中国大陸に入って四日目。
「――――ラビ､伏せてください！」
と、街に向かって歩いていた時､アレンが普通に言った。ラビが「へ？」と意味を理解する間もなくマヌケな返事をした瞬間。
アレンの対アクマ武器がラビの立っている方向に凄い勢いで発射された。
「……どわさ？！」
ドドド……っという砲弾の音と共に､ラビはすんでのところでそれを回避したが、アレンは気にする事なくアクマを一体、二体、と破壊していく。
「5､4､3､2……」
冷静に数を数えながらアクマを撃っていく。だが最後の「1」を数えた時、頭上からラビの声が聞こえた。
「火判！！！」
ラストの一体はラビの対アクマ武器で破壊され､跡形もなく燃えて朽ちた。
「ぷぅぅ……」
額の汗を拭き、安堵の息を漏らすラビを見てアレンが苦笑する。だがラビはそんなアレンを睨むと思い切り目を吊り上げた。
「もぉー嫌さっ！お前怖ぇぇ！！アクマよりお前が怖ぇ！！」
「えっ？どうしてですか？ラビ」
ラビの剣幕に理解出来ないアレンが首を傾げる。その様子にラビがますます吠えた。
「突然撃ちだすなっつってんさ！！」
「む！仕方ないでしょ！僕は少しでも被害を減らそうと――――」
「……はぁぁ」
ラビとアレンのケンカを尻目にブックマン、そしてクロウリーの大人組み二人は呑気にお茶を飲んでいる。
その時「どいて！」という声がラビとアレンの頭上から聞こえた。
瞬間、ドォォンっという派手な音と共に空から降ってきたのは猫を抱きかかえたリナリーだった。
「…………」
「…………」
ギリギリで交わしたがラビとアレンは目が点になっている。もう少しでリナリーに踏み潰されるところだったのだ。
「ただいまーって、あれ……どうしたの？二人とも」
未だ固まっている二人に気づき、リナリーが首を傾げる。その時ラビの頭の上に（！）ブックマンが落ちてきた。（飛んできたともいう）
「……うぎゃっ」
「おかえり。リナ嬢。（ラビは無視）――どうじゃった？」
「うん。捕まえてきたわ」
リナリーはそう言って､でっぷりと太った猫を差し出した。
その口の合間からはアレンがクロス元帥から預かっているゴーレム､ティムキャンピーがはみ出している。
「はい。まだ胃袋に入ってないわよ」
猫はリナリーの高速移動で限界を超えたのかブルブル震えながらも､口からティムキャンピーを「ぺっ」っと吐き出した。
「あー良かった～ティム～！」
戻ってきた相棒を抱きしめアレンはホっと息をついた。
「コイツがいねえと､どこ行きゃいいか分かんねぇもんなぁ……」
「しかしよく喰われるな……。ティムキャンピー、お前も少しは気をつけろよ」
「…………」
「……反抗期……？」
アレンの説教を軽く無視するとティムキャンピーはいつもの場所――アレンの頭の上――に落ち着いたようだ。
「それにしても一体いつになったらクロス元帥に辿り着けるんであるか？」
エクソシストになりたてのクロウリーが溜息交じりで呟く。
「中国大陸に入ってもう四日……。ティムの示す道を行けど一向に姿も手がかりもない……。――まさか元帥はすでに殺され……」
「あの人は殺されても死にませんよ♪」
「言ってっことおかしいぞ、アレン……」
満面の笑みで応えるアレンにラビが突っ込む。そして特大の溜息をつくとその場にしゃがみこんだ。
「はあ～あ。たちは今頃どこで何をしてんのかなぁ～～」
「確かヨーロッパの方だと言ってたような……」
「え、マジ？何でアレンが知ってるんさ？」
「コムイさんにチラっと聞いたんですよ」
「うえぇぇ……。ヨーロッパなんて遠いさ～！オレ達はアジア大陸だっつーのに……。コムイが番号教えてくれないから電話も出来ないし……って、あ！」
