千壽は兄貴の友人のワカやベンケイが務めているジムでも働きだし、少しだけ安心したとこだ。昔から格闘技が好きだったから、そっちの仕事も楽しいらしい。

(そういや…千壽には報告しねえとな。に告ったこと)

昔から「と結婚して」と事あるごとに言ってた妹には謝らないといけない。千壽はのことが大好きだから、オレと結婚したら「が自分の本当のお姉ちゃんになる」と言って期待してたとこがある。だから今回のことを話したら確実に落ち込むだろう。でもこればっかりは仕方ない。そう思っていた。なのに―――。



「は?卒業?」
「そ、知らない?ハル兄」
「いや…知ってるけど…」

千壽のマンションに行き、名古屋でに気持ちを伝えたことを話したら、千壽は「デカした!」と大喜びしたものの、何の進展もなかったと知って案の定ガッカリしていた。でもすぐに復活して意気揚々と話し出したのが、卒業という映画の話だ。他の男と結婚式を挙げようとする彼女を、恋人が式場から連れて逃げるというラストシーンが有名な作品なのはオレでも知ってる。見たことねえけど。

「まさかアレをオレにやれって?」
「その通り!ロマンティックじゃなーい?をハル兄が式場から掻っ攫う!最高のエンディングだし!ジブン、カメラ回すから動画にしよ!ハル兄のファンが確実に減るかもだけど」
「……バカか。人の色恋ネタで動画作るんじゃねえよ!現実として考えろ。そんな映画やドラマみたいなことやる人間がマジでいると思ってんの」
「え、ここにいるじゃん」
「……はあぁぁぁ」
「む」

あっけらかんと応える千壽を見てると、深い溜息しか出ない。だいたい映画はアレでハッピーエンド風に終わって二人が幸せになって良かった的な空気だったんだろうが、じゃあ置いてかれた新郎のその後はどうなったんだと思ってしまう。招待していた家族や親せき、友人、その他もろもろ。花嫁に逃げられ、周りへの説明から式場への説明。想像するだけで悲惨だ。その新郎は一生消えない傷を負わされたようなもんだ。主人公二人の目線で言えばハッピーエンドだろうが、ちょっと視点を変えて見れば、また違った景色が見えて来る。映画はそれでいいのかもしんねーけど、現実の話ともなるとそう簡単にはいかない。灰谷が恥をかこうがオレはどうでもいいけど、逃げたが世間から責められるようなことはさせたくない。

「…ハァ。ハル兄って元不良のクセに変なとこ真面目~」

ソファでゴロゴロ転がりながらクッションをぶつけてくる千壽には、さすがにカチンときた。

「あ?真面目とかの話かよ」
「ハイハイ…がそれだけ大切って話でしょ?だったら何でもっと早く行動しとかないのかなー」
「…うっせぇな、テメェ。終わった話をいつまでもネチネチ言いやがって」
「え、ちょっとどこ行くの?ハル兄!」
「帰るんだよ!」
「は?配信は?!」
「んなもんやる気分じゃねえ。テメェで勝手にやってろ!」

イライラして千壽の部屋を出ると、オレはそのまま歩いて自分のマンションへと向かった。自分でも分かってることをしつこく言われるのも、勝手にを連れされとか煽られんのもウンザリだった。

「…クソが。何が卒業だ…」

式場から連れ去る?そんなことが出来るなら、夕べを強引にでも抱いてる。無理やり抱いて自分のものにして、灰谷との結婚なんかやめちまえって言えてるっつーの。でも自分勝手な想いでを傷つけるくらいなら諦めた方はよっぽどマシだ。

は灰谷のことが好きだと言ってた…。もうオレの出る幕はねえよ)

後はが幸せになってくれればそれでいい。例えを幸せにする男が、死ぬほどムカつく男であっても、アイツを大切にしてくれるなら、オレは喜んで諦めてやる。
この時は、本当にそう思っていた。
結婚式前日に、あんな場面を見てしまうまでは。




2.

この日、オレは千壽に頼まれ、渋谷の高級ホテルに来ていた。千壽のバカが明日のの式に着ていくパーティドレスをまだ選んでないとかで、見立てて欲しいと言われたからだ。

(ったく千壽のヤツ…前日になってコレだ。どんだけ呑気なんだっつーの)

なかなか顔を見せない千壽にも苛立ちながら腕時計を見る。夕方6時、ホテルロビーでってメッセージが来てたのに6時を過ぎても来やしねえ。時間にルーズな奴はマジでイライラする。しかも自分で誘ってきたクセに連絡もなく遅れるのは頭ん中どーなってんだと言いたい。

