分かってる。こんなんじゃエクソシスト失格だってこと。
でも襲ってくるこの感覚から逃れられない。
「おい……大丈夫か?」
「うん……。もう少し休めば何とか……」
そこでまた吐き気が襲ってきて慌てて口を抑える。
神田は何も言わず、黙って背中を擦ってくれていた。
「ゴメン……。迷惑だよね……毎回」
「もう慣れた」
「ホント、ゴメンね」
「いちいち謝るな」
呆れたように溜息をつきながらも、それが神田の優しさだって知ってる。
一緒にコンビを組む事が多いからアクマとの戦いの後、私がどうなるかというのを一番知ってるのは彼だ。
「はあ……。もう大丈夫みたい……ありがとう」
「おさまったのか?」
「……うん、何とか……」
体を起こす私を心配そうに見ていた神田は「そうか」と、ホっとしたように息を吐き出した。
「思ったんだが……」
「ん?」
「それ……お前のイノセンスの後遺症じゃないのか?」
「……後遺症?この"つわり現象"が?」
「つわり言うな!」
神田は目を吊り上げて怒鳴った。
ちょっとした冗談なのに、と苦笑しつつ、神田のすぐムキになるところが私は面白いと密かに思ってる。
でもこれ以上、ふざけたら本気で怒られるだろうな。
「力の使いすぎで気持ち悪くなるって事?」
「……ああ。違うのか?」
「…………」
神田は真剣な顔で訊いて来た。
多分アクマとの戦闘後、必ず吐き気に襲われる私を、彼なりに心配してくれてたのかもしれない。
「お前の力はオレから見ても強力だ。数がいてもそれほど問題なくお前一人で倒せるくらいにな……。だから後でそんな風に――――」
「……違うよ」
「違う?」
「これはイノセンスの後遺症というより……心の後遺症、かな?」
「心……?どういう事だ」
訝しげな顔で、神田は私の隣に座った。雨はすでにやんでいて、今は闇夜が町を包んでいる。
さっきまでの戦闘が嘘のように静まりかえった町の中はアクマたちの攻撃で破壊され、ボロボロだ。
それを生き残ったファインダーの人たちが片付けてくれているのを見ながら、私は溜息をついた。
「過去の……古傷のせい」
「……過去?」
「……ブックマンがそう言ってた」
「……どういう事だ?」
「人間が通常生活している時には起こらないような生死にかかわる緊急事態を体験したり、目撃した経験があるとなりやすい心の病だって」
「……心の病……」
「そう。私の場合……。さっきも話したように両親がアクマになって、それに襲われたってとこからきてるみたい。私のこの症状はトリガー。
つまりあの時のことを思い出させるもの……。アクマやアクマと戦う状況がこの症状を引き起こしてるってブックマンが言ってた」
「……それは…治らないのか?」
「……人によって違うみたい。通常は一ヶ月ほどで治る人もいるし、もっと長引く人もいる。私みたいにね」
軽く肩を竦め、なるべく明るく答える。
神田は戸惑うような顔をしながら軽く息をついた。
「もしかして……他にも症状があるのか?」
「うーん……フラッシュバックとか、悪夢とか睡眠障害かな。酷い人は対人恐怖や引きこもりって症状も出るみたい。他にもパニック障害とか――――」
「ま、まだあるのか?」
「人それぞれ出る症状は異なるから……。私は今のトコ表立って出るのは……悪夢見たり吐き気が一番ヒドイかな」
「お前が夜中、時々起きてくるのはそれが原因か?」
「……知ってたの?」
「……まあな。お前の部屋はオレの部屋と近いだろ」
神田はそう言って顔を反らした。相変わらずの態度に思わず笑みが零れる。
「何がおかしい……」
「別に。でも……エクソシストになってからは忙しくて寝不足になってる暇もないから大丈夫だよ」
「……大丈夫じゃねーだろ。さっきもゲ〜ゲ〜吐いてたんだから」
「……ゴメン」
「別に責めてねえよ。でも……悪夢は分かるが何で吐き気がでるんだ?」
私は雲に覆われた空を見上げながら、大きく息を吸い込んだ。
正直言うとまだ少し息苦しい。そこらじゅうにアクマのいた痕跡を感じるから。
「……アクマを倒す瞬間ね。どうしても両親とだぶって見えちゃうの」
「…………ッ?」
「これはお母さんじゃない、お父さんじゃないって分かってるのに……。ほら、アクマってレベル1はどれも似たような形態だから――――」
「もういい……」
「え?」
「それ以上言うな」
「神田……?」
神田は怒ったように立ち上がると私に背を向けた。