ラビは軽く指を鳴らすと､ゆっくりと振り向きニヤリと笑った。その視線の先にはアレンがいる。
「な、何ですか？ニヤニヤして……」
「ティムって確か映像記録機能がついてたよな？」
「え、ま、まあ……」
「出発する前の日にと会った時、その場にティムもいたろ」
「……っていうか僕もいましたけど……（嫌な予感）」
アレンが顔を引きつらせながら後ずさるとラビが満面の笑みで立ち上がった。
「その時の映像、見せろアレン！」
「はあぁあ？」
「いーだろ？減るもんじゃなし！」
「ちょ、ラビ、勝手にそんな――――」
言ってる合間に頭の上のティムキャンピーをラビに取られ､アレンは溜息をついた。
いくら仲間とはいえ本人に黙って映像を見るのは申し訳ない気がするのだ。
「僕は知りませんよ……？ラビが勝手に見たんですからね――――」
「うぉぉ♪やっぱ可愛いさ～は♡」
「はぁぁぁ……」
すでにアレンの話など聞かず、ティムキャンピーの見せる映像に夢中のラビは皆の冷たい視線などまるきり気にしてないようだ。
アレンもチラリと空中に映し出される映像に視線を向けた。そこには廊下で顔を合わせた時の映像が綺麗に映っている。
『お帰り、アレンくん』
映像の中のは笑顔でアレンに声をかけている。以前と比べて自然に笑うようになったなぁ、とアレンはその映像を見ながら微笑んだ。
入団したばかりの時はも人見知りをするのか､笑顔もぎこちなかったように思う。
もうあれから一年か、とアレンは目を細めながら青く澄んだ空を見上げた。
「……つぅ」
その時、左腕が痛み出し軽く顔を顰めた。
ここのとこ連戦続きで､あまり休む暇もなかったせいか､左腕に宿るイノセンスも限界にきている。
そこへラビが歩いて来た。
「サンキューアレン。の笑顔見て少しは元気が出たさ～」
「あ、ああ……いえ……。ティムの機能のおかげですよ」
腕の痛みを隠して笑顔を見せる。だがその異変にリナリーが気づいた。
「アレンくん……腕が震えてる……。どうしたの？」
「え？！あ、い、いえ別に――――」
「ちょっと見せて！」
「――――あっ」
袖をまくられ腕が露になる。そのアレンの手首にはヒビが入り､明らかに異変が生じていた。
「うわっ！腕が崩れてんぞ、アレン！」
腕の異常にラビが驚いて目を丸くする。アレンは心配そうな顔をする仲間に慌てて笑顔を見せた。
「だ、大丈夫！怪我じゃないですよ？！ホラ！最近ずっとアクアと交戦続きだから……ちょっと武器が疲れちゃったっていうか……」
「武器が疲れるなんて聞いた事ねえぞ……」
「何だろ……寄生型だからとか？」
「適当に言ってんだろ……」
アレンの説明にラビが目を細める。そこでブックマンも口を挟んだ。
「確かにお主、左眼が開くようになってからワシらの倍は戦っておるからな」
「え、や…でも少し休めば治りますから……」
必死で笑顔を見せるアレンを見てリナリーはふと目を伏せた。
「前から思ってたんだけど……」
「え？」
「アレンくんの左腕って……少し脆いよね……」
「……？リナリー？」
悲しそうな顔をするリナリーにアレンは更に顔が引きつった。
後ろではラビ、クロウリーそしてブックマンまでが「泣かしたな」と口々に責めて来る。
「えぇっ僕のせいですか？」
一人青い顔でリナリーを宥めようと顔を覗きこむ。
だがリナリーはふと顔を上げると「先を急ぎましょう」と一人､歩き出し、皆は互いに顔を見合わせた。
「どうしたんさ？リナリー」
「さ、さあ……」
アレンにもワケが分からず軽く首を傾げる。時々リナリーはああいう顔をする時があるが､その理由は聞けずにいた。
「でも……もし本当にその腕が疲れてボロボロになったんだとしたら同じ寄生型のにも後遺症ってあるんかな」