「クソうぜぇ…帰るぞ、マジで」

アイツが怒ろうと知ったこっちゃねえ。明日のドレスも自分でどうにか選ぶだろ。10分を過ぎたところで限界が来て、オレは帰る為にエントランスに向かって歩き出した。

「あ…?」

その時、フロントから歩いて来る男女に目が向いた。その二人はロビーに大勢いるホテルの客の中でも一際目立っていたからだ。スラリとした身長、高級そうな服や靴。そして美男美女。二人は仲良く腕を組みながら楽しそうに会話をしていて、どう見てもカップルにしか見えない。そしてオレは男の顔に見覚えがあった。いや、見覚えどころの話じゃねえ。男の方は完全にオレの知り合いであり、の婚約者である――灰谷蘭だった。

「は…?何してんだ、アイツ…」

あまりに信じられないものを見ると、人は一旦、熱が下がる。でもそれは嵐の前の静けさにも似た鎮静。灰谷はオレが見ていることにも気づかず、彼女らしき女の腰を抱いてエレベーターホールへと歩いて行く。どう見ても訳アリ・・・な関係にしか見えない。現に灰谷の手にはホテルの部屋のキーがしっかり握られている。100歩譲って、腕を組んでるのが仕事関係の相手をエスコートしてるんだとしても、ホテルの部屋でする商談なんかないはずだ。オレはゆっくりと二人の後ろを追いかけながら、何かの間違いであって欲しいと願っていた。だけど――。

「ねえ、蘭ちゃん、今夜は泊まれるの?」
「もちろん。仕事は終わらせてきたし、朝まで一緒にいられる」
「ほんと?嬉しい!」

女がはしゃいだように言って灰谷の腕にしがみつく。二人はエレベーターホールまで行くと、スイートルーム専用のボタンを押した。何が何だか意味が分からない。この男は明日、と結婚式を挙げるというのに、その前日に女とホテル?いったい、どういう神経してたらそんな酷いことが出来るんだ?そう思ったら腹の奥底から沸々と怒りが湧いて来た。そして次の瞬間、決定的なことが起きた。優しい笑みを浮かべながら身を屈めた灰谷は、自分にしがみついてる女に、キスをした。オレの中で何かが音を立てた。

「テメェ、灰谷!!」
「―――ッ?」

怒りのまま拳を振り上げ、振り向いたヤツの頬を思い切り殴りつけると、隣にいた女が悲鳴を上げた。灰谷はよろけながらも体勢を立て直すと、オレを見て驚いたように目を見開いている。

「明司…テメェ…」
「どーいうつもりだよ、灰谷!この女誰だ!」
「アァ?オマエに関係ねえだろ。いきなり殴りやがって――」

唇を切ったのか、口から垂れた血を拭いながらオレを睨んで来る。そのまま灰谷の胸倉を掴んで壁に押し付けると、周りがざわつくのが分かった。

「関係あんだよ…テメエ、と結婚すんだろ?!なのに何でこんなことしてんだよっ」
「別に独身最後の日に何したっていーだろ」
「いいわきゃねーだろが!マジで言ってんだったらぶっ殺すぞ、灰谷っ!」
「ハァ?じゃあ言わせてもらうけどさぁ。だってオマエと同じ部屋に泊ってんじゃん。それってどうなん?」
「……何?」
「先月、オマエら名古屋に行っただろ?そん時、同じ部屋に泊ったろ。それってオレがしてんのと変わんなくね?」

肩を竦めてヘラヘラ笑う灰谷を見てカッときた。何であの夜のことをコイツが知ってんのか分かんねえ。でもオレは何も言い返すことが出来なかった。何もなかった、と言えば嘘になるからだ。

「分かったなら放せよ」

灰谷はオレの手を振り払うと、乱れたスーツを直しながら女の方へ歩いて行く。

「ごめんなー?昔の仲間に絡まれただけだから気にすんなよ」

そう言いながら女の肩を抱いてエレベーターへと乗り込む。最後にオレを見た灰谷はニヤリと笑みを浮かべた。

「心配すんな。明日の式はちゃーんと挙げるから」
「……っ?」
は従順だからオレが遊んでもなーんも怒らねえし、いい子だよなァ?マジで」
「テメェ…!」
「結婚したらオマエの分までちゃーんと可愛がってやるから心配すんな。じゃーな」
「待て、オイ!」

ひらひらと手を振りながら灰谷はエレベーターの扉を閉じた。頭が混乱して何がどうなってるのか分からない。のことが本気で好きなら絶対にこんな最低なことはしないはずだ。でも、あの夜のことを知られてこんなことになってんなら、全てオレのせいなのか?

「クソ…っ」

踵を翻してホテルを飛び出すと、オレはのマンションへと向かった。こんな結婚なんてやめろ。そう言うつもりだった。が幸せならと諦めたはずの想いが、再び再燃するかのように胸を疼かせる。あの日、あの夜。元気のなかった原因はこれだったのか。本当はあの夜のことがなくても、前から似たようなことを灰谷はしてたのかもしれない。それを知っていてが我慢をしていたとしたら――。
オレはもう、を諦めるつもりはなかった。