(もしかして何、弱音吐いてんだ、とか怒ったのかな……)
なんて思っていると、そこへファインダーの人たちが神田を呼びに来た。
「すみません!向こうにも何人か倒れている人が……!手を貸してもらえませんか」
「分かった」
「待って、神田……。私も一緒に――――」
「はまだ休んでろ。ツライんだろ?」
「……でも――――」
「この先まだ長い。体力を温存しとけ」
神田はそれだけ言うとファインダーの人たちと歩いて行ってしまった。
取り残された私は再びその場に座ると、思い切り溜息をつく。
何だか自分だけが役立たずのような気がして、少しだけ落ち込んだ。
いや、ホントは分かってる。神田は私の体を心配して、ああ言ってくれたんだってこと。
でも結局、戦闘後は動けなくなって迷惑をかけてしまっている自分に情けなくなるのだ。
「はあ……ダメダメね……」
自己嫌悪に陥り二度目の溜息をつくと、私はもう一度、水を飲んでから軽く息を吸い込んだ。
あれだけ吐いたのにまだ少し気持ちが悪い。
コレじゃ先が思いやられる、と思いながら何度も深呼吸をした。
神田に言った事は本当だ。私はアクマを壊す瞬間、いつも父と母の顔を思い出してしまう。
優しかった笑顔、そして……母がアクマへと変貌した時の光景……。
アクマたちを壊すその瞬間、私はまるで、二人を殺したような感覚になる。
そして不意に襲ってくる喪失感……。それが吐き気となって現れる。私の…心の傷。
いつになったら消えてくれるんだろうと思いながら今日まで戦ってきたけど、これじゃパートナーになる人たちに迷惑をかけてしまう。
エクソシストとして生きると決めたのだ。これを克服しなければアクマと戦えない。
(ブックマンの言うように一度カウンセリングを受けてみようか……)
そう思いながらもう一度水を口に含んだ。その瞬間――――視界が突然、変化した。
「――――ッ」
(何……これ。視界が……深い、深い緑……?こんなの初めてだ……。アクマじゃない。でも何かが……こっちに近づいてくる)
"危険……。ここにいては危険…"
私の中のイノセンスがそう告げている。ここにいちゃダメだ――――。
そう思って立ち上がった時には、すでに遅かった。
「あれぇ?生きてる人間がいたんだ」
「――――ッ?」
「しかも、女の子だ」
その声に金縛りにあったように体が動かない。
気づけばその声の主は私の目の前に立っていた。
「おまけに、すげー美人!」
「…………」
ロングハットにタキシード姿のその男は、にこやかな笑みを浮かべているのに恐ろしいほどの殺気をまとっている。
スラリとした長身で整った顔立ち。この男はアクマじゃない。――でも、危険だ。
「君、名前は?ここの町の子?」
「……あなたこそ……誰?」
「オレ?オレはただの通りすがりで……って言うか、この寒空にその格好じゃ風邪引くよ、お嬢さん――――」
「近寄らないで!」
一歩、近づく男にそう叫ぶと、瓦礫の中に脱ぎ捨てたままの団服を見た。吐く時に汚れると思って脱いだままだった。
この男はそれに気づいていない。何となく男には教団の人間だとバレない方がいい気がした。
「そんな怖い顔で睨まなくても何もしないよ。ただブラウス一枚じゃ風邪引くといけないし――――」
「……あなたは誰?ここで何してるの」
肩を竦めて笑う男に問いかける。アクマじゃないのにどうしてこんなに危険な匂いがするんだろう。
(神田を呼んだ方が……ううん、その前に私が――――)
視界は未だに深い緑色のまま。アクマ以外にも反応するなんて、正直驚いた。
でもアクマ以外のものっていったい――――?
「そんなに怖がらないでよ。ここに来たのはホント、ただ通りかかっただけ」
「…………」
その時、苦笑交じりで応える男から、さっきまで異様なくらいに放ってた殺気が消えた。
その瞬間、私の視界も元に戻っていた。
ワケが分からず、それでも私は警戒しながら一歩、後ろヘあとずさった。
「あなた……人間?」
「……へ?」
思い切ってそう切り出した私の言葉に、男は目を丸くしてすぐに噴出した。
「ああ……よっぽど怖い思いしたんだね」
「……え?」
「さっき変なのに町が襲われてたみたいだし、警戒するのも仕方ないか」
男はそう言ってグルリと辺りを見渡した。
「変なの」とはアクマのことを言ってるんだろうか。
アクマを見たのにこれほど平然としている人間を私は見た事がない。――こいつ、やっぱり敵か?