「……そうですね。あるかもしれませんね」
ふと呟いたラビにアレンも頷く。装備型とは違い､寄生型は体内に宿っているせいか､力を使えば使うほど体を酷使する。
何らかの後遺症が出てもおかしくはない。
「うわ、マジで？大丈夫かなぁ、……」
「彼女は眼ですからね……。時々疲れたように眼を押さえてることがありますし、心配ですよ」
「はあ……ユウがの分までフォローしてくれてたらいいけど」
ガシガシと頭をかきつつラビがぼやくのをアレンは苦笑交じりで聞いていた。
「大丈夫じゃないんですか。神田はには何故か優しいですし……」
「だよな！アレンもそう思う？！つーか､だからデキてるって噂が広まるんさ～！あーもう、心配さ～っ」
今度はグシャグシャと頭をかきながら嘆くラビにアレンは軽く噴出した。ラビは年上だが、こういう素直なところは子供のようだ。
「ラビはホントにの事が好きなんですね」
「は？い、いや好きっつーか……可愛い子は皆、好きさ～！」
あはは☆と笑うラビの頬は何気に赤い。そこに気づいてアレンはニヤリと目を細めた。
「そうなんですか？まあラビはあちこちで"ストラ～イク♡"なんて言ってますけど、に対しては結構本気のように見えますよ」
「い、いや、そういうんじゃなくて……。まあ……はホラ……。何となく儚げっつーか、いつも寂しそうな顔してたし……。その……笑顔にしてあげたいって思うだろ？」
しどろもどろで説明するラビにアレンも笑いを噛み殺しつつ頷いた。
「分かります。今でこそ皆と打ち解けてますけど､最初の頃はずっと一人でいましたしね」
「そーさ。いつも一人でメシ食って一人で書室にこもってた。だからオレが話しかけて――――」
「ウザがられてましたっけ」
「うるせぇぞアレン！ウザいってゆーなっ」
アレンの突っ込みに激しく言い返した瞬間、ラビの後頭部にキツイ一撃が襲った。
ゴンっという音と共にその場に蹲ると、ラビの目の前にブックマンが仁王立ちしている。
「い、痛ぇえな！ジジィ！！」
「うるさい！無駄話してないでサッサと来い！このバカモンが！！」
「何だと、このパンダジジィ！中国の動物園に売り飛ばすぞ！――うがっ！」
怒鳴り返した瞬間、もう一発ゲンコツをもらったラビはあえなくブックマンに屈した。
それを皆､呆れつつも笑いながら見ている。その時ティムキャンピーがアレンの頭の上から飛び立ち､ある方向をジっと見だした。
「あ、ティムが反応したさ」
「どうやら更に東……あっちは街の方向です」
「よし､行ってみよう」
皆が歩き出すとティムキャンピーは急かすように先を飛んでいく。その後を追いながらアレン達は再び東を目指した―――。
最近、また悪夢を見るようになった。
過去の夢ではなく、アクマが攻めこんできて仲間が次々に死んでいく。そんな悪夢。
絶望の中、私は何も出来なくて……
ただ呆然とその場に立ちつくしている。そんな夢――――
ただ、私のそばには誰かが守るように立っていて､でもそれが誰なのか分からない。覚えているのは強く抱きしめてくる腕の温もり……。
あの恐怖の中で唯一､ホっとする瞬間――――
「……きろ……。､起きろ！」
やかましい一声と共にゴツンという衝撃を額に感じて､私はゆっくりと目を開けた。
「……痛い…殴ったでしょ神田……」
「グースカ寝てるからだろ。いーから起きろ。汽車が来る」
ムスっとした顔で神田は私を突き放すように立ちあがった。どうやら私は神田の肩に寄りかかったまま眠ってしまったらしい。
「そっか……。ここ駅だっけ」
殴られたオデコをさすりつつ辺りを見渡すと､私は駅のホームにあるベンチに座っていた。
次の汽車が来るまで一時間もあると知り､少し気が緩んで寝てしまったようだ。しかも神田の肩を借りて……
「ごめんね、重かったでしょ」
「別に……」
「そんなに嫌なら起こしてくれれば良かったのに」
私がそう言うと神田はプイっと顔を反らしてホームに立った。相変わらずだと思いながら私も荷物を持って立ち上がる。
「さん､座ったまま眠ってしまってそのまま倒れそうになったんですよ。それで神田さんは自分の肩にさんの頭を置いたんです」
「え……？」
その時､少し離れたところに立っていたファインダーのラグが苦笑いを浮かべながら歩いて来た。
「そうなの？」
「はい。反対側に倒れそうになったのを見て、神田さんが慌てて……」
「そっか……。まあ､無愛想だけどいいとこもあるのよね」
「そうですね」
私の一言にラグも一緒に笑う。その時すでに到着した汽車に先に乗り込んだ神田が怖い顔で怒鳴ってきた。
「早くしろ！」
「ゴメン、今行く！」
あまりの剣幕に苦笑しつつ､ラグと二人で汽車に飛び乗る。
神田はサッサと個室に行ってしまったのか――黒の教団が予約を入れておいてくれたらしい――デッキにはいなかった。
「106号室ですよ」
「ありがとう」
ラグに教えてもらった部屋に向かうと､神田の仏頂面が出迎えてくれた。
中に入り向かいの席に腰を下ろすと、聞きなれた舌打ちの音が聞こえてふと顔を上げる。
「まだ怒ってんの？」
「お前らがモタモタしてるからな」
「ちょっとの時間でしょ。乗り遅れたわけじゃあるまいし――――」
「うるせえな……。オレは寝るから着いたら起こせ」
それだけ言うとすぐにその場に寝転がる。欠伸を噛み殺してるところを見ると神田も少しは眠かったらしい。
（そっか……。私が肩を借りてたから神田、寝れなかったんだ……）
狭い椅子の上でわざわざ私に背を向ける神田を見ながら小さく噴出した。
「……何笑ってる」
「何でもない。さっきはホント、ありがとね､神田」
「お前が勝手に寝たんだろ」
「そうだね。今度は神田が寝て」
「言われなくてもそうする」
素直じゃないなぁと思いながらも､神田の背中を見ながら微笑んだ。
でも神田が急に素直になっても怖いか、と内心一人で納得しつつ、窓の外を見た。
汽車は少しづつスピードを上げて隣の街まで走って行く。
遠くには可愛らしい形の屋根が沢山並んでいて､ヨーロッパらしい田舎町の風景が見えた。
これから行く隣町に､デイシャがいるらしい。デイシャから教団に連絡が入ったようで､昨日のコムイさんからの報告で分かった事だ。
（デイシャ､元気かな……。前に会ったのは半年以上も前だっけ）
デイシャは小柄ながらにすばしっこくて､なかなか強いエクソシストだ。
口が悪く､よくティエドール元帥にイタズラをするヤンチャな人だが､裏表がなくて私は好きだった。
会ってすぐの頃は私も人見知りをしてそれほど話せなかったが､慣れてくると師匠の事をネタに一緒にお酒を飲んだりもした。
物静かで優しい雰囲気のマリや､無愛想な神田とは違い､明るく人懐っこいデイシャはティエドール部隊のムードメイカーといったところだ。
（そう言えばよく神田にうるさいって怒られてるもんなぁ。神田ってばうちの部隊で最年少なのに一番えらそう……）
そんな事を思いながら静かに寝息を立てる神田の背中を見た。
よほど疲れていたのか､私がトランクを棚から下ろしても起きる気配はない。
以前はよく小さな物音でも起きてた気がするが、最近はやっと心を許してくれたのか安心して寝ているようで、それが何となく嬉しかった。
ピクリとも動かない神田を見ながら私はトランクから読みかけの本を出すと深くシートに腰を沈めた。
移動中はよほどの事がない限り､こうして読書をしながら過ごす事が多い。