「……あなたは怖くないの?」
「オレ?オレは……怖いものなんてないよ」
「…………」
"アクマを恐れない人間"
彼はどう見ても普通じゃないように見える。まるで正体が見えない。
危険だ、とイノセンスが伝えてるのに、敵かどうかも分からない。
一瞬、何かの力を持つ人間なら同じエクソシストかとも思ったけど、仲間を見てこんな風になった事はないし、これほど危険だと感じた事もない。
「ああ……もう夜明けか」
「…………ッ」
「残念だけどそろそろ行かないとな」
「……どこへ?」
「ちょっと仕事でね。人探しの途中なんだ。君は……大丈夫?こんなところに一人でいて」
「…………」
何となく仲間がいる事は言わない方がいいと思った。
男は黙ったままの私を見て小さく溜息をつくと、ゆっくりと自分の着ていたジャケットを脱ぐ。
「名前くらい聞きたかったんだけどね。これ以上怖がらせてもいけないし……」
「――――ッ」
それは一瞬の事だった。
気づけば肩にジャケットがかけられていて、男は優しい目で私を見下ろしていた。
この動き、やはり只者じゃない。
「思ったとおり、綺麗な瞳だ」
男はそう呟くとニッコリ微笑んで、私の頭にそっと手を乗せた。
「また、どこかでお会いしましょう。瞳の綺麗なお嬢さん」
そう言って男は私の前から姿を消した。
私の肩にジャケットと、かすかな煙草の残り香を残して。
「…………ッ」
男の気配が消えた時、全身の力が一気に抜けて、私はその場に崩れ落ちた。
冷や汗が首筋を伝い、深く息を吐く。
自分がどれだけ緊張していたのか、男が消えて改めて気づいた。
「何なの……?アイツ……」
後ろを見ても、そこにはもう誰もいない。
闇から現れ、夜明けと共に姿を消した怪しげな男は、まるで蜃気楼のように消え去った。
どう見ても人間なのに何故あれほど恐怖を感じたのか、自分でもよく分からない。
私の目はいったい何を感知してたんだろう?
「おい!」
「――きゃっ」
そこへ神田の声が飛んできて、思わず飛び上がった。
「何してんだ。そんなとこで……って、それは何だ?」
神田は私がうずくまってるのを訝しげに見ながらも、肩にかけられてるジャケットに気づき眉間を寄せた。
一瞬、さっきの男の事を話そうと思ったが自分でもどう説明していいのか分からない。
「……通りすがりの人が貸してくれたの。風邪引きますよって……」
「はあ?何だそれ……。この町の奴か?」
「……違うみたい。仕事で人探してるって言ってた」
「……仕事?ったく……。知らない奴と話すなよ。もしアクマだったらどーすんだ――って、なら分かるか……」
「うん。大丈夫。優しい人だったから」
――――優しい人?
自分で言って違和感を覚えた。
確かにジャケットを貸してくれたとこを見ると、私が風邪を引かないように、と気を遣ってくれたんだろうと思う。
でも最初は強い殺気をもって私に近づいてきたのだ。そう考えると、よく分からなくなってきた。
そもそもあの男は実際にいたんだろうか?疲れて幻でも見たんじゃないか。
ふと、そんな気にさえなってくる。
でも現実、彼の貸してくれたジャケットはここにあるし、幻というのはありえない。
「どうでもいいが……。動けるなら行くぞ。ファインダーの奴らも待ってる」
「……うん」
神田の言葉に私はすぐ男のジャケットを脱いで団服に着替えた。
「それ、持ってくのか」
「うん。捨てるのも悪いし……もしまた会った時は返せるでしょ?」
「もう会わないだろ?」
「……そうかもしれないけど……。またお会いしましょうって言ってたし……」
そう言って荷物の中に男のジャケットをしまう。
何となくあの男とはまたどこかで会うような、そんな気がしたのだ。
神田は呆れたように溜息をついたが、それ以上その事には触れず「体は大丈夫か?」と聞いてきた。
「うん。もう大丈夫」
「なら行くぞ。ここから奇怪のある町まで、まだ二日はかかる」
神田はそう言って私の頭をクシャリと撫でると、ファインダーの待つ方へと歩き出した。
それについて、私も歩き出す。
(目の事も教団に帰ったらへブラスカに聞いてみよう……)
そう思いながら、早く来いと叫ぶ神田の後を急いで追いかけた――――。