ラビがそんな私にオススメの本を貸してくれたりもするので結構助かっている。
（そう言えばラビ達は今どこだろ。確か東の方に行ったってコムイさんが話してたけど……クロス元帥は見つかったのかな）
いつもなら同行するファインダーの持つ電話にラビから電話がかかってくるが――毎回コムイさんに番号を聞くらしい――今回は神田が「バカ兎にだけは教えるな！」と強く口止めしたらしい。
他の国を旅する仲間と､しょっちゅう連絡を取るのは難しそうだ。――まあ静かでいいけど（！）
そんな事を思いながらページを進めていると不意にお腹が鳴った。慌てて神田を見たがどうやら起きた気配はない。ホっと息を吐き出した。
「そう言えば朝食抜きだっけ……」
昨夜ホテル近くの食堂で夕飯を食べたが、朝は汽車の時間もあるため何も食べずに来たのだ。
『明日乗る汽車には食堂もついてるから朝食はそこで食べるといい。始発の時間はどこも店が開いてないからね』
ふとコムイさんに言われた事を思い出した。さすが室長､気が利くわと思いながら読んでいたページに栞を挟む。
神田は起きる様子もないので一人で食堂に行く事にした。
「どうされました？」
個室を出ると目の前の通路にはラグが立っていた。エクソシストとは違い、ファインダーはいつも近くで待機しているのが決まりらしい。
前に一緒に座ったら？と声をかけた時、そう説明された。
自分達だけ豪華な個室に入ったりするのは気が引けるがそれも教団のルールだと言われれば黙ってそれに従うしかない。
「お腹空いたから食堂に行こうかと思って……。あ、ラグも一緒にどう？神田は寝ちゃってるの」
「いえ、私はすでに食べましたので」
「え、いつの間に……」
「ファインダーは常に余裕のある時に食べておくんです。そうしないと、いざという時には食べれない事が多くて……」
「そっか……。下見に行ったり調べものしたりしてると､ゆっくり食事するヒマもないもんね」
「そういうことです。なのでさんはゆっくり食べて来て下さい。隣町に着くまでにはあと40分近くあります」
「ありがとう。じゃあ、そうしようかな」
「食堂は2号車にありますよ」
「ありがとう」
そう言って歩き出そうとした時、ラグが慌てて追いかけてきた。
ブラウスに普段着のカーディガンを羽織っただけの私を見て、
「あ、あのさん。教団のコート着なくていいんですか？人間の中に入るなら――――」
そこまで言ってから、ラグは「あ」と小さく声を上げた。そして照れ臭そうに笑うと、
「さんは目印なんていらないんでしたよね」
「ええ。向こうがこっちに気づく前に私が気づく」
「そうでした。では普段も？」
「戦闘の時はちゃんと着るわ。頑丈なコートだし……。でも普段着てると目立つし周りの人からジロジロ見られるのが嫌で」
「分かります。我々黒の教団は謎が多いので一般の方からは疎まれる場合もありますしね」
ラグはそう言って苦笑すると元の場所へと戻って行った。私はそのまま食堂へと向かいながら一般客が座っている通路を歩いていく。
始発だからか乗客は少なく､だいたいは郊外に仕事へ向かうような人ばかりだ。
こうして見ているとそれが普通の生活なんだろう、と思う。私もエキソシストにならなければ普通に生活をし、学校へ通って、そのうち好きな人と結婚をする。
そんな平凡な人生だったかもしれない、とふと思った。
（アクマさえ……伯爵さえ現れなければ父さんも母さんも死なずに済んだ……。ううん､私が生まれながらにしてイノセンスを宿していなければ――――）
その瞬間､瞳に僅かながら違和感を感じて小さく息を呑む。痛みとは違うその疼きは前にも感じた事のあるような感覚だった。
（何……視界の色が――――）
はるか遠くからさしてくる朝の日差しを浴びた時､かすかに視界が淡い緑になった気がして立ち止まる。
でもそれは一瞬の事で太陽が雲に隠れるとすぐに元に戻った。
（何だろう……。やっぱり後遺症かな……）
後でコムイさんからもらった薬をさしておこう、と思いながら、私はそのまま食堂車へと入って行った。
「いらっしゃいませー」
食堂に足を踏み入れると､やる気のなさそうなウエイトレスが歩いてくる。こんな時間だからか､客もまばらだ。
「えっと……モーニングセットのAを下さい」
空いている席に座りメニューを見ながらそう言うと、ウエイトレスは無言のまま水を置いていく。
神田くらい無愛想だな、なんて思いながら窓の外を眺めると、遠くに牧場が見えて何頭かの馬が駆けているのが見えた。
そんなのどかな風景にホっとしながら水を口に運んだ時だった。突然､目の前に誰かが座った。
「や♪また会ったね､お嬢サン♡」
「あ……！あなた…っ！」
驚いて声を上げた私を彼は楽しげに見ていた。
数ヶ月前に会った時のロングハットにタキシード姿とは違い､今は白いシャツ姿にジャケットを羽織り、口には煙草を咥えている。
まさかこんな所で会うなんて思ってもみなかった。いや､どこかで会うような､そんな小さな予感はあったけれど。
「何でここに……？」
「そりゃ､コッチの台詞。どっかで聞いたことある声だなーと思って振り向いたら､君がいるんだもん。めちゃビックリよ」
「……わ､私も驚いた」
「そんな顔だね」
男は綺麗な顔でニッコリ微笑んだ。その時、無愛想なウエイトレスがモーニングセットを運んできて私達を訝しげに見ている。
「これから朝食？オレもなんだ。一緒してい？」
そう言われて一瞬迷ったが目の前の男が何者であるか興味があった。初めて会った時に感じた殺気も今は感じられず､嘘のように穏やかだ。
「いいけど……」
そう応えると男はウエイトレスに自分のテーブルから朝食を運ばせた。
さっきは不愛想だったウエイトレスも彼に声をかけられると急に頬を赤くして無駄に愛想が良くなっている。（贔屓だわ）
「良かった。一人の食事は味気なくてさあ。ああ、君は一人？これに乗ってどこ行くの？」
「……私は友人と一緒。ちょっと隣町に」
「へえ､奇遇。オレも隣町なんだ。ま、オレは一人だけどね」
慣れた手つきでオムレツを切り分けながら男は微笑んだ。そう言えば私は彼の名前すら知らない。
「あの――――」
「ああ､そういやオレ､君の名前教えてもらってないよね」
聞こうと思ったら先に聞かれ、私は小さく息をついた。
「……私は。あなたは？」
「オレはティキ。よろしく、」
懐っこい笑顔を浮かべるティキと名乗った男はどう見ても普通の人間に見える。でも確かにあの夜､私の瞳は異変を感じ取ったのだ。
「……ティキは仕事で人探しをしてるって言ってたけど……隣町にもその仕事で？」
「そ。長～～い旅で疲れてたとこ」
肩を竦めて笑うとナイフとフォークを置いてコーヒーを飲む。
その仕草はとても優雅で家柄が良さそうに見える。そんな人が一体どんな仕事で人探しなんかしてるんだろうと思った。
「あ、そうだ。も隣町に行くなら時間ある時にでもまた一緒にメシ食わない？」
「え……？」
「まあ友達がいるなら無理には誘わないけど……時間があったらでいいし。オレ、2～3日はいるつもりだからさ」
ティキはそう言ってテーブルに置いてあるナプキンを手に取ると､ウエイトレスからペンを借りてそこへ何かを書き出した。
「これオレが泊まる予定のホテル。何かあったら連絡してよ」
「え、でも私は長くいないかもしれないし――――」
「ま、それならそれでいいよ。もしかしたらオレもすぐ移動する事になるかもしれないし」
「………はあ」
ニコニコしながら呑気に煙草を吸っているティキを見てさすがに私も警戒を解いた。
彼はどう見ても人間であってアクマではない。（そもそもアクマなら私の目が反応するはずだ）
（もしかしたらあの夜、瞳がおかしくなったのはあの時の戦闘の後遺症だったのかもしれない。
殺気だってあんなアクマがウヨウヨしてた街を歩いていれば彼も警戒するのは当たり前だし……）
そんな風に思い直すと何となく気が抜けて､私は椅子にゆっくりと凭れかかった。
ティキはそんな私を見て嬉しそうに微笑むと､
「やーっと警戒解いてくれた」
「え……？」
「だって、オレと会ってからずっと警戒してたでしょ。あ、もしかして怪しいヤツとか思ってる？」
「……まあ……少しは」
「うわ、傷つくなぁ……。オレ､そんな怪しく見える？」
大げさに頭を抱えて悲しそうな顔をすると､ティキは両手を広げて自分の格好を見下ろした。
怪しいといえば最初に会った時の格好くらいで――どこの貴族かと思った――今はシャツにジャケットといったシンプルなスタイル。
一見、普通のサラリーマン（？）に見えなくもない。
ただ美形すぎるせいで――さっきのウエイトレスもチラチラ見るほど――何をしている人なのか判断出来ないのは確かだ。
――その時､あの夜彼に借りたコートの事を思い出し私は「あ！」と声を上げて立ち上がった。
「な、何？急に立ち上がって……」
「実はあの時に借りたコート、今持ってるの」
「へ？コート……」
「部屋に行って持ってくる――――」
そう言って行こうとした時、不意に手首を掴まれた。驚いて振り向くとティキは笑顔のまま「いいよ､後で」と首を振っている。
「でも……」
「いいって。どうせ行く場所は同じなんだし、何だったらホテルに持ってきてくれればいいから」
「…でも今持ってるのに――――」
「だってそろそろ着くだろ。なら取りに戻る数分を使って今の時間を楽しもうよ。ホラ、食後のコーヒー、もう一杯どう？」
「…………」
ティキはそう言いながらサッサとコーヒーを注文している。私は仕方なく椅子に座り､溜息をついた。
「呑気な人……」
「そ？まあ、長い人生、急いでも意味ないだろ」
そこへコーヒーが運ばれてきて､私はそれ以上何かを言うのをやめた。
知らない人と知らない場所でこうして向かい合ってる事に違和感を感じないでもないが､普段こういった事は滅多にないし､私も今のこの時間を楽しもうと思ったのだ。
「は日本人？」
「え、ああ、うん。よく分かるね。普通は最初に中国人？って聞かれるのに」
「オレ、仕事柄よく日本に行くんだ」
「ホントにあちこち旅してるのね」
「まあね」
「ティキの生まれた国は？ヨーロッパ？」
「そ、オレの国はポルトガル。ま、殆ど帰ってないけどさ」
「私も自分の国には帰ってないわ……。もう何年も」
そう言ってゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。ティキはそんな私を黙って見つめると煙草に火をつけた。
「は何してる人ー？」
「何って……？」
「年頃で言えば16～17歳だろ？あ、学生？」
「な……これでも19歳です！」
「……ブホッ」
頭に来て怒るとティキは驚いたように煙を噴出した。
「ゲホ……。マジ？オレ、てっきり高校生くらいかと――――」
「どーせガキっぽく見えますよっ」
そう言って顔を背けるとティキは困ったように微笑んだ。
「いや､綺麗だしガキには見えないって。ただ日本人って年齢より若く見えるっつーか……」
「ポルトガルの人に比べればね……」
「いやホント、ごめんって……悪気はないっつーか。ま、女性は若く見えた方がいーだろ？」
ジトっと睨むとティキは困ったように頭をかいている。
まあ彼の言うように日本人は歳より若く見えるようで、実際の年齢より下に見られた事は一度や二度ではない。
教団に入った時もリナリーと同じくらいの歳だと見られて驚いたくらいだ。
「で、そういうティキは何歳なわけ？見た感じだと28～30歳に見えるけど」
「って、おい！そっちもひどいじゃん！オレ､これでもまだ26よ？」
私の冗談に本気でへこんでいる彼を見て軽く噴出した。
確かに欧米の人は私達と違って年齢よりも上に見える人が多いが､ティキは歳相応に見える。
「冗談だよ。ちゃんと26歳に見える」
「…マジで思ってる？」
「マジで思ってるよ」
そう言って笑うとティキも苦笑いを浮かべながら「なら一安心」と肩を竦めている。
その時、アナウンスを告げる音がポーンと鳴った。
『ご乗車ありがとう御座います。次の駅は――――』
「あー残念、タイムリミットか」
「どうせ同じところで下りるじゃない」
「ま、そうだけどちゃんが会いに来てくれなければ、ここでお別れって事になる」
ティキはそう言って煙草を灰皿に押しつぶすと静かに立ち上がった。
「じゃ、オレ先に行くわ。気が向いたらホテルに連絡して」
彼はそう言うと不意に屈んで私の頬へと唇をつけた。その突然の行為に驚いて､一瞬のうちに頬が赤く染まる。
「あれれ……19歳にしちゃーシャイだなあ、は。こういうのされた事ないのかな？」
「な……何する――――」
「ポルトガル風の挨拶だよ♡ じゃ、またな」
いきなり頬にキスをされ固まっていると、彼は最後に私の頭を撫でて笑顔で去って行った。
その余裕のある態度にも今のキスにも腹が立ったが､汽車が停車したことで私は急いで個室へと戻った。
「……ったくぅ……。何なのよ、あいつ！私の国じゃあんな挨拶なんてないっての！今度会ったらタダじゃおかないんだからっ！」
ブツブツと文句を言いながら通路を足早に歩いていく。私の顔がよほど強張っていたのか他の客が慌てて避けてくれた。
「あ、さん！早く来て下さい！」
個室専用の通路に行くとラグが私のトランクを持ちながら手を振っている。そこへ仏頂面――もろ寝起き――の神田が顔を出した。
「！てめえ、どこ行ってた！」
「ごめんなさい！ちょっと食堂に――――」
「食堂……？」
「ちょっとお腹空いちゃって」
そう言いながら急いで自分のトランクをラグから受け取る。そんな私を神田は更に怖い顔で睨みながら「チッ」と舌打ちをした。
「お前オレが寝てる間に一人でメシ食いに行ったのか」
「え？だ、だって神田、よく寝てたしいらないのかと……」
「んなわけねーだろ！腹が減って起きたんだよ！」
「そ、そうなの？じゃあ誘えば良かったね」
「もういい。下りたら食う」
神田は仏頂面でそう言うとサッサと汽車を降りていく。その後姿を見ながらラグと二人で顔を見合わせた。
「寝起きでよくあんなに怒れるわね、神田ってば」
「お腹が空いてイライラされてるのかも……」
「神田はいつもイライラしてるけど……」
「…………」
私の一言にラグは小さく噴出した。
「さあ、行きましょう。デイシャさんが向こうで待ってます」
「うん」
そう言ってホームへと降り立つ。さっきの駅よりはかなり広くて、この街が開けているのが見て取れた。
「凄い人ですね」
「そうね。さっきの街とは大違い」
「この辺じゃ大きな街ですし、はぐれると大変ですよ」
「そうね、気をつけなくちゃ」
そう言いながら人込みの中、ティキを探してみた。だがこの混みようでは見つける事も出来ない。
（もうとっくに下りちゃってるか）
そう思いながら歩き出した時、遠くで神田の怒鳴る声が聞こえてきた――